第百四十一話 “ずっといっしょ”
だが――その夜のことだった。
「おやすみ、クロ」
「ああ。おやすみ、マーティ」
すっかり日が沈んでしまった夜。灯りを消すと、窓からわずかに入り込む月光だけが部屋を照らす。
ただ、寝入るつもりだった。まだ時間はいくらでもある。マーティと話すのも朝になってからでいい。そう思っていた。
しかし。
「クロ……」
声がして、俺は閉じた瞼を開いた。
「……マーティ?」
同じくベッドに潜っていたはずのマーティが、体を起こし、月明かりの照らす窓をじっと見つめていた。
青白い月光に、淡青の髪の毛が照らされて……なんだか、とても儚げに見えた。
触れたら消えてしまいそうなほどに、細く、小さく……。
それがなんだか怖くなって、俺はすぐにもう一度、マーティを呼んだ。
「どうした、マーティ。眠れないのか?」
「……実はね、あたし……」
振り向く。
その顔には……月光に反射して浮かぶ涙跡が、くっきりと残っていた。
「覚えてるんだ。……全部じゃ、ないけどさ」
「覚えてる……って……」
「あたしが、あたしじゃなかった時のこと。……さっきは、あんな風に言ったけど……本当は、覚えてる。あたしが……クロを……こ、殺そうと……」
肩が震える。被った上掛けを握りしめる。
溢れる涙が、きらめいていた。
「マーティ……」
「あの飛空艇から落ちた時、あたしは死んだと思った。でも……違った。あたしは、どこかの暗い部屋で目を覚ました」
「話さなくていい。……辛いんだろ」
ファルケとなったマーティが何をされたか、何をしてきたか――想像に難くない。
辛い記憶を、わざわざ思い出す必要なんかない。
だが、マーティは首を振る。
「ううん、話させて。……知っておいてほしい、クロには。……ごめん」
「……いや、わかった。全部、聞いてやる」
ありがとう、とマーティは小さくつぶやいて、そして……すべてを、話し始めた。
「その暗い部屋であたしは……自分の左腕が、なくなっていることに気付いた。酷い違和感だった。あるはずのものがないっていう感覚で……訳がわからなくなった」
マーティは自身の、魔機となった左肩を抱いた。
「その時……誰かが、あたしに話しかけてきたんだ。腕が欲しくないか、って」
「誰かって、誰だ?」
「わからない。……記憶が曖昧なんだ。その人のこと、どうしても思い出せない」
すべてを覚えているわけじゃない……さっきもそう言っていた。
「あたしはその人に、欲しいって答えた。そしたら……」
「その腕が……」
うん、と一つ頷いて、マーティは自身の左腕を見つめた。右手と左手――生身と機械。
歪だが、マーティはそれを求めた。
「薬みたいなものを打たれた。そしたらいきなり眠くなって……次に目を覚ましたら、この義手が、あたしの左腕になってた」
両手を握り込む。その二つの拳を、マーティはゆっくりと開いた。
「その後からは、記憶が曖昧なんだ。朝起きたと思ったらいきなり夕暮れの中にいた時もあったし、気付いたら日付が三日ぐらい進んでたときもあった。……ふと見た自分の手が……赤く濡れてる時も、少なくなかった。……あたしが、あたしじゃなくなっていくような気がして……怖かった」
記憶がない、という恐怖。その間に自分が何をしているのかわからない。
だが……予想は出来た。恐らくは……。
そしてきっと、マーティ自身もそれに気付いているのだろう。
「いつからか……自分の意志に無関係に動く自分を、どこか別の場所から見ているような感覚になって……いつの間にか、それすらも感じなくなった。そして、ようやく今、正気に戻ることが出来た。でも……」
「でも……?」
「でも、あたしは見た覚えのないことを覚えてる。何人もの人たちを傷つけた。殺した。……クロをも、殺そうとした」
ついこの間の戦いだ。俺は、もちろん覚えている。だが……自分の意識がなかったというマーティもまた、それを覚えているという。
自分ではない自分。知っているはずのない記憶。
もしも俺自身が、誰かに操られてマーティを殺そうとしたら……。そんなこと、考えたくもない。
「目を閉じると、知らない人の顔が浮かんでくる。みんな……みんな、怯えてる。その人たちに、あたしは手を伸ばして……その人を……!」
「マーティ……」
「怖い、怖いよ……! また自分が自分じゃなくなるかもしれない! 今度はクロを……クロの友達も、みんな! みんな……殺しちゃうかもしれない!」
「マーティ……!」
「そんなの嫌だ! もう誰も殺したくない! あたしがあたしじゃなくなって、また誰かを殺すぐらいなら……! あたし自身が、死んだって――」
「マーティ!」
叫んだ。
どこかへ言ってしまいそうな彼女を……引き止めるように。
「……クロ……」
俺はベッドを降りた。
床に足を着けると、塞がりきらない傷が傷んだ。だが、それでも立つ。
愛する親友の元へ行くために。
「私がいる。だから……怖がらなくていい」
「怖いよ、あたし……」
一歩。痛い。歯を食いしばって耐えた。
たった数歩の距離。ベッドとベッドの間のなんてことのない空間が……とても広く思えた。
「もうお前があの状態になることなんて、ない」
「そんなことわからない! またいつ……あんなことに……」
泣き叫ぶマーティの近くへ。激痛の一歩。
「だったらまた戻すだけだ」
「でも……!」
さらに一歩。もうすぐで手が届く。
「約束する。もしもまた、お前がファルケになったとしても、私が必ず助け出す。何度も、何度でも」
「殺しちゃうかもしれない……!」
「死なない!……私は死なない。お前を残して、死ぬはずないだろ……?」
最後の、一歩。
伸ばした手で――マーティの頭を、ゆっくりと撫でた。
「今度こそ、ずっといっしょだ。もう二度と離れ離れになんかなるものか」
手を下ろす。強く握りしめられたマーティの拳を手にとって、指の一本一本を開いていく。
広げられたその手のひらを……優しく、握る。
「もう一度、言うぞ。私と……いっしょにいてくれ」
マーティは、じっと俺の顔を見つめていた。
不安そうな表情で、物悲しそうな瞳で。
だから俺も、その瞳を見つめ返した。
俺の心の想いを、じっと伝えるために。
そして、いくらかの時間が経って。
「――ふふ……」
マーティが、笑った。
「……変わらないね、クロは」
「変わらないさ。これまでも、これからも……私は、お前の親友のクロームだ」
握った手を、握り返される。
応えるように、俺もさらに力を込めた。
「……ねえ、クロ」
「なんだ?」
マーティの涙は止まっていた。
柔らかな笑みを浮かべて、悲しみなど一切ない表情で。
「……ただいま」
「ああ。……おかえり」
ようやく、私たちは再会したのだ。
あの日、飛空艇で別れてから――今日、この日に。
再び、巡り合うことが出来た。
それがとても……嬉しかった。




