契約術
お前は必ずこれを必要とするだろう――彼女の為に。
(……そういうことか)
絶縁したばかりの韋佐己の言葉に従うのは少し気が引けたが――紅玉の為に蘇芳は紙を手に取った。
「……紅殿……相談なのだが……」
「……はい?」
「俺に……貴女の真名を預けてもらえないか?」
「真名を預ける」――その意味が分からず紅玉は首を傾げる。
「えっと、どういう意味でしょうか?」
蘇芳は紅玉に例の紙を見せた。
「これは、皇族と四大華族との間で古くから行われる契約に使われる特別な紙なんだ。この紙に四大華族が己の真名を書き、仕える皇族に名を呼んでもらう。主人である皇族に真名を捧げ、魂ごと忠誠を誓う――という契約術だ」
皇族と四大華族には切っても切れない縁があると感じていたものの、まさか契約術を使って魂ごと忠誠を誓っているとは思わず、紅玉は驚きに目を開く。
「……そんな契約をされているのですね……」
「四大華族は未来永劫皇族の為に在り続ける一族だからな」
初代皇帝陛下時代から――いや大和皇国が築かれる前から忠誠を誓ってきた一族の忠誠心の高さに、紅玉は驚きを通り越して感心してしまう。
そして、蘇芳の言っていた意味もようやっと理解できた。
「なるほどです。この契約術を使って蘇芳様に真名を預けるということですね」
「ああ、そうだ。この契約術を施行してしまえば、例え他者に真名を知られても、魂が縛られることはない。もうすでに契約した相手がいるのだからな」
大和皇国では、名前は魂の一部として考えられており、「真名」を知られることは魂を握られた事と同意である――つまり「真名」を誰かに預けてしまえば、魂を握られる心配は無いということだ。
「……ただ、俺に真名を知られてしまうことや俺と契約を交わすこと自体が嫌なら――」
「いえ、蘇芳様に是非お願いしたいです。よろしくお願いします」
即答であった。光の速さのような即答である。
蘇芳は思わず低い声で言う。
「……紅殿……前々から思っていたのだが……」
「はい?」
「貴女は警戒心が些か無さすぎる。もっと警戒心を持って行動して頂きたい」
「えっと……? わたくし、警戒心は強い方だと自負しておりますが?」
(どこがだっ!?)
叫びたい思いを必死に抑え、蘇芳は咳払いをしてから言う。
「自分で申し出ておいてなんだが……真名を預ける事は魂を預ける事と同じだ。そんな怪しい申し出を即答で受け入れるな。もっと疑ってからよく考えてほしい」
蘇芳の言葉に紅玉の頭の上に疑問符が飛ぶ。
「何故? わたくしが蘇芳様を疑うはずがありませんわ」
「――ぐっ……!」
蘇芳を見上げて小首を傾げて言う紅玉に――蘇芳は胸と頭を押さえたくなった。
(警戒心が無さすぎるっ!!)
再び咳払いをすると、蘇芳は説教をするように言葉を連ねる。
「紅殿、男からの申し出をそんなに簡単に引き受けてはいけない。いつか本当に危ない目に遭うぞ。もっと警戒心を持て」
そんな蘇芳の言葉に紅玉はむぅっと頬を膨らませた。
「まあ失礼ですわ。わたくし、見知らぬ男性からの申し出にそんなホイホイ簡単に頷いたりしませんわ。心から信頼している蘇芳様だから、真名を預けたいとお願いしているのです」
蘇芳は頭を――というより口元を手で覆って紅玉から顔を逸らした。その顔は熱を帯びて真っ赤であった。
蘇芳の奇行に首を傾げながら、紅玉は台の上に置かれた紙を手に取る。
「えっと……この紙にわたくしの真名を書けばいいのですよね?」
筆を取り出して、真名を書こうとした紅玉の手を、蘇芳がそっと押さえた。
「紅殿……貴女の真名を預かる代わりに、俺の真名を貴女に預けたい」
「えっ!」
「この術は皇族が四大華族を掌握する為の契約術だ。主人と配下がはっきりと分かれる。だが、互いに互いの真名を預ければ、一方的な関係性ではなくなる。俺は貴女を支配したいわけでないから」
「まあ……」
蘇芳の優しさに紅玉は胸が温かくなる。自分を気遣ってくれる事が嬉しくて堪らない。
だが、同時に不安もある――。
「蘇芳様の真名を預かる大事な役目をわたくしが担ってもよろしいのでしょうか……?」
もしもの時は――勿論全力で蘇芳の真名も魂も命に代えてでも守ろうと思う――だが、どうしても不安ばかりが募ってしまう――。
(わたくしは〈能無し〉だから……)
そんな紅玉の後ろ向きな思いを察したかのように、蘇芳は紅玉の手を握り、紅玉の漆黒の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「貴女がいい――貴女がいいんだ。俺の真名は貴女に捧げたい――いいか?」
蘇芳の真剣な表情に紅玉は思わず――。
「は、はい。わたくしでよろしければ」
そう答えてしまった。
優しく微笑んだ蘇芳の表情に、紅玉の心臓がドキリと跳ねていた。
そして、二人は筆を取る。
「まず、紙に真名を書いてくれ。漢字と読み仮名も」
「はい」
蘇芳が説明しながら手順を踏んでいく。
「書いた真名の下に血判を押す。指は親指でいい。真名と血で魂の証となる」
「わかりました」
紅玉は武器珠から脇差を取り出すと、その切っ先で親指を少し切り、その親指を紙に押し付けた。
真名の下に真っ赤な血の印――無事に魂の証が完成し、ホッとする。
蘇芳もまた魂の証が完成したようだが、紅玉の指を見て、眉を顰めた。そこには先程傷つけたばかりの傷があり、まだ血が溢れていた。
蘇芳はすぐさま紅玉の手を取ると、治癒の神術をかける――が、傷は残ったまま、血もまだじわりと溢れている。
紅玉は思わず苦笑してしまう。
「蘇芳様、わたくしは神術の効きが悪いですから……大丈夫です。その内、血も止まりますわ」
〈能無し〉である紅玉に神術は効き難い事は知っているが、蘇芳はどうしても紅玉の指に傷を残す事が許せない。
「……すまん、紅殿。抗議はあとで受けるから……」
「え?」
紅玉がどういう意味かと問う前に、蘇芳は傷付いた紅玉の親指をぱくりと銜えた。
「――っ!?」
紅玉は声にならない悲鳴を上げた。しかし、蘇芳は止まらない。
己の親指の傷口に蘇芳の舌が這う感触に、ゾクリと身体が震える――。
「す、おうさまっ……!」
抗議をしようと蘇芳の顔を見て、紅玉は後悔した――蘇芳が赤い舌を見せて傷を舐めている姿は、あまりにも刺激的で艶めかしく――紅玉はギュッと目を閉じてしまう。顔が激しく熱い。
「すおぉ……さまぁっ……!」
果てしなく感じた時間は蘇芳の舌が離れたと分かった瞬間、終わりを告げた。
ホッと息を吐いた紅玉は目を開けた――そして、再び後悔する。
蘇芳の赤い舌と己の親指が唾液の糸で繋がっており、蘇芳が真剣な表情で紅玉の親指を見つめているその姿は――あまりにも蠱惑的で色気が――紅玉の心臓は更に跳ねる。
(忘れておりましたが、蘇芳様はお顔が非常に整っていらっしゃるのでしたわっ!!)
やや明後日の方向に思考回路が吹っ飛んでいる紅玉を余所に、蘇芳はホッとした様子で紅玉の親指についた唾液を拭き取っていく。
「『自然治癒』の異能の効果のせいか俺の唾液には傷を癒す効果があるようでな……急にすまん。気持ち悪かっただろう? だが貴女の指に傷を残すのが嫌で……」
治療の為とはいえ、とんでもない行動をしてくれた蘇芳を紅玉は思いっきり睨みつける。
「ひっ、ひとのきずぐちやけつえきにはざっきんがありますのよ!? くちにしてびょうきにでもなったらどうするのです!?」
「え、あ、す、すまん……」
抗議が明々後日の方向に吹き飛んでいる事に紅玉が気付くはずもない。
「あとでちゃんとお口の中、うがいして食毒してくださいましっ!」
「は、はい……」
紅玉の指摘があらぬ方向にぶっ飛んでいる事に関して、蘇芳は何も言わなかった。
そんな蘇芳に紅玉は真名を書いた紙を差し出す。
「えっと、これをどうするのです?」
「紙を受け取った者が真名を呼び、書いた方が返事をすれば契約術が発動し、契約成立する仕組みだ」
「なるほど、わかりましたわ。ではお願いします」
蘇芳は紅玉から紙を受け取り、書かれてある真名を見た。
「相変わらず綺麗な字だな」
「ふふふ、畏れ入りますわ」
「なるほど……辰登はこれを読み違えてしまったのだな」
「ええ。家族ですらも、わたくしのことを『べに』と呼びますから。小さい頃から間違えられる事が多かったですわ」
今回それが功を奏した――読み間違えてくれたおかげで禁術は発動しなかったのだから。
しかし、今度は間違えるわけにはいかない。これは紅玉を守る為に行なう契約術なのだから。
蘇芳は真名の横に書かれてある読み仮名をしっかりと見る。
「……では、呼ぶぞ」
「はい」
蘇芳は紅玉の漆黒の瞳を真っ直ぐ見て、名を呼ぶ。
「千石紅子殿」
「はい」
瞬間、紅玉の真名が書かれた紙の紋章が光り、その光が弾けると文字の輪を生まれた――やがて文字の輪は光を放ちながら紅玉の右小指の付け根をぐるりと囲み――光は弾けて消え――そして、紅玉の右小指の付け根を囲むように大和文字で作られた紋章が残った。
「……これで契約完了だ」
「まあ……随分と簡単なのですね」
紅玉は己の右小指をしげしげと見つめながら言った。
美しい大和文字の紋章がうっすらと右小指の付け根にあるものの、よくよく見ないと気付かない程なので普段も気になる事はないだろう。
(……あら?)
ふと紅玉は契約術の紋章を見て、果てしない既視感に襲われた。
(……何処かで似たようなものを見た気がするのですが……)
それもつい最近――しかも身近なところで――それを思い出そうとするが――。
「では次は俺の番だな」
「あっ――はい」
蘇芳が真名を書いた紙を差し出してきたので、紅玉は意識を蘇芳の方へ移し、紙を受け取り、蘇芳の真名を見た。
「まあ、素敵な名前」
紅玉は率直な感想を口にしたが、蘇芳は苦笑いだ。
「そうか……?」
口にはしなかったが、蘇芳は己の真名があまり好きではなかった。
自分の名前の由来を祖父と父に延々と聞かされてきたのだ――「お前の名は初代盾に肖って付けたものだ。初代盾の再来として恥じぬ男となれ」――そう延々と言われ続け、厳しく躾けられてきたから――。
(名前まで初代盾に侵蝕されたような気分になって……この名を何度恨んだことか)
思わず溜め息を吐きそうになる――。
「ええ。わたくし、この花が一番大好きですもの」
「――んぐっ!?」
思わず溜め息を呑みこんでしまい、蘇芳の喉から変な音が聞こえてきた。
「あら? 蘇芳様、どうかなさいまして?」
「い、いやなんでもないすまない少し噎せそうになっただけだ大丈夫だっ」
早口でそう一気に言い切った。
小首を傾げる紅玉を余所に蘇芳は思わずにやつきそうになるのを必死に堪える。
(生まれて初めて、自分の名が好きになれそうだ……)
我ながら現金なものだと呆れつつも、嬉しいという気持ちは止められそうにない。
蘇芳は咳払いをした。
「……では契約を」
「はい」
紅玉は蘇芳の金色の瞳を見つめると、名を呼ぶ。
「金城梅五郎様」
「はい」
先程と同じように紙の紋章が光り、弾けると文字の輪を作る――文字の輪は光を放ちながら蘇芳の右小指の付け根を囲み、光は弾けて消え――蘇芳の右小指の付け根に紅玉のものと同じ紋章が残った。
「これで、契約完了だ。右小指に紋章があるのが分かると思うが、これが言わば契約の証のようなものだ。真名と血で作られた強固なもの神術だから、互いの承認なしに契約の破棄はできないようになっている。その分、強固な魂の守りともなる」
「なるほどです」
そう呟きながら、紅玉は右小指の紋章を擦った。
本来は皇族と四大華族の間で交わされる強力な契約術の証であるその紋章から――自身は〈能無し〉だから感じる事は出来ないが――ほんのりと蘇芳の優しい神力を感じるような気がして、紅玉は安心感を覚える。
「あと、この紋章には利点もあってな」
「利点、ですか?」
「もしも……紅殿の身に何か危険な事が迫った時は、迷わず俺の真名を呼んでくれ。紋章を通して、契約者である俺は貴女の元へいつでもどこでも駆けつけることができる」
「まあ! そんな力が……!」
とてもありがたい力だと思った同時に――紅玉の脳裏にそれが過ぎり――紅玉は蘇芳の手を握る――やや強く。
「では、蘇芳様も蘇芳様の身に何か危険が迫った時、わたくしを呼んでくださいまし――」
そう言いながら過ぎった光景は――血塗れになってぐったりとした蘇芳の姿――。
「――今度は、必ず、です。もうあんな思いは嫌ですわ」
「!」
あまりにも真剣な目で自分を見つめる紅玉が何を言わんとしたいのか察した蘇芳は――しっかりと頷いた。
「ああ、必ず。約束する」
「じゃあ――はい」
そう言って紅玉は右の小指を差し出した。
「きちんとわたくしと指切りしてくださいまし。これで後々に言った、言わないだの、言い争いはなくなるでしょう?」
「ははっ、確かにな――だが、それは紅殿にも言える事だからな」
「あらまあ、痛いところを突かれてしまいましたわ」
蘇芳が他者の為に(主に紅玉の為だが)無茶をするところがあるように――紅玉もまた他者の為に無茶をしてしまう。
紅玉も蘇芳も、それを自他共に認めている――実に似た者同士である。
思わず紅玉と蘇芳は見合って笑ってしまう。
そして、紅玉が再び右小指を差し出すと、蘇芳は紅玉の小指の己のそれを絡めた。
「約束しますわ。もしもわたくしの身に何かあった時、必ず蘇芳様の名前を呼びます」
「俺も約束する。もしも自分の身に何かあった時、紅殿の名を呼ぶと」
小指を結んだまま、二人は手を上下に振る。
「「ゆ~びきった」」
子どもがするようにそう歌えば、再び二人見合って笑ってしまう。
指切りなんて、まるで子どものようで少し気恥かしいような、懐かしいような――でも温かい何かに胸がホッとしていくのを――紅玉も蘇芳も感じる。
そんな二人の右の小指の紋章が仄かに光っていた。
これにて二章終了です
二章おまけを投稿してから、三章の投稿を開始したいと思います