第1話 遅刻しそうな日常
常と変わらない朝。
「行って来まーす」
月曜特有の気だるさに後ろ髪を引かれつつ、僕は家を出る。
電車通いの同級生に比べれば、自転車通学の僕は幾分緩やかな登校風景を迎えていると言える。
出掛けにふと向かいの家を目にする。
久我山家。
幼馴染の明日香が住む家だ。
彼女は電車で通学する必要のある高校へと進学したため、僕とは家を出る時間に開きが出てしまい、出掛けに顔を合わせ、一緒に登校するというような事は無くなった。
お互いの家の距離は変わらない、今でもたまに言葉を交わす事はある。
けれど確実に疎遠になりつつある。
「……人生、何が起きて今までの環境が変化するか、分からないものだよね」
大きく息を吐き出し、自転車のペダルを漕ぎ始める。
高校1年の三学期も既に終わり近く、3月になって若干温かくなったものの、頬を撫でる風はまだ冷たい。終業式を迎える頃にはこの辺りにも桜前線は到達しているだろうか。
自転車で走ること20分、その程度で僕の通う天乃衣高校へと辿り着く。校門前の緩い坂、3年生が卒業したこの時期は普段より見かける生徒の背中が少ない。
来月になればまた新しい、初々しい新1年生が増えるわけだが。
「うちの千里も、来月には中学生か」
昨日までは当たり前のように思っていた事実。
その日を迎えられるであろう事に尽力できたのは誇らしく。
「……あとはナントカの穴を塞がなきゃね」
そのために抱え込んだ大きな憂いは後悔こそしないものの、やはり純然たる悩み事して僕の心に居座っていた。
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胸の内の懊悩がペダルを漕ぐ足に影響を及ぼしたのだろうか。
いつもなら僕より遅れて登校してくる顔ぶれが先んじて教室内でだべっていた。
「うーっす」
「ようマサキ、今日は遅かったな」
ひとりは漫画から顔も上げずに、もうひとりはにこやかに僕を出迎える。
「別に遅刻はしてないだろ」
「そりゃそうだ」
漫画を読んだまま適当な相槌を打つのは中岡式太。茶髪で一見チャラいが中身はややチャラい程度。
高校からの知り合いだが、馴れ馴れしいのが良い方向に作用する、得な部類の友人。
「そっちこそ、今日は早かったんじゃないの?」
「いや、俺達は電車だから時間は変わらないよ」
笑顔を崩さない彼は佐野鉄幹。名前はごついが柔和な細身で、僕とは中学からの付き合いである。
「だから真幸が寝坊でもしたんじゃないかって」
時計を見ればいつもに比べ10分ほど遅く到着した事が伺える。成る程、深刻なものではないにしろ、心配をしてくれたようだ。
「うん、寝坊じゃないよ。ただ──」
「女だな」
「……は?」
揃って顔を見合わせ、そのまま式太へと視線をスライドさせる僕と鉄幹。相変わらず漫画を読む姿勢を変えないまま
「昨日見たぞ。お前と可愛い子が駅前でデートしてるの」
「ほほう、それは興味深いね」
式太の投げかけた問題提起に笑顔を浮かべたまま興味を隠さない鉄幹。式太の発言は事実であるが、残念ながら彼らの好奇心を満たすには色々物足りない真実。
「うん、式太が見たのは妹だよ」
「なんだ、千里ちゃんの事か。相変わらず仲がいいね」
鉄幹は何度か僕の家にも来た事があるので、当然千里の事は知っている。
「妹かよ。つまらん」
「別に面白くしようと思って出かけてたわけじゃないよ」
「……ちなみに年は幾つだ?」
「来月に中学1年生。興味ある?」
「……もっとつまらん」
年齢に問題があったらしく、式太は千里について関心を失ったようだ。
外見がチャラい彼は日々彼女が欲しいと公言し、時折ナンパに勤しんでいるが釣果はいまいちらしい。
ただ僕からすれば行動するだけ凄いという感想になる。中学時代に行動せず、今や幼馴染と疎遠になりつつある僕に比べれば勇気があるからだ。
現状の変化に怯え、何もしなかった僕だけど。
「あんな変化を受け入れる事になるなんてね」
やがて予鈴が鳴り、雑談は中断させられる。
「それじゃまた後で」
「なんだ、やっぱり眠そうじゃないか」
欠伸をかみ殺しながら席に戻ろうとした僕に、鉄幹は苦笑混じりのツッコミを寄越す。寝坊じゃないと言いながら眠そうな態度にそう言いたくなった気持ちは分からなくもない。
けど、本当に寝坊ではないのだ。
「夢見が良くなかったのは否定しないけど」
いつもよりも遅くなった理由をあえて挙げるなら。
昨夜に見た夢と、それにまつわる悩み事がペダルを踏む足を重くした、のかもしれない。