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1/13

一、

基本三国志演義準拠ですが、いろいろおかしな点もあるかと存じます。どうぞ生ぬるい目でご覧ください。

 目の前に、海原が広がっていた。

 

 これまでに海を見たことは、二度ほどあった。

 一度目は幼い頃、母と弟と共に、戦乱を避け徐州の親戚のところへ身を寄せる途中。二度目は役人に追われ、逃亡を重ねて北海(山東半島の辺り)の地まで至った時に。

 どちらもちらりと横目にかすめただけで、はっきりと見た、と言えるようなものではない。

 それでも、雲一つなく澄み渡った蒼天の下、草木もまばらなくすんだ茶と黄土色が幾重にもうねり重なる、たどってもたどっても果てのない大地は、色こそ違うがまさしくあの時強烈に惹かれた海そのものだ、と強く徐庶じょしょは思った。

「……殿、軍師殿」

 どのくらいそうやって、ひたすらに地平線を見据えていたのだろうか。

 いぶかしげに自分を呼ぶ声は、聞き慣れない響きも相まって、最初耳をするりと通り抜けた。

「徐庶殿」

 今度はいささか強い口調で名を呼ばれ、徐庶ははっと後ろを振り返った。

 粗末な麻の巾を着けた若者が、落ち付かなげにいななく馬の手綱を繰りながら、迷惑そうな顔でこちらをうかがっていた。

 徐庶よりいくつか年下の、二百人程のこの部隊を率いる、卒伯長の男だった。名は確か、梁信りょうしんと言っただろうか。

 徐庶は、決まり悪げに手の甲で口許をぬぐった。知らぬ間に、口の中は砂利だらけになっていて、思わず顔をしかめる。

 ここ西涼の地に常に吹き荒れる、凍てつくような強風は、細かな埃や砂粒を巻き上げ、人の衣の内側と言わず沓の中と言わず、果ては顔に開く穴にまで容赦なく侵入し、砂と埃だらけにしてしまう。

 その突風の中、馬上一人呆けたように口を開いて前方をただ眺める様は、さぞかし間抜けに見えたことだろう。それとなく居住まいを正し、徐庶はそそくさと来し方を振り返った。

「そうだな、そろそろ戻ろうか。ぞう将軍も待ちくたびれている頃だろう」

 はい、と素っ気ない返事があり、程なくして軽装の歩兵二百余名が、一斉に出てきた砦を目指し、進み始めた。

 西涼の門戸にあたる街、金城より、黄河を挟んで北に二十里(約8.7km)。度々漢帝国の領域を侵す西方の異民族の襲来に備え、西涼の地には特に、城郭都市の周囲に幾つかの防衛拠点が設けられている。

 金城周辺の要衝の一つ、酸塢さんう城砦に着いたのは、ほんのつい先刻。皆が三々五々荷を解こうとする中、「辺りの様子を知りたい」と自ら物見を申し出たのは、徐庶だった。

 素性の知れぬ新顔とはいえ、従事中郎(参謀役)の任にある者を単騎で送り出す訳にもゆかず、たまたま近くにいた部隊が、徐庶の護衛を任されることになった。

 旅装を解く間もなく哨戒に駆り出され、まんまと貧乏くじを引かされた兵士達は、内心不満たらたらで「軍師殿」の酔狂に付き合っていたのだろう。砦を出る時より格段に速い皆の足取りに、徐庶は苦笑しながら、自らも馬の腹に踵を当てた。風が今度は順風となって、徐庶の背を押した。

「なんだ、あれは」

 いくらも進まぬうちに、隊伍の列の内から、忽然と声が上がった。

 右前方で馬を並足に走らせていた梁信が、兵士の指さす方向へ顔を向けた。徐庶も、釣られる様にそちらを見遣る。

 日輪は既に中天を過ぎて大地へと近付きつつあり、人々の影を細く長く伸ばしかけている。傾いてゆく太陽の方角に、逆光に照らされて、おかしなものがあった。

 なだらかに波打つ丘の稜線が途切れ、ぎざぎざと乱れる一部分があった。これが緑広がる中原であったなら、何の疑いもなく木々の連なりだと思ったことだろう。だが、山も木もほとんど見当たらない辺境の地で、あのような形を取るのは果たして岩か、雲の連なりか、それとも。

 ずずず、と遠くで奇妙な音がした。徐々に大きくなるそれが、馬蹄が地を震わせる音だと、徐庶はいくらかの逡巡の後、ようやく気付く。

「卒伯長」

 徐庶が呼び掛けるや否や、梁信がすがめていた目をかっと見開き、声を限りに叫んだ。

「伝令、至急救援をっ」

 鋭く短い指図に、列の先頭で騎乗していた兵士が、たちまちのうちに手綱を引き絞って馬身を翻し、土埃を上げ砦の方へと駆け去った。

 それとほぼ同時に、丘の一部と思われた歪な凹凸が、見る間に巨大な黒い塊となって、こちらに押し寄せ始めた。黄昏ゆく光を跳ね返し、黒く蠢く塊から時折銀色の不気味な光が、きらりきらりと放たれた。

 徐庶の目の前に、きらめく兜と冑をまとった騎馬の一団が迫っていた。その数、およそ千。

「馬鹿な、何故こんなところに」

 知らず、呻き声がこぼれ落ちた。乗り手の動揺が伝わったのか、馬がたたらを踏み暴れるのを、徐庶は必死に御しようと手綱を引いた。

 ぴしりと音がして、騎手の意に反し、乗る馬が突然走り出した。慌てて引き留め振り向いた徐庶の目の先に、険しい顔をした梁信の姿があった。

「馬鹿はあんたです。さっさと逃げて下さいよ」

 ぶっきらぼうにそう言い放たれ、徐庶は一瞬返す言葉を失った。

 得物すら満足に帯びていない、二百ばかりの歩兵。騎馬を持つのは、徐庶と、隊長格の梁信、先ほど放った伝令役だけだった。

 徒歩では到底馬の脚に敵わず、追い付かれるのは自明の理。本陣の酸塢の砦は五里(約2km)後方だ。

 今まさに迫り来る敵の撃退も、逃げ切ることも、増援の到着も、全て絶望的だった。

 騎馬の軍勢の周囲に、大量の砂塵が舞い上がって天を覆い、太陽の輪郭が泡玉のように浮かび上がっている。

「何をしている、お前たちも逃げろ」

 分かっていても、言わずにはいられなかった。案の定、上官を屁とも思わぬ態度で、梁信はふんと横を向いた。

「見りゃ分かるでしょ、無理ですよ」

 これが俺達の仕事ですから、とくるりと背を向けると、若者は隊列の最後尾へ馬の鼻を向けた。

 自分を逃がす時間稼ぎをして、死ぬつもりなのだ。徐庶ははっきりと悟り、愕然とした。

 確かに今取り得る最上の選択は、護衛の対象を安全な砦まで逃がすことだ。そのための護衛、そのための兵士。分かっているつもりでも、徐庶はやり切れない思いがした。

『軍師殿』の気紛れに付き合わせたばかりに、ここで死なせてしまうのか。砦での任を請け負う間もなく、戦功を立てる機会もなく。

 他ならない、自分のせいで。

「卒伯長、馬を捨てろ」

 自らも馬を降り、その尻に剣の柄を叩き付けながら、徐庶は若き部隊長の背へと声を放った。

「あんたまだ逃げてなかったんですか、馬を捨ててどうしろって……」

「全員、戟持ち、矛持ちを前に方陣を組めっ。出来るだけ小さくまとまるんだ」

 声は無様に裏返り、吹き荒ぶ風にかき消されそうになる。

 梁信だけでなく、他の兵士たちも、始め何を言われたか分からないといった面持ちのまま、徐庶をまじまじと見つめていた。

 梁信が馬から降り、さっと手を挙げた。徐庶の周囲に旋風が巻き起った。

 ふわりと身体が浮くような感覚に襲われた。全速力で走る最中に、急に止まると勢い余って転げてしまう、あの感覚だ。

 瞬き一つする間に、ささやかな布陣は完成していた。いつの間にか徐庶は、人の密集する陣中央に据え置かれていた。

 五十足らずしかない長柄の武器は、整然とその穂先を敵に向かい並べ、栗の毬のように即席の矢来を覆った。得物の石突き部分は全て、地面に強く食い込ませ、容易く動かないよう固定してある。大きな衝撃にも、耐えられるように。

 意図した以上の陣構えに、緊迫した状況ながら徐庶は内心、舌を巻いた。

「来ますぜ」

 すぐ横から、低い声がした。顔中埃まみれの兵士の目が、白く光っていた。

 徐庶が前方に視線を向けると、矛戟の林の向こうに、湧き上がる雷雲のような恐ろしい勢いで、騎兵の群れがこちらに突っ込んで来るのが見えた。もはや兜の下の騎手の顔立ちまで、はっきりと分かる距離だった。

 いくら生ける衝車のような騎馬軍団でも、この針山に突っ込めば無事ではいられないだろう。だが、所詮急拵えの馬防柵。

 千もの駿馬の暴流を、防ぎきることが出来るのだろうか。このような柔い松の針のような備えでは、瞬く間に蹂躙されて全滅するのではなかろうか。

 歯の根は一瞬たりとも合わず、熱病にかかったように身体の震えが止まらない。だが目だけはひたと前方を見据え、徐庶はひたすらその時を待った。旗印に記された『馬』の文字が、じわりじわりと大きくなってゆく。あと百丈、五十、二十。

 ぶわりと、分厚い空気の層が頭の両側を横切った。どどどどう、とごく間近に瀑布のような轟音が響き渡っている。だが覚悟していた衝撃はやって来ず、こちらの陣列は微動だにしていない。何が起こったかを把握できず、徐庶は左右を見渡した。

 小さく固まる部隊の両側すれすれを、大岩に分たれる激流のように駆けり行くのは、正面からぶつかったと思われた騎馬の軍だった。待ち構える矛先の直前で、布を裂くように綺麗に真二つに分かれ、至近距離を保ちつつ、陣をかすめるようにすれ違って行く。

 騎馬の一団は、徐庶らの背後でまた合流すると、惚れ惚れするような動きで悠々と丘の方を目指し、馬を進めていった。

 徐庶は槍ぶすまを再び騎馬軍団へと向けた。だが、同じ手は二度と通用しないだろう。先ほどのように勢いに任せ突っ込むどころか、鮮やかにかわされた揚句に側面や背後を突かれたら。徐庶の背に新たな汗が伝った。次は確実に潰される。

 奇妙なことに、丘の上まで来ると、騎馬の一団はぴたりと動きを停めた。辺りを揺るがしていた馬蹄の響きがふっと途絶え、不気味なほどの静けさが枯れた草原を覆った。

 軍勢の先頭に、一際きらびやかな鎧兜に身を包んだ一人の武者が前に数歩、進み出た。そのまま、じっとこちらを窺う様子だった。

 徐庶の脳裏に、故郷の山中で出くわした一匹狼の姿が浮かんだ。獲物を値踏みし、襲いかかる隙を執念深く待つ、獰猛な獣の視線。あちらからは見えぬと分かっていても、徐庶はぎり、とその武将を睨み返した。

 しばらく、両者の間にただ風が吹き渡った。

 突如としておおおおおお、と鬨の声が上がった。後方を振り返った味方から、続いて歓声が上がる。

 背後から現れた二千程の騎馬軍団はあっという間に斥候の小部隊を取り囲み、間髪入れずに丘の上の敵軍目がけ、矢を放ち始めた。

「はてさて、俺らは間にあったのか。それとも間にあわんかったのか」

 敵に攻めの拍子を悟られぬよう、断続的に弓を射る兵士の群れの中から、徐庶の方へおもむろに馬の歩を進める者があった。徐庶は拱手し、深々と頭を下げた。

「助かりました、臧覇ぞうは将軍。九死に一生を得た思いがします」

 くかか、と胡麻塩髭を震わせ壮年の男は笑った。

「着いたばかりで死なれたら、笑い話にしかならんぞ。これに懲りて、軽挙妄動は慎めよ小僧。……時に、あの軍だが」

 馬上からぐっと顔を寄せた男に、徐庶は深く頷いて見せた。

「あの威容、人馬一体の動き。中原でなかなかお目にかかれぬものです。ほぼ間違いなく、西涼の軍兵かと」

「うむう。信じたくはないが、そうらしい。……お、動きよった」

 ふと気付いたように丘の方向を向いた臧覇の視線の先で、騎馬軍団がゆっくりと動き出した。どうやら撤退を始めたようだ。

 背後からの逆襲を十二分に警戒しつつ、のそりと立ち去っていくその姿は、やはり野の獣を彷彿とさせた。つい先ほどまでその顎の下にあったことを思い出し、徐庶は慄然とした。

「旗に『馬』の文字がありました。もしや、あれは」

 ほう、と臧覇の長い眉が上がった。

「錦馬超か。それが本当なら、お前、よく無事だったもんだ。……しかし参ったのう、本当に西涼の奴らとぶち合うことになるとは」

 それを言いたいのは自分の方だという言葉を飲み込み、徐庶は丘の向こうに退いて行く騎馬軍団をじっと見つめていた。

 最後の一兵が消えた時、ほうと大きく息を吐くと、全身から一気に力が抜けていくのが分かった。徐庶は必死で足を踏ん張り、へたり込みそうになるのを堪えた。単衣は水をかぶったようにぐっしょりと濡れていることに、今更ながら気付く。布地が素肌にべたりと張り付いて、不快この上なかった。

「そういやさっきの陣立て、ありゃなかなかのもんだった」

 にやにやとからかうような笑いを浮かべ、臧覇は徐庶の方を振り向き、声を掛けた。

「恐れ入ります。かつて曹公が、」

 刹那、ざらりとした違和感を覚え、徐庶は一旦口をつぐんだ。今仕える君主をよそごとのように呼ぶのにも、はっきりと我が君と呼ぶのにも、どちらにもどうしようもなく抵抗があった。

「……丞相じょうしょうが呂布と対峙された折、逆茂木を幾重にも用いて、あの精強な騎馬軍を破ったと聞きました。咄嗟のことでしたが」

「ほほう。あれを人と戟とで真似たのか。大したものだ」

 人の悪い笑みを深めた臧覇の顔を見て、徐庶ははたと自分の迂闊さに思い当る。

 かつて東方の地で猛威を振るい、曹操に捕らえられ殺された飛将呂布は、臧覇のかつての主君。冷汗はもう勘弁してほしいと内心げっそりしながら、徐庶は平静を保とうと唇を湿し、首を振った。

「ただの思いつきを、兵たちが良い動きでかたちにしてくれました。正直、あの者たちが居なかったら生きていなかったと思います」

 率直な賞賛がくすぐったかったのか、臧覇は短い髭の生えた顎をぽりぽりと掻き、ふんと鼻を鳴らした。

「何を抜かす。青州兵の精強さは当世とって随一。歩兵風情と侮るあいつらに、もうひと泡吹かせてやりたかったわ……まあ、侮ってくれたからこそ、あの毬栗が効いたのだろうが」

 全くその通りだった。あの騎馬の一団からは、確かにただならぬ覇気と重圧感が放たれてはいたが、不思議と殺気だけは感じなかった。

 お前たちなど、いつでもひと揉みに出来る。

 傲慢で苛烈な無言の警告を残した西涼軍の去った丘を、徐庶はもう一度じっと凝視した。

 背後で、臧覇が帰城の号令を発している。夕暮れ間近の空は、蒼みを濃くして、集う兵たちを包みこんでいた。

お読みいただき、ありがとうございました。

誤字脱字、ここおかしいよ等々ありましたら、ご指摘いただけると嬉しいです。

次回は過去の赤壁編を予定しています。

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