表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/13

九、

いつもに増して長いです。

「千五百か」

 明らかな落胆の色を滲ませ、臧覇は如何にも悔しげにひとりごちた。

「少ないな」

 捕らえた西涼兵の数を受けての、物言いだった。

 曹軍一万四千の存亡を賭けた、博打のような戦だった。総力戦の成果としては、将帥たる者にとって到底満足のいくものではなかったらしい。

「そう不景気な面をするな、臧覇。挙げた首級は二千に及ぶ。西域の良馬も、怪我を負った奴を含めれば三百は手に入った。少なく見積もっても、戦果はまずまずといったところだろうが」

 ほくほく顔の孫観と対照的に、渋面の臧覇はぎらりと部下を睨み付けた。

「この忘八蛋わんぱーたんの呆け老爺。此度の戦は、首より捕虜の数だと言ったのをもう忘れたか。これだから全く、武勇しか能の無い奴は」

「何を。お主に言えた義理か。昔から誰にも先んじて飛び出し、さんざ好き勝手に暴れておいて、その尻拭いをいつもわしか尹礼に押し付けておったくせに、笑わせる」

「二人とも、見苦しいですぞ。今は昔話を為すべき時かどうか、よくお考えになられよ」

 平時は穏やかに後方に控えている尹礼も、此度の両人は目に余るものがあったのか、ぴしゃりと言い放つ。年甲斐もなく叱責を受けた壮年の将二人は、気まり悪げにお互い顔を背け、押し黙った。

 場に漂うぎこちない雰囲気を払拭すべく、ごほんとわざとらしい咳払いの音が響いた。

「……ともあれ、敵を生かしたまま捕らえるは、平素の戦と異なり手心を加えねばならず、諸将に於かれては、各々苦慮なされたことと存じ上げます。臧将軍の仰有る通り、此度の戦果は首級や捕虜の数の多少ではなく、勝利した事実、得難きものを得たことこそが、多大なる武勲です。

 皆様方が死中に活をもとめ、掴み取ったこの利、今より私が預かります。必ずや敵軍との講和、取り付けてまいりますゆえ」

「向かわれるのか、西涼軍の陣に」

 臧覇らよりは歳若の、背の高い武将が、徐庶の方を振り返り、声を掛けた。最初の軍議のあった数日前とは打って変わった、労しげな口調だった。

 黒衣の軍師ははい、と短く返答すると、臧覇に拝し、使節の証たるいんの交付を願い出た。

「我が軍に、もう一人ぐらい智恵の回る奴がおればな」

 使者役をそいつに押しつけるんだが。近習に命じて他所から印を持って来させる間、臧覇が不意に、愚痴めいた呟きを洩らした。

 その弱音を、図らずも拾ってしまった徐庶は、束の間考えを巡らし、そしてゆるゆると頭を振る。

「少々小才が利く程度の者では、此度の任には荷が勝ち過ぎる。ですが仮令たとえ、勇、智、仁、如何な多才を備えた者がいたとしても、使者は私でなくては務まらないでしょう」

「……ほほお、出たか、奇跡の軍師の高言が。どういう神経があればそんな法螺を吹けるか、是非うかがってみたいものだ」

 にやりといつもの人を食った笑みを浮かべた将帥に、徐庶は顔色を変えぬまま、淡々と答えた。

「その理由は、三つ。まず一つ、勇あっても智なき者は、人心を動かすこと適いません。二つ、智あってもその弁に仁なき者は、人心に確たる信を覚えさせること適いません。そして勇、智、仁全て揃っていたとしても――」

 その刹那徐庶は、目の前の武人を強く意識し、ぐっと凝視した。

「そのような希有の徳を備える者を、誰がみすみす死に向かわせ、失わせるようなことをなさるでしょうか」

 その言葉を聞いた途端、にやついていた壮年の男は、盛大に鼻の頭に皺を寄せた。

 かつてさんざんに煽りたてられ、結果苦渋を舐める破目に陥った者は、軽口めいた挑発を逆手に取った嫌味の効用に、多少溜飲の下がる思いがした。

「……勇、智、仁、全て半端にしか持ち得ぬ身ではありますが、先に申し上げた通り、私の命も皆様の命も等しく永らえるべきと、確と心得ております。ご安心ください。いくら捨て石に過ぎぬからといって、自棄を起こしたりみだりな真似はいたしませんよ」

 澄まし顔のまま、天祐を呼ぶという軍師は深々と揖礼した。こやつ、と歯軋りせんばかりの声がして、徐庶は吹き出しそうになるのを必死で堪えた。

 そうこうする内に、従者が印を持ち走り寄ってきた。それをもぎ取る様にして奪い、臧覇は殊更に恭しく、任を申し出た者に印を授けた。

 徐庶は印を受け取ると、やおら懐から包みを取り出し、大将軍の前へと差し出した。戦場に不釣り合いな、鮮やかな綾の錦袋を一瞥し、臧覇は怪訝そうに口を歪めた。

「なんだこりゃあ」

「私が三日戻らぬか、または首級が届けられた際は、早急にその袋をお開け下さい。中に撤退の方策を……あ」

 神妙な面持ちで献言する徐庶の眼前で、無造作に袋の紐が解かれた。内に封されていた紙面にざっと目を通し、総大将はふん、と鼻で笑った。

「言っておくがな」

 ふっと真剣な眼差しになり、手にした紙を見据えたまま臧覇は言葉を継いだ。

「もしも和議の交渉が不首尾に終われば、全軍ここに残り、最後までこの砦、最悪でも金城を死守する。お前がぐうすか寝ている間に、取り決めた」

「いや、それでは、しかし」

 唐突な宣告に、徐庶は狼狽した。慌てて翻意を促そうと口を開く。

「話が違うではありませんか。兵を無駄死にさせる訳にはいかないと、あれほど」

「あの時と今では状況が違う。もう、退いてどうなる段階ではない。

 それに援軍が来んと分かった今、ここに俺達が踏み留まり、一日でも長く西涼軍の進軍を食い止めるなら、その死は無駄にはならん。殿も、よくやったとお喜びになるだろう」

 という訳で、これはいらん。臧覇は、その紙をあっさり引き裂いた。

 徐庶は、愕然と総大将を見つめ、次いで卓を囲む他の将に目を移した。皆、毅然たる表情をしていた。

「死んだ軍師の命に従う義理はない、ということだ。ま、せいぜい得意の舌をふるってくるんだな」

 厳粛な面持ちのまま、孫観が言い放つ。

 徐庶は絶句し、その場に立ち尽くした。だが、列席者が口々に健闘を祈る旨の言葉を述べ、場を辞してゆくのを見、口を引き結んだまま彼等の背に深々と首を垂れた。


 程なく、馬の用意ができたとの報が入った。徐庶は、硬い表情のまま、きざはしを降りた。


「どうやら、向こうの支度がととのったようですね。……では、これにて」

「本当にいいのか、馬岱」

「はい。色々考えましたが、やはり他の方にはこの役目、ちと荷が勝ち過ぎると思いまして。俺が行くのが、一番無難で手っ取り早いのかなと」

「……だが、おめおめと生きて戻るに加えて、敵の軍使を連れ帰れば、お主とてどうなることか」

「御憂慮かたじけなく思います。まあその時はその時です。それに俺は一度死んだ身。たとえ戻った途端首を打たれても、今一たび皆の顔を見て死ねるなら、悪くはない」

「お主のような可惜あたら若い者に、むごいことをさせているな、私は。

 ――惰弱の徒と、せめて笑ってくれ。我が殿や皆にさげすまれる中なぶり殺されるなど、私はご免こうむる。そのような目に合うならば、味方の枷とならぬよう、今いっそここで自らの命を絶つ」

「早計はご無用ですよ、成将軍。血の気の多い連中を抑えておくのは難儀でしょうが、俺の部下を含めた皆を、どうかよろしく頼みます。なあに、上手くいかぬと決まった訳ではありません。案外、明日の朝には韓遂殿の下へ復命され、この大間抜けがと叱られておられるかもしれませんよ」

「分かった、分かった。早まったことはせん。五月蝿いばかりの殿の怒鳴り声が、又聞けるとあらばこれ以上の本望はない。お主の安否を聞くまで、自重するとしよう。皆のことは私に任せておくがいい……武運を祈るぞ、馬岱」

「将軍も」




************




 積雲重々と垂れ込める空の下、身を切るような湿った冷たい風は、なおいっそう強まっていた。

 その風に、一節の歌声が混じる。

 強風に負けじと、低く高く朗々と響く旋律は、ここより更に西域の、生き別れた男女の心の機微、殊に離別の哀苦を切々と謳いあげたものだった。

 毛皮をあしらった戎装の男が、詠唱の尾を長く長く引いて吟じ終えた。他の二人が口々に褒めそやすのを、男は首を掻きかき照れつつも、嬉しがっている態だった。

 今度はそちらも、とその男が促したらしい。二人は一瞬狼狽し、互いに何かを言い合っていたが、そのうち黒衣の一人が渋々と口を開いた。

 歌い慣れてはいないのだろう。先程の声の主と比べれば、節回しの張り艶において数段聞き劣りするのは仕方ない。だが、里謡とも古歌ともつかぬその調べに耳を傾ける同行者の顔には、何故か徐々に微妙なものが浮かんでくる。


 …一朝被讒言

  二桃殺三士

  誰能爲此謀

  國相齊晏子


 あまり上手とは言えない歌を、黒衣粗冠の男はそそくさと切り上げた。しばしの沈黙の後、短衣の男が遠慮がちに何か尋ねる風を見せた。

 馬上でしばらく逡巡した後、男は気乗りしない様子で、ぼそぼそと言い訳をしたようだった。

 戎衣の男が、屈託ない表情で二人を笑い飛ばした。苦笑交じりではあったが、その明朗な哄笑に、二人もつられて破顔した。

 これから死地に赴くと言うのに、曹軍の使節達の間には、妙にのどかで藹々とした雰囲気があった。




************




 涼州連合軍の陣容は、その規模と戦備の甚大さ、厳重さもさることながら、屯地全体より立ち上るすさまじい鋭気が、招かれざる使節団を圧倒した。

 その重圧は、陣地に一歩足を踏み入れると更に増した。あっという間に兵卒に取り囲まれて、殺意と害意を一分の隙もなく向けられる。肌にひりひりと痛みを覚える程だった。陣営より大分離れたところから馬岱が軍使来訪の旨を触れなければ、近付くことさえおぼつかなかったに違いない。

 今は元味方たる馬岱が傍に控え、また使節がそのしるしたる印綬を下げているからこそ、包囲する者達も憎き敵の使者を亡きものにしたい思いを、何とか堪えているのだろう。

 まるで焼けた鉄棒の上を歩くが如くの心地がした。しかしその内心をおくびにも出さず、周囲を無差別に凄んで回る、腕の不自由な従者に目配せを送り制しつつ、徐庶は声高に来陣の目的を告げた。

 しばらく、重苦しい空気が垂れこめる陣の奥で、ひそひそと何か話し合うような気配がした。やがて立ち並ぶ兵卒の群れの中から、一人の将らしき人物が姿を現した。数人の兵士によって、武器などを隠し持っていないかの有無を検分された後、その士官と思しき人物は、付いて来いと言うようにぞんざいに手招いた。

 使節団は、粛々とその後につき従った。

 と、唐突に、かすかな鈍い音がした。その音は二つ、三つと増えてゆく。おや、と思ううちに、徐庶の歩く足元にぱらぱらと小石が落ちてきた。

 よくよく見れば、前を行く馬岱に、四方から石礫が投げつけられているのだった。怪我をする程に大きな石はなく、力も加減されてはいる。だがその一投一投にはどれも、只ならぬ憤激と怨嗟、そして侮蔑が込められているのは、疑いようもない事実だった。

 徐庶は、ひっそりと奥歯を噛み締めた。今更ながら、前を歩む男が払った代償の大きさを思い知らされ、忸怩たる思いが胸に迫る。

 たかが馬一頭で、武人たる者に矜持と忠信とを、捨てさせしめたのだ。徐庶は、表情の窺い知れぬ、眼前の背中を凝視した。敵ながらいつも明朗闊達だった男の背は、平素と違い小さく丸く見えた。周囲の狼藉を差し止めることも、庇うことも、出来はしない。そんなことをすれば、ますます士人の誇りが傷付くだけだ。

 この交渉が上手くいっても、一度変節したと見做された馬岱への視線は、元に戻ることはないのかもしれない。それでも、彼の者が払った犠牲には、誠心誠意報いねばならない。一歩足を進めるごとに、使節の胸の上で印綬が弾んだ。銅製の印の重さは曹軍一万四千、涼州軍捕虜千五百の命と同等の重さ。今又一つ、そこに新たな重みが加わった。

 本陣中央の天幕に、ためらうことなく徐庶は足を踏み入れた。


 その場が、一瞬で静まり返る。

 替わりに矢のように鋭い幾多の視線が、三人へと降り注いだ。

 共に天幕に入ることを許され、背後に控えていた梁信が、徐庶の前にさっと進み出る。そして、破落戸ごろつきが恫喝する際の胡乱な目付きで、ぐるりと睨みを利かせた。

 怪我人だからと同伴を許されてはいるが、これ以上の野放図な挙動は誤解を招きかねない。今にも一人で挑みかからんばかりの梁信を片手で制すと、徐庶はひそかに周囲に目を走らせた。

 天幕の内には、十数人の武装した男達がものものしく左右に立ち並び、一番奥の卓には立つ者と座す者、二人の老将がこちらを窺っている。西涼連合軍の筆頭、馬騰と韓遂だろうと、徐庶は当たりを付けた。

 また、居並ぶ将の中に、一際冷徹で威圧的な気迫を放つ、隆たる体躯の丈夫の姿があった。身に纏う装いもごくきらびやかで、鱗甲の黒鉄札は鈍く光り、筒袖鎧を覆う袍は白と青の錦糸で細かい彩りが施されている。

 こちらを向く猛禽のような眼差しは、先だって一敗地に塗れた恥辱に燃え立たんばかりの様を呈していたが、その眼光に時折、慮るような気遣わしげな閃きが混じることに、徐庶はふと気が付いた。

 出で立ちの雄々しさ、そして人目を引く風貌。道すがら馬岱に聞いていた通りだった。あれが、錦馬超。

 徐庶はそれ以上周囲を顧みることなく、敢然と顎を上げ、正面へと歩を進めた。

 敵意の林を通り過ぎ、正面の卓の十歩手前まで進み出でて、わずかに頭を落とし拱手した。

 これより始まる戦いこそが、己にとっての真の戦だ。耳が痛い程の閑寂に身を委ね、徐庶はゆっくりと息を継いだ。握り締めた拳が、早くもじっとりと湿り気を帯び始めた。

「お初にお目にかかる。私は、威西将軍臧覇が幕下、従事中郎の任に在る徐元直と申す。早速だが、此度の」

「もしや、お主か。お主なのかあっ」

 不意打ちの怒号に、緒戦における渾身の口上は、早々に断ち切られた。


 立っていた方の老人が、やにわにどすどすと高い沓音を立て、無造作に近付いてくるのを、徐庶は呆気に取られて眺めていた。

「従事中郎と言ったな。だったら、お主だろう。違うか、いや違いあるまい。あのくそえげつなくせせこましい、むしろ城の籌策を呈した者は。いやあ、よかったよかった。一度そのつら、拝んでみたいと思っていたところだったのよ。俺達を散々な目にあわせておきながら、よくもおめおめとやって来れたものだ。流石、面の皮の厚さが違うな。いやいや、軍師という奴はこうでなくてはならん、うん」

 一瀉千里にまくしたてられ、ばんばんと遠慮会釈なく両肩を厚い両掌で叩かれ、徐庶は完全に虚を突かれ、その場に固まった。黒袖がゆらゆらと身体の揺れるに任せ、はあ、ええ、と気の抜けた相槌を返すのが精一杯だ。

「この際だ、曹軍の誇る三流策士の顔、とっくり観察してやろう。どれどれ……おお、何という陰気な面構え。生きながらにして九泉の下におるような辛気臭さだわい。まあだからこそ、新月の闇と藁細工なんぞを以て、この俺達をして地勢を見誤らせまんまと陥れるような、嫌らしい真似をしでかせるんだろうな。それにしてもいやまったく、見事にしてやられたもんだ。お陰で目論見が外れ予定の狂うこと、この上ない。折角、智恵を搾り練りに練り上げ立てた、遠大かつ広壮な戦略だったのに」

 いちいち大仰な身振り手振りを加えながら、団栗どんぐりまなこの老将は滔々と、止めどなく弁舌を振るう。徐庶が口を挟む隙も何も、あったものではなかった。

 そのおどけるような動きが、突然ぴたりと止まる。あちこちに散らばる視線が、すっと徐庶の上で定まった。

「――知りたいか」

 一瞬何を問われたか察しかね、徐庶は困惑の表情を浮かべた。言葉を継げぬ使者の様子を見て、老将はしたり顔で一つ頷くと、熱をはらんだ目で徐庶の顔を見据えた。

「壮大な戦略の先、俺達が描く国の版図よ」

 老将はもったいぶった調子で、獣が唸るように、そう言った。

 訝しみながらも徐庶がはい、と告げようとした矢先、そうだろうそうだろう聞きたかろうが、と肩を掴まれ、前後に揺さぶられる。

 老人がくるりと背を向け、もう一人の将の座す卓へ歩み始めた時、徐庶は密やかにほう、と溜め息をついた。何だあれは、と完全に毒気を抜かれた時点で、既にあの風狂な老人の掌の内であることは、悔しいが認めざるを得ない。

 こちらの要求を強引に叩きつけ、機先を制すかたちで話の主導権を奪う目論見は、完全に失敗に終わったようだった。ここから如何なる対応をしどう話を進めるか。思案する徐庶の視界に、左前方に控える馬岱の姿が映る。こちらを僅かに振り向いた口元が、声を発さず、韓遂、と告げた。

 成る程、と徐庶は得心する。奇矯としか言いようのないあの男が、韓遂か。とすると、今だ一言も口を利かず端然と座す将が、馬騰。

 この両人の心を先ず動かさぬことには、此度の訪問の使命を果たしようがない。

「さてさてさて。何はともあれ、ここに至った経緯から語るとしようか」

 徐庶は、誘われるまま摺り足で卓へと近寄ると、流れ出る老人の嗄れ声に、凝と耳を傾けた。

 持てる切り札は乏しく、兎に角、会話の糸口を掴まねばならない。

「事の発端は四月前だ。許昌に潜ませた間者より報せが届いた。何と、曹軍が大規模な軍を興し、南征に赴くと言う。しかもだ。その軍をわざわざ曹操、あやつ自らが率いて」

 束の間、韓遂が笑いを含んだ目でこちらを見遣る。それが如何なる意味を持つか、分かるかと言いたげに。

 しかし今度も、徐庶の言を待たず、狂躁の老将はくるりと背後を振り向いた。

「これは好機、それも千載一遇のとびっきりのやつだと、俺の勘が告げた。

 何しろ曹操という男は、丞相などと呼ばせておる今も、戦が好きで好きで敵わん、本当に困った奴だ。配下に任せて然るべき戦場も止せばいいのにこうして自ら首を突っ込み、しかも、しかもだ。自ら指揮した時に限って、勝つ時は馬鹿みたいに勝つが、負ける時もとことん、丸裸になって負けるときたものだ。董卓を追っかけた時然り、張繍を攻めた時然り、な。

 要するに、だ。あやつが荊楊二州を無事ふんだくれる見込みは、詰まるところ五分五分ではないか、と踏んだのだ」

 いつの間にやら韓遂はこちらに顔を向けていた。瞳ばかりが少童のようにくるくると回り光る、老いた男の顔が、卓越しに身を乗り出すようにして、段々と近付いてくる。

「早速馬騰に話を持ち掛けた。涼地にある、他の豪族共にもだ。

 今こそ駿馬を駆り、破竹の勢いにて覇者曹操を打倒し、かの沃土を手に入れる刻ではないか……とな。大局を見定め難い、尻の重い連中ばかりで、結局出立が斯様に遅くなってしまったが」

「何と。とすると、此度の出陣は赤壁の戦を踏まえたものでは」

 息つく暇もない韓遂の演説に、徐庶は思わず急き込み口を挟んだ。弁を中断されて気を害する風もなく、老将はにわかに、嘲弄交じりの哄笑を放ち始めた。

「はっははははは。曹操、あやつめが。まんまと、まんまと大敗しよったわ。俺の目算に狂いはなかった。いや、為した賭けに俺が勝ったのだ。

 こうなってはもはや、急ぎこそこそと、曹公めの留守居を狙うことはない。涼州選りすぐりの騎馬隊を以て、悠々と金城、長安、洛陽をぶち抜き、弱った雌鹿の如き曹操軍を甚振りつつ、平らげてやろう。そのつもりだったのだ」

 故に全く以て、お前等の存在は慮外のことだったのだがな、と語尾を曇らせ、韓遂は仏頂面をつくった。だがその表情はたちまち、劇役者の面変えのように快活としたものになる。

「まあ、確かに足止めを食らったが、大勢に影響はないのだ。何せ俺等には、もう一つの時を待つ必要があるのだからな。その時宜を見てから勢いを得ても、遅きに失することはない」

 悪童のような表情を浮かべ、奇矯の老将は再び、時宜の内容を知りたいか、と尋ねてきた。憮然とする黒衣の使者の返事を、今度もろくに確かめもせず、韓遂は鷹揚に頷いた。

「涼州各地に檄を飛ばすと同時に、俺は密かに使者を送ったのだ。東呉の孫権と、漢中の張魯の元へと」

 声低く紡がれた言葉の趣旨に気付いた直後、徐庶の背筋を、すっと冷たいものが走った。

「曹操が揚州を攻め、もし呉の水軍に破らるることあらば、希代の覇者を討つ絶好の機会。各々がた、一刻も早く、奮起されるべし。共に進み、彼の地を踏もうではないか」

 どこか陶酔した風に、節を付け密書の内容を詠じる韓遂とは対照的に、徐庶は身の毛がよだつような心地となった。

 北西より西涼連合軍、西より五斗米道の首魁張魯、そして南東より呉の孫権が、一挙に許昌を目指し進軍する。あり得ない。あり得ないが万が一、それが現実となるならば。

 瀕死の態である今の曹軍は、ひとたまりもなく蹂躙されてしまうだろう。

「どうだ、なかなか悪くない案とは思わんか」

 敵の主将は、得意気に胸を張ってみせた。絶句しつつも、徐庶は乾ききった唇を開き、喉から声を絞り出す。

「……一体貴公は、何を求めておいでか」

 きょとんと、韓遂がこちらを見た。

「韓遂殿、あなたの名前は中原に鳴り響いております。漢の支配と庇護をがえんぜぬ、不羈の将と。何故そこまで、抗いなさる。そこまで貴公を駆り立てるものは、一体何でありましょうか」

「よくぞ聞いてくれた」

 我が意を得たり、とばかりに膝を打ち、韓遂は歯を見せ、傲然と笑った。

「俺が昔から欲するのはただ一つ。辺土に住まう我等を脅かす、漢という社稷と威信、そのものだ。

 漢は数を恃み、羌を初めとした寡数の民を西戎、野蛮の徒と蔑んで、不毛の地に封じ込めてきた。その鼠輩を駆逐し、中心に取って代わる。さすれば西涼の民の重租、抑圧を消し去り、今までの苦渋をあがなえるだろうて。

 ああ、待ち遠しいことだ。緑樹生い茂る大地に思う存分馬を駆けらせ、滋養に富む穀物で腹を満たし、女どもが精緻な金銀玉璧を好きなだけ身に飾る、その日の来るのが」

 はた、と言葉を切り、韓遂は徐庶を顧みた。剥き出しの丸いまなこは、今にも躍らんばかりに輝いている。

「どうだ、みみっちくこすっからい、曹軍の軍師よ」

 卓の向こうから太い腕が伸び、立ち尽くす黒衣の男の肩をぐっと掴んだ。

「俺は、お主が気に入った。もはや負けの込んだ彼奴等など捨てて、俺達のところに来んか」

 そして、お主も共に曹操め、いや、漢土を縦横無尽に引き裂き、その富宝を吸い上げてくれようではないか。大きく両手を広げ、そう言って韓遂は話を締めくくった。


「お断りいたす」

 言下一蹴、徐庶は告げた。

 束の間返答に躊躇いがあったのは、迷ったのではなく、その所作の如く右往左往する韓遂の弁の、要旨を掴むのに手間取ったからだった。

 劉備軍から下った直後ならば、と徐庶はふと夢想する。その誘いに乗っていたかもしれない。だが今、徐庶の心は傾き切ってしまっていた。共に戦い、言葉を交わし、同じ糧を食った者たちの秤の方へと。

 徐庶は敢然と前を見据えた。韓遂の、皺に覆われたおもてが、真正面にあった。

 老将の表情は、先程の勧誘の語尾のまま固まり、それは甚だ奇妙に見えた。

「そうか」

 力ない呟きが、笑みを形取る口からころりと、転がり出た。嫌な違和感が、瞬時に徐庶の胸に広がった。

 西涼軍を総べる者の一翼は、もはや眼前の使節をその目に映してはいなかった。解体しきった蜻蛉や田蛙を見る小童のような、興覚め、失望しきった顔付で、老境半ばの男は拗ねたように俯いた。

「いやまあ、当然だよな。うん。惜しいが、仕方ない」

 口の中でもごもごと独りごちると、韓遂はくるりと、その場に背を向けた。

「斬れ」

 屑を放り捨てるような一言と同時に、徐庶は左右から強い力で取り押さえられた。



お読みくださり、ありがとうございました。

誤字脱字、お前三国志本当に読んだのか等、お叱り突っ込みなどありましたらご一報くださいますと嬉しいです。


ちなみに、西涼軍陣地に向かう途中徐庶が歌っていたのは、知る人ぞ知る「梁父吟」。事あるごとに(何百回も)孔明に聞かされ、覚えてしまったというあれです。スーパーの魚や肉やもずくの歌的なやつです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ