第百十一話 “彼女”
「ここか……」
バルコニーへと出る扉。
この先にバランがいるはずだ。
覚悟を決め、俺は扉を押し開いた。
「――ほう、お前が来たか」
「……バラン……!」
青空の下、バランは虚空を見つめて佇んでいた。
教団の上空にイルガはいない。陽動が済み、どこかへ移動したのだろう。
周囲を見渡す。はしごや階段のような逃げ道はない。
だが、それならばなぜバランは余裕を持っているのか。
腹心であるリハルトを突破され、袋小路に追い詰められているというのに。
殺されるはずはないと高をくくっているのか?……それとも、まだ策があるのか?
「もはや貴様の悪行は暴かれた。大人しく捕まることだ」
大多数の人間が偽物のミリアルドの正体を見た。例え神聖騎士が講堂へたどり着こうが、バランこそが真の悪であると証言してくれるはずだ。
そうなれば、このバルコニーにも騎士たちはやってくる。
もう、この戦いは終わりなのだ。
だと言うのに、バランは。
「悪行……? はて、我輩は左様なことをした記憶はありませんな」
にたりと気色悪い笑みを浮かべ、バランはすっとぼけたように言う。
相変わらず、人を苛立たせるのが上手いやつだ……!
「貴様は! ミリアルドの偽物を生み出し、本物を処刑しようとした! 教団の乗っ取りを企んだんだ!」
「…………」
バランはにたり顔を変えない。
……何を考えているのか、読めない。
「それだけじゃない、お前が月岩塩という麻薬を用い、人々を中毒に陥れているという情報も掴んでいる!……迷える人々を導く、神官であるはずのお前が!」
俺自身はティムレリア教の信者ではない。だが、女神ティムレリアが人類の平和を願い、そしてその願いに共感して教団を興した人々がいることを知っている。
それを、バランは私利私欲のために奪おうとした。
「物事のすべてには理由がある。無論、正義のために」
「正義?……貴様のやることのどこに正義がある!?」
「答える必要などない」
……何故だ。何故この期に及んで笑っていられる。
まさか……まだどこかにバランの部下がいるのか?
……有り得ない。他に人が立てるような場所は見当たらない。
ならば、脱出する策が?
「勝ったと思っているんだろう、お前は?」
「……ああ、そうだ。もはやお前の言葉に耳を貸すものはいない」
警戒は怠らない。
バラン自身が何かをしてくる可能性もある。
「確かにこの教団の乗っ取りという意味ならば我輩の敗北だ。よくやったと褒めてやろう」
「ありがたくないな、まったく」
「賞賛だ。素直に受け取り給え」
お断りだ。
他の人間に褒められるならともかく、このバランに限ってはまったくもって嬉しくはない。
そんな賞賛、受け取るどころか吐き捨ててやる。
「さあ、無駄話も終わりだ。大人しく諦めないのなら、無理矢理にでも捕まえるっ!」
バランが何を考えているのかわからない。
だが、このまま無為な時間を過ごしているわけにもいかない。
剣を握り締め、俺はバランに一撃を加えるべく一歩を踏み出した。
「愚かな」
――途端。
踏み出した足を――鋭く何かが貫いた。
「ぐうっ!」
激痛。足がもつれ、地面へ顔から突っ込んだ。
「ぅ……く……!」
ふくらはぎを矢で射抜かれている。
鉄の鏃から血が流れ、地面に赤い斑点を作り出す。
狙撃手がいるのか……! だが、どこから……!
膝側の方から、鏃を下に斜めに貫いている。この角度なら上からか……!
痛みを堪え、俺は空を見上げた。
「――なっ……」
一度目の衝撃。
そこに、巨大な魔物が浮遊していた。
荒れた岩山のような皮膚を持ち、開いた口には剣山のような牙が生え並ぶ。
窪んだ眼窩に瞳はない、竜の紛い物。
「テンペストだと……!?」
嵐を生む魔物が、なぜここに……!
さっきまで何の気配もしなかった。まるで、今この瞬間に発生したかのようだ。
そして、二度目の衝撃。
そのテンペストの頭部に……人間が乗っていた。
「馬鹿な……」
魔物が人を乗せるなど有り得ない。
いやそれ以前になぜ、このテンペストは俺たちを襲わない。
まるでバランに付き従う忠犬のように、不自然に大人しく、動かない。
その上に乗る人間は、右腕に弓を持ち、俺を狙って左手で矢を番えている。
痛みのせいで視界が定まらない。
落ち着け。とにかく第二射が来る前に、奴の射線から逃れて――
「……え……」
矢の軌道を見極めるべく、射手へ視線を集中させた、その時。
その顔が、見えた。――見えてしまった。
「……嘘だ……」
その全身を包む、漆黒の外套。だが、その左腕のみ、まるで後から付けたものかのように、血管のように赤線が走った銀色の鎧に覆われている。
風に揺れるその長髪は……湖畔のような、淡い青の色。
大きく伸び、尖った耳。その先端が毛髪と同じ色に染まるのは、リウ族の特徴。
俺を射貫く、静かで冷たい氷のような瞳が縦長なのもそう。
それらの特徴は……俺の、よく見知っている、彼女の。
「マーティ……?」
飛空艇で魔王城を目指した時、まさにこのテンペストの襲撃に会って、命を落としたはずの……俺の、幼なじみ。
マティルノ・バートン――彼女、そのものだった。
「鷹。もういい。回収しろ」
「ファルケ……?」
その名で呼ばれたマーティは、俺から視線を外さぬまま弓を下ろした。
彼女が足で頭を小突くと、まるでその意志が伝わったかのようにテンペストはゆっくりと移動し、バランの目前にまで降下し、待機する。
何が起きているのか、理解の範疇を超えていた。
魔物がなぜ、人間に付き従う? どうして何の予兆もなく現れた?
それに……なぜ、どうしてマーティがバランの命令を受けて動いている!?
偽物の……いや、そんなはずは……!
「マーティ……! おい、マーティなんだろ!」
歯を食いしばり、俺は残る力すべてを振り絞って立ち上がった。
足を一歩踏み出す度に激痛が走る。歩くというより、ほとんど転ぶのを抑えてよろけるように進む。
バランを乗せ、上空へと舞い上がっていくテンペストを俺は……必死に追った。
「マーティ……! マーティッ……!」
死んだと思っていた。もう二度と会えないと思っていた。
ずっと小さい頃からいっしょだった。
常に俺の隣には彼女がいた。
いつも楽しげで、底抜けに明るくて、側にいるだけでこっちまで元気になって……。
俺の大好きなマーティ。かけがえのない幼なじみのマティルノ・バートン。
それが、今は。
なぜ……バランなんかに。
そんな冷たい目で俺を……見下すように……!
消えていく。テンペストが、バランが。
――マーティが、遠い空へと。
「マァァァァァァァァァティィィィィィィィッ……!」
叫ぶ。
だが、その声はどこにも届くことはなく。
俺は……俺は――。
力、尽きる。




