私は死んだら花になる
それは年のはじめ、正月も終わり、皆が元の日常に戻り始めた頃の、ある平凡な日曜日のことだった……。
私はいつものように三歳になったばかりの娘、未希と遊んでやっていた。
すると、娘が私に急に得意げにこんなことを言った。
「パパ、わたしね、しんだらおはなになるの。いいでしょ?」
そして、くすくすと無邪気に笑う。
「――ん? 大きくなったらの事かな?」
私は不思議に思って、聞き返す。
「ちがうよ! しんだらだもん」
未希は少し怒ったように頬を膨らませて、そしてまた無邪気に笑った。
どういうことかはよく分からなかったが、まあ、よくある子供の作り話か何かだろう。その時はそう思い聞き流していた。
だが、あれから一ヶ月と経たぬうちに娘は死んでしまった。
交通事故、だった。
娘と公園に遊びに行った帰り、妻が目を離した一瞬の事だったらしい。信号無視のトラックが突っ込んできたのだ。妻は慌てて娘の腕を掴み、引き戻そうとした。
――が、一瞬遅かった。
妻の手は空を切り、娘の体は空を舞った。
「いやー!」
妻の悲鳴が響く。
現場には立ち尽くす妻と、血まみれになった娘の姿という悲惨な光景があったという……。
悲しむ間も無いほど慌ただしく娘の葬式が執り行われた。私自身、ショックが大きく葬式の時の様子など詳しい事はほとんど何も覚えていなかった。
ただ、娘のことを色々と思い出したことだけは覚えている。初めて歩いた日の事、初めて「パパ」と言った日の事など、たくさんの思い出が溢れてきた。そして、気がつけば頬が涙で濡れていた。
葬式が終わった後も、娘を失った喪失感から会社に行けない日々が続いた。――しかし、そんな事も長くは言っていられない。
私以上に深刻なのは……娘の事故の後、ふさぎ込むようになった妻だった。
娘の葬式から数日が経った日のことだった。
「ちょっと、あなた。見て!」
妻が嬉しそうに笑いながら駆けてきた。
久しぶりに、妻が笑っていた。
笑っている妻を見るのは……ひどく懐かしい気がした。娘が死んでから、まだ一週間と少ししか経っていないというのに……。
彼女が持っていたのは、何の変哲も無いごくありふれたプランターだった。しかも、中には土も何も入っておらず、数年前に使用していたと思われる、茶色く薄汚れがついたものだ。
「これが、どうかしたのか?」
「やだ、分からないの? ほら、よく見て。小さな芽が出ているでしょ。」
そんな事、あるはずがなかった。
土も何も入っていない、言ってみればただのプラスチックの箱である。そんな所に植物なんて生えてくるわけがないのだ。
それを妻に告げると、「見えないんだとしたら……あなたの目がおかしいんじゃないの?」と笑われてしまった。
おかしいのはそっちの方だろう。そう言い返そうかとも思った。が、娘を亡くしたショックもあって混乱しているのだろうと思い、「そうかもな」と返す。
問題はその翌日だった。
妻は早朝から例のプランターに水を注いでみたり、話しかけてみたりと、そこに付きっ切りになり、家事などを一切しなくなったのだ。
「――飯は?」
返事がない。
「おい! 聞こえてるんだろ?
……ったく、いい加減にしてくれよ! 俺だって疲れてるんだ。な、分かるだろ?」
もう一度声を掛け直してみても、文句を言ってみても、全くの無視だった。
耳が聞こえなくなったかと思い、肩を叩きながら再度声をかけた。
そして得られた妻の反応は、「あれ」と言って、テーブルの上の食パンを指差すことだけだった。
どうやらそのパンを食え、という事らしい。仕方なく冷蔵庫にあったジャムをつけてなんとか朝食を済ませた。
しかし、昼食はそうもいかず、コンビニへ行って弁当を(もちろん妻の分も一緒に)買ってきた。夕食も同じ状態だった。
私は、初めて掃除や洗濯といった家事を全てこなした。おかげで普段の妻の苦労を身を持って知ることとなった。
そう、その日からだ。プランターに向かい続ける、そんな妻の姿しか見かけなくなったのは……。
それからは私が一人で全ての家事をこなし、会社へも通った。なのに……妻は、急に私の部屋をプランターのための部屋にすると言い出したのだ。
もちろん、私は反対した。
しかし次の日、彼女は私の意思を無視して勝手に私の部屋の物を廊下に出し、扉に鍵を掛け、部屋に閉じこもってしまった。
「おい、出てこい!」
声を掛けたが、一向に出てくる気配がない。
その日から、私の生活スペースはリビングになった。ベッドの代わりにソファーで寝起きし、仕事で使うパソコンは食卓に置かれるようになった。
それからしばらくが経ち、彼女がいない生活に慣れた頃のことだ。
突然部屋から出てきたん妻は、嬉しそうに「ねえ見て。ほら、綺麗でしょう、この蕾。……ねえ、ちゃんと見てる?」とやはり空のプランターを私の前に突きつけた。
「何も見えない」
そう返すと、妻は不機嫌そうな顔をして何も言わずに再び部屋へ戻ってしまった。
家に帰ると、妻が久しぶりに料理を作っていた。
「お、珍しいな」
「うふふ。わかる? 綺麗でしょう?」
「ん? ……何の事だ?」
「あなた、気付かなかったの? 満開よ。昨日見せたでしょ? あの子の花」
「そうか。ついに咲いたか……」
――終わった。
そう、思った。妻はもう、花の事なんて気にしない元の生活に戻ってくれる。
食卓に着いた私は、妻の料理を食べようと箸を伸ばした時だった。
「ちょっと、何してるの! コレはあんたじゃなくてこの子のための料理よ! 勝手に食べないで頂戴!」
急に妻が怒鳴った。結婚して五年以上経つが、妻がこんな口を利くのは初めてだった。
その日の私の夕飯は、いつも通りのコンビニ弁当になった。私は、冷めた弁当をつつきながら妻は戻ってこられないのだろうと思った。
それから何日も経たない日の事だ。
妻が死んだ。
話を聞く限り、自殺らしい。
妻は線路に飛び込んだのだという。詳しい状況を知りたくても、現場は誰もいない無人駅であったため情報が得られなかった。
本当は事件かもしれない。けれど、本当に自殺かもしれない。真実が何も分からないまま、妻の葬式等もあっけなく終わった。
一人になると、妻がいた頃の、しかも、彼女がまだ狂っていなかった頃のことを思い出し、家族も誰もいない家の中で泣いた。
それこそ、涙が枯れてしまう位に。
そして、ふと思い出して、妻がいつも気にしていた例のプランターを覗いてみた。そこには、いつの間にかふかふかな土が敷かれ、うっかりしていると見逃してしまいそうな小さな芽が二つ、顔を覗かせていた。
――いつの間に?
妻が言っていた事は本当だったのだろうか?
色々と考えを巡らせたが、明日は月曜日。仕事に備え、早く寝ることにした。
次の日、仕方なく会社へは行ったものの、プランターが気になり仕事に集中できなかった。そのせいで仕事が進まず、家に持ち帰る仕事の量が多くなってしまった。
普段なら空いている便を待つのだが、一刻も早く帰りたかった私は、無理矢理すし詰め状態のバスに乗った。
そして、私は家に着くなり急いでプランターに向かった。
一日放って置いたからだろうか、小さな芽は少し萎れたように見えた。
翌日、私は急いで仕事を終わらせて自宅へと急いだ。
やはり芽は萎れていた。
それを見て私は決意した。
私は辞表を出し、上司の反対を押し切って仕事を辞めた。と言うより、会社に行くこと自体を止めた。
これで一日中、家でプランターと一緒に過ごせる。それがとても嬉しかった。と、同時に妻への申し訳ない気持ちが広がった。――あんなに冷たくあたるべきではなかったな、と。
私は毎日プランターに向かった。
声を掛けると、嬉しそうに葉を広げ、水を掛けるとくすぐったそうに小さく震えた。笑っているようにも見えて、とても嬉しかった。それを見ていると、妻があんなにも熱心に花に向かう理由が分かった気がした。
私は飽きることなく水をやり、話しかけた。
花は、仕事を辞めてからは萎れる事もなく、ゆっくりと、しかし順調に大きくなってくれた。
一ヶ月と少しが経った頃だろうか。花は大きく成長し、一つは私の背と同じくらいの大きさになった。そして、もう少しで開きそうな綺麗な蕾もついた。
そして、それから間もなく花が咲いた。
ちょっとの風でも飛ばされてしまいそうな小さな花と、それを守るように咲く大きな花。私には、それが妻と娘のように思えた。
「未希、咲希……」
思わず娘と妻の名前を呼んでいた。
――会いたい。
強くそう思った。
その夜、夢を見た。妻と娘のいる花畑に、私が一人遅れて急いで駆けて行く夢だった。
「パパおそーい。わたしパパのこと、ずっとまってたんだよ!」
「あなた……。ようやっと来てくれたのね」
私たち三人は、色々な事を語り続けた。
この夢がこのまま覚めなければいい。そう、思った。
それから一週間後。
彼の遺体は、異臭に気付いた近隣の住人の通報により、警察に発見された。
死因は気管の圧迫による窒息死。――首吊り自殺だったという。
現場となった彼の自宅には、一冊の大学ノートに記された日記が残されていた。
そこに書かれていたことを元にして作成されたのがこの物語であるが、日記中に何度も記されている「プランター」は家屋のどこからも発見されなかった。
一説にはこれが全て男のでっち上げた物語に過ぎず、計画的な一家心中ではないかともされている。