4. 戸惑いの覚醒
気が付けば、レオンは真っ暗な世界にいた。
何も見えず、何も感じない。例えるならば、水の中を漂っているような感覚。
「おーい」
ここはどこなのか、どうやってここに来たのか。そんなようなことはおろか、いつからどのくらいこの状態だったのか、それすらも思い出せない。
「おいってば。おーい」
そもそも自分は誰だったか。レオン・ナハト? それすらわからなくなってくる。
「あっれえ、聞こえてないかな。どっか間違えたか?」
…………
「ここが、こうで……よっ!」
気が付けば、レオンは男に覗き込まれていた。
黒髪を短く刈り込んだ長身の男性である。端正な顔立ちをしているのに、その顔に張り付いた薄ら笑いが、その男にひどく軽薄な印象を与えていた。見たこともない材質の真っ黒な上着を着て、胸元から白いシャツが覗いている。
「おー、上手くいった」
レオンの頭の横にしゃがみ込んでいた男が声を上げた。
「ようおっさん。俺の声が聞こえるかい?」
応えも待たず、右手をレオンの目の前でひらひらと振る。
「気分はどうだい。ほれこれ、何本に見える?」
「……三本」
「正解だ!」
男は立てていた指を引っ込めると、ぱっと立ち上がった。上機嫌そうに拳を握る。
「こいつぁ初めてにしちゃ上出来だろ!」
その間にレオンは身を起こす。
なぜ、こんなところにいるのだったか。
意識ははっきりしている。記憶も同様。自分の今際の際まで鮮明に思い出せる。自らの肉体を両断した青く輝く刃と、恐ろしいまでに美しい金髪の少女――アリシアの顔。
(で、ここだ)
レオンはかぶりを振ってよれていた思考を中断すると、辺りを見回した。
彼が横たわっていたのは、真っ白な部屋だった。レオンがかつて見たどんな白よりも白い、目が痛くなるような白一色。
床も、壁も、天井も真っ白でどこにも全く凹凸がないため境目がよくわからず、部屋がどのくらいの広さなのかすら判然としない。明かりは見当たらないが、部屋はなぜか明るかった。
レオンが殺されたのは、ドライクというそこそこ大きな都市の一角だったはずだ。こんな訳の分からない空間ではない。
正直、死ぬ直前に趣味の悪い夢でも見ている、というのが一番現実的ではないかとすら思うのだが……
仕方なく、軽薄な笑みを貼り付けたままこちらを見ている目の前の男性に尋ねる。
「ここはどこだ」
レオンが尋ねると、男はあっさりと答えた。
「ここか? ここは――隙間だ」
「隙間?」
「あの世とこの世の隙間、みたいなもんだ」
「みたいなもん?」
「歳食ってるくせに細けぇな。大体そんなイメージで合ってるって話だよ」
男は面倒くさそうにしっしっと手を振ると押し黙った。これ以上説明する気はないらしい。
結局訳が分からないままのことに変わりはなかった。仕方なくレオンは質問を変える。
「あんたは?」
「俺は邪神だ」
あっさりと、その軽薄な笑みを顔面に張り付かせたまま、男はそう言った。
「――なんだって?」
「邪神だって言ってんだろ」
思わず問い返したレオンに答えると、自らを邪神と名乗った男は何もない空間に向かってぱっと手を振った。すると、その場に豪華な椅子が現れる。漂白されたように真っ白なこの部屋に現れた、唯一の家具。
「今、何をした?」
驚いたレオンが問う。自称邪神はどっかとその椅子に腰を下ろすと、足を組んでひじ掛けに頬杖をついた。
「神サマだぞ。このくらいさせろ」
自称邪神が再び手を振る。刹那。
ぴしっっ――!
目の前の邪神と名乗る男が「隙間」と呼んだこの白い部屋に無数のひびが入る。湖に張った薄氷に足を乗せた時のような音が、部屋の床、天井、壁のいたるところから一斉に響いた。澄み渡ったその音の余韻に、まるで自らの寄る辺がなくなってしまうかのような不安を覚える。
「な――!?」
ばしゃっ!
程なくして、轟音と共に白い部屋が粉々に砕け散った。部屋の外は真っ黒な空間。上下左右、あらゆる方向に無数の星が瞬いている。
まるで満天の星空に放り込まれたかのような、幻想的な光景。その中を、真っ逆さまに落ちていく。
「うおおおおおっ!?」
レオンはこらえきれず悲鳴を上げた。満天の星空の中に、邪神と彼が座る豪華な椅子だけが、何事もなかったかのように変わらず在る。レオンはとうに下(本当に下なのかもよくわからないが)に落ちてしまっているのに、邪神は変わらず彼が立っているかのように視線を動かさない。
レオンは落ちていく。邪神が坐する椅子はどんどん遠ざかっていく。
(偽りの断罪にてその命を散らした哀れなる魂よ)
しかしレオンの頭の中に、はっきりと邪神の声が響いた。芝居がかった口調だが、どこか面倒くさそうな、台詞を棒読みしているような印象を覚える。
(汝に新たなる器を与えよう。ゆめゆめ忘るるなかれ。これは祝福ではなく、呪いである――)
どこまでも続く浮遊感の中、レオンの意識が遠ざかっていく。意識を失う直前。
(まあ第二の人生、楽しんでくれや)
邪神の声が、最後にレオンの頭の中に響いたような気がした――
気が付けば、レオンは真っ暗な広間の隅にいた。
光の全く差し込まぬ、真の闇である。部屋は縦に長く、壁も、床も、天井に至るまで何の装飾もない石造りだった。レオンが横たわっていた反対側の壁に、これまた無機質にぽっかりと穴が開いている。この部屋から出る道はそれしかなさそうだ。
レオンが身を起こすと、指先になにかが触れる。見下ろすと、虚ろな眼窩が見返してきた。指先に触れていたのはしゃれこうべだった。
見回せば、部屋の至る所に人骨が転がっている。
「地下墓地か……?」
顔にかかった髪を退けながら独りごちると、声が部屋に響き渡る。ひんやりとした空気、埃っぽい臭い。先ほどの白い部屋と違う現実感を覚える。
自分の身体に触れる。アリシアに両断された腹部をなぞるが、まるでそんな事実などなかったかのようになんともない。服すら破れておらず、レオンがあのとき着ていた部屋着のままだった。
「本当に、生き返ったのか……」
両手を見つめ、呟く。
「そうですよ」
突然耳元から声がして、レオンは思わず声を上げそうになった。見ると、肩になにかが乗っている。
それは、小さな少女の姿をしていた。今は座っているが、立ち上がってもレオンの手の平くらいしかないだろう。フリルが多くついた真っ黒のドレスを着て、艶やかな黒髪を(体の大きさからして、比較的)長く伸ばしている。少女はいつの間にかレオンの肩にちょこんと座って、足をぶらぶらさせていた。
レオンは素早く手を伸ばすと、少女の細い身体をつまみ上げた。
「うひぁ!?」
少女が悲鳴を上げるのも構わず、目の前に持ってきてしげしげと眺める。
顔立ちからして、人間の大きさであれば歳の頃は十五、六といったところか。少々気が強そうだが整った顔立ちを歪めて、自分の腰をつまんで持ち上げているレオンの指をぽかぽかと殴り付けている。
「なにするんですかー!」
「……なんだ、お前?」
「なんだじゃないでしょう! 黒金神様から聞いてないんですかー!?」
「誰だって?」
「黒金神様ですよ! 記憶力ないんですか!? さっきまで――あっ」
ぴたりと動きを止め、ぽんと手を打つ。
「そっか、邪神です。邪神邪神」
「邪神?」
先ほどの白い部屋で会話を交わした、軽薄な笑みを浮かべた男性のことを思い出す。邪神と名乗っていたが、正しくは黒金神という名前らしい。
「話はしたが、お前のことなど言っていなかったな」
「なんっと!?」
小さい少女の顔が、わかりやすく驚愕の色に染まった。腕を振り上げのけぞる。
「……なんというか、全体的に五月蠅いな。声も動きも」
「そんなことはどうでもいいんですよ!」
思わずつぶやいたレオンに叫び返すと、少女は拳を震わせた。
「まったく、あれだけわたしのことをちゃんと説明しとけと言ったのに……どうせ初めての使徒化が上手くいったものだから浮かれていたんですよ。そうに違いありませんよ!」
「離してもいいか?」
「ダメです! 落ちます! 痛いです!」
めんどくせえなあ。
レオンはそんな表情を隠しもせず、その場にあぐらをかいた。地面にそっと少女を下ろす。
「で、結局お前は何なんだ?」
尋ねると、少女は背筋を伸ばし、腰に手を当て(こちらも体の大きさからして、比較的)豊かな胸を張った。
「わたしは、遣い魔です。シャントと呼んでください、ご主人さま」
「精霊魔法の?」
「違います! そんなまがい物と一緒にしないで下さい! それは使い魔。わたしは遣い魔です!」
まあ、確かにどう見ても違った。
レオンが知っている「使い魔」とは、精霊魔法の一種で操られた動物等の俗称である。シャントと名乗った目の前の小さな少女はそういう存在とは明らかに異なるし、そもそも魔法で操ることができるのは通常、自我が薄い小動物等に限られる。
「わたしは黒金神様、すなわちあなた方が言う邪神より遣わされた、使徒を正しい道へと導く存在なのです」
「使徒を、導く?」
この状況だ。導かれるのはどう考えてもレオンだろう。
「つまり、俺は邪神の使徒として生まれ変わったのか?」
「ご認識の通りです」
何故かさらに偉そうに胸を張るシャント。そのまま後ろ向きにひっくり返ればいいのに、とこっそりレオンは思った。
「……邪教の使徒と疑われて殺されたら、邪教の使徒として生き返るか。笑えない冗談だな」
「あははは、そうですね」
「笑えんと言っただろう」
レオンは小さくため息を吐いた。
「で? 俺はどんなバケモノに生まれ変わったんだ?」
訊くと、シャントはばっ!と拳を握って前のめりになった。
「おお、姿は変わらないのに違う存在になったと? 鋭いのか、それとも自意識過剰ですか?」
「自意識過剰なわけがあるか」
なんとなく会話のペースをシャントに握られている気がして気にくわないレオンだったが、改めて周囲を見渡した。
おそらく地下であろう、窓がひとつもない殺風景な石積みの広間。その石の継ぎ目まではっきりと見て取れる。
「光が全くないこの部屋でも昼間のように目が見える。同時に今いる場所が真っ暗闇だということも理解している。昔かけられたことがあるが、暗視の魔法とも違う。そもそも魔法をかけられている感覚がない。
となれば、邪神とやらが蘇生させるときに俺の身体を弄くったと考える方が自然だろう」
「おおー」
シャントはぱちぱちと手を叩いた。なんとなく気に障ったが、黙っておく。
「なかなかの洞察力! これは導き甲斐があるというものですね。ご認識の通り、厳密にはご主人さまは生き返ったのではありません。生まれ変わったと言えるでしょう」
言いながらシャントはぴっと人差し指を立て、反対の手でかけてもいないのにメガネを持ち上げる仕草をしてみせた。
「ご主人さま、あなたはヴァンパイアとして転生したのです!」
周囲に転がっている人骨が、からりと音を立てた。