第九十三話 気高き飛竜
「なんなんだ、あんたは!」
背後にその残滓を残しながら、イルガは吼える。
「なんで……どうして、呪いのことを言ってくれなかったんだ! 話してくれれば、ちゃんと教えてくれれば、己れは……! 己れの、この憎しみは……どうしたらいい!」
「……もし、バラグノが君に呪いのことを話していたら……きっと君は、呪いを肩代わりしようとするだろう。だから……」
「わかってる! わかっている! だが、それでも……!」
イルガは、バラグノにとって大事な一人娘だ。
そして同時に、イルガ自身にとってもバラグノは、大切な、大好きなただ一人の父親だった。
それをわかっていたから、バラグノは話さなかった。
娘と会いたい、触れたい、抱き合いたいという願いを心の内に押し込めて……。
「父、さん……っ!」
イルガが膝からくずおれた。
大丈夫かと近寄りかけて、大地に数粒の雫が落ちていくのを見て、やめた。
……バラグノが旅を終えて帰ってきて、十五年。
そんな長い間、イルガは大好きな父のことを憎んでいた。憎んでしまっていた。
それが本当は、父の愛だということを、イルガはようやく知ったのだ。
心の衝撃は、計り知れない。
そっとしておいた方がいいと、離れようとした時。
「……己れは、嫌だった」
「え……」
イルガが、俺に背を向けたまま、小さくそう言った。
「バラグノを……父を憎んで、その血を憎んだ。だから、この血を目覚めさせることを拒んでいた」
「……だから、試練を受けなかった……」
ゆっくりと立ち上がる。
振り返らず、イルガは天を仰ぐ。
「十二になれば試練を受けられる。己れは……五年も遅らせてしまった。もっと早く試練を受けていれば……もっと早く、父さんの願いを知ることが出来たのに……」
長老はこのことを知っていたのだろう。
バラグノが呪いを受けて死んだことを知っていて、しかし、イルガには話さなかった。
きっと、自分の目で確かめて欲しかったのだろう。
自分の意志で試練を受けて、バラグノが残した記しを見つけて欲しかったのだろう。
「イルガ……すまなかった」
「……何故謝る?」
「俺が旅に誘ったから、バラグノは呪いを受け、死んだ。……結果的に、俺のせいだってことは事実みたいだ。だから……すまなかった」
そんなはずはないと、俺のせいではないと思っていたのに、本当に俺がこの大陸からバラグノを連れ出したせいで、あいつは死んでしまった。
俺がグレンカムに来なければ……バラグノを旅に誘わなければ、イルガは悲しむことはなかった。
最愛の父を憎む悲劇は起きなかった。
「……父さんは、勇者に着いていったことを後悔してはいないだろう」
「そうだといいがな……」
「そうでなければ、お前が救ったこの世界で生きろとは言わないさ」
俺が救った、この世界。
バラグノは、この世界のことが好きだった。
この世界に生きる動物が、植物が……人間が好きだった。
それを蔑ろにし、滅ぼそうとする魔王を許せないと、あいつは俺の旅に同行した。
そして今再び、世界は滅びに向かおうとしている。
そんなこと、あってはならない。
だから、俺は。
「イルガ、君の力が必要だ。バラグノが愛したこの世界を守るために」
初めからその想いは変わらない。
俺たちには竜の力が必要だ。
蘇りつつある魔王を抑え、世界にあふれる魔物を駆逐するために。
だが。
「……悪いが……それは出来ない」
イルガは、そう答えた。
「なぜだ?」
「見ただろう、己れはセイバに認められなかった。お前に必要なのが空駆ける飛竜だと言うのなら……己れでは、ダメだ」
「それは……」
イルガは試練を突破できなかった。
確かに俺たちは、空を進む手段を得るためにこのグレンカムに来たのだ。
イルガの……言うとおりだ。
「勇者よ、己れは……」
イルガが振り返る。
その顔には、薄い笑顔があった。
どことなくバラグノに似た、精悍な……しかし、美しい微笑みが。
「またお前と出会えて、よかった」
「イルガ……!」
そのきれいな笑顔と裏腹に、晴れ渡ることのない俺の心。
せっかく、イルガとバラグノの確執を取り除けたのに。
ここまでなのか……!
イルガが歩き出す。
その言葉に返事をすることも出来ず、ただ地面を見ることしかない俺の脇を通って。
失望の帰路へ着こうという、その時。
「……!」
赤い光が、見えた。
背後、振り向く。
「セイバが……」
神聖樹セイバが赤光を放っている。
先ほどイルガを拒否した光と似ている……だが、さっきのような、痛い光ではない。
まるで母の抱擁のような……暖かな光だ。
「これは……イルガ!」
「あ、ああ……」
俺たちは急いでその光の出元――試練の赤い宝石へと近づいた。
やはり、これは。
「触れてみてくれ、イルガ」
「しかし……」
「大丈夫だ。きっと……認めてくれんだ、セイバが」
バラグノの記しを見て、イルガの心は……想いは変わった。
それを神聖樹セイバは読みとって、今になって試練の突破を認めたのだ。
だから、大丈夫。
今度は、手が焼かれることはない。
「……己れは……力が欲しい」
イルガは、光る宝石を前に呟く。
「父が愛した世界を、守る力が! だからッ!」
手を伸ばす。輝く宝石を握りしめ、そして叫ぶ。
「樹よ! 己れに……竜の力を!」
輝きが増す。だが、熱はない。
暖かな、柔らかな光がイルガの体に照りつける。
そして、さらに強い光を一瞬発して、宝石は輝くのをやめた。
「イルガ……?」
ゆっくりと、その手を離す。
宝石を掴んでいた手のひらを見つめ、そして、天高く延びる樹木を見上げる。
「……ありがとう、神聖樹セイバ」
「ど、どうなんだ……?」
うまくいったのか、どうなのか。
それがわからず俺はどうにもやきもきしてしまっていた。
「竜の力は……得られたのか?」
繰り返し問う俺に、イルガはやれやれとでも言いたそうな目を向ける。
「落ち着け。……大丈夫だ」
口元に薄い微笑みを浮かべながら、イルガはゆっくりと樹の下を離れていく。
その佇まいには余裕がある。
それを見て、俺は思わず笑ってしまっていた。
その歩き方が、頼りがいのある翼の生えた背中が……父の姿と重なって。
「感じる。己れの体の中で、炎が静かにたぎっているのが」
両手を広げ、空を仰ぐ。
俺に背を向けたまま、イルガは言う。
「見ていてくれ。これが、己れの――!」
赤・青・緑。三色の光がイルガの体から溢れ出る。
それはやがて一つの白い光の束になって、イルガの体を包み込む。
「きれいだ……」
光の中に見えるイルガの影が肥大化していく。
翼はさらに大きく、髪が長くたなびく。
光が、消える。
そこから現れたのは。
「……どうだ、勇者」
「ああ。……バラグノと、よく似てる」
人の体の何倍もある体躯には、赤く煌めく鱗が覆う。
空を覆い尽くそうかと言う巨大な翼、雄々しく、しかししなやかに延びる尾。
先端が炎のように朱に染まる鬣は、ゆるやかに波打ち、風を受けてひらめく。
丸く、大きな金の瞳に、俺が映っていた。
「山を降りる。乗れ、勇者」
「ああ。……頼むよ、イルガ」
気高く、美しい竜の姿。
それを醜く真似た魔物を、その名で呼ぶこともおこがましい。
これこそが、竜なのだ。
この世界に誇る、飛竜の姿だ。




