愛染明王
テーマ「アイ」
仏教の密教には、愛染明王という尊格がいる。
戦国武将の直江兼続はこの愛染明王を信奉していたという。直江兼続の兜には「愛」の文字があしらってあるが、この「愛」は、愛染明王から来ているという説がある。
それで、昔ある人が、「でもこんな兜をかぶった人に刀で斬られたら嫌だよね。『愛』って書いてあるのにさ」みたいなことを言っていたのを覚えている。
しかし、仏教における「愛」というのは、「愛欲」とか「愛執」とか言われるように、「欲望」や「執着」と同じような使われ方をしていて、基本的には良い意味ではない。むしろ悪い意味で使われる言葉であるように思える。
愛染明王というのは、そのような、本来はネガティブな力である「愛」を、悟りへの力に変えて、それによって衆生を救う、という、密教的な考え方に基づいた尊格なわけである。
この「愛」という言葉がポジティブな意味で使われるようになった一因には、キリスト教用語の影響があるかもしれない。キリスト教では、「愛」という言葉はもっと良い意味で使われることが多いように思える。
しかし、キリスト教におけるこのような「愛」というのは、仏教における「愛欲」や「愛執」とは違って、対象に執着する利己的な愛ではなく、見返りを求めない無償の愛、博愛である。仏教用語で言えば、このような愛は、「愛」と言うより、「慈悲」のほうが近いように思える。
それを思うと、キリスト教の文献を日本語に訳した時に、「愛」という言葉を多用したのは、まずい訳し方だったのかも知れない。
「神は愛である」と言うより、「神は慈悲である」と言ったほうが、仏教的な背景を持った人々には理解しやすいような気がする。
確か明治時代あたりの作家が、「キリスト教は愛を説くのに、なぜ男女の愛には否定的なのだろう」みたいなことを言っていたが、これも、「愛」という言葉の意味の広さのせいで起こった混乱であるように思える。
もちろん、キリスト教でも、「愛」という言葉が否定的な意味で使われることはある。例えば、「現世を愛してはいけない。……現世は過ぎ去るものだから」などということが言われるけれど、この場合の「愛」は、仏教の「愛執」と同じように、ネガティブな意味で言われていることが明らかである。
「愛」と言ってもさまざまである。良い愛もあれば、悪い愛もある。時には、「愛」というものが、恐ろしい現れ方をすることもある。
私の持っている、あるいは持っているかも知れない愛が、そのような悪い現れ方はせず、むしろ良い現れ方をすることを願いたい。愛染明王のように。