訪問
「あれ、サーラ。そんなに急いでどうしたんだい?」
階段を駆け下りたところで兄のコンラルと危うくぶつかりそうになった。
コンラルが素早く避けてくれたので、衝突は免れる。
学問、剣術、馬術となんでもそつなくこなす万能なコンラルにとって、突然現れたサーラを避けることなど造作もないことだろう。
明るい金の髪と紺碧の瞳が整った顔によく映える。
将来、コンラルがラルナート伯爵家を継げば安泰だと誰もが噂しているのを、サーラは知っている。
「ちょっとツァルのところに行って来ようと思って。王都へ行ったら、しばらく戻って来られなくなるでしょう?」
「そうだね。でも、気をつけて。おしとやかになんてことは今更言わないけれど、怪我だけはしないように」
「任せて。王都に行けなくなったら困るもの」
「それにしても、サーラが王都へ行くと言い出すなんてめずらしいこともあるものだね。これまでは、なんだかんだ言って避けていたくせに」
「美味しいウブリンが食べたくなったの。王都のなんとかという通りに美味しいと有名なウブリン売りがいるって聞いたことがあるわ」
「確かに、そんな話を聞いたことがあるな」
コンラルが微笑み、うなずく。サーラの言葉を信じたわけではないだろうけれど、他愛もない嘘をあばくようなことはしない。
「今から楽しみだわ。あら、お兄さま、一昨日戻って来たばかりなのに、またどこかへ出かけるの?」
コンラルが旅装を整えていることに気づいてサーラは問いかけた。
「ああ、一足先に王都へ。仕事が山積みなんだ」
「大変ね。お兄さまもお気をつけて」
「ありがとう。いってらっしゃい、サーラ。ツァルによろしく」
「はあい。いってきます」
優しいまなざしに見送られて、サーラは外へと飛び出した。
サーラは馬で駆けるのが好きだ。
馬車の狭い空間に詰め込まれてガタゴトと移動するよりも、風をきって駆けるほうが何倍も気持ちいい。
子どものころから世話をしてきた牡馬ラッツはサーラの大事な相棒で、ツァルのところに行くときはいつもラッツに乗せてもらっている。
「ラッツ、ツァルに会いに行こう」
明るい栗毛で、額に白い星をもつラッツがフフン、と嬉しそうに鼻を鳴らす。ラッツはツァルの馬・リナに会いたいに違いない。
リナは青鹿毛の牝馬で、その美しさにはサーラも見とれるほとだ。
ただ、気位の高い美女なので、ラッツはなかなか相手にしてもらえず、苦労しているようだ。
逸るラッツはサーラを乗せるなり、山のふもとに近い小さな村ウルックを目指して走り出した。
ラルナート伯爵の領地ラルベルは山脈と海に挟まれた土地だ。
北には夏でも山頂に雪を頂くキルム山脈が、南にはめったに荒れることのない穏やかなワルート海が広がっている。
西には王都ノーアルドへと続く街道が伸び、東にはホルル伯爵領を挟んで同盟国ヴェーチャが位置している。
サーラはキルム山脈から流れ出るアルトム川に沿って駆けていた。
右手に見える川の流れは穏やかで、川面は陽光を反射し、まるで宝石をちりばめたようにきらきらと光っている。
ウルック村までは馬車が走れる道が続いており、足場は悪くない。
ラッツも走り慣れた道なので緊張することなく走っている。
途中、川辺で休憩をして更に馬を走らせると、昼前にはキルム山脈のふもとに広がる草原に出た。
前方には大きな湖と林が見える。西の湖畔と林の周辺がウルック村になる。
ラッツは林の中の小道を駆け抜けた。
すると小さな家が現れる。
そこがツァルと、ツァルの祖母セルティアの住む家だった。
家の横にある畑で腰をかがめていたセルティアが顔を上げた。
蹄の音が聞こえたのだろう。
「おばあさま!」
畑の手前で、サーラはひょいとラッツから下りた。
「おや、いらっしゃいサーラ」
セルティアはほがらかな笑みを浮かべてサーラを迎えた。
白髪が増え灰色に近くなった髪をひとつにまとめているが、まだまだ元気で、風邪すらひかない健康な体が彼女の自慢だ。
「お元気そうでなによりだわ」
「サーラもね。さあ、ラッツを厩に入れておいで。リナが待ってるだろうからね」
「それはどうかしら。リナはあまりラッツに興味がないみたいよ」
「あの子も素直じゃないねぇ」
セルティアはリナのことをまるで人間の子どものように言った。
セルティアの言うように、ラッツにも望みがあるといいけれど、と思いながら、サーラは勝手知ったる厩へとラッツを引いてゆく。
「あ、おばあさま、ツァルはいる?」
サーラは途中で足を止めて振り返った。
「ああ、工房にいるよ。もう少ししたら昼食にするから、適当にツァルをつれてきておくれ」
「わたし、お昼の支度を手伝うわ!」
「あとは温めるだけだから、すぐなんだよ。サーラとツァルが話し込んでいる間に出来上がるさ」
セルティアが早くお行き、という風に手を振った。
片付けは必ず手伝わせてもらおうと心に決め、サーラはラッツを厩へ入れる。
姿を見せる前から気づいていたのだろう。
リナがちらりとラッツへ視線を向けたが、すぐにそっぽを向かれてしまう。
「リナ、こんにちは」
サーラが声をかけると、耳をぴくりと動かし、ふん、と鼻から軽く息を吐いた。
それがリナの挨拶なのだ。
「ちょっと隣を借りるわね。ラッツ、おりこうにしているのよ」
ラッツの汗をふいてやり、水と飼葉を用意してからサーラは厩を出た。