2. はじまりの一悶着
レオン・ナハト。冒険者。
特に得物にこだわりはないが、数年前に手に入れたドワーフの剣匠ゴルドの鍛えた長剣を気に入り、使い続けている。
彼は特定のパーティに所属しない、いわゆる無所属である。腕を買われ、別のパーティに臨時で参加することもあるが、基本的には独りでこなせる護衛任務や、街周辺の魔物退治、荷物運びのような仕事で生計を立てる風来坊だ。
その街、ドライクを訪れたのも、彼が根城にしているロマナーで商人に護衛として雇われたからだった。ドライクに店を構えており、ロマナーへ仕入れに来たというその商人は、不幸にも道中山賊に襲われ、護衛を何人か失ってしまったらしい。しかし、残された人数では復路が心もとない。
そこで人員補充として冒険者ギルドに少人数の護衛依頼が出され、たまたま身が空いていたレオンがその依頼を請けたというわけだった。
幸いにしてレオンが護衛に付いている間は弱い魔獣の襲撃があった程度で、さしたる危険もなく数日でドライクに辿り着くことができた。
ギルドで報酬を受け取った後、護衛任務で一緒だった他の冒険者パーティと意気投合し、彼らの行きつけの酒場へ行くことになった。二階が宿になっており値段も手頃だったため、ついでにそこで一晩宿を取ることにする。
一緒に飲むことになった彼らはドライクが根城のため、パーティ全員で別の場所に大きめの部屋を借りているらしい。そちらに泊まるよう誘われもしたのだが、レオンも既に色々と世話になっていた手前、それは辞退した(ついでにパーティへの加入も誘われたが、そちらも遠慮した)。
レオン達が飲み始めたのは夕食には少し早い時間だった。酒も進み他の飲み客も少しずつ増えてきた頃、事件は起こった。
がしゃんとなにかが割れる音。女性の悲鳴。男の怒号。そこそこの広さがある酒場がその瞬間にしんと静まり返る。
何事かと振り返ると、隅の席の前で呆然と立ちすくむ少女と、席に座ったまま下卑た目で少女を眺める太った男が目に入ってきた。
明るめの茶髪を短く切りそろえた少女は、トレイを抱きかかえて青い顔をしている。髪の間から覗く耳が尖っており、その長さから少女がハーフエルフなのだと知れた。
男はぞろりと長い白ローブを身に付けており、頭は綺麗に剃り上げられていた。胸には太陽の形を模した、これまた真っ白な聖印が下げられている。
「……これは困りましたなー。白銀神の祝福を受けた聖衣が、不浄なる酒で穢されてしまいましたよ」
「も、申し訳ありません……」
「申し訳ありません司祭様!」
少女が頭を下げる。騒ぎを察した酒場の主人らしき男性も駆けつけ、ローブ姿の司祭と呼ばれた男に詫びた。
それにも構わず、男と同席している若い男達が言いつのる。
「おお、これは大変だ!」
「我が国が誇る白銀神教の高司祭、オルタス様の聖衣が穢れてしまっては、白銀神の寵愛が!」
「これではこの街、いやそれに止まらずこの国にどのような災いが降りかかることか!」
「そ、そんな……」
絵に描いたような言いがかりである。
どうやら給仕をしていた少女が酒をこぼしてしまい、それがオルタス高司祭とやらの白いローブにかかってしまったらしい。遠目にはどこも汚れていないように見える。裾がどこかしらシミになったとか、その程度のことだろう。
酒場は依然、しんと静まりかえったまま。取り巻き達がさらに何やら喚き立てている。
しかしそれをやんわりと制したのは、当のオルタス高司祭だった。
「まあまああなたたち、落ち着きなさい。この少女とご主人に言ってもせんのないこと。それに、神の愛はこんなことで失われはしませんよ」
意外なところからの援護射撃に、少女がほっとした表情を見せる。
しかし、その後オルタス高司祭が続けた言葉が、また少女の表情を凍り付かせることになる。
「ただし、彼女には白銀神のなんたるかを学んでいただく必要がありますな。これからわたくしの屋敷で、わたくしが直々に教えてさしあげましょう」
「こ、これから……?」
それが意味するところは言わずもがなである。慌てて主人が少女を庇うように前に出る。
「お、お待ちください! 彼女はその、既に別の神の信徒でして」
「そうですか……それは残念だ。しかしですなあ、それではやはり、弟子の申したとおりこの街にどのような災いが降りかかることか。少なくともこの店ではいたたたたた!?」
得意気な口上は、最後まで言い切ることはできなかった。
悲鳴を上げる高司祭の後頭部を鷲掴みにしているのは、他ならぬレオンだった。右手で高司祭の禿頭を鷲掴みにしてギリギリと締め上げる。
「いたいいたいいたいいたい!」
あまりに突然の出来事で、少女も、主人も、高司祭の取り巻きの男達すら硬直していた。
なにしろ、誰一人としてレオンが近づいてきていることに気付かなかったのである。当事者たちはもとより、周りで固唾をのんで成り行きを見守っていた他の飲み客たちも同様だった。
一緒に飲んでいた冒険者パーティの一人が「あれ!? いつの間に!?」と小さく叫んでいるのを横目で見つつ、レオンはさらに腕に力を込めた。
「あいぎぎぎぎぎぎ!!」
「うるさいな」
もはや何を言っているのかよく分からなくなっている高司祭の声に顔をしかめ、手を離す。
解放された高司祭は椅子から転げ落ち、四つん這いのまま慌ててレオンから距離を取った。主人と少女が後ずさる。
高司祭は頭を抱えるようにうずくまっていたが、なんとか立ち上がるとレオンにびしりと指を向けた。
「な、なん、なんなのだ貴様は!」
「誰でもない。ここの客さ」
レオンは肩をすくめた。店の入口を示し、言い放つ。
「ここには他の客もいる。布教活動は余所でやるんだな」
レオンの言葉に、ようやく我に返ったらしい取り巻き達がいきり立つ。
「なんだと貴様!」
「このお方をどなたと心得る!」
「白銀神教の高司祭様だろう? 知ってるさ。……相変わらずろくなのがいないな、白銀神教には」
「言うに事欠いて……っ!」
取り巻きの一人が殴りかかってくる。レオンはその拳を正面からあっさり受け止めると、軽く捻ってやる。
それだけで相手はテーブルを巻き込んで派手に転倒した。白目を剥いて気を失う。
レオンは慌てて立ち上がった取り巻きのもう一人にちらりと目を向けた。
「ひっ!」
怯えた様子で後ずさる取り巻き。自分で蹴倒した椅子に躓き、ぺたんと尻餅をつく。
レオンは高司祭に視線を戻した。
「で、どうするんだ? このまま出て行くか、それともあんたも俺とやり合うか? もっともその腹じゃ、無理だとは思うがな」
レオンの言葉に酒場の中から小さく笑い声が上がる。
オルタス高司祭はしばらく真っ赤な顔をしてレオンを睨みつけていたが、
「……おい! 連れていけ!」
取り巻きに命じて、自らも店の出口へと向かっていった。
店を出る直前、レオンの方へ向き直り、再度びしりと指を突き付ける。
「覚えているがいい! 白銀神教に盾突いたこと、心の底から後悔させてくれる!」
その清々しいまでの捨て台詞に、今度こそ客から爆笑が巻き起こった。レオンも思わず苦笑する。
「……ああ、期待している」
その言葉にオルタス大司祭は怒りでぶるぶる震えていたが、結局なにも言わずきびすを返し、店を後にした。気絶した仲間を担いだ取り巻きが、慌てて後を追う。
レオンはそれを見届けると、呆然としている酒場の主人と少女の元へ向かい、声をかけた。
「すまなかったな。散らかした料理とテーブル分は支払わせてくれ」
――この後、飲み客によってたかって酒を振る舞われたり、主人と少女に無茶苦茶頭を下げられたりと色々とあったのだが。
概ねこれが、レオンが今巻き込まれている騒動の発端となった出来事であった。