エピローグ
裏路地から表通りに戻ると、空回りした元気を振り撒いた少女が歩道の真ん中でキョロキョロしていた。
おそらくは突然いなくなった僕を探しているのだろう。
不自然にならないよう可能な限り気を払い、僕は千里の方へと歩み進む。
「お待たせ、千里」
「あーっ、おにいちゃん! どこいってたの!? 突然いなくなるからビックリしたよ」
「何言ってるんだよ、ちょっとトイレに行くって言ったろ?」
「えー、そんなの聞いてないよー」
「浮かれてて聞き流したんじゃないか?」
納得がいかないと声を上げる千里の向こうを、ひとりの女性が通り過ぎる。派手な赤い服を着た中年の女性。
知り合いではない、しかし一度見れば忘れないような派手さをした女性。
ギガーテに“プシュケー”を吸われて消滅した女性だ。
一度消滅した事で顔も格好も覚えていなかったあの女性である事を、僕は改めて認識できるようになっていた。
奪われた“プシュケー”をギガーテが自己に同化する前に封印した事で、被害者の女性も現世に復活を遂げるだろうとヘイゼルは言っていたが、それは事実だったようだ。
悪夢のような出来事が本当に夢で終わった証拠。
そして何より。
「おにいちゃん、聞いてる!?」
「うん、聞いてる聞いてる」
なおも拗ねたように抗議する千里を宥めすかす。なんだかんだ僕はここにいるわけで、約束をすっぽかしたわけでも帰ったわけでもないのだ、ささやかな不満はすぐさま溶けてなくなり、千里は機嫌を直した。
「だからおにいちゃん、アイスクリーム買ってよね?」
「はいはい、それくらいは最初から覚悟してたよ」
「わーい!」
跳びはねて喜びを表す彼女の姿に胸が熱くなる。
妹を守れた、守ることが出来た事実を僕は改めて実感していた。
そして白いフクロウ、ヘイゼルと交わした僅かな会話がもたらした不安も、消える事なく僕の胸中で渦巻いていた。
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「今は時間がありまセン、今日の夜にでも説明に行くデス」
「戦いはあれで終わりにはなりまセン。ギガーテを封じた“タルタロス”の綻びを見つけ、修復しなければ、また次が起きるデス」
「そしてアナタがアナタで居られる時間には、限界があるデス」
「アナタの“プシュケー”が『天換』に、【アナタが少女である】と完全に上書きされてしまえば──アナタはもうアナタに戻れなくなるデス」
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澱んだ空間に暴風が吹き荒れる。
ただの風ではない、身を溶かすほどの瘴気を孕んだ負の圧風。
常ならば無音で吹き抜ける朔風が、今は僅かに音を立てている。
その雑音を生じさせるのは歪み。
人の足では一生をかけても果てに辿り着かないと言われる広さを持つ空間を隔てた壁に出来た歪み。
神々の力を集め、海神ポセイドンが打ち立てた封印の青壁が軋みを上げているのである。
タルタロス。
不滅の存在ギガーテを封じ込めるべく作られた、それ自身が神性を宿す・神としての個を有した隔絶世界。
異邦神を閉じ込めておくためだけにある、現存する神の肉体に“孔”が空いていた。
外界に繋がる孔。
封印の綻びとなる孔だ。
そして、低位のギガーテであれば地上へ這いずる事の出来る、孔。
「……デクが封印されたか」
光射さぬ淀みの中、声がする。
地獄の底から響くような、どこまでも昏い声。
「彼奴の仕業か、或いは新たな勇者でも仕立てたか」
超然とした声音に含まれた僅かな苦々しさ。
それは無念であり、追憶の感情でもあった。
「まあよい、足掻いてみせよ。遠くない刻に我は復活を遂げる。その時を震えて待つがよい、オリュンポスの柱神どもよ、つき従う人間どもよ」
闇よりも深い奈落の底。
檻の深奥を鳴動させた音声を聞く者は、誰もいなかった。
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* あとがき的なもの *
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誕生編、終わりです。
第4話は区切りを考慮して一挙に投下したのですが、6000文字を超えていました。
読みやすさを考慮すれば2話に分けた方が良かったでしょうか。
内容の感想以外、その辺りのご意見等もございましたら一筆よろしくお願いします。
次章は彼の日常、高校生活を交えた話になると思います。