西の都市
鳥のさえずる声がする。
それから女たちの賑やかな声。
「……!」
いつもと違う朝にリョウが、がばっと起き上がった。
で、ああそうか、と息をつく。
「ここ、西の都市だったんだっけ……」
久しぶりに日がすっかり昇るまで寝込んでしまった。
ぐいっと、伸びをしてベッドから出る。
身の回りが落ち着いたら今後の指示を仰ぎに近くの駐屯所へ行くように、旅の疲れもあるだろうから暫くはゆっくりしていい。と言われてはいるものの特にすることがあるわけではない。数ヵ月使われていなかったと思われる部屋は所々に埃が積もっているもののざっと掃除をすれば昼には片が付きそうだし。
小さな寝室を出て隣の部屋、これもまた小ぢんまりした居間を横切って、申し訳程度に付いている浴室に入る。
ザァッ、と音をたててシャワーからお湯が出る。
夕べは疲れてそのまま倒れ込むように寝てしまったからシャワーを浴び損ねてしまった。
シャワーを浴びながら横にある洗面台の上の鏡に目を向ける。
「なんだか、疲れきった顔してるなー、私……」
くもり始めた鏡を手で拭いながら無理やり笑顔を作ってみる。
洗って適当にまとめた髪は黒。日の光に透かすと赤みがかって見えるがこうしていれば東の出身者に特有の黒髪だ。瞳の色は少し明るめの、でも濃いブラウン。一般的に黒目といわれる類いの色。「平静」でいれば特にどうってことはない。
痩せすぎているわけではないが、決して豊かとはいえない胸。その下、左の脇腹辺りにちらり、と見える、古傷。横を向いたせいであまり見たくないものまで目に映りそうになり、軽く頭を振ってシャワーを止める。背中の右の肩辺りからつながっている筈のそれは、さすがに気丈なリョウでもまじまじと見るとへこむのだ。
「こんにちはーっ! リョウ、いる?」
掃除が片付く頃、部屋のドアが遠慮もなく、外から元気よく開けられた。
「……」
雑巾を片手に固まったリョウの目に飛び込んできたのは、初対面の、女の子。
女の子、といっても年の頃はリョウとそんなに変わらないだろう。後ろに束ねたくるくると細かくカールした黒髪と褐色の肌は南の出身者を思わせる。ぱっちりした瞳に屈託のない笑顔が似合う大きな口。その全体が可愛らしい女の子、といった雰囲気を醸し出しているのだ。
「あー、ごめんねぇ! ドア、開いていたみたいだから入っちゃった! あたしザイラ! よろしくぅ!」
唐突に目の前に現れ、勢いよく突き出された右手にリョウも思わず反射的に右手を差し出し握手してしまう。
「昼ご飯まだでしょ? 何? 午前中から掃除なんかしてたの? はったらき者ねぇ! あらやだ、朝ご飯ここで料理したの? 安くて美味しい食堂案内するわよ! ほら早く! そんなのその辺に置いて早く行こう! あたしお腹すいちゃったぁ!」
楽しそうにまくし立てるザイラにつられてリョウは口元がゆるむ。「ありがとう」なんて言葉はザイラのお喋りにかき消されるが、それでもリョウは自分の声に改めて、自分が久しぶりに緊張もせず笑っていることに気付いた。
賑やかな大衆食堂。
ザイラは慣れた様子で二人分の席を確保し、料理を頼み、色々と話してくれた。
自分は騎士隊の第9部隊隊長の妻であること。夫からリョウのことを聞いて今日は都市の中を色々案内するつもりでいること。まだリョウの所属部隊が決まっていないので、その間は夫共々リョウの世話を焼くつもりでいること。
この都市では東とは生活様式が少し異なることにも気づかされた。
どちらかというと閉鎖的な東の都市では、自宅での炊事が当たり前だった。だからリョウも自分の住まいの台所の狭さと使い勝手の悪さに驚いたのだ。
あれではお茶を入れるとか、作ってある料理を温め直す、とかいった程度のことしか出来そうにない。勿論、要領よく使いこなせれば別だが。
どうやらここでは、あちこちから人が移住してきており習慣や文化が多様化し、合理化しているらしい。食事をしたり友達と騒いだりするのは主に家ではなくこういう大衆食堂や居酒屋なのだ。そのせいか、昼間の都市の様子もリョウがいた東の都市より賑やかな気がする。
そして、リョウが驚いたのはそういうことだけではなかった。
「あたしんちは、城壁の西側なのよ」
そんなザイラの一言に、リョウは持っていたカップを落としそうになる。
「ええっ? 城壁……って、あなた、隊長の妻でしょ?」
ちょっと、気になってはいたのだ。リョウの割り当てられた部屋。それは都市の城壁の上部に位置する部屋だった。
城壁というのは外からの攻撃に真っ先にさらされるところ。東の都市では、いや、東に限らず普通はそんなところに一般の住まいを設けたりはしない。せいぜい娼婦とか、貧しい人とか、都市の中でもあまり良い身分にない者が身を寄せる場所なのだ。
リョウとしては自分がおよそ歓迎されていないであろう、という前提があるので多少嫌な気はするにしてもことを荒立てるつもりはないので黙っていたのだが、この目の前の隊長の妻を名乗る人が自分も城壁に住んでいる、というのだ。しかも堂々と。
「そうよ。……ああそうか。知らなかったのね。ここでは城壁は騎士の住まいよ。やあね、いじめられてるとでも思ったの? リョウのところは南側とはいっても西寄りだから東の森からも離れているしいい場所なんじゃないかしら。城壁の外にも水場があるから朝なんか賑やかだろうけど」
どうやらこれも、今の元老院のやり方らしい。
つまり騎士というのは民を守るためにいる。城壁は外からの攻撃に一番近い場所であり、一番異変を感じやすい場所である。なので攻撃から民を守るのに都合がいいということになる。非番で自宅にいてもすぐに動けるのは城壁に住んでいる者たちであり、それゆえに、親の世話が必要とか守るべき幼い子供がいるとか、何かしらの枷となるものがない者はなるべく城壁に住まわせる。
頭がいい、というか、無謀というか……。それをすんなり受け入れる辺り、ここの人たちはいったいどれだけ柔軟な頭をしているんだろう……。
「みんなが賛成している訳じゃないのよ」
リョウの考えを知ってか知らずかザイラが少し声のトーンを落として続ける。
「今の元老院にメンバーが固まってそろそろ10年になるけどやり方が定着したのはここ2、3年よ。騎士隊は今のところ12の部隊に別れているけど古い部隊には昔の元老院の影響を受けたままの隊長もいたりしてね。まぁ、仲良くやってはいるんだけど!」
最後には明るい調子の声に戻っており、ザイラのその表情にも不安の色はない。本当に平和にやっていけているのか、ザイラがそういう性格なのか……。
何にしてもここのやり方は他の都市とはかなり違うのかもしれない。昨日リョウがここに到着して真っ先に連れていかれたのが司である人の所だったのも考えてみれば斬新だ。
都市における最高責任者に新参者、しかも二級騎士なんかがいきなり面通しなんて。普通なら騎士隊関連の責任者、どこぞの隊長なり指揮官なりのところに連れていかれるだろう。……まぁ、時間的に東の都市ならば勤務時間外、とかでそういう人のところには行けないこともあったが……そもそもそういう時間に都市の司が普通に働いていること自体異例な訳で……。
あれ?
軍関係の責任者、何人すっ飛ばして都市の司に面会してきたんだろう……。隊長、指揮官、総司令官……。
なんてリョウが悩み始めた辺りで。
「そうそう! あなた、まだ馬がいないんでしょ?」
雑談の続き、でもあるかのように明るくザイラが話題を切り替える。
「あ、そういえば」
東で乗っていた馬は向こうを出るときに置いてきたし、旅に使っていた馬は……カイが逃がした。
騎士が乗る馬というのは貴重なのだ。戦いのために特別に訓練した馬でなければならず、その強さは家畜にはない。なので野生の馬を特別に調教しなくてはならないのだ。
「うちの旦那が後で見に来いって言っていたのよね。ここも例に漏れず馬は少なくてね。今いる子たちの中に使える子がいたらいいんだけど」
「そう。……ってことはまだ調教中?」
「そ。真っ最中ってとこかな。あたしの父が調教師なの」
ちょっと誇らしげにザイラが胸を張る。そして、なるほど、とリョウがうなずく。
野生の馬は元々扱いが難しい。南の地にそういう野性動物を扱うことに長けた部族が住んでいるというのは有名な話だ。彼女はそちらからの移住者かその子孫なのだろう。特徴のある髪や顔立ちがそれを裏付けているようにも思えた。
「父さん、久しぶりっ!」
挨拶がわりに老人の首に抱きつくザイラはまるで子供だ。いや、文字通りその老人の子供なのだが。首に抱きつかれた老人、といっても体格のいいすこぶる強健そうな、白髪頭の男は首にぶら下がっている娘を左手で軽々と支え、右手でリョウに握手を求めてくる。濃い褐色の肌にはシワが刻まれており、長年培われた知恵や人としての歴史を思わせる。
「あなたが馬をお探しの女騎士さんですか」
差し出された手を握り返しながらリョウは彼に肯定の会釈を返し、さらに自分達が近づく前に老人と立ち話をしていた男の方に目を向ける。
「ザイラの相手は疲れませんでしたか?」
老人のとなりに「順番」とでもいうかのように差し出された右手にリョウも応えて握手を交わす。
「あなたが……」
「はじめまして。ザイラの夫のクリストフ、といいます」
黒い髪を後ろに撫で付けた色白の真面目そうな若者だ。少々下がり気味の目尻のせいで表情が柔らかく感じられ、その物腰からは責任ある立場で働く者らしい落ち着きが感じられる。
「いま、ラウと話していたんですが、あの中に相性のいい馬がいるといいのですが……」
ラウ、というのがザイラの父であるこの調教師の名前らしい。クリストフの指す方を見ると柵が巡らしてある中に、ざっと10頭ばかりの馬が放牧されている。
「ここは場所がいいですね。城壁の外にこんなに広く場所が確保できるなんて」
リョウが見晴らしのいい土地を見渡しながら呟く。
場所としては都市の南西の位置。リョウの部屋がもう少し南に行ったところなので窓から身を乗り出せばここが見えるかもしれない。
だいぶ距離を置いてではあるが、都市の東側から南の方角にかけては、リョウたちがここに来る際に通り抜けた大きな森があり、そこからは「敵」がいつ出てくるかわからない。そうはいっても「敵」の習性らしく日の光のあるところには余程のことがない限り出てくることがないのでこれだけ開けた場所なら昼間はまず安全だろう。
「ああ。厩舎はさすがに城壁のすぐそばにあるが……まぁ、やつらが襲うのは人だけだからな。わしらが迂闊に暗くなるまでこの辺をうろついたりするんでない限りは恵まれた仕事場ですよ」
ラウが森の方を忌々しげに見ながらそう答える。
動物相手の仕事だ。夜に馬のそばにいなくてはいけないときもあるのだろう。「敵」は馬を好んで襲ったりはしないが人が近くにいれば別だ。馬が巻き添えになることもある。
「見に行っても?」
リョウが柵の方に目をやって尋ねるとラウは「どうぞ」という身ぶりに「でも気をつけて」と言い足してからリョウの前にたって案内する。
リョウが柵に近づくと、馬たちの空気が一斉に変わった。どうやらまだ人に馴れていないらしい。あからさまな警戒心が感じられる。
「柵があるとはいえ、この子たちが本気を出せばこんな柵は越えられます。今ようやくわしの声と姿に馴れてきたので柵の中に離したばかりなんですよ。騎士さんに使ってもらえるようになるまでにはまだしばらくかかります」
そのようですね。と、リョウが言いかけたとき。
「……!」
息を呑んだのはラウと、後ろからそろそろと付いてきていたザイラとクリストフの3人だ。
「……おまえ……」
リョウがそっと、手を差し出す。
あからさまに警戒心をむき出しにしていた馬たちの中から一頭の赤毛の馬がゆっくりと近付いてきたのだ。
「……あ! 手を出しちゃいかん!」
ラウの制止に構わず引っ込めることのないリョウの手に赤毛の馬が顔を寄せてくる。
「なついてる……」
ザイラが唖然、とした声を出す。
「……決まった、みたいだな……」
クリストフも驚きのあまり抑揚のない声で。
そんな3人を尻目に、馬は完全にリョウになついた。というより以前から知ったもの同士のようななつきかただ。
「はいはい。ご挨拶ありがとう」
そっと、なんてもんじゃなくぐいぐいと頭を寄せてくる馬にリョウも笑い出す。
「すみません。私、この子にしますね! 名前は……ハナ!」
ハナ、と呼ばれた赤毛の馬はどことなく嬉しげでリョウは思わず柵の戸に手をかける。
ラウとしては、本来、止めるべきことだった。
まだ人に馴れていないはずの馬なのだ。プロの調教師がようやく心を許してもらえるようになったばかりである。柵から出して暴れでもしたら一大事、なのだが。この事の流れからしてつい、息を呑んで見守ってしまう。
そしてリョウは、あろうことかその馬に乗ってしまった。
鞍も置かずに。