「姫」の注文
勝負の結末は呆気なく終わった……というのも――。
「実は……砕条はあまり酒を飲めない体質でして……」
「何故勝負をしたのです?」
「普段飲んでも一杯ちょっとしか飲めなくて……」
「何故勝負をしたのです?」
星矢のまさかの解説に紅玉は呆れる他なかった。
砕条は大和酒の二杯目を飲んだところで、完全に潰れてしまい、卓の上に突っ伏してしまっていた。
喧嘩を売られた側である蘇芳ですら、砕条を心配そうな目で見つめている。一方の紅玉は凍てつくような目で睨んでいたが。
「あら~ん? 勝負はもうおしま~い?」
「ええ、そうですわね」
やってきた野薔薇にも紅玉は呆れた声で説明をした。
「あら~ん? お酒、随分残っているわね~。ボトルキープしておきましょうか~?」
一升瓶を持ち上げて、残りの酒を見ながらそう言った野薔薇に、蘇芳は首を横に振った。
「あ、いや。自分が全部責任を持って飲む」
「はいっ!? 蘇芳さ――」
「砕条はこの通り酒が苦手だから置いておいても飲めないだろう。自分は遊戯街に来る事がないから置かせてもらっても邪魔になるだけだ。今日中に全て飲み切るから必要ない」
そうキッパリ言った蘇芳に紅玉は何も言えなくなってしまった。
「遊戯街に来る事がない」――つまり今後も来る事がないと言い放ったのだ、この男は。
勿論、店側の野薔薇には申し訳なさを感じてしまうが、それよりも嬉しさの方がじわじわ増していく。
相反する思いが入り混じり、紅玉は唇を噛み締めて膝の上でギュッと手を握り込んでしまっていた。
そんな紅玉の頬が少し赤らんでいたのを野薔薇は見逃さず、ぽってりとした真っ赤な唇を弓なりにさせた。
「んふふ~、わかったわ~。でも、無理しないでね~。残してもらっても全然構わないから~」
「わかった」
すると、パシッと軽快な音がした。見れば、砕矢が卓の上に紙幣を置いているところであった。
「蘇芳さん、紅玉さん、ここの支払いは僕が」
「え? あ、いや、砕条のだけで構わない。俺達の分は自分で――」
「いえ、ご迷惑をおかけしたお詫びとしてどうぞ受け取ってください。でないと隊長として立つ瀬がありません」
紅玉と蘇芳は互いに顔を見合わせ戸惑うものの、星矢がそう強く言うものだから、最終的には頷くしかなかった。
「ありがとうございます。今度また砕条にお詫びに伺わせますので、今夜はこれで失礼させてください」
「あ、ああ……気を付けてな」
「お気を付けて」
星矢は深々と頭を下げると、酔っ払ってぐでんぐでんの砕条の襟首を掴み、乱暴に引き摺りながら去って行った。
(せっかくの隊長就任祝いのはずが……お可哀相に……)
思わず紅玉は星矢に同情した。
砕条と星矢が去ったところで、卓の上に一升瓶を置いた野薔薇が紅玉に声をかける。
「さてと、紅ちゃん。お姉さんと一緒にお話ししな~い? 『織姫』の事についてなんだけど~」
「あ……っ」
「織姫」――と聞いて、紅玉はハッとする。そして、蘇芳を見上げた。
蘇芳もその意味を理解しており、今度は頷いてくれる。
蘇芳の許可も得られたところで、野薔薇はにっこりと微笑むと紅玉の向かいに座った。
「野薔薇ちゃん、ご協力頂きありがとうございます」
「いいのよ~。紅ちゃんの力になれて嬉しいわ~」
そう言いながら、野薔薇は頬杖をついて「んふふ~」と微笑む。たわわな胸が卓の上に乗り、なんとまあ艶めかしいことか。
「『姫』は『赤薔薇ノ華』の『裏注文』よ~。今日は『織姫』をご注文されていったわ~」
紅玉は今宵とある捜査の為にこの店に訪れていた。そして、この店の店主であり友人の野薔薇にも協力してもらっていたのだ。
捜査と知られないように、秘密の合言葉まで決めておいて……。
「あの……野薔薇ちゃん……それで……」
「ええ、そうよ~。紅ちゃんの予想通り、ほぼ毎日うちに通っている常連さんよ~。今日は『織姫』だったけど、『乙姫』とか『かぐや姫』とかも注文されるわ~」
「……ほぼ毎日……!?」
得た情報通りの証言に紅玉は愕然としてしまう
(なんてこと……!)
事は思った以上に深刻だという事が分かった。
紅玉の頭の中で得た情報がどんどん整理され、答えが導き出されていく――。
(最早一刻の猶予もないかもしれません。明日動いて……)
次の行動を考えていたその時――右肩に重みを感じ、紅玉は少し驚いてしまう。
そして、その原因が何か確かめる為に右を見れば、隣に座るその人の様子がおかしい事にようやっと気づいた。
「……蘇芳様?」
そう声をかけるが、返事はない。その代わり、顔が酷く赤い。そして、瞳がトロン……どころかドロンとしている。息は荒く、汗もかいていて、どことなく艶めかしいが、大分ぐったりしているのは目に見えて分かった。
「すっ、蘇芳様っ!?」
「あらら~蘇芳さん、酔っ払っちゃった~? 流石に一升瓶を一人で飲み切るのはきつかったかしら~?」
野薔薇の言葉に紅玉はハッとする。
蘇芳はどうも本当に責任を以って、一升瓶の大和酒を全部一人で処理したらしい。一升瓶一本……おおよそ十杯近くの大和酒に換算される量である。
「どうしてこんな風になる前に止めなかったのですっ!?」
「の……のこすのは……わるいと、おもって……」
「無理しなくてもいいと野薔薇ちゃんも仰っていたでしょう!?」
そう言いつつ、紅玉は思い出す。この男、真面目一辺倒と呼ばれる一族の血縁者であった事を。普段の食事も米粒一つも残さない主義であった事を。
そして、蘇芳のそういうところが嫌いではない。むしろ好きなくらいだ。
(ああもうっ!!)
余計な考えを振り払いながら紅玉は立ち上がる。
「とにかく御社へ帰りましょう! 蘇芳様! わたくしに掴まって!」
「す……すまん……っ」
紅玉の方に蘇芳がもたれかかる。ズシリと重たいが、一応蘇芳の足はまだしっかりしており、今の内ならば自分でも運べると思った。
すると、野薔薇が紅玉に助言をした。
「あら~ん、紅ちゃん。そんな状態の蘇芳さんを一人で運ぶのは危険よ~。ああそうだわ~、紅ちゃんが『姫』を注文すればいいのよ~。今なら丁度『佐保姫』が空いているわ~」
「……はいっ!?」
紅玉は驚いて野薔薇を見た。野薔薇は楽しそうに「んふふ~」と笑っている。
野薔薇の言う通り「姫」を注文すれば、確かに全て解決する……するが――!
紅玉は首を横に振った。
「大丈夫です! わたくし、頑張りますわ!」
「あらん……残念……」
そうして、紅玉は蘇芳を必死に運びながら野薔薇に見送られる。
「……紅ちゃん」
「?」
「いつか紅ちゃんからの『姫』の注文、楽しみに待っているわ~」
ひらひらと手を振りながら楽しそうにそう言う野薔薇に、紅玉は一気に顔を真っ赤にさせてしまう。
「おっ、お邪魔しましたっ!」
そうして野薔薇から逃げるように、紅玉は蘇芳を必死に運びながら帰って行ったのだった。
良い子は勿論、良い大人の皆様もお酒の飲み過ぎ及び一気飲みは絶対に真似しないでください。
お酒の飲み競べなど以ての他です。やめましょう。
<おまけ:恩人との約束>
身体の大きな蘇芳を必死に支えながら去っていく紅玉の背中に手を振り続けながら、野薔薇は三年前の事を思い出していた。
それは野薔薇が初めて蘇芳という男を目にした日だった――。
たまたまその近くを通りかかった時、紅玉が知らない誰かと話をしている事に気付いた野薔薇は、ほんの興味本位で紅玉がどんな人物と話をしているのか確かめる為にこっそり覗き――そして、驚きに固まってしまった。
何故なら紅玉が話をしていた相手は、仁王か軍神かという程厳つい顔と筋骨隆々の屈強な身体を持つ男性だったのだから。
ただでさえその当時「男性」というものに恐怖心が残っていた野薔薇は、思わずその大男の恐ろしさに身体を震わせてしまった。
しかし、次の瞬間、野薔薇はその恐怖を忘れ去ってしまう。
なんとその仁王の大男が微笑んだのだ。蕩けるような甘い微笑みに野薔薇は驚愕してしまう。仁王は笑う事ができるのか……と、おかしな思考回路に陥っている事に気付かない程、驚き混乱していた。
そうしてその大男は紅玉の頭を二回程ポンポンと優しく叩くと、戸を閉めて去っていった。
残された紅玉は大男が触れた髪にそっと触れると、ゆっくりと振り返った。
そして、野薔薇は再び驚いてしまう。
普段は包み込むような優しさと柔らかい微笑みを湛えている紅玉が、林檎の如く顔を真っ赤に染めまるで恋に悩む少女の如く困った顔をしていたのだから。
いや実際、あの時の紅玉は恋する少女であったと野薔薇は思う。
両手で顔を覆って「う~~~~っ!」と変な声をあげていた紅玉は、やがて両手で己の頬を叩くと、「よしっ!」と意気込んでパタパタと駆けていってしまった。
しばしその光景に驚いて動けなかった野薔薇だったが――。
「おかしいでしょ?」
突如発せられたその声に三度驚かされることになってしまった。慌てて振り返ればそこにいたのは、綺麗に切り揃えた肩より短い茶色の髪と眼鏡の奥に覗く萌黄色の瞳を持つ女性。
「葉月ちゃんっ!?」
「どう見てもあれは両想いなのに、まだ付き合ってすらいないらしいわよ、あの二人」
「……え」
「嘘」と言いたくても、葉月がきっぱりと言うのだから間違いないのだろう。
「あれで、付き合っていない? 付き合っていない? うん? 付き合っていない?」
「紅曰く、ただの先輩後輩の関係らしいわよ」
「いや絶対嘘でしょうっ!?」
普段おっとり口調の野薔薇が興奮気味に早口でツッコミを入れること自体、異常事態だと言えよう。それほどまでにあの二人の関係性は異常でもどかしいものだった。
「な、なんか私……頭痛がしてきたわ~……」
「……ねえ、野薔薇」
「なあに~?」
「もし……もし、よければなんだけどさ……」
葉月は少し言い辛そうにしていたが、しばらくすると言った。
「私の代わりにあの二人せっついてくれない?」
あれから距離はぐんと近づいても、あの時のもどかしい関係性はそのままの二人を見送りながら、野薔薇は葉月の言葉を思い出す。
(あの時、葉月ちゃん、間違いなく「私の代わりに」って言っていたのよね……)
あの言葉を聞いて間もなく、葉月はこの世を去った。病死だと聞いた。あの時は悲しくて仕方なくて気付かなかったが――。
(葉月ちゃん……きっと自分が死ぬ事を分かっていたのね……だから、あんな事を……)
ぼんやりとそんな事を思いながらも、野薔薇のやる事は変わらない。
(あなたとの約束、必ず果たしてみせるわ、葉月ちゃん……)
亡き恩人との約束を胸に、もどかしい二人の友人が見えなくなるまで見送ると、野薔薇は店の中へと戻る。
そして、蘇芳が飲み切った一升瓶を持ち上げて中を確認する。そこには深紅の薔薇の花弁一枚が入っていた。
ちょっとしたお節介の為に、己がこっそり入れた花弁が……。
「ん~~……神域最強さんには一枚じゃ足りなかったかしら?」
野薔薇は一人でクスリと笑った。