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2/13

ニ、

一話に至った経緯です。

全体的に説明文くさく、主人公がひたすらうじうじ悩んでおります。面倒な方は飛ばしていただいても構いません。

 建安十三年(西暦208年)、初冬。

 長江のほとり烏林うりんの岸辺には、水陸合わせ二十万の軍勢がひしめき、巨大な陣営を築き上げていた。陸にははためく軍旗が、水上には大小無数の艦船が、整然と連なり威容を誇っている。

「西涼の馬騰ばとう韓遂かんすい連合軍に、長安を狙う動きあり、か。ふむう」

 竹簡から目を上げ、側に控える従者にそれを手渡しながら、曹操は穏やかな目でぐるりと左右を見渡した。

 軍議の行われる天幕の中は、ここへきてぴりりとした緊張感に満たされていた。

「どう思う、程昱ていいく。ありえぬ話ではないが」

「は」

 眉間を指で摘まみ、揉み解す主君に、至近に控えていた白髪長身の家臣が一足進み出て、答えた。

「馬騰、韓遂の両人は先に位官を与えられて後、かの地に幾度か小競り合いもあり、ここ数年は比較的大人しくしておりました。が、その乱にもおおよその目途が付き、またこの度丞相が東呉の征伐の為許都を空けられたのを奇貨とし、その留守居を狙って攻め入ってくることは、十二分に考えられまする」

 ぼそりぼそりと、か細く歌うような老臣の言葉にいちいち頷き返し、曹操は眉間から手を離した。

「ならば何とする。今、我らに西涼二十万の兵馬を防ぐ余裕はないぞ」

「仰る通りに存じます。されど、報せはあくまで報せ。先ずは誰か人を遣わし、真偽の程を明らかにするのが得策と心得ます」

 言い終えると、程昱はすっと後退し、天幕のそらに届くような長身を折り曲げるようにして、座し直した。

 曹操は両のこめかみを手で挟みこみ、しばらくじっと考え込んだ。持病の頭痛を抑え、良案を模索する時の癖だった。諸将の間の緊張が、いっそう高まる。

荀攸じゅんゆうよ、それでは誰を西涼に送り込むべきかのう。この会戦、出来得るなら一人として余所にやりたくはないが」

 その場にいる全員の視線が、曹操の左に座する小男へと集まった。

 揚州に権勢を誇る孫権の軍勢を確実に平らげるため、曹操は万全の体勢を期して大軍を整え、先に支配した地荊州けいしゅうを立ち、慣れぬ軍船に乗り遥々ここまでやって来たのだ。

 孫権軍が降伏するにせよ、一戦交えるにせよ、よりによってこの時期に曹操のもとを離れたい臣下は、誰一人としていない。

 誰を指名しても、その者の恨みを買ってしまうだろう。それに、一人でも人員を裂くのが惜しいというのも、全くの本音だった。

 指名された男は、眉を下げ目を白黒させながら、重い口を開いた。

「恐れながら、わたくしめには決めかねます。……とはいえ、万が一に備え、将を派遣するという程昱殿のご意見は至極ごもっともにて、わたくしも賛同するところ。はてさて、困りましたなあ……」

 心底弱ったように首をひねる参謀役に苦笑いしつつ、曹操は再び、ぐるりと一同を見渡した。

「では、どうだ。誰ぞ涼州に行ってくれる者は」

 決して大きくはないその声は、天幕の隅々まで染みる様に行き渡った。

 しんと、その場が静まり返る。互いが互いの腹を探り合い、そろって息をひそめる。幕舎の内に、重苦しい空気が漂った。

「僭越ながら、私が参りましょう」

 息の詰まるような、長い沈黙の後、末席の向こうから発された言葉に、誰もが一斉に振り返った。

 無数の視線が集まる先に、黒い道袍に黒い冠、額にきっちりと白い布を巻いた、風変りな出で立ちの男の姿があった。

「おお徐庶か。お主が行ってくれるなら、心強い」

 曹操に手招かれ、徐庶は近寄ると、跪拝して深く首を垂れた。

「……丞相の下に召し抱えられてから後、無為徒食を心苦しく思っておりました。何卒その任、私にお命じ下さいますよう」

 視線を地面に落したまま、徐庶は低い声で申し述べた。ややあって頭上でふむ、と安堵の溜め息が聞こえた。

「よし」

 ぱん、と一つ手を打ち、曹操が腰を上げた。それに倣い、他の諸将もざっ、と席を立つ。

「徐庶、そちを鎮西軍従事中郎に任ず。また、長安に駐屯する臧覇に威西将軍の位を授ける。その麾下一万五千の軍と共に涼州金城に向かい、馬騰、韓遂両軍の動向を探って参れ」

「謹んで、拝命いたします」

 稽首し、差し出された割り符を、徐庶はおしいただくようにして受け取った。曹操はその瞬間、何でもないことのように、低く囁きかけた。

「方寸の乱れはまだ収まらんか」

 徐庶は思わず、俯いていた顔を上げた。戸惑う眼差しの先で、一見何処にでもいそうな小柄な男が、面白がるような表情で徐庶をのぞきこんでいる。山中の沼のような、底の知れない深い瞳と徐庶の視線が、ほんの一瞬交わった。

 己の非礼に気付き、徐庶はさっと目を伏せた。

「まあ、よい」

 中原の一の覇者は興味を失ったようにそう呟くと、ついと面を上げた。程なく散会となった。

 命を拝した黒衣の男は、立ち上がると踵を返し、幕舎の外へと歩み始めた。

「上手く逃げおおせたな」

「穀潰しの鼠が」

 通り過ぎる徐庶の耳に、聞こえよがしの囁きが飛び込んできた。男は黙って、幔幕の布地を払った。

 

 

 

 

************

 

 

 

 

「……結局のところ、西涼はまつろわぬ地だからね。不穏な噂が立てば、何らかの手を打たざるを得ない。まあ先ず、怪しまれることはないだろうよ」

士元しげん、恩に着る。昼行燈の身だが、劉備りゅうび殿や孔明こうめいと事を構えたくはないからな」

 ぽちゃん、と飛沫が上がり、川面に小波が広がった。色黒で頑強な体つきの、農夫然とした風体の男が、足元の小石を拾っては水に投げ入れている。

 男は水辺にしゃがみこんだまま、肩越しに同門の友の方を振り向いた。

「しかし、いいのかな、元直げんちょく

「何がだ」

 明らかに心ここに在らずという風の黒尽くめの男に、士元と呼ばれた人物はふう、と一つ溜め息をついて尚も問い掛けた。

「潮時だと思うがね。戻ってはどうだ、劉皇叔りゅうこうしゅくのところに。この先、本気で曹操に仕えてゆきたいと思っているわけでは、ないんだろう」

 とぷん、とのんきな音を立てて、小石は水中に沈んでいった。

 声を掛けられた男はしばらく、言うべき言葉を探し、口を開きかけては閉じるを繰り返した。だが、やがて諦めたように目を伏せ、力なく首を振った。

「……理由はどうあれ、俺は一度劉備殿の許を去り、袂を分かった身だ。それに、孔明にもひどいことをした。一体どの面下げて、あそこに戻れるだろう」

「そこまで思い詰めなくともいい気がするがね。劉備殿も、大功ある奴を蔑ろにはすまいし、諸葛亮しょかつりょうはあれで友人は大切にする男だ。歓迎されると思うがなあ」

 未だ俯いたままの男の額に巻かれた白い布を、色黒の男がちらりと見上げた。痛ましそうに、蚕のような太い眉が寄せられる。

「そういえばまだ、お悔やみを述べていなかったね。ご母堂のことは、本当にお気の毒だった。まともに忌も明けないうちから、余計なお節介を言ってしまったな」

 自嘲するような男の言葉に、黒装束の人物の強張っていた頬が、わずかに緩んだ。

「……礼を言う、士元。心配してくれて、本当に有難く思っている。だが、あの手紙を貰った時から、俺の命運は定まっていたように思う。今はこのまま、流れに逆らわず、己の行く末を見極めようと考えているんだ」

 茫遥と大河の向こうに目を遣る友人の横顔を一瞥し、男は深く一つ、頷いた。

「……そうだなあ、これもまた、良い機会かもしれん。この策がうまくいったら、元直、西方の酒をとっくり試して来いよ。なあに、西涼軍なんて万に一つも来やしない。後方に曹軍百万の威勢が控えている限りはね」

 よっこらしょ、と男は立ち上がり、衣に付いた枯葉や小枝を手で払いのけた。

「さてと、私は戻ることにするか。元直、息災でな。また会える日を待ってるよ」

「ああ、士元も気を付けて。皆に宜しく」

 応えの代わりに片手を挙げた男は、片足が不自由らしく、一足進むごとにひょいと体が傾いだ。

 未だ蒼天に舞うことを知らない鳳の雛は、踊るような動きで立ち去ってゆく。その丸く硬い背中を、徐庶は見えなくなるまでずっと、見つめていた。

 

 

 

 

************

 

 

 

 母の死は、誰が何と言おうと自分のせいだと思う。

 

 馬をひた走らせながら、払っても払っても頭の中に浮かんでくる考えに、徐庶はまた再びさいなまれていた。

 この一年で、五十も歳を重ねた気がする。

 一年と少し前、荊州刺史の食客に甘んじていた劉備に策を授け、五千の兵で三万の大軍を退けた。

 その功もあって、劉備とその配下の者達は、流れ者の徐庶を快く迎え入れてくれた。才を発揮する場を探し放浪を続けていた自分も、これ以上ない主君と居場所を得た。

 最初の数ヵ月は目が回るように忙しかったけれども、とても充実し、むしろ楽しかったと思う。何より軍という人の集まりを整え、大勢を養いより精強にする手段を考え、実際その通りになってゆくのをこの目で確かめるのは、無上の喜びだった。

 おかしくなったのはやはり、あの書簡が届いてからだ。

 母からの便りと言われ差し出されたその文面には、母の拙くも力強い筆跡で、徐庶を側に呼び寄せたいというようなことがしたためてあった。

 その文を目にした時の、胸に広がる冷たく苦い感覚を、徐庶はいまだに覚えている。

 夫である父を早くに亡くし、貧しい家を女手一つで切り盛りしてきた母。時には男の働き手に交じり、重労働に明け暮れていた母。反抗的で悪さばかりしていた自分を、泣きながら張り飛ばし叱っていた母。

 友人の仇打ちに赴く時も、「しっかりおやり」と尻を叩いて送り出した人だ。弟が亡くなって寂しいからという理由で、不肖の息子を呼びよせるはずはない。ましてや、自分が劉備軍に所属したと耳にしているだろう、この時期に。

 おそらく、曹操の元に捕らえられた時から、母は死ぬつもりだった。それもただ死ぬのではなく、曹操の名声を道連れにしようと、敢えて捕らわれたのだ。曹操の前に連れ出された時も、さぞかし威勢のいい罵声を浴びせたことだろう。

 書信は、いきなりの最後通牒だった。行かなければ確実に母は殺される。だが行ってしまえば最後、二度と劉備の元へは戻れなくなるだろう。

 忠と孝の狭間で一昼夜悩みに悩みぬき、徐庶はとうとう劉備に暇を願い出た。仁君は涙を流してそれを許し、徐庶は諸葛亮を後釜に推して、曹操の許都へ向かった。

 

 そして母は首を吊った。

 

 どうすれば、一番ましな手を打つことが出来たのだろう。どうすればよかったのだろう。

 徐庶は馬を駆りながらなおも自問する。

 軍門には下るが、決して献策はしない。曹操に初めて目通りした時、徐庶はかの人に開口一番、そう申し告げた。

 たかが一浪士、それも敵の軍より参った者とは考えられない、強気で居丈高な宣言だったが、曹操は鷹揚な態度でその言を受け入れた。

 だが今度の孫呉・劉備連合軍に対する遠征軍には、まだ母の忌も明けていない徐庶も、強引に駆り出されることになった。献策せぬの主張も、親の三年の服喪も、ねじまげられたかたちになった。

 仕方ない、とは思う。勢力の強いものの軍門に下るとは、そういうことであると、少しは納得していたつもりであった。額に白い布を巻いたのは、せめてもの弔意と、ささやかな抗議のしるしだ。

 烏林に駐屯する軍と共に、鬱々とした日々を送っていた徐庶の元に、わずかな変化の兆しがあったのは、滞陣一月に及ぼうとする時だった。

 曹操の陣にふらりと現れたのは、かつて水鏡先生こと司馬徽の元で机を並べた龐統ほうとうだった。

 旧交を温める暇もなく、徐庶は龐統に、戦禍に巻き込まれない為の方策を乞うた。

 ある噂を流してくれという依頼は、許都にいる他の朋友が、二つ返事で引き受けてくれた。

 そして、徐庶は今ただひとり馬を駆り、遥か極西の地を目指している。

 烏林を出立してから後、徐庶はただひたすら西に向かった。一刻も早く遂行せねばならない役目ではなかったが、宿場では馬を換え糧食を賄うのみで、昼夜兼行で馬を進めた。疲れを感じればわずかの間草を枕に休み、起きると口に露を含んでまた馬上に戻った。

 何が、才子だろう。何が、軍師だろう。

 細かな泡を吹き疾走する馬の背で、徐庶は叫び出したくなるのをじっと堪えていた。

 昔から武や智の能に、多少の自負はあった。

 天下に大きく鳴り響かずとも、万人を援けることはできなくとも、己ひとり身を立て、それなりに人を活かすことは出来ると、信じていた。

 だが今のこの有様はどうだ。他人の知恵と情けに縋り、この身を保つのが精いっぱいの、この有様は。この度も、劉備殿のところへも戻れず、さりとて曹操の配下になることも出来ず、己可愛さに逃げて来ただけではないか。

 劉備殿の元を去って、忠を捨てた。母を縊死させ、孝を破った。主君を心に定めず義に惑い、振るう智を失った。

 これ以上、何が出来るというのだろう。何を為せばいいのだろう。

 考えても考えても、何も思い浮かばなかった。良い案が何一つ思いつかぬまま、どうすれば、という最初の問いに戻る。何十回、何百回、それを繰り返しただろう。

 死ねばいい、とも幾度か思った。この問いを即刻終わらせる、一番楽な方法だ。だがそれは、決して選べぬ手段だった。己の身惜しさからではない。この世でまだ、自分がただ生き永らえるだけで保たれるものが、たった一つだけ残っていた。

 狂ったように駆ける馬に翻弄されながら、徐庶はふと空を見上げた。いつの間にか、晩秋の澄んだ夜空が、頭上一面に広がっていた。

 輝く氷のような星々の間に、つうと一すじ、剣の閃きのような光が横切った。

 仁、忠、孝、義、智、信。何もかもが徐庶の中からぼろぼろとこぼれ落ちていって、今はもう何も分からない。

 あの流星の軌跡が乱麻を断つ如く、自らの迷いを断ち切ってくれることを、しばしの間、徐庶は切に願った。が、すぐに前方に向き直り、自嘲の笑みを浮かべて馬に鞭を当てた。

 

 

 

 徐庶は風のように馬を駆り、二十日とかからずに長安へ到着した。間を置かず、合流した臧覇軍と共に、涼州の門戸たる金城へと向かった。

 曹軍赤壁に破らるる、の報を受けたのは、金城に着いて間もない頃だった。


お読みくださり、ありがとうございました。

誤字脱字、突っ込み頂けますと幸いです。

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