茶屋よもぎにて
「べ、べにちゃ……っ! ひ、ひとやすみさせて……っ!」
十の御社まであと少しというところで音をあげたのは紫だった。
「まあ紫様、御社まであと少しなのですよ? これ如きで音をあげられるだなんて、御社配属の名が泣きますわよ。もしよろしければ今すぐここで鍛え直して差しあげましょうか?」
「いえ結構です!!」
紫の立ち直りの早さに、紅玉の扱きの方がよっぽど嫌だということがよくわかる。
(でも、あんなに重たい荷物を、しかも両手いっぱいに長い距離歩いていれば、音もあげたくなるわよね……あたしなら途中で生き倒れになっていたかもしれないわ。でも、もしかしたらこれがあたしの将来の仕事内容になるかもしれないのよね……! き、気合い入れなきゃ! ああでも、せめて、買い物の途中でお休みできる場所でもあればいいのになぁ……)
人間、そう思っていると、何故か不思議と願うものが目の前に現れたりしないだろうか?
実際、雛菊が思った直後、目の前に見えたのは小さな茶屋であった。
看板に書かれてある店名は「よもぎ」というらしい。「お団子」と書かれた幟がはためいており、軒先に吊るされた風鈴が「チリンチリン」と綺麗な音を鳴らしていた。畳と木製の卓と椅子が懐旧の情緒を醸し出しており、誰が見ても良き店だと思われる。そして何よりもお店に並ぶ、団子や大福やおはぎなどの菓子がとても美味しそうである。
行きの道では、紅玉の説明を聞き、神域参道町の地図とにらめっこしていたから、雛菊は気づく事ができなかったのであろう。
(すっごく素敵なお店! お菓子も美味しそうで食べてみたいなぁ……! でも、今はダメよ! あたしは研修中の身なんだからワガママなんて絶対ダメだし、早く帰らないと御社の夕食の支度が遅くなっちゃう! ここは我慢! 我慢よ! 雛菊!)
唇を噛みしめ何かを堪える雛菊を、雲母がじっと見上げる。雲母がにっこり笑って紅玉を振り返ると、紅玉もすでに堪え切れずにころころと笑っていた。
「雛菊様、あそこのお茶屋さんでひと休みしていきましょうか」
「うえええっ!?」
「そんなお可愛らしい顔で頑張って我慢されていたら、逆に連れて行ってあげたくなってしまいますわ」
(い、一体どんな顔していたのよ……! あたし……っ!)
そろそろ自身の「考えている事が顔に出やすい」悪癖が、大問題になってきていると、雛菊は思った。
そんな雛菊を雲母がポンポンと背中を叩きながら慰めた。
「そんなに落ち込まなくても結構ですよ、雛菊様。さあさ、お茶とお菓子を頂きましょう」
「やったぁっ!! 休憩できるっ!! 雛菊ちゃんありがとう!!」
買い物袋ごと、諸手を上げて喜ぶ紫を、紅玉はやや冷えた笑顔で見つめた。
「……決して、貴方様の為の休憩ではないと、お忘れなきように」
「……はい、すみません」
そして、紅玉は茶屋の引き戸をガラリと開けた。
「こんにちは。ごめんくださいませ」
店の中に入ると、客どころか店員の姿も見当たらなかったので、紅玉がすかさず声をかける。
すると店の奥から店員らしき男性が現われた。
少し癖のある髪の毛はうっすらと淡い杏色、所々に黒が入り混じっている。男性にしては長めのまつ毛も杏色に染まり、伏し目がちの瞳は新緑と黒の混じった不思議な色だ。男性にしては可愛らしい顔をした人物であった。
しかし、だ。雛菊は違和感を覚える。
清潔感溢れる着物を着て袖をきっちりと襷掛けして腰には真っ白な前掛け、しかも「よもぎ」の店名入り。真面目に仕事しています、と主張しているにもかかわらず、この店員の男性、先程からニコリとも笑わない上に一言も喋らない。
雛菊の中での彼の印象がどんどん悪くなっていく。
(……仕事する気があるの? この人……)
「文君、御機嫌よう。お邪魔いたしますわね。」
紅玉が「文」と呼んだその店員はジッと紅玉を見ると、コクリと頷いた――そう、コクリと頷くだけ。
(おい、店員! 態度最悪よ! 社会人なら真面目に働け!)
思わず雛菊は心の中で悪態をつきながら、文を睨んでしまう。すると、紅玉は困ったように微笑んだ。
「雛菊様、申し訳ありません。文君は小さい頃から静かな子なのです」
「えっ? 小さい頃から?」
「ご紹介しますね。文君はこちらの茶屋よもぎの店員であり、神域商業部所属の同じ神域管理庁の職員です。そして、わたくしとは所謂幼馴染の関係なのです。」
「えっ!? 幼馴染!?」
「正確には、わたくしと文君が――というより、わたくしと文君のお姉様が――と言った方が正しいですね。でも、文君はわたくしの弟と同い年で仲良しなので、小さい頃から交流はございましたので」
「ああ、なるほど……」
すると、今まで黙っていた文がようやっと口を開いた。
「……別に、あいつとは仲良しじゃない」
その声を聞いて雛菊は驚く――それは凛とした美しい声だったからだ。ずっと聞いていたくなるほど不思議な魅力がその声にあった。
ほぅと聞き惚れている雛菊を余所に、紅玉と文は会話を続けていた。
「あら、では仲が悪いのですか?」
「……仲は悪くない」
「ふふふっ、相変わらず素直ではありませんわね、文君」
ころころと笑いながら、少し高い位置にある文の頭を紅玉が撫でると、文は眉を顰めてしまう。
その光景は、まさにお姉ちゃんと弟。あまりにも自然なやり取りに、文の声に聞き惚れていた雛菊も我に返り、目をぱちくりさせてしまう。
(紅玉さんって、すっごいお姉ちゃん体質なんだろうなぁ)
この研修のたった三日で、紅玉がどれほど世話焼きなのか、見てきたし、それこそ身を以って体験した。現に今だって、紅玉の世話焼きの延長線上で茶屋に寄り道をしているのだ。
(ほんと、すごい人だなぁ、紅玉さん)
見習うべき人の傍で研修できる事を、雛菊はありがたく思った。
「ねーえ、あやちゃん、僕、よもぎ団子食べたい! あと抹茶オーレ!」
空気読む気のない注文の声に全員が振り返った。
(……うっかり、この人の存在を忘れかけていたわ)
紫は品書きを見ながら、煌めく笑顔でさらに続けた。
「あとみたらし団子も追加!」
「…………やだ」
「ヒドイ! あやちゃん!」
「あやちゃん呼ぶな」
(文さん、紫さんに対してかなり辛辣だな……いや、紫さん、ぞんざいな扱い率高くない?)
その紫をぞんざいに扱う人物筆頭の紅玉は、とっくに紫を無視し、文に向き直った。
「文君、こちらは現在十の御社に研修にいらしている生活管理部所属の雛菊さんです」
「あ、生活管理部所属の雛菊です。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる雛菊を、文はジッと見つめた。
「………………」
(………………え?)
文は無言のまま、まだ雛菊をジッと見つめていた。
あまりに長い間に雛菊は居た堪れなくなってくる。
(えっ、なになに!? あたし、何か失礼なことした!? せっかくビクビクせずに挨拶できたと思ったのに……!)
雛菊の背筋にだらだらと冷や汗が流れていく。
「………………うん。よろしく」
(って反応遅すぎじゃないっ!?)
至って普通の返答に雛菊は拍子抜けどころか怒りを覚えた。
「……何食べる?」
「では、わたくしはお抹茶を。雛菊様と雲母様は?」
「え? えっと……じゃ、じゃあ、餡団子」
「ボクも餡団子食べたいですぅ」
「……わかった」
文はコクリと頷くと、スタスタと歩いていってしまう。
(え、ちょ、待って、何その接客。それを接客と呼んでいいのか!? せめてお客さんを席に案内するとかないの!?)
雛菊の家は貧乏であった。貧乏であるが故に、雛菊は学生時代から金銭を稼ぐために働いていた。その為、年齢の割に社会常識というものが身に付いている自信があった。
(だから、あんな愛想のない態度で接客する人が許せない! 接客業舐めるな! スマイルは無料でしょうがっ!!)
急に鬼の形相で文を睨みつけている雛菊を、雲母がオロオロとしながら見上げる。そして、何時ぞやと同じように雲母は涙目になりながら、思わず紅玉を見上げた。紅玉は困ったように微笑むと雛菊に言った。
「何やら、文君が失礼な態度で申し訳ありません、雛菊様」
「いえ、別に紅玉さんは悪くないでしょう……」
やがて文は紅玉に抹茶を、雛菊と雲母に餡団子とお茶を持って来た――ついでに、紫にもちゃんと注文通りのお団子と飲み物を――ただし一言も発さずニコリとも笑わずに。
(おい、店員!!)
そう叫びそうになるのをなんとか必死に雛菊は堪える。隣では雲母がさらにオロオロとしていた。
雛菊は苛々としながら、餡団子を一口頬張る。
(お、美味しい……! この団子に絡まるこしあんが舌触り非常に滑らかで、お団子はもちもちで、かといってべたべたじゃなくて、丁度良い硬さと柔らかさ! ……この餡団子が非常に美味しいだけに接客のレベルが低過ぎて非常に残念だわ……!)
団子のあまりの美味しさに、雛菊は思わず呟いてしまう。
「許されるのであるならば、このお店に臨時職員として入って、一から接客のいろはを叩き込んでやりたい……!」
「まあ、そこまでですか?」
「はい! そこまでです!」
「あらまあ……」
そう断言する雛菊に紅玉は目を丸くしたが、ころころと笑い出した。
「なるほど、それは良い案かもしれませんわね」
「いやいやいや、新人ちゃんがいきなりそんなこと無理だからねぇ?」
紅玉の言葉に答えたのは、紫ではなく、別の男の声だった――そして、雛菊はこの声に聞き覚えがあった。




