7. 暴走の果て
レオンの爪に切り裂かれ、最後のスケルトンが糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「はっ、はっ……」
肩で息をしながら辺りを見回し、更なる敵を探す。衝動はまだ収まらない。自分の他に残っている魔力。残っている生命。なんでもいい。喰らいたい。
ふと、肩にしがみつきこちらを見つめている遣い魔が目に入った。
黒いドレスに包まれた、柔らかそうな肢体。この小さな身体に喰らい付いたらどんな味がするのだろう。
血走った視線を向けられても、シャントはなにも言わない。小さく震えながらも黙したまま、真っ直ぐにレオンを見つめている。
気の強そうなその瞳に、レオンの姿が映っていた。
髪を振り乱し、半開きになった口からは涎が垂れている。金色の瞳が、シャントの小さな瞳と同じように、真っ直ぐにレオン自身を見返していた。
「あああっ!」
知らないうちに、レオンの口からは絶叫が迸っていた。魔力を込めた爪を、広間の壁に叩き付ける。分厚い石壁に傷痕が深々と刻まれる。
「があああああっ!」
それでも飽き足らず、彼は野獣のように咆哮を上げながら顔面を壁に叩き付けた。一度、二度、三度。顔が潰れ、そこから血が溢れ出す。それでもやめない。
肩に乗っているシャントががくがくと揺さぶられる。彼女はなにも言わず、じっと目を閉じ、レオンの部屋着に必死で掴まっていた。
幾度も、幾度も。喉の奥から絶叫を迸らせながら、彼は壁に頭を打ち付け続けた。
レオンはゆっくりと目を開いた。
――どれほどの時が経ったのだろうか。石壁に額を触れさせたまま、意識を失っていたらしい。
あれほど彼を苛んでいた食欲の衝動は、完全に消え去っている。力の限り壁に叩き付けてぐしゃぐしゃになっていた頭も、自己治癒によりとっくに完治していた。壁にべったりとこびりついた大量の血液がなければ、先ほどのことなど夢だったのではないかという気すらしてくる。
石壁から額を離すと、固まった血液がべりっと音を立てた。
「ヴァンパイアも血を流すんだな」
壁にこびりついた自らのそれを見やり、静かに呟く。
「そうですね。ヴァンパイアにも血が流れています。魔力に満ちていますから、魔法の触媒としては最高級品といわれています」
足元からの声。問うたわけではなかったのだが、答えたのはシャントだった。いつの間にかレオンの肩から降りて、床にちょこんと座っている。フリル付きのスカートが、黒い花弁のように床に広がっていた。
レオンはシャントを見下ろした。
「……さっきのはなんだったんだ?」
シャントはなにも言わない。ただレオンの言葉を待っているようだった。じっと瞳を見返してくる表情が先ほどのそれを思い起こさせ、感情がささくれ立つのを感じる。
「訳の分からない感情に支配されて、自分を見失った。途端に、辺りにあるなにもかもが美味そうに見えた。あのリッチとかいうバケモノも、スケルトンもだ! ただの骨だぞ。なんの冗談だ!」
その衝動が、今は嘘のように消えている――むしろレオンにはそれこそが恐ろしく感じられた。その衝動が、いつ再び彼に襲いかかるかわからないから。
その恐怖に突き動かされるように、言葉を繋げる。
「美味そうと思った瞬間、身体が勝手に動いた。確かに俺はあのリッチを喰ったんだ。……お前はあのとき、吸血した、と言ったな」
「そうですねー」
シャントは立ち上がると、その場でくるりと回転した。
なぜかわからないが、どことなく上機嫌に見える。彼女はにこにこと説明を続けた。
「ヴァンパイアの能力のひとつにして、その象徴。それが吸血という能力です」
「血など吸っていない。そもそも血など流れていない。骨しかないんだぞ、あいつらは」
「血を吸う必要はないんですよ。吸血の本義は、対象への接触による魂の強奪です。まあ、副次的に対象が持つ魔力なんかも取り込んだりすることもあります」
つまり、レオンがリッチのカルストに対して行ったのは、食事でも攻撃でもなく、吸血による魂の強奪だったということだ。同時にカルストの持つ膨大な魔力も吸収したのだろう。
「じゃあ、あれは? あの――衝動は?」
「ご主人さまがおっしゃってるのが強烈な飢餓感と食欲のことなら、それは『吸血衝動』と呼ばれる、ヴァンパイアという種全体が抱える呪いです」
彼女の説明によると、それは呪いというより体質のようなものであるらしかった。
ヴァンパイアはその存在の維持をかなりの割合で魔力に依っている。その魔力が枯渇しそうになると、強烈な飢餓感とともに暴力性が表面化する。
これはヴァンパイアであれば個体差はあれど多かれ少なかれ持っている特性なのだと、シャントは言った。
「なるほどな」
説明を聞き終わると、レオンは自嘲気味にかぶりを振った。
「つまり俺は、バケモノに生まれ変わったというわけだ」
「そんなことありませんよ」
あっさりと否定するシャント。しかしレオンは空虚に微笑った。
「つまらん慰めはやめろ」
「慰めなんかじゃありませんよ」
「素手でスケルトンをなぎ倒したあげく、腹が減ったら見境なく周りの生き物を喰いまくる。これがバケモノじゃなくてなんだって言うんだ?」
「だからバケモノじゃありませんってば」
「俺は!」
頑なに否定するシャントに、レオンは腕を振り上げて怒鳴りつけた。ハッと口をつむぐ。
なんとか気持ちを落ち着かせると、腕を下ろし、力なく言葉を紡ぎ出す。
「俺は、お前まで喰らおうとしたんだぞ……?」
「でも、守ってくれたじゃないですか」
シャントはレオンを真っ直ぐに見上げ、そう言った。
「わたし、さっき食べられても仕方ないと思っていたんですよ。吸血衝動って、本当は意思の力なんかでねじ伏せられるものじゃないんです。本来ヴァンパイアにとって、逆らえない呪いなんですから。本当にたくさんのヴァンパイア達が、この呪いに付け込まれて倒されていったんですから。
でも、ご主人さまはわたしを守ってくれました。わたしが食べられる寸前に、ご主人さま自身から守ってくれたんです。あんなに傷付いてまで」
これまで見せたことのないような真剣な表情で、シャントは語る。そっとレオンの足下に歩み寄り、小さな手を彼のつま先に触れさせた。
「ヴァンパイアは強大な魔力と不死身の肉体を持ちながら、魔力が枯渇しそうになると吸血衝動に逆らえなくなる不完全な生き物です。確かにご主人さまはそんな存在に転生しました。でも、ご主人さまは吸血衝動をねじ伏せたんです。自分の力で、呪いを撥ね退けたんです。だから――」
シャントは言葉を切った。足元にいて俯いているから、その表情をうかがい知ることはできない。
「――ご自分のことを化け物だなんて、そんな風に言わないでください」
声が震える。レオンはそれには気付かなかったことにした。
「……そうだな。すまん」
短い謝罪。
「それから――ありがとう」
短い謝辞。
「……えへへ」
シャントが小さく笑って、軽く鼻をすする。彼女はレオンのつま先から離れると、振り返って彼を見上げた。その顔には花のような笑顔が浮かんでいた。
「さあ! 話がまとまったところで、さっさとこんなじめじめした地下室から脱出しますよ! こんなところにいたら、また気分が暗くなっちゃいます。だって真っ暗なんですもの!」
豹変したシャントのテンションに面食らいながらも、レオンは頷いた。縦に長い広間の反対側にぽっかりと開いた入り口を指す。
「そうだな。見たところ、出口はあれ一つのようだ。さっさと脱出するぞ」
「それが、そうもいかないのです!」
「まだなにかあるのか?」
「ふふ、よくぞ聞いてくださいました」
シャントは不敵に笑うと、その場でくるりと回って、びしっとレオンを指差した。
「わたしの大きさで徒歩だとあっちまで行くのがそれはもう大変ですので、さっきみたいに肩に乗せてくれてもいいですよ!」
レオンは構わず歩き出した。背後の上機嫌な声色が、一転罵声に変わった。