第六話 師匠(せんせい)
覚悟はとっくに決めたはずなのに、明日のことを考えると胸が騒がしくなる。
もっと後でいいんじゃないか。別の日でも。
そんな邪な考えをすべて振り切って、明日と決めたのだ。
もう、変えない。変えられない。
頭の中で繰り返しそう唱えながら、学校へたどり着く。
「先生、さようならー!」
生徒たちがそう言いながら走っていく。ちょうど授業の終わる時間だったのだろう。
セロンの姿は見えない。先に帰ってしまったのかもしれない。
「先生」
「ああ、クロームさん。待ってましたよ」
教室に一人で残るトラグニス先生に声をかけると、にっこりと微笑んでそう返ってくる。
「例のもの、用意できてますよ」
「ありがとうございます」
先生が手にした一枚の紙。以前から頼んでいたものだ。これがなくては、明日以降の計画が破綻する。
「ただ……」
「え?」
だと言うのに先生は、それを俺に渡すのを渋った。
「先生……?」
「これを渡す前に、一つ頼みがあります」
「頼み、ですか?」
言うと、先生は立ち上がり、教室の奥に飾ってあった模擬剣を手に取った。
「私と……手合わせ願えませんか?」
× × ×
トラグニス先生は、剣士でもある。そして同時に、優秀な魔術師だった。
そんな先生の得意技。それが魔剣術。
先生は俺の、師匠なのだ。
学校の裏手は、そんな師匠が剣を子供たちに教える運動場になっている。
学校が休みの週末、希望者はここで先生に剣を習う。
俺も、かつてはその一人だった。
前世で剣を振るった記憶があっても、いや、あるからこそ剣の師匠が必要だと思った。
性別だって変わっている。昔のままの剣がそのまま使えるとは思わなかった。
魔術は知識さえあれば、ある程度は使えるものだ。魔素の操り方は体が変わってもほとんど変化はない。
熟練が足らず、今は使える魔術は少ないが、それも時間の問題だ。
しかし、剣は違う。何より男女の筋力の差が大きすぎた。
剣は重いということを、この体になって初めて意識した。
だから今使っているのは片手剣。威力より振るいやすさを重視している。
それを補ってくれるのが魔剣術だ。
剣の攻撃では威力が足らずとも、そこに雷撃が加われば巨大な野生動物も打ち倒せる。
以前は漠然と、強力なだけだと思っていた魔剣術の意味を、この体で改めて理解した。
魔剣術は、女性の不利を打ち消してくれるのだ。
トラグニス先生に習った魔剣術。
だが同時に……トラグニス先生に魔剣術を教えたのも、また俺だったのだ。
裏手の運動場で、俺と先生は向かい合う。
トラグニス先生の手には、先ほど教室で手にした模擬剣が握られている。
幼いころから、あれに何度も身体を叩かれた。痛かったが、強くなるためと考えれば怖くはなかった。
「前に、私にこの魔剣術を教えてくれた人の話をしたのを、覚えていますか?」
「はい。勇者クロード、ですよね?」
この姿になる前の俺。魔王に殺される前の俺。
俺に剣を教えてくれた先生の、師匠。いや……師匠なんて言うほど、大げさじゃなかったかな。
「魔術師か、剣士か……進路に悩む私に、喝を入れてくれたのがあの人だった。悩むならどちらも取ればいいと、勇者秘伝の魔剣術を教えてくれた」
十五年前。俺は一人の悩める少年に出会った。
だから魔剣術を教えてやった。いや、ほとんど見せてやった程度だ。
それだけでここまで仕上げたのだから……あとは、その少年の――先生の、才能と努力に依るものだ。
「だから先生は、魔剣術の使い手になったんですよね」
「そう。……まあ、その結果今は、小さな学校の教師に過ぎないんだけど」
「いいじゃないですか。この町の子供たちはみんな、先生に感謝してますよ」
「わかってます。私も今のこの仕事に誇りを持っています。魔剣術を受け継いでくれる人もいますし」
「はい」
俺からトラグニス先生へ、そして再び俺へ。奇妙な連環だ。
「だから、あなたを試したいんです。今のあなたが、どれだけ強くなったかを」
「私の剣の腕はまだまだです。先生にはとても……」
「そんなことはありません。きっとあなたは……もはや私以上の魔剣術を扱えるでしょう」
「先生……」
果たして、そうだろうか。
未だ自身の強さには納得していない。魔剣術も、勇者だったころに比べたら、まだまだ使えない技ばかりだ。
先生は強い。以前何度も手合わせしたが、一度も勝つことはできなかった。
「一撃です」
「え?」
「あなたの全身全霊全力の一撃を、打ち込んできてください。私はそれを受けます」
言って、先生は剣を構えた。片手に持った剣を前方に構える、今の俺と同じ型。
「…………」
俺が先生に剣を習ったのは、ちょうどマーティと二人で狩りを始める前後ぐらいまでだ。
たまに指導してもらうことはあったが、それも最近はまったくしていない。
この数年は、剣の腕は狩りによって鍛えられていたのだ。
自分が、どれだけ強くなったのか――。
「わかりました、先生」
言って、俺は剣を抜いた。さっきまで狩りに使っていた実剣だ。全力で振るえば、ケガ程度ではすまないだろう。
「絶対、受け止めてくださいね……!」
「ええ。ただ……もし迷って甘い剣を振ってくれば、私は迷わず反撃しますから、そのつもりで」
模擬剣とは言うが、実質は鉄の塊。まともに当たれば骨折、頭部に喰らえば死も有りうるだろう。
だからこそ、この手合わせには最適だ。
お互いが死の危険性を感じる緊迫感。全力にはそれが必要だ。
すう、と息を吸った。そして、体内の魔素を右腕に、右手に、剣一本に集中した。
全身全霊全力、すべての剣と、すべての魔力。
今、俺が打てる最大で、最高の魔剣術。それに必要な魔術を練り上げる。
「……来なさい!」
先生が声を張る。瞬間、俺も地を蹴った。
瞬く間に距離が縮まっていく。
もはやこれは手合わせではなく、決闘の域。
放つのは、この張り詰めた空気を切り裂く、渾身の剣技。
俺がトラグニス少年に見せた技。そして、トラグニス先生が最初に俺に教えてくれた技。
それを――ぶち込む!
「――『電光斬り』!」
雷纏う剣。紫電の斬撃を、全力で!
「はあッ!」
対する先生の剣とかち合う。そこに纏わる魔術もまた、紫電の稲妻。
雷閃。視界が真っ白に染まる。
耳をつんざく不快な音。それが、鉄がねじ切れる音だとすぐに気付いた。