第百六十四話 失意と継承
「……リハルト」
「…………」
名を呼べど、反応はない。だが……違和感があった。
俺を睨むその瞳に、力が感じられない。まるで虚ろだ。
ティムレリア教団での俺との戦いの跡からどうしていたのだろう。白いはずの鎧はすでにボロボロで薄汚れ、あの時魔剣術を防いだマントもそのまま、修繕された様子もなく端々が焼け焦げたままだ。
「リハルトさん。あなたが、バランを守る最後の砦ということですか」
「ああ、そうだ。俺は……バランに命令されてここに立っている。お前たちをこの先へ行かせるな、とな」
ミリアルドの問いにリハルトが答えた。しかし、その声にも覇気はなかった。
だが、悪いがこれは好都合だ。リハルトとの戦いは苛烈を極める。容易に叩き潰せるのならばそれに越したことはない。
俺は剣に手をかけ、いつでも引き抜くことの出来る姿勢になった。
「言っておくが、一対一で戦うつもりなどないぞ。私たち六人で、徹底的にのめしてやる」
「…………」
リハルトは無言で腰に佩いた剣に手をかけた。
来る。俺もジオフェンサーを引き抜いた。各々が臨戦態勢となり――しかし、突如リハルトはその剣を、俺たちの目の前に投げ捨てた。
「……っ!?」
何を。
不可解な行動をしたリハルトを、思わず見張った目で見つめた。
「通りたければ、通るがいい」
衝撃の一言だった。リハルトは生気を失った顔で、近くの樹へともたれかかった。本当に通してくれるというのか。
「お前……バランの腹心じゃないのか? 奴を裏切るのか?」
「……与する理由がなくなっただけだ」
リハルトは言う。
リハルトがバランに着いていた理由。それは一体。
「リハルトさん……。なぜ、あなたはバランに協力していたのですか?」
同じ疑問を持ったのだろう、ミリアルドが尋ねた。初め、リハルトはミリアルドの部下だった。実際はその時からバランの息がかかっていたのだが、それでもリハルトはミリアルドに従っていた時期があった。
完全な他人事ではない、と思ったのだろう。
リハルトは力なき視線をミリアルドに、そして俺へと向け、最後にゆっくりと空を見上げた。
そして、呟くように言った。
「俺は……バランの実の息子だからな」
「な……!?」
バランの――息子だと? リハルトが……奴の血を引いた、実の子だと言うのか。
「そう、だったんですか……」
ミリアルドも当然知らなかったのだろう、驚きを隠しきれない様子だ。
「だが、俺は奴を父として尊敬したことなど一度もない。奴はただの下衆だ。俺の母親も、奴にとってはただの、乱れた欲望の捌け口にしか過ぎなかった」
リハルトは憎々しげに舌打ちをして、森の奥の方を見やった。
しかし、それならばなぜバランに着いたというのだ。続く言葉を待った。
「それでも……母は、バランを愛していた。病弱でろくに仕事も出来ず、奴からもらった薬と金でなんとか暮らしていたせいか……奴にどれだけ冷たくあしらわれても、終始信奉仕切っていた」
「その母親は……どうしたんだ」
今のリハルトの発言……過去形だった。愛していた、信奉していた――ならば、今は。
俺が尋ねると、リハルトは表情も変えずに淡々と告げた。
「死んだよ。つい二日前のことだ。……俺は、母が言った“父親の助けになれ”という言葉に従って奴の指揮下に入った。バランのことは気に食わなかったが……それでも、母のためと思えば辛くはなかった。だが……」
その目が悲しげに細められるのを、俺は見逃さなかった。
「それだけだったんだ。母は俺を見ても、その向こうのバランしか見ていなかった。母にとって俺は“バランの息子”であって、“自分の息子”ではなかったんだよ」
そして、その母親ももういない。だから、リハルトは。
「母が死んだ今、奴に手を貸す意味はない。……その剣も、俺にはもう必要ない。いい剣だ、大事にしろ」
そうとだけ言うと、リハルトは俺たちの脇を通るように去っていく。
かつては強敵として剣を交えたその姿が、ずいぶんと小さく見えた。
「リハルト。……私は、お前の父親を殺すつもりだ。……それでもいいのか?」
訊く。しかし、リハルトは鼻で笑った。
「好きにしろ。言ったはずだ、俺は奴を父親だと思ったことは一度もない」
歩き去る。どこへ行くのだろう。
引き留めるべきか、迷った。もはや俺たちは敵同士ではない。このまま力になってくれるのならば、リハルトの腕前は魅力的だ。
だが――冷静に考えて、やめた。
例え本人がどう思っていようと、リハルトにとってバランは父親だ。父殺しに荷担させるわけにはいかない。
「クロームさん……」
何かを心配してくれたのか、ミリアルドが俺の名を呼んだ。
俺は投げ捨てられた剣――トラグニス先生からもらったシュヴァルツヴァイスを手にし、鞘から引き抜いた。
独特な黒白の刃は、綺麗に磨き上げられていた。鎧はあれだけボロボロだったというのに。
これが……奴なりのけじめということなのだろう。
俺は刃をしまうと、ジオフェンサーの下へと二本目を佩き、ようやくミリアルドの方を向いた。
「大丈夫。……行こう」
リハルトの意思は受け取った。あいつが剣を捨てたなら、俺がそれを引き継いでバランを倒す。
そう決意して、俺は改めて森の奥へ意識を向けた。




