第一話 平和な朝
――ん……。
柔らかなベッドの上で、俺は目を覚ました。
カーテンに隙間から漏れる太陽光がちょうど俺の目を焼き焦がし、思わずぎゅっと瞼を閉じる。
「んっ……く」
伸びをして、身体を起こす。寝広げられていた長い髪の毛が、さらりと肩を撫でた。
「んー……いい朝だ」
ベッドから降りて、カーテンを開け放つ。部屋の中に温かな陽光が目一杯入ってきて、半寝半起の身体を完全に目覚めさせてくれた。
横を見ると、全身を映す姿鏡がある。そこに映っているのは、当然俺。
生まれ変わった俺の姿。――現在15歳の、少女の姿だった。
そう、男だった俺は、女の子へと転生したのだ。
名はクローム。姓はヴェンディゴ。
ソルガリア大陸、同王国のロシュアという小さな町の染め物屋の娘として生まれた。
前世の名のクロードと似たのは偶然か、運命の悪戯か。
まあ初めこそ驚いたが、考えてみれば当たり前のことだ。人間というのは男と女があり、生まれれば絶対にそのどちらかになる。前世と同じ性別になるかどうかは半々だ。
いや、そもそもこうして人間に生まれ変わったことさえ奇跡のようなものだろう。そこらの虫に生まれ変わっていたかもしれないのだから。
寝間着から着替えようと服を脱ぐ。素肌を晒して、若い乳房が顕になった。
その乳房の隙間にある、翼を広げた鳥のような形の痣――気付いた時にはここにあった、これが勇者の証だ。
勇者の証は、ティムレリアという女神が俺に授けたものだ。前世の時には腕にあったのだが、なぜだか今度はこの位置だ。見るものが見れば気付かれるものだから、服を着れば隠れるこの位置はまあまあありがたい。
「しかし……」
姿鏡に映った我が身をまじまじと見つめる。うーむ。
「いい身体に育ったものだ」
腰に手を当て、じっくりと。
元男という記憶はあるが、それでも今は女の我が身。いや、男の記憶があるからこそこの身体を美しく育てたいと強く思った。
そしてその目論見はまるっと成功。毎日のトレーニングやボディケアを欠かさず行って、無事に出るところは出て、締まるところは締まったいい体に成長できた。
顔面の方もよく手入れしているから、これはなかなかの美少女ぶりだ。
親元がいいからか、顔のパーツも随分いい。眼はやや吊り目だが、これはこれで強い女らしさが出て悪くない。
もちろん髪も忘れていない。近所のおば……お姉さん連中が使っている海藻のエキスがなんだというもののおかげで、つやつやとした黒髪が保たれている。
やや自己性愛な感はあるが、こうして自分の身体をチェックするのが毎日の日課だった。
「姉ちゃーん」
「む」
どんどんと、部屋の扉が叩かれる。こちらの返事を待たず、急に開け放たれた。
「ご飯出来てるよ、って……」
扉を開けたのは、10に満たない程度の男児。我が弟のセロンだ。だが、俺の身体を見るなりその表情をゲンナリさせた。
「……姉ちゃん、また素っ裸なの?」
「今日も美しい身体だなぁと確認してるんだ。お前も姉ちゃんがきれいな方が嬉しいだろう?」
「それはいいけど、人前で裸にならないでよね、恥ずかしいから」
「誰がなるか。この自慢の身体、そう安々と他人には見せんよ」
別に露出癖があるわけではない。
「とにかく、ご飯出来てるから早く降りてきてよね」
「ああ、わかったよ」
階下に降りていく弟の足音を聞きながら、さっさと服を着た。背中にかかる長めの髪も青いリボンで一つ縛りにしてから、部屋を出た。
リビングに降りると、すでに家族が揃っていた。
台所から、焼いた卵とベーコンの乗った皿を持ってくる母親。
焼きたてのパンをみんなに切り分ける父親。
そして、運ばれる料理を楽しそうに待つ、弟と、生まれて3年ほどの妹の四人。
俺を入れた五人家族――それが、今の俺の家庭だ。
「おはよう、クローム」
優しい声で父が告げる。
「おはよう、父さん、母さん」
「はい、おはよう」
テーブルに朝食が揃えられ、立ち上る匂いが空いた朝腹を刺激する。早く食べたいものだが、きちんと全員が席に着くまで我慢だ。
支度を終えた父と母が自分の椅子に座る。そして、一家の長である父が、一声あげるのが家の決まりだ。
「さあ、祈ろうか。今日も美味しい命をありがとう、ってね」
揃った食事を前にして、数秒の間黙祷する。卵もベーコンも、もちろんパンの小麦もすべて、他所の命。それを頂いて自分の今日の糧とする。
食事の前の、大事な儀式だ。
祈りを終えると、みんなが一斉に食べ始めた。
俺も焼きたてのパンに卵を載せて、一口齧りついた。バターの香りと卵の優しい味が広がって、実に美味い。
「クローム」
「ぅん?」
もぐもぐとしているところに、父さんが声をかけてくる。
「今日が何の日か、わかっているね?」
今日という日。それが俺の――クローム・ヴェンディゴとしての人生に置いてどんな役目を担っているのか。
それは当然、よくわかっていることだ。
「うん。今日は私の誕生日だ。生まれてからちょうど、15年目の」
今日は春月・2月16日。クロームとしての俺がこの世に生を受けた誕生日だ。
15歳の誕生日。それは我が人生において大きな意味を持つ。
「決めているのかい? 今日からお前が、一人前の“大人”としてどうするのか」
男も女も、15歳になったら立派な大人。成人だ。
人によっては独り立ちし、仕事をして一人暮らしするものもあれば、女であれば即座に結婚し、家を守るものとして一生を過ごすものもある。
「うん、もう決めてる」
「どうするの?」
母が問う。しかし、俺はすぐには答えなかった。
「うーん……話すのは、夜でもいいかな。今日はまだ、やることがあるから」
そう、大人として何をするかはもう決めている。だが、そのためにも今日しなければならないことがある。
だから、話をするのは後回しだった。
「そう。もう決めてるっていうなら文句はないわ。ねえ、お父さん」
「……むう」
気前よく許してくれる母に同意を求められて、しかし父は難しい顔で唸った。
やはり……今話さなければいけないのだろうか。
「もしかしてクロームお前……夜に結婚相手を連れてくるとか、言わないよな?」
「…………」
どうやら違ったようだ。男親の親バカ炸裂といったところか。
「違うから。安心して」
「そ、そうか……。なら、いいんだが」
「もう、お父さんたら。ねえクローム、もし本当に結婚したいという人がいるなら、遠慮せずに言っていいのよ」
「い、いるのか!?」
「……いないって」
……父のこういう顔は初めて見た。娘を思う父の気持ちは強いというが、まさしくその通りだな。
「そうだよ父さん。だいたい、狩りが趣味なんていう男勝りな女を嫁にもらおうなんていう物好き、そうそういないって」
弟・セロンが生意気にもそんな事を言う。ほーお、お前はお姉さんのことをそんなふうに思っていたのかい。
イラッと来たのもあって、ちょっとした意地悪に、今まさにセロンが食べようとしたベーコンをひょいと取り上げた。
「あ」
「今お前が食べようとしたこの肉も、もともとは私が獲ってきたものなんだが?」
狩りが趣味というのは本当だ。このロシュアの町の裏には大きな森があり、そこには猪や野鳥、野兎……さまざまな野生動物が住んでいる。
それを狩り、皮を道具に、肉を食材にと活用するのが今の俺の趣味だ。
「ちょっと、返してよ」
「ならばもっと姉を敬え。尊敬するのだ弟よ。そして男勝りと言ったことを謝れ」
確かに元男という意味では男勝りかもしれないが、少なくとも見目は女性らしさを目指してきたのだ。そう呼ばれるのは非常に心外だ。
「……ふん」
しかしセロンはぷいと目をそらし、俺の分の皿に乗るベーコンを拾い上げて口の中に入れてしまった。
「あっ」
「姉ちゃん、まだまだ甘いね」
おのれセロンめ。我が弟だけあって抜け目がない。
まあ今回は許してやろう。元・弟の分のベーコンをぱくりと食べて、脂の旨味を噛み締めた。
「まったく、食事中に騒がしいぞ」
「お父さんの心配性が発端よ?」
「う……」
父母の方もそっちはそっちで夫婦漫才を始めている。
そして、我が家で一番の大物、今までの会話にまったく耳を傾けず、目の前の食べ物をひたすらに喰らい尽くした末妹・トリニアだけが、空いた皿に向かって食後のお祈りを捧げていた。