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八、

進行速度の割に、今回もボリュームが大きくなってしまいました。お暇な時にご覧ください。

 昨夜から一転、鈍一色の空模様となった。頭上を、薄汚れた羊のような雲がのろのろと移りゆく。その様を馬岱はただぼんやりと見上げていた。

 砦の片隅の、堅固な柵で囲われた一角に、曹軍の捕虜となった者達は集められ、収監されていた。

 元より血の気の多い、西涼兵である。急ごしらえの獄に幽閉された当初は皆、敵の手中に落ちた憤懣と恥辱に駆られており、逃亡、乱闘騒ぎの続発で一時騒然となった。

 だが、見せしめとして兵の一人が首を刎ねられて以降、抵抗らしい抵抗は止んだ。武具一切を取り上げられた俘虜達の間には、諦観と無気力とが漂い始めていた。今は皆一様に、虚ろな目で空を見詰めている。

 負けたなあ、と幾度目かの慨嘆が馬岱の胸をよぎった。

 何故か、口惜しさも憤りも感じない。地に額づかされ、両手を戒められたあの瞬間なら、捕らえた者の喉笛に喰らい付く位の激情も、生じていたのかもしれない。しかし、朱色の暁光に照らし出された井闌せいらんの残骸が目に入った途端、たぎり出でるものは忽然と消え去った。

 原形を留めぬ無残な姿となった櫓の下には一面、ぼろぼろの布状の物体が、剥いだばかりの毛皮のようなみずぼらしさで投げ出され地を覆っていた。思わず、あれは何かと己が腕を掴む兵に問うていた。むしろさ、という素っ気ない返答があった。莚、と馬岱は口中で転がし、そして愕然とした。

 我等が、砦だと信じきっていたものは。大量の莚を繋ぎ合わせ、それを陣幕のように櫓と櫓の間に張り渡した、偽の城壁だったのか。夜陰に乗じて襲い来る敵を、防塁土壕の沼中へと、誘い込む為の。

 白日の下にあったなら、童子にすら指差して笑われそうな、粗悪な細工だ。事実、今の今まで日中の攻勢の際に、そのような奇怪な張りぼてを目にしたことはなかった。おそらくは、見通しの利かぬ夜の間だけ姿を現す、かりそめの城壁だったのだろう。

 毎夕毎朝、曹軍は莚の砦を築き上げては隠蔽していたのだということに、馬岱はようやく思い至った。分かってしまえば、その仕組みは拍子抜けしてしまうほど単純なものだった。井闌の前面に巡らせた、無数の莚を吊り下げた綱を、夕方には両端を引き絞りさながらすだれを垂らし掛けるようにし、夜明けには綱を緩め幕を下に落とす。落ちた幔幕は地面の色に紛れ、一見しただけでは土塁などと見分けが付かなくなる。

 周囲の警戒が、殊に日暮れて後徹底して厳重だった理由も、今ならば分かる。たった一度でも露見してしまえば全てが水泡に帰する、はなはだ危うい計略だったのだから。

 それでも、曹軍はそれに賭けた。

 刹那、ああ、我等は敗北したのだ、という苦い思いが胸に迫った。数で劣り、地勢に疎く、撤退も叶わず、もはや滅びを待つばかりだった彼等は、それでも必死に劣勢を覆す為の方策を探ったのだ。文字通り身命を賭し、恥も外聞もかなぐり捨てて。

 地の利に於いて幾ばくかの油断があったとはいえ、元より此方も、全力で臨んだ戦だった。ならば、今の状況も致し方あるまい。諦念と覚悟が、足底からじわりと馬岱の身体を浸してゆく。

「おい」

 勝敗は兵家の常。武で身を立てようと志した日から、死は常に側にあるものと心得てきたつもりだ。ここで死ぬとしても、それは天命というものだろう。

「おい、てめえ」

 しかし惜しむらくは、この命の使途である。わざわざ憎き敵である我等を生け捕りにしたのは、虜囚を楯に何らかの交渉を期す為であろうことは、想像に難くない。郎党として、主公や若殿の足枷となるような醜態は、断じて避けねばならぬ。武具を全て召し上げられた今、万一の時に速やかに命を断つには――。

「おい、聞いてんのか。てめえのことだよぼんくら野郎」

 唐突に肩を強く小突かれた。考えにふけっていた馬岱は虚を突かれ、唖然として一打を見舞われた方角を振り向いた。

 片腕を肩から布で吊った兵装の若者が、身体全体から尋常でない怒気を発しながら、こちらを睨み付けている。いきなり狼藉を受ける所以が解せず、馬岱は目をしばたたかせ、殺気立つ兵士の顔をまじまじと見詰めた。中原人らしい、粘土に切れ込みを入れた様な瞼の奥が、燃え盛る野火のように光っていた。

 睨み返されたと思ったのか、相手はますます眉と肩とを怒らせ、威嚇するような低い唸りを上げた。

「囚人の癖に、いい態度してんなあ。けどよ、もうちっと己の立場ってもんを考えた方がいいと思うぜ。俺等だって好きこのんで、仲間殺したてめえらに大事なメシを恵んでやってるんじゃねんだからよお」

 問題ない方の手に大きな竹笊を抱えた青年は、憎悪に満ちた舌打ちをするや否や、一息にまくし立てた。

 言葉尻に重ね、荒っぽく顎をしゃくって寄越した先を見れば、いつの間にか、白くて丸いものが馬岱の右手にあった。兵士が携える笊の中身のようだった。

「ったく、西涼の連中はどんだけ偉くてらっしゃるか知らねえがよ、メシぐらい普通に食えっつの。今殺すんならわざわざ生かして取っ捕まえるわけねえだろうが」

 メシ渡してすぐに投げ棄てる奴とか、まじで死にてえのか。片腕の若者は悪態を一旦切り上げると、据わり切った目で再び馬岱を睨め付けた。

「毒なんか入れるかよ。さっさと食え、負け犬」

 てめえら死なすなって命令が来てんだよ、と吐き捨て、兵士はぐいと馬岱の右手を掴んで、強引に鼻先へ突き付けた。

 馬岱は目を白黒させつつ、それでも視界を覆うものに焦点を合わせようと試みた。不思議と、理不尽な仕打ちや物言いへの怒りは湧いて来なかった。替わりに、食べ物らしきそれへの興味が、徐々に強まってゆくのを感じた。

 一先ず、灰がかった白いものをよく観察してみる。匂いを嗅げばほのかに香ばしいかおりがして、成る程、食べ物には違いないようだ。所々黒い焦げ目が付いていて、まだ芯は熱い。西域でよく食される、胡餅(フーピン・小麦粉を練って作る無発酵のパン。インドのナンに近い)に似ているが、もっとずしりとして持ち重りがした。

 矯めつ眇めつ、馬岱はしげしげとそれを眺めた。様子をうかがっていた青年兵の瞳に宿る、剣呑な光がふと緩んだ。

「……もしかしてあんた、米、見たことねえのか」

「米」

 馬岱は、耳慣れぬ言葉を鸚鵡返しに口から発した。兵士は笑う風もなく、真剣な面持ちで頷いて見せた。

「南江の方で取れる穀物だ。蒸して搗いて丸めときゃあ、堅くなって日持ちがする。焼けば柔らかくなるしな。俺も最近、知ったんだがよ」

 まあ四の五の言わずに食ってみろや、と横柄な態度をやや和らげ、若者は再度促した。

 馬岱は躊躇いながらも、未知の糧への関心を、いよいよ抑え難くなっていた。遥か南方の地を滔々と流れる長江は、黄河流域とはまた異なった豊富な作物を育み、太古より人々の営みを支えてきた。大勢の民衆を養い得る肥沃な大地は、草原の部族たる西涼の民の渇望の的であり、またその奪取は長年の悲願でもあった。見たことも触れたこともない、求め続けた豊穣の片鱗が、馬岱の目の前にある。

 片腕の兵が見守る前で、馬岱は恐る恐る、米なるものを口にした。先ずは控え目に、歯先で齧り取る。重量相応の、もっちりした歯応えに少し驚かされる。小片をゆっくりと咀嚼すると、ほのかな甘味が口中に滲み出てきた。小さな欠片を早々に嚥下し、馬岱は続けて二口三口と頬張った。

「うん、うまいな。なかなかいける」

「だろう」

 何故かほっとした表情になった青年は、馬岱が見詰めているのに気付くと、すぐに顰め面に戻った。

「あんたみてえに、最初はなっから素直に食ってくれりゃいいんだがよ。この連中ときたらたかが捕虜になった位で、どいつもこいつも死人みたいな面下げやがって。もう死んじまってんならともかく、生きてんなら食って力付けて、何が何でも生きて帰ってやるってのが、ほんとの士ってもんだろ」

 ああ勿論今のはあんたら生かしとくための方便だぜ、と慌てて付け加えた兵士は、緑林ならずもののような風貌に似合わず、意外と情に厚い人物らしかった。

 そうだな、と素直に頷いた馬岱に、青年兵はてらいのない笑みを返して見せた。悪童の様な幼い表情に釣られ、馬岱も思わず口角を緩めた。




 白露が若葉から落下するように、自然と目が覚めた。

「今、何刻だろう」

 牀(寝台)に寝そべったままで、傍に嗄れた声を掛ける。すぐに控えの侍者が、偶中(午前10時頃)にございますと答えた。

「そろそろ、お起こししようかと思っていたところでした」

 着慣れた衣に腕を通しながら、徐庶は従者の言葉に頷き返した。

 乱戦の後処理が一段落した、早朝の頃だった。徹夜続きの軍師の顔を見るなり、臧覇は左右の者に、こいつをどこかの房に放り込んでおけと命じた。そして彼の人の忠実な部下によって、有無を言わさず手近な房に連れ込まれ、横臥の姿勢を取らされる羽目になった。

 だが、己でも流石に限界を感じていた徐庶は、そのぞんざいな配慮をありがたく受けることにしたのだった。

 牀に倒れ込み意識が無くなる寸前、起こしてくれと頼んだ、丁度その刻限だった。仮眠のお陰で、爽快とまではいかないものの、格段に気分は良くなっている。

 房の外に一歩出ると、土埃の立つ冷風がひゅうと吹き付けた。いつもの突き抜けるような蒼天は、今日はどんよりした灰白色に取って変わられ、見るからに怪しい雲行きである。

 嵐が来るかもしれないな、と危ぶみつつ、徐庶は諸将が集う一室へと急ぎ向かった。

 一つの攻防戦に決着が着いたからと言ってこの戦が終わったわけではない。むしろ、ここからの微妙な舵取りが、事態の明暗を分けることになるだろう。

 だが急を要する折に限って、出鼻を挫かれるものだ。兵舎が立ち並ぶ辻を通ろうとした徐庶の前に、突如として人ではない何かが勢いよく飛び出し、そして鼻先をかすめるようにして駆け去っていった。呆気に取られて立ち尽くす眼前を、今度は一人の兵士が慌てた様子で追いかけてゆく。手を叩き、笑いながら囃し立てる声が、その二つの影の後を追った。

 徐庶も、眼差しだけで影の向かう先を眺め遣った。すると、虜囚と外とを仕切る柵の間に見事な栗毛の馬が鼻面を押し付け、そして柵越しに馬の元の主とおぼしき武人が、厳しい面持ちで駒へと話し掛けている姿が目に入った。件の馬を探し求める兵はようやく追い付いたと見え、馬の手綱を掴むと自らの方へ手荒に引き戻した。

 おや、と思ったのは、柵内の武人の傍に見知った顔があったからだった。未だ片腕を吊った梁信が、珍しく狼狽した面持ちで、西涼人と味方兵との顔を見比べている。

「だめだ、風伯。俺はもうお前の主人ではない」

「話が分かってんじゃねえか。さんざ手こずらせやがって。さあ、大人しくこっちに来るんだ」

「まあちょっと待てって。元のご主人もこう言ってんだし、もう少し別れを惜しませてやれよ」

 柵を挟んで三者三様に言い立てる有り様が、遠目にもつぶさに見て取れた。

「行け、風伯。言う事を聞かねば、鞭をくれるぞ」

 武官らしき捕虜は、柵の間に鼻先を押し込む駿馬を、顔を歪め邪険に追い遣ろうとした。

 士人の断腸の思いを知ってか知らずか、栗毛の馬はなおもかつての主人から離れようとはしなかった。

「風伯……」

 幾ら厳しい態度を取っても引く気配を見せない愛馬に、囚人は心底困り果て、手綱を引く兵はますます怒り狂い、その間で梁信は為す術なく佇んでいる。

 こんなことをしている場合ではないと思いつつも、徐庶はつい、揉め事の紛糾する方へと引き寄せられていった。

「あ、徐庶殿」

 どうしたのだと声を掛ける前に、目敏く徐庶の姿を捕らえた梁信が、安堵の表情を浮かべこちらに笑みを向けてくる。苦笑と点頭で応じた徐庶に、同じく偶然居合わせただけだった糧秣配布役が、改めて事の顛末を伝えた。

「臧将軍じゃねえけど、こりゃ参ったなあ。馬は拾った奴のもんってことになってるし、けど主従を無理矢理引き離すのも忍びねえし」

「ふむ」

 又厄介事に巻き込まれたと思わないでもなかったが、徐庶はしばしの間考え込んだ。仏頂面の兵が握りしめる手綱の先では、武人が今だ懇々と栗毛駒を説き伏せようとしている。その囚人の衣が卑しからぬものであることに、ふと徐庶は気付いた。元は一軍の将なのかもしれない。

「どうだろう。この馬、私に譲ってはくれまいか」

 徐庶は咄嗟に、この兵卒へ提案を持ち掛けた。垂れ眉を釣り上げていた兵士は初め、価値ある戦果を手放すのを渋っていたが、徐庶が提示した値に二つ返事で承諾し、小躍りしながら去って行った。

 引き取った馬を引き連れ、柵の内へと歩み入った徐庶は、どう言葉を掛けるべきか思案しつつ、武人に拱手した。

「私は、この軍にて従事中郎の任を預かる、徐庶と申す者です。西涼のお方、千里を駆ける優駿は乗り手を選ぶ、と聞き及んでおります。曲折経てこの馬は我が手に参りましたが、やはり最も乗るに相応しい方に、お返しするのがよいと存じます。どうぞ、くつわをお取り下さい」

「ご高配いたみ入る。が、俘虜に過分な憐憫は無用です。この馬はまさしく、貴兄のもの。案じ召されるな」

 同情を買われ、おもねられたと思ったのか、囚人は顔を強張らせ、ぴしゃりと言い放った。にべもない拒絶に、如何に話を進めるべきか逡巡しつつ、徐庶は慎重に言葉を選び尚も武人に語り掛けた。

「憐憫、と言うなら半分は当たりです。残りの半分は」

「……何か腹案がおありなのでしょう。俺に、恩を売ることで成り立つような」

「いやはや、これは参りましたな。お察しの通りです。……ですが、そう仰有るなら話が早い」

 頑なな態度を崩さぬ青年校尉の姿を見て、徐庶は心の内を率直に述べることを決めた。このまま婉曲的な物言いを続けても、信は得られそうにないと悟ったからだった。

「侮られたものですな。たかが馬一頭で、西涼の士に同胞を捨てさせようというお積りか」

「そうではありません。ただ貴方に、西涼軍に使者を遣わす際の、取り次ぎと仲立ちをお願いしたいと思ったのです」

「仲立ち……ですか」

「はい」

 徐庶は武人に向かい、再び深々と拝礼した。相手がたじろぐ気配が伝わってきたが構わず、ゆっくりと、だが力を込めて訴え掛ける。

「此度の戦に於いては、貴方もお察しの通り、我々は風前の灯火、蟷螂の斧の如き様態でありました。此度ただ天の配剤あって、九死に一生を得ること叶いましたが、依然として我が軍の不利は変わっておりません。そちらに交渉を持ち掛けても、事によると軍虜ごと一蹴されるおそれの方が大きいでしょう。なれど」

 徐庶は抱拳した手を、衣袖の下でぐっと握り締めた。

「なれど、ただ一度だけ、談判の機会が欲しいのです。

 我々は、望んでこの戦を起こした訳ではありません。貴方達涼州の兵そして民を、損ないに来た訳でもありません。この戦は、元より双方にとって全くの奇禍であったと存じます。既に、多くの血が流れ出ました。そちらの思惑はどうあれ、今は一旦、この争いを決着すべき時ではないでしょうか。

 和議さえ結ぶことが出来れば、貴方がた捕虜も全員、解放して差し上げることも出来ましょう。ですがその為には何よりも先ず、西涼の将が一堂に会す合議の場に立たねばなりません。

 陣にも入れぬ内に追い返されることなきよう、確と陣中へ赴けるようにお導き願いたいのです。下手をすれば使者たる私だけでなく、逆臣とみなされ貴方も殺されるかもしれません。仰有る通り、一馬で購えることではないのは重々承知しております。ですが、そこをげてお願い申し上げる。何卒、我等に力をお貸しください」

 徐庶は一気に言い述べると、首を垂れたまま武人の前に佇立した。

 疑惑一色に染まっていた武人の瞳に、微かな揺らぎが生じる。次第に大きくなるその揺れを促すかのように、気付かぬうちに身を寄せてきた栗毛の馬が、肩の辺りをやさしく食み始めた。

 囚人が、肩越しに愛馬へと注いでいた視線を、徐庶の方へと向けた。

「……あくまで和睦の為の使者であると、そう仰有るのか」

「はい。西涼全軍の撤収と引き換えに、捕虜の返還を申し入れるつもりです」

「その論を信ずる証左は」

「ありません。あったとしても、この場で強者から弱者へ示す論拠など、信は置けますまい」

「俺が断れば、どうなりますか」

「使者は単身、西涼軍の元へ赴くことになる、それだけです。目通り叶わねばそれまで、運よく会見が成ったとしても、交渉が決裂すれば戦は再開し、いずれの際も貴方がた虜囚の首が刎ねられることは必至」

「………………」

 西涼兵に命を惜しむ者はいない、と反駁しかけて、馬岱はふと周囲に目を遣った。かつて馬上で活き活きと弓戈を取り、大地を奔放に駆け巡っていた猛者達が、今は見る影もなく、濁った眼で此方を眺めていた。視線を戻すと、先程米餅を配っていた若者も、身動ぎもせず馬岱を凝視しているのに気付く。苦味を堪えているような、奇妙な表情だった。

 馬鹿なことだ、と思う。申し出を受けようが受けまいが、捕虜が助かる見込みは無きに等しいと、他ならぬあちらから告げられたのだ。ならば、僅かなりとも敵に加担するようなことはせぬのが上策。だが。

 馬岱はふっと顔を上げ、にこりと微笑んだ。その場にいる者が虚を突かれ鼻白むような、唐突な変貌だった。

「分かりました。我が軍への先導役、承りましょう」

「お請けいただけるのですか」

 当惑を隠せぬまま、徐庶は問い質した。囚人ははい、と首肯した後、あっけらかんとした口調で言い添える。

「そもそも我等は、動く城塞の計略に掛かったあの時、死んでいてもおかしくなかった者ばかり。ならば、少々死期がずれたとて何程の事もありません。貴方の弁を完全に信じた訳ではないですが、万事上首尾に終わり、仲間が真に帰参叶うのなら、俺にとっても悪い賭けではないと思ったまでです。それに」

 擦り寄る愛馬の首をぴしゃぴしゃと叩きながら、囚人は又がらりと表情を変え、敵軍師へ挑むような鋭い眼差しを向けてきた。

「徐庶殿、と申されましたね。貴方が使者となられ陣中に赴かれる際、もし合議の席で先程の言を左右し、我等をたばかる様なことあらば、傍に付く俺が即座に斬って捨てます。それでも案内を乞うと申されますか」

「ええ。異存はありません」

 相手の真剣な表情に、敢然と徐庶は応じた。

 それを確かめた囚人は再び顔を綻ばせると、おもむろに居住まいを正し、慇懃に叉手した。

「申し遅れました。俺は涼州軍部校尉を任じる、馬岱と申します。短い期間と相成りましょうが、どうぞよしなに」

「誠にかたじけなく存じます、馬岱殿。貴方のご協力、万騎の兵に等しく心強く思います。必ずや馬・韓両将軍を説き伏せ、捕虜を解き放つ段、確と整えますゆえ」

 二人が穏やかに言葉を取り交わす後方で、成り行きを見守っていたはずの梁信が、おいてめえ、さっき何て言いやがった、と喚き出した。

「冗談じゃねえ、軍師殿を斬るとかしれっと抜かすような奴と一緒に敵陣に行かせられるかよ。俺も行きます、いや、行かせてください、徐庶殿」

 鼻息荒く言い張る部下と、それを必死になだめる黒衣の男に背を向け、馬岱はしきりと何事かをせがんでくる風伯の、耳の後ろをに手を伸ばした。気の済むまで掻いてやろうと腕に力を込めながら、胸中で愛馬に語り掛ける。

 やれやれ、お前のせいで見ろ、妙な具合になった。が、まあ、これもお前が運んできた縁というやつなのかもしれん。

 あの余裕のなさそうなお人の思惑、一体どうなることやら。この奇縁にひとつ、乗じてみるとしようか。

 風伯は大層機嫌よく、耳を震わせぶるん、といなないた。

お読みくださり、ありがとうございました。


ところで、古代中国に日本の餅めいたものがあったかどうかは不明なのですが、ウエスト・ミーツ・イーストを表したかったため、無理やりねじこみました。

誤字脱字捏造ええかげんにせいよのご指摘、謹んで承ります。

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