過去回想その弐~誘拐事件~
突如現れた矢吹はうっすらと笑いながら言う。
「それでは公平な聴取が取れないよ。三十五の神子様と紅玉さんは幼馴染の関係だからね」
「ああ、そっか……」
同じ神子管理部の先輩である矢吹の登場に、実善は安心する一方で、紅玉は警戒してしまう。
何故なら矢吹は、空の母の晴が警戒していた男だったから。
そして、清佳にやたら接触を図ろうとしていた男でもある。
チラリと清佳を見れば、顔面蒼白であった。
どうにかして、空と清佳をこの男から遠ざけたいと思っていると――。
「ならば自分が聴取を受けよう」
蘇芳が手を挙げて言った。
蘇芳が聴取を受け、その間に紅玉が空を送れば問題はない。清佳も傍に蘇芳がいればきっと安全だろう。
しかし。
「いや、駄目だ。蘇芳さん、君は紅玉さんと同じ御社の配属で関係性が近い。紅玉さんを殴った二十九の神子に対して、良い感情は抱いていないだろう。公平性に欠ける」
完璧とも言える矢吹の反論に蘇芳は黙るしかない。
「ああ、そうだ。君が良い」
矢吹がそう言って指名したのは――。
「お、俺っすか?」
蘇芳の後ろに立っていた空だった。
矢吹の狙いに勘付き、紅玉は慌てて言う。
「矢吹さん、空さんは体調が悪く、これから二十二の御社へ送る途中なのです」
「なんと! 若君は具合が悪いのかい? 紅玉さん、ダメじゃないか! 具合が悪い若君を連れ出すだなんて何を考えているんだ! 彼は二十二の神子様の大事な若君なんだよ!? それでも君は彼の教育係なのかい!?」
「わたくしは――」
「やはり君なんかに任せるべきではないな! 再度、二十二の神子様には申し出ておく事にしよう! 〈能無し〉なんかと一緒にいては神子様も大事な若君を不幸にさせるだけだ!」
「矢吹さん、話を!」
わざと大声をあげる事で反論の余地を挟ませず、一方的に責任を追及するやり方に、紅玉は思わず苛々してしまう。
「聴取はこの僕が行なおう。実善くんはそこの〈能無し〉を早くどこかへ連れていきなさい」
「え? えっ?」
「矢吹さん! 待ってください!」
清佳と空を連れ出そうとする魂胆が見え見えである。
思わず大声で反論する紅玉に、矢吹は言い放つ。
「黙れ! 〈能無し〉! 新人で〈能無し〉のくせに生意気だ!」
「やめろっすっ!!」
矢吹の前に進み出たのは空だった。
「せ、んぱいを……っ! いじめるなっ……! ゴホッゴホッ!!」
「空さん!」
紅玉は咳き込む空の背を擦る。非常に苦しそうな空の顔を見て、紅玉は後悔した。あの騒動の時、蘇芳に空を送ってもらえばよかったのだ。そうすれば空にこんな苦しい思いをさせずに済んだのに……。
周囲に耳を澄ませば、誰もが紅玉を蔑むような目で見て、「〈能無し〉と関わるとこんな事に」とか「〈能無し〉の所為で具合が悪くなった」など根も葉もない事を口々に囁いていた。
「ああ可哀相に……若君、さあこちらに」
矢吹はそう言って空に手を伸ばすが、空はそれを拒否し、矢吹を睨みつけた。
ヒューヒューと呼吸が苦しそうにもかかわらず、空は決して屈しようとはしない。
そんな空の勇ましい姿を見て、紅玉は己を奮い立たせた。
(教え子が立ち向かっているのです。わたくしが負けてどうするのです!?)
紅玉は蘇芳に空を託すと、再度矢吹と向かい合った。
「わたくしは空さんの教育係です。二十二の神子様から大切なご子息を預かっている身です。だから、貴方の横暴を決して赦すわけにはいきません。貴方なんかに空さんを任せるわけにはいきません!」
紅玉の言葉に矢吹は思わず顔を歪めた。
踏み潰しても、踏み潰しても、何度でも立ち上がってくる雑草のような〈能無し〉の態度に、矢吹は苛立ちを隠せない。
清佳は目の前の展開をただ怯えて黙って見つめるだけだった。
目の前で大事な幼馴染が傷つけられていると言うのに、矢吹が恐ろしくて、何も言えない。自分が情けなくて仕方がなかった。
しかし、自分よりずっと年下のあどけない少年が紅玉を必死に庇ったのだ。小さな身体で紅玉の前に立って、紅玉を守ろうとした。
その瞬間、清佳は目が覚めたような気がした。
紅玉を思ってこうして行動してくれる人が増えてくれるだけで、嬉しくなった。
(……今度は、今度は、私が紅ちゃんを守らなきゃ……!)
そして、清佳は己を支え続けてくれる、愛する男神――守を見上げた。
守は清佳の意思をすぐに悟り、頷き微笑む。
「矢吹といったかな」
そう声をかけたのは、清佳にぴったりと寄り添っている男神の守だ。
鮮やかな紫色の髪と、花が咲く不思議な瞳を持つ、非常に見目麗しい男神である。
まさか男神に名前を呼ばれるとは思わず、矢吹は目を剥き、狼狽えてしまう。
守は花が咲く瞳で矢吹を睨みつけると言った。
「これ以上、この件に君が口を挟むというのなら、我が三十五の神一同の力を以ってして全力で拒否しよう」
「……はい?」
「ハッキリと言わないとわからないのであれば申し上げよう。君は信用ならない」
矢吹がヒュッと息を呑んだ。
「君は我が神子の大事な幼馴染である紅玉さんを侮辱した。それだけではない。無垢な少年がこれほど君を拒絶しているんだ。全く信用ならないと言っているんだよ」
神からの拒絶の言葉に辺りもざわつき始める。
神からの拒絶の言葉、しかも直接言われるなど、これはまさに神に捨てられたのと同然。
つまりは〈能無し〉と似たようなものだ。いやもしかすると、神が紅玉を庇護しているから、矢吹は紅玉より下であろう。
「さあ! 今すぐ立ち去ってもらおうか!」
神からの通達に矢吹は怒りにブルブルと体を震わせる。
こんなはずではなかった。
〈能無し〉の紅玉を責め立てれば、周りも自分に賛同し、〈能無し〉を責め立てる。〈能無し〉の味方をしてくれる存在など少数で庇いきれるはずもない。そして、自分の思う通りに事が運ぶ筈だった。
しかし、蓋を開けてみれば……何なのだ、この展開は?
何故罵られるのが自分でなければならない。〈神力持ち〉で高貴なるこの自分が、何故この〈能無し〉以下だと言われなければならない。屈辱だ!!
第一にこの〈能無し〉と関わるようになって、事がうまく運ばなくなった。
神子子息の教育係の件も、三十五の神子の件も、全部あの〈能無し〉が邪魔をした。
〈能無し〉が、〈能無し〉さえいなければ、〈能無し〉なんて!!
殺してしまえばいい!!!!
凄まじい殺気を感じた蘇芳は反射的に身体を動かしていた。
「紅殿っっっ!!」
蘇芳に抱き止められる衝撃と同時に目の前で真っ赤な血が飛び散った。
「きゃああああああああああああああっっっ!!!!!」
劈く悲鳴が響き渡り、辺り一帯が騒然となる。辺りにいた人間が一斉に逃げ出したり、叫んだり、腰を抜かしていたりしていた。
「蘇芳様っっっ!!!!」
蘇芳の身体にいくつもの刃が突き刺さり、蘇芳の身体から血が噴き出す。蘇芳は紅玉を抱き締めたまま倒れ込んでしまった。
「蘇芳様っ!! 蘇芳様っ!!??」
蘇芳の腕から抜け出した紅玉は蘇芳の名を呼ぶが、蘇芳はぐったりとしたまま返事をしない。
「いけません!! 目を開けてくださいっ!! 蘇芳様ぁっ!!!!」
紅玉は蘇芳の傷口を止血しようと必死に抑えるが、血は止まることなく紅玉の手をあっという間に染めていく。紅玉はますます焦り、何度も蘇芳の名を呼ぶ。
空は目の前の出来事を愕然として見つめる事しかできなかった。尊敬する先輩二人が血塗れになって倒れていく光景は、空の心に衝撃を与えていた。
「ごふっ!! ゴホッ! ゴホッ!!」
発作が本格的に悪化しだす。立っている事ができない。
そんな空の首根っこを矢吹が乱暴に掴んでいた。
「矢吹先輩! あんた一体何を!?」
瞬間、矢吹は実善に剣を突き付けた。実善は一瞬で動けなくなってしまう。
「実善くん、僕の異能は知っているよね? 『物質生成』……刃物でも爆弾でも何でも、その辺の塵芥から何でも生成できる。君の心臓に刃を生み出すなど、造作もないんだよ?」
矢吹に命を握られ、実善は青くなる他なかった。
「予定外の標的に当たってしまったけど……まあいい」
矢吹は実善の喉元に剣を突き出す。
「実善くん、三十五の神子様をこちらに。神から引き離すんだ」
「矢吹先輩……それは……っ!」
「殺されたいのかい? 彼のように」
血塗れになって倒れている蘇芳を見て、実善は最悪の想像をした。
「こんな……こんなことって……」
清佳は力なくその場に座り込んだ。
目の前には血塗れのまま動かなくなった蘇芳と、その蘇芳の止血をしながら必死に彼の名を叫ぶ紅玉の姿。
「こんな未来……私、知らない……」
予知できなかった……こんな不幸な未来。
「未来予知」の異能で、不幸な未来を避け、己の幸せを選んだばかりに……自分の大切な人が不幸になるなんて……。
「結局……私は……自分の事しか考えてない最低な女ってことじゃない……っ!」
「清佳! しっかりするんだ! 清佳!」
守が何か言っている――しかし、清佳の耳にはもう届いていなかった。
(ああごめんなさい……こんな自分の事しか考えない最低な女を愛する羽目になってしまうなんて……ごめんなさい。ごめんなさい、守さん……)
すると、目の前に実善が立ちはだかる。実善の顔は酷く青褪めていた。
その後ろでは矢吹が剣を突き付けている。
望んでもいない事をさせられている実善が憐れで、清佳はゆっくりと立ち上がった。
「清佳!!!」
「来ないで……」
「っ!」
「来ないで、守さん」
神は神子の命令には逆らえない。守は歯を食い縛って、その場に佇む事しかできなかった。
「ごめんなさい……こんな私の為に……本当にごめんなさい……守さん、紅ちゃん……ごめんなさい……」
清佳は涙を流しながら、ふらふらと矢吹へと近付いていく。
「……そうです、清佳様。初めからこうすればよかったんですよ」
ねっとりと絡みつくような矢吹の声に清佳は身体を震わせ、かつて視たこの先起こる未来に絶望した。
そうして、矢吹は何かの術式を空中に描くと、空と清佳を連れて、その場から姿を消したのだった。
これが「術式研究所による三十五の神子、二十二の神子の子息誘拐事件」の始まりだ。
<おまけ:紅子と千花>
ありさと美登里と灯と幼稚園を卒園した紅子は小学生になった。
残念ながら、ありさと美登里とは別々の学級になってしまったが、二人はそれでもよく遊んでくれた。
だけど、二人の幼馴染達がそれぞれ仲良しの友達を増やしていく度に、ちょっとだけ寂しいなんて思ってしまうこともあった。
紅子は未だに言葉遣いでからかわれることの方が多かったから。
面と向かってからかうだけならまだいいだろう。
陰口を叩かれるようになった時は衝撃を受けたものだ。
それでも紅子の傍には幼馴染の中で唯一同じ学級だった灯がいてくれたので、紅子は辛くなんてなかった。
そんなある日、紅子達はある女子達の会話を聞いてしまう。
「ねえねえ、となりのクラスのまさとくん、ちかちゃんのことがすきなんだって」
「ええっ! またぁっ!?」
「なんでちかちゃんばっかり」
「このあいだはヨンくみのともきくんにもこくはくされていたのに」
「ずるくない!?」
隠そうともしない会話を聞きながら紅子は灯を見て目をぱちくりとさせた。
灯は紅子の言いたいことがわかったのか、ニコッと笑うと耳元でこっそり教える。
「まさとくんもともきくんもとってもカッコよくて、じょしにだいにんきのだんしだよ」
「あ、いえ、まさとくんもともきくんもぞんじあげているのですが……ありさちゃんのほうがかっこいいのにって」
紅子の予想外の答えに灯は目をぱちくりさせる。
「ふふっ、そうだね。ありさちゃんのほうがカッコいいよね」
「はいっ」
紅子の中でありさは憧れの女の子なのだ。
「もうちかちゃんなんてキライ」
「わたしもキライ! ズルイ!」
「わたしもキライになる!」
未だ続く隠そうともしない会話に灯は少しげんなりとする。
「これだからじょしは……」
「……っ!」
すると、突然紅子が立ち上がってパタパタと駆け出したので、灯も慌てて追いかける。
「べにちゃん?」
どうしたの? という言葉は飲み込んだ。
紅子が追いかけているその子が誰だかわかったから。
「ちかちゃん!」
「っ!!」
紅子に手首を掴まれ、驚いて振り返った千花の目からは涙が零れ落ちていた。
聞いてしまったのだろう。女子達の心無い会話を。
自分への謂れのない言葉の刃を。
「……ちかちゃん……」
「……っ……もっ……やだぁっ……!」
「!」
「なんでわたしには……っ、おんなのこのともだちができないの……っ!?」
「っ……!」
同じ学級の千花は、紅子が今まで出会った女子の中で間違いなく一番可愛いだろう。
故にいつも周りに誰かしらいて、話しかけたくても話しかける余地などない程の人気だった。
でも、今にして思えば、千花の周りにいたのはいつも男子で、女子が集まることはなかった。
しかもどちらも自分自身が原因だなんて。
なんて皮肉で、なんてどうにもならない話だろう。
それは幼い頃からの教育で身に染み付いてしまった、普通の子とは違った言葉を話す己を見ているようで――。
気付けば紅子はほぼ反射的に千花の手を握っていた。
「わたくしがおりますっ!」
「っ!」
「わたくしがおりますわっ!」
そして、紅子はかつて己を救ってくれた憧れのあの子と同じことをする。
「だいじょうぶです! わたくしがまもりますわ!」
そこには、かつて男子にからかわれ、泣くことしかできなかった紅子はいない。
今ここにいるのは、ただ目の前の誰かの力になりたいと強く願う少し逞しくなった少女だ。
そんな成長した幼馴染の姿に、灯は誇らしげににっこり笑うのだった。