過去回想その壱~誘拐事件~
三年前、紅玉は新入職したばかりの職員だったが、その能力が認められ、研修先であった八の御社にそのまま配属となった。
そして、二十二の神子こと晴にもその能力を買われ、息子の空の教育係になって欲しいと直々に頼まれた。
そんな教育係の紅玉に空はあるお願いをした。
「俺に戦い方を教えてくださいっす!」
空は生まれつき呼吸器が弱かった。その当時も時々発作を起こし、迷惑と心配をかける事が多々あり、空は己の身体の弱さを悲観していた。
挙句、蒼石達は空に対して非常に過保護であり、大切に守りながら、決して無茶な事はさせなかった。
だが空は、母や蒼石を守れる程強い人間になる事を強く望んでいた。故に、女性でありながら男性にも引けを取らない戦いができる紅玉に憧れ、そんなお願いをしたのだった。
晴や蒼石には内緒で、八の御社で稽古を付けてもらう事になり、当時八の神子護衛役であった蘇芳も空に武闘の技術を指南した。
事件はそんな日々が続いていた三年前の師走三日に起きた――。
その日も八の御社で稽古を付ける約束をしていたが、空の体調が急に悪くなり、稽古途中から咳き込むようになった。
発作だ――。
空はこの発作が己の病気のせいだと思っていたが、実は違う。
空の発作は竜神蒼石の眷属になる為の身体の急変化によるものだったのだ。
紅玉はその事を密かに晴と蒼石から聞いていたので知っていた。そして、この発作を治める事ができるのは蒼石だけということも。
紅玉は急ぎ空を二十二の御社まで送る事にした。蘇芳も同行する事になった。
しかし、運の悪い事に艮区の参道町にて、三人はある騒動に巻き込まれる事になってしまったのだ……。
「謝りなさいよっ!!」
女性の怒鳴り声が響き渡り、紅玉と蘇芳はほぼ条件反射的にそちらを向いてしまう。
神子管理部と神域警備部として、揉め事があったら無視するわけにはいかないからだ。
そして、騒ぎの中心となっている者達を見た瞬間、紅玉は驚いてしまう。その中に良く見知った人物がいたからだ。
「清佳ちゃん……!」
薄浅葱の真っ直ぐな髪と同じ色の潤んだ大きな瞳を持つ、己の幼馴染であり、三十五の神子である清佳。
幼い頃からとても美しい容姿を持ち現神子の中でも屈指の美女で、また舞踊の才にも長け、舞姫としても名高い女性だ。
そんな清佳が困り果てた顔をして、誰かと向かい合っていた。
紅玉は幼馴染が困っている姿を放っておく事ができず、咄嗟に騒ぎの中心へと駆け寄っていく。蘇芳と空も後を追った。
「謝りなさいって言ってるでしょっ!!」
「お待ちください」
今にも清佳に掴みかかりそうな人物の前に紅玉は立った。そして、怒りを露わにしているその存在を見て、ハッとする。何故なら彼女はこの最近、神子管理部で一番話題となっている神子であったからだ。
二十九の神子の七花。色鮮やかな赤みの強い黄色の髪と赤と桃に中間色の瞳を持つ少女神子である。
この神子は、皇帝による「神の託宣の儀」で選ばれた神子ではなく、とある職員によって「推薦」された神子として有名であった。昨今、「神の託宣の儀」を実施しても、神子に選ばれる存在が見つからない事も多々あり、そこで一時凌ぎの穴埋めとして神子に推薦されたのが彼女だ。
そして、つい先日「神の花嫁」になった神子として神子管理部内で話題になっている存在でもあった。
「神の花嫁」は神によって「神隠し」されてしまうことが多々ある。故に「神隠し」されないように見張りを強化するという報告をつい先日聞いたばかりなのだ。
「二十九の神子様、どうぞ怒りを鎮めてくださいませ」
紅玉は清佳に怒鳴り散らしていた七花に申し出る。しかし、神子は怒りを治める事も無く、尚激しく怒り狂っている。
「だって、ぶつかってきたのはそっちなのよ! 痛い思いをしているのは私の方なのに! 私は神様の花嫁さんなのよ! もっと敬われるべき存在なのよ! あんたなんかとは違うんだから!」
この言動に紅玉は怒りを通り越していっそ呆れた。
そして、思い出す。この神子、現在進行形で坤区の神子管理部の悩みの種である事を。
「神の花嫁」というだけでも慎重に扱わなくてはならないというのに、この七花は十代という若さで神子になってしまったが故に、我儘放題でこちらの言う事を全く聞かず、挙句「神の花嫁」になった翌日には「神子を辞める」と言い出した強者だ――と、神子管理部参道町配属坤区担当の同期、実善に聞いていた。
ふと見知った顔が見えたのでそちらをチラリと見れば、その実善が丁度駆け付けてくるところだった。
「ぶつかって勝手に転んだのは君の方だろう!? 君こそ清佳に謝ってくれないか!?」
怒りを隠さず怒鳴り声を上げるのは、清佳に仕える男神だ。
大事な神子を貶され、怒る気持ちもわからないではないのだが、冷静になって欲しいと紅玉は思ってしまう。清佳も不安そうに男神の袖は引っ張っている。
ここを諌めることができるのは自分しかいないと思い、紅玉は七花と向き合う。
「二十九の神子様、確かに貴女様は敬われるべき存在でございます。ですが、相手様も同じく神子様であり、敬われるべき存在でございます。どうぞここは一度穏やかな心を持っていただければと……」
「何よ! うるさいわね! ただのおばさんが神子の私に説教するの!? 私は神様の花嫁さんなの! 私に逆らうと旦那様の神様が黙ってないんだから! それに、神域の職員さんがそんなに無礼な態度をとるなら、私、すぐにでも神界にお嫁に行っちゃうんだから!」
まさに馬の耳に念仏、犬に論語、兎に祭文、牛に経文――ありとあらゆる諺を思い浮かべながら、七花の傲慢過ぎる態度にいっそ拍手を送りたくなってしまう。
何故こんなに我儘に育ってしまったのか、ほとほと謎だ。七花に関わった者全てが原因ならば、きっと七花の夫である神も二十九の御社の神々もそうなのであろう――紅玉はそんな冷静な事を考えていた。
しかし、その間も七花はどんどん興奮していく。
「私に謝って! 謝りなさいよ!!」
「お待ちください、神子様」
今にも清佳に殴りかかろうとする七花の行く手を遮りながら、紅玉はふと気付く。
怒りを抑えられない七花をただ困ったように見ているだけの夫らしき男神と、清佳を抱き寄せ必死に守ろうとする男神。
頭の片隅に違和感という言葉が浮かんだ瞬間だった。
「うっさいっ!!」
「ゴッ!」と想像以上に大きな音が頭を響き渡り、紅玉は頬に衝撃と痛みと熱を感じ、気付けば目の前が弾けたように揺れていた。
「紅殿!!」
「先輩!!」
「紅玉!!」
「紅ちゃん!!」
その場にいた紅玉の知り合い全員が叫んでいた。全員、酷く焦った様子だ。
無理もない。七花が紅玉を殴り付けたのだから。
逆に紅玉は至極冷静であった。
(あらまあ、十代のお嬢さんの割に力がありますね。しかし、あれ如きの不意打ちを躱せないなど、わたくしもまだまだですわ。でもやっぱり暴力は駄目でしょう。しかもグーだなんて。女の子ならばせめてパーで)
など、随分明々後日の思考回路である。
しかし、次の瞬間、身の毛が弥立つような殺気を感じ、慌てて振り返った。
見れば、仁王か軍神かの容姿の蘇芳が赤黒い神力を撒き散らして怒っており、刺すように神子を睨みつけていた。
これには流石の紅玉も焦る。駆け付けてくれた実善とともに慌てて蘇芳を押さえた。
「蘇芳様! 蘇芳様! 怒りを鎮めてくださいませ! 神子様だけでなく、辺り一帯の方々が気を失われております!」
紅玉の言う通り、蘇芳の殺気に中てられ、あちこちでバタバタと人が倒れて、周囲から野次馬達が蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。
七花も腰を抜かしてしまい、彼女を支える男神ですらも顔を真っ青にして震えていた。
「蘇芳様! お願いです! お願いですから、蘇芳様っ!!」
「…………」
蘇芳は渋々紅玉の願いに応え、深呼吸をして、怒りを抑えた。しかし、殺気を鎮めても尚、眉間にはまだ皺が寄っており、眼光も鋭い。
やがて紅玉の痛々しく赤くなっている頬を見ると、そっと撫でる。
「何故貴女がいつもこのような目に遭う……っ!?」
「お気になさらず、大した怪我ではありませんわ」
「顔に痕が残ったらどうする!?」
「これ如きで痕を残すような柔な身体ではありませんわ」
微笑む紅玉にすっかり毒気は抜かれた蘇芳は、最後に大きく溜め息を吐き、困ったように微笑んだ。
そんな蘇芳を見て、紅玉はようやっと一安心だった。
「失礼します。通してください」
そう言いながら現れたのは実善の直属の上司である神子管理部所属の坤区主任だ。他にも坤区の神子管理部職員が数名いる。
実善はすぐさま主任に事の顛末を報告する為、駆け寄っていく。
一方で紅玉は未だ男神の腕に抱かれて震えている清佳に近寄る。
「清佳ちゃん、ご無事ですか?」
「べ、紅ちゃん……ごめんね……か、顔……」
「これくらい何ともありませんわ」
紅玉は微笑んでそう言うものの、清佳の顔は晴れない。むしろ顔色は悪くなる一方だ。
紅玉もまたそんな清佳が心配になってしまう。
「紅玉! すまん! 巻き込んで!」
駆け寄ってきた実善が両手を合わせて言った。
「いえいえ。お疲れ様です」
「二十九の神子の方は主任達に引き継いできた。後は俺達に任せてくれ」
ふと見れば、その主任をはじめとする坤区の職員達に七花は連行されていくところだった。蘇芳の殺気に中てられたせいで今は大分大人しい。
すると、実善が深々と頭を下げる。
「怪我させて本当に悪かった! すまん!」
「どうかお気になさらないで。避けきれなかったわたくしが修行不足なだけです」
「……そういや、紅玉が珍しいな。秋の宴の時は、警備部の轟の攻撃をヒョイヒョイ避けていたのに。調子でも悪いのか?」
「いえ……少し考え事をしてしまいました……違和感を覚えてしまって?」
「???」
曖昧な紅玉の返事に実善も疑問符を浮かべてしまうが、一番自分の言葉を理解していないのは紅玉の方だった。
(七花様は「神の花嫁」であることは間違いないはずなのに、どうして、七花様が「神の花嫁」ではないなんて思ってしまったのかしら……?)
しかし、いくら考えてもその疑問に辿り付けそうになかったので。
(非常時に考え事だなんて失態ですわ。帰ったら反省しなくては)
と気持ちを切り替えていた。
「ところで実善さんは二十九の神子様の見張りを命じられていたのでしょうか?」
「ああ、まあな……結果このザマだけど。あーー……主任すげぇ叱られる……」
坤区主任は非常に有能な職員ではあるが、反面指導が非常に厳しい職員としても有名だ。紅玉も以前激しく叱責された経験があるので苦笑いを浮かべ、実善に同情した。
すると、実善は清佳の方を向いて言った。
「三十五の神子様、大変申し訳ありませんが、今回の諍いについて報告書を作成しなければなりませんので、お手数ではございますが聴取させて頂いてもよろしいでしょうか?」
実は、神子同士の諍いや争いは珍しい事ではない。特に若い女神子同士間に多い。一昔にはそれが原因で死亡者まで出ているので、どんなに小さいものであっても神子同士の諍いに関しては報告書を提出する義務があるのだ。
実善の申し出に清佳は頷くしかない。
「あと目撃者からも聴取しないといけないから……」
「それは、わたくしが引き受けましょう」
紅玉はそう言うと、蘇芳の方を向く。
「蘇芳様、申し訳ありませんが、空さんの事をよろしくお願いします」
「ああ、任せてくれ」
すっかり騒動に巻き込まれてしまったが、紅玉達は空を二十二の御社まで送る途中だったのだ。そして、その空は未だに蘇芳の隣に立ちながら、咳き込んでおり、体調が悪そうである。一刻も早く御社まで送り届けてあげたいと思う。
「それじゃあ聴取を……」
「待ちなさい、実善くん」
突然、実善に声をかけてきた人物――その人物を見た瞬間、紅玉は目を瞠り、清佳は顔を真っ青にさせた。
「それでは公平な聴取が取れないよ」
曇天のような色合いの髪を持つ神経質そうな印象的の眼鏡をかけた男性――神子管理部参道町配属坤区担当職員の矢吹がうっすら笑いながらそう言ってきた。
<おまけ:回想途中の感想>
世「あぁ? 紅ちゃん、そのアホ神子に殴られたの? 上等だぁ!! 顔面の原形留めないレベルで殴り倒したろかぁっ!!??」
紅「世流ちゃん、落ち着いて……! 結局腫れませんでしたし、顔の原形はきちんと留めておりますから……!」
焔「世流さん、顔の原形を留めないレベルで殴り付けると、世流さんの手まで骨折してしまいます」
紅「そうですよ!」
焔「何か鈍器を使ってください」
紅「焔ちゃんっ!!!!」
朔月隊の考えは基本的にちょこっと物騒。