七、
戦争の場面がございます。苦手な方はお気を付け下さい。
待ちわびていた、地を踏みしだく蹄の音は、拍子抜けする程あっさりと、馬岱の耳に届いた。
すかさず、風伯の背に飛び乗る。手綱を引き絞るや否や、軽く踵で馬の腹を蹴った。風伯も心得たもので、主人の意図を察し指示するよりも早く、歩を進めていた。味方の将兵も、一糸の乱れもなく動き始めている。おそらく、丘の反対側に潜む味方の一軍もまた、順次行動に移っているはずだ。
まだ、敵に気取られるわけにはいかない。並足でゆっくりと、近付き過ぎず、開き過ぎずの間隔を保ち、見失わぬように跡を尾けてゆく。中空より見れば、肉食獣めいた二つの塊が這うようにじわりじわりと、両脇から獲物に迫る様が見えたことだろう。
程なくして、前方で鬨の声が上がった。馬超率いる一軍が、本陣を狙い突撃した夜襲部隊を、正面から迎え撃ったとみえる。剣戟の音が微かに伝わり、夜更けの静寂を揺らした。
奇襲を仕掛けんと繰り出してきた敵兵は、まさか自身が仕掛けられる側になろうとは、欠片ほども思わなかったのだろう。混戦はほんの束の間のことで、向こうの騎兵が早々に馬首を返し、慌てふためきながらこちらに向かってくる様子が、暗目にもうかがえた。人馬の足並みは乱れ、もはや陣の体も為してはいない。
馬岱は手にした白旗を、おもむろに頭上に掲げた。ようやく各々の松明に火が灯ると、あの不可解な焦燥と興奮は消え、代わりに戦いに赴く際の、静かな高揚感と自若とした気概が、身体に満ちてくる。
ぞろりと、獣の群れが蠢き出した。並足から速足、そして駆足へ。速度を徐々に上げつつ、背後からは馬超の軍が、側面は左右の軍が、逃亡する敵兵を押し包むようにして追い立てる。
すくないな、と馬岱は思った。いっさんに逃げる馬群の蹴立てる土煙は、首を傾げたくなるほど低く、わずかなものだった。向こうの駒の数は、三千……いや二千を切るかもしれない。涼州での戦さで、斯様な少数の騎兵しか持たなかったとはと、いっそ敵が憐れにすら思えた。
だが、まともにぶつかり、潰走させるにはまだ時期尚早だ。今は、逃げ遅れたりはぐれたりした者を、刈り取るに留める。
真のねらいは、撤退してきた同胞を収容する為に開かれるであろう、酸塢の門唯一つ。大詰めに至るまでは、あくまでこちらが全力で追討してくると思わせつつ、実際は追い付くぎりぎりの線で煽り、急き立て、砦まで追い込んでゆく。
まるで、狩猟のようだ。馬岱は場違いにも、ふと頬を緩めた。昔、よく馬超と近くの草原に繰り出しては、遊び半分にたった二人での巻狩りを楽しんだ思い出が、こんな場面で蘇るとは。獣を誘き出す勢子の役は、いつも年下の自分だったが、そのお陰で馬岱は、恐怖に駆られた獣の、不測の動きを読むのに長けるようになったのだ。
取り敢えず、ここを落としたら、と馬岱はひりつく唇を湿した。久方ぶりに若殿を誘い、鷹狩りなどどうだろう。喜ばれるだろうか。今度こそ己れも、勢子でなく、弓をもって参じたいものだが。
好し、といっそう奮い立つ遥か先にぽつりと、極小さな灯火が見えた。砦の炬火だ。
直感を確かめる間もなく、豆粒ほどの光は近付く程に二つ三つと数を増し、次第に大きくなってゆく。間違いない。
先ほど越えた巨きな丘の後は、砦まで平坦な荒野が続くのみ。最先鋒の馬岱は、手にした白旗を、更に二度、三度と振り回した。全速で駆けよの合図だった。
はい、はい、と騎馬を叱咤する声が、宵闇の静けさを断続的に貫いた。最高速での騎行は、すれ違う風すらも氷塊で切り付けるが如く、騎手の頬を突っ切ってゆく。だが、そんな瑣末なことに、もはや誰一人として拘泥しない。敵もまた、あらん限りの勢いで、あえかな灯火目がけて疾駆している。少しでも気を逸らせば、その分だけ失速してしまうだろう。
ああ、と思わず馬岱は破顔した。行く手に立ち塞がる砦の門が、ゆっくりと内側をのぞかせ、開いてゆくのが見えた。中には標代わりだろうか、松明が一つ、赤々と燃え盛っている。
開くのは東西の門どちらかだろうと思っていたが、正面の北門が開くとは、嬉しい誤算だ。進路を真っ直ぐに取れれば、破竹の勢いを殺さぬまま、一人でも多くの兵を城砦の内に送り込める――。
ふと、頭の隅に、鈎の如くひっかかるものがあった。
何だ。激しく揺れ動く風伯の背で、馬岱は目まぐるしく頭を働かせた。
北門の前には、おびただしい防備が施されているのではなかったか。いや、問題はない。向こうも騎兵である以上、馬の妨げになるようなところは通るまい。ならば、退却する軍の最後尾にひたりと張り付き、その跡を僅かにも外れることなく、馬を進めればよいのだ。苛烈な騎乗の最中にも、相手の動きに応じ自在に隊列を編み変えることなど、西涼兵にとっては児戯に等しいのだから。
そうではない、と頭の一角が訴える。何か、忘れていないか。必死に、考えを巡らせた。
煩悶する間にも、そびえる城壁が迫ってきていた。
いつの間にやら、敵騎兵はすっかり態勢を整え、砦門へいち早く到達すべく、隊伍を三列に組み直していた。見事な手並みだ、と内心称賛しつつ、馬岱は旗をまた振りかざした。あっという間にこちらも、相手同様の三列縦隊へと、鮮やかに陣形を変える。
そして、土塁や壕のひしめくだろう場所にたどり着く前に、紐帯を編むが如く左右の軍は合流し、前方をひた走る敵の走った跡を踏み外さぬよう、細心の注意を払いつつ、なお一層肉薄してゆく。
この十日余りの間、接近すら叶わなかった砦が、徐々に現れ出で始めた。だが月のない暗夜では、どれだけ目を凝らしても、かろうじて城壁と夜空の境が判別出来る程度だ。その中で一際くっきりと浮かび上がる、少々いびつな馬蹄形の空間の中央に、炎が揺れている。危険は、ない様に見えた。
仕方ない。馬岱は、腹をくくった。せめて己れだけでも周囲をより警戒し、有事の際は出来るだけ迅速に対応するしかないだろう。
敵の黒い戦旗が、一瞬大きくはためき、そして門の内に消えた。それを皮切りに、続々と敵軍が砦の内に飲み込まれていった。
門は、未だ開いたままだ。敵の末尾の一人がようやっと門扉を捉えても、閉じる気配すらなかった。そして、その最後尾に捻り込むように、味方の一人が門の内に侵入した。行ける。一番乗りを左軍の将に譲った馬岱もまた、風伯を門の内へと躍り込ませた。門をくぐった刹那、一つきりの松明が、ぽつんと闇を照らし佇むのが、いやにはっきりと目に映った。城内には他に、何もない。
何だ、全て只の杞憂だったか。勢い付いたまま砦内を突っ切ろうと、馬岱は風伯の腹を更に腿で締め上げた。そしてその時、ふと気付く。
砦の前に、並び配されていたはずの大櫓。あれは一体、何処に。
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「軍師殿」
側付きの副官が、幾度目かの問い掛けを投じる。
「軍師殿……徐庶殿」
だが、徐庶は応じようとはしなかった。そのすがめられた二つの目は、かすかにうかがえる、丘陵のなだらかな線を、ひたと見据えている。
城塞の楼門の上、徐庶は砦の北に広がる闇の底を、窺い続けていた。
一向に反応を見せぬ上司に業を煮やし、副官は諦め、口を噤んだ。そんな側近の様子に、徐庶は気を払う素振りも見せない。
肌は痛いほど粟立ち、長時間組み続けた腕は岩の如く重い。背中にはじっとりと汗をかいているというのに、口内は乾き切っていた。礫を打ち合わせるような、小刻みの拍子が、自らの歯の根が合わぬ音だと悟り、ぐっと奥歯を噛み締める。
恐怖にすくみ上がり、また重責に圧し潰され、今にも崩れ落ちそうになりながら、徐庶はその時が来るのを待っていた。
己れの一声で、皆の命運が決まる。ここを外せば今までの労苦は泡沫と消え、軍団は壊滅の危機に瀕するのだ。緊張の糸は極限まで張り詰め、触れただけでも弾け飛びそうな心境だった。
だが一方で、無風の湖面のような、妙な平静さもまた身体の中に満ちている。臥龍の代用として、劉備の下で幾度か経た戦場が思い起こされた。あの経験が生きたのなら、死ぬような思いをした甲斐があったというものだ。
「軍師殿」
蚊の鳴くような悲鳴が、隣から上がった。同時に徐庶の瞳が、引き裂かれんばかりに見開かれる。来た。遠くにぽつりと、青交じりの燐光が灯っている。松明に混ぜた特殊な薬草の燃える色、我が軍の先鋒を示すしるし。
その後方に、もう一つの火影が見えた。と思う間もなく、見る間にその数は増えてゆく。たった一つきりの緑青色のともし火の背後に、無数の炎が浮塵子の如く群がる様は、圧巻の一言に尽きた。
まだだ。はやる心をどうにか抑え、徐庶は瞬きも忘れて、眼前の光景を睨み続ける。青白い灯が、ぐんぐん接近して来る。まだだ。今少し。程なく、敵の松明も、はっきり目視出来るようになった。まだだ。あの松明の光が、こちらの懐に飛び込むまで。味方が、目標地点に次々と到達してきた。まだだ。敵の先頭の動きを、しかと捉えるのだ。
橙色の炬火が、一線を越えた。今だ。
「今だ、かかれっ」
手を振り下ろすのと同時に、銅鑼の音が響いた。
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天地がひっくり返ったとしか、言い表しようがない。何故俺は、空を見上げているのだろう。馬岱は呆然と、藍墨の中に瞬く星を見詰めていた。
ふいに、悲しげないななきが耳に飛び込んだ。無理矢理首を捻り、声の主を探す。ほとんど真上に近い方向に、微妙に傾げられた、風伯の頭だけが見えた。
こちらからは逆しまに見える愛馬に、風伯、と呼び掛ける。お前、何でそんな格好を。殺伐とした場には不釣り合いな問い掛けに、それでも駿馬は健気に応えるかの如く、ぶるる、と息を吐き、また苦しげにもがいた。
馬岱はようやく、己れが硬い地面の上、仰向けで寝転がっていることに気付いた。身を起こし、風伯に近寄ろうと手を付いた途端、激痛が走る。何とか痛みを堪え、這うようにして相棒の側ににじり寄った。
風伯は、渠のようなところに、首まではまりこんでいた。長く横に伸びるそれが敵の掘った壕だと分かると、馬岱の戦慄と困惑は、更に深まった。四方に目を走らせれば、人馬共に壕に落下した者、土塁や馬防柵に衝突し地に投げ出された者が、累々と横たわっている。
何故、こんなところに。まさか城砦内にまで、こんな仕掛けを施していたのか。我等を誘い込んで陥れる為に。
突如として、ぐわあんという鋭い音が、辺りに響き渡った。馬岱は音のしたと思しき方角を振り仰ぎ、次いで我が目を疑った。まさか、そんな。目の前に、厳然と立ちはだかるのは、今しがた越えて来たはずの、酸塢砦の土壁。先程から鳴り止まぬ銅鑼の音は、その楼閣上から轟いていた。
一体、どういうことなんだ。馬岱は、己れが置かれている状況を全く飲み込めぬまま、すがるように視線をさ迷わせた。
新たな絶叫が上がった。はっとして、背後を振り返る。そちらには、自らが突破し、今も友軍の突入が継続しているだろう、砦門があった。
門の裏側が、目に入る。その刹那、全身がぶわりと総毛立った。
「引け、引けいっ、罠だ、これは罠だ、速やかに、退却せよっ」
そこにあったのは、見失ったと思っていた、五つの井闌。日中とほぼ変わらぬ場所にあるそれらの間を埋めるように、不気味な巨壁がそびえ立っている。
喉も裂けんばかりに張り上げられた叫びは、ずずず、という地を揺るがす、新たな音に掻き消された。
先鋒が門扉の奥になだれ込むと同時に、けたたましい金音が耳をつんざいた。
騎馬軍の攻勢が緩んだのはほんの一瞬で、西涼の誇る勇士達は躊躇なく、進軍を続けてゆく。
ふと、ある者が金鼓の音に混じる、妙な重低音を聞いた。ずずず、というその鈍い音に加え、かすかに大地が震えるのに気付いた者は、単なる地震だと思っただろう。
「あれは」
不意に、誰かが叫んだ。
「何だ、あれは」
別の方向からも、悲鳴のような声が上がった。
「砦が」
怒濤の進撃が、目に見えて鈍る。
「砦が……動く」
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めきめき、ばりりという、樹の幹が裂けたような音に続き、どぉんという衝撃が大気を揺るがせた。どうやら、櫓は全て、上手く倒れてくれたようだ。
眼下には、大量の仕掛けに倒れもがく人馬の群れ、そして障壁が失せ見遥しの良くなった北の平原には、未だに数多の炬火が動いている様が見えた。
あれら全てが、勢いの衰えぬまま攻め寄せてきていたら。ぞっと背筋が凍る。
幸いなことに、混乱に陥った西涼軍は突撃を止め、ゆるりと撤退に転じているようだった。
二すじの狼煙が、城壁より上がっているのを確かめると、徐庶は楼門の階を駆け降りた。
狼煙の合図で、左右に別れた主軍が、退却する敵の両側を突く手筈となっている。錐行する軍は、側面からの攻めに弱い。予め退路に張り巡らせておいた綱と合わせれば、足の遅い歩兵でも、十分騎兵と渡り合える。
酸塢の、まことの城門は既に開かれていた。剣や矛を携えた兵達が、続々と敵の元へ向かっている。徐庶も、剣を取り、城外に飛び出した。砦に残る兵千余は、怪我を負い、まともには動けぬ者ばかり。だが、同様に動けぬ兵馬を取り押さえるのに、何の遜色もない。
果たして、地に転がる敵は、雑作もなく次々と就縛されてゆく。
「殺すな。捕らえよ」
一人でも多く捕らえた者に、恩賞が出るぞ。
上官が声を張り上げながら、作業に当たる兵の間を渡る。
「逃げる者は追うな。抵抗せぬ者を優先せよ」
もはや、戦闘は終わっていた。殺気立ったつわもの達の去った荒野に、ただ風が通り過ぎている。
更なる捕虜を得た主軍も、程なく相次いで帰還してきた。皆疲れ切ってはいたが、その面に暗さはない。
事後処理に当たる者でごった返す中、虜囚の取り扱いを差配していた徐庶の瞳に、ふいに赤光が射し込んだ。
朝日だ。
いつの間にか、夜は明けていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
誤字脱字、訳分かんない等、何かありましたら突っ込み頂けると嬉しいです。
次回更新は少しお時間頂きます。




