あなたの目覚めを待っている
目的地である政務室が見え始めた時、不意に漏れ聞こえてきた声にセイラ・アルシーヌの足は自然と止まっていた。
「──まあ、ユージン様ったら! それはあまりに意地悪ですわ」
鈴を転がすような愛らしい声。
この国の王太子であり、セイラの婚約者であるユージン・フランクスの名前を親しげに呼ぶその声に、セイラは奇妙な胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。
セイラは今日、王妃の茶会に呼ばれて登城しており、その前に婚約者に挨拶をしようと足を運んでいたのだが、どうやら先客がいたらしい。
来客を伝えるために扉を叩こうとした護衛騎士を静止し、セイラはそっと中の様子を窺った。
「本当のことさ、シャノン嬢。君のように魅力的な返答をしてくれる相手なら、いくらでも言葉を交わしたくなるのは当然だろう?」
応じる声は当然というべきか、この部屋の主ユージンのものだった。少し低く、どこか楽しげに跳ねるその声の響きに、セイラの胸がツキリと痛む。
(私はそのような声を向けられたことはないのに……)
セイラが彼の前でどんなに隙のないように振る舞っても、政務の助けになればと修めてきた知識を披露しても、ユージンがセイラに向けるのは常に退屈そうな、冷ややかに硬い声だけだった。
面白味のない女だと暗に告げるような、突き放すような深い溜息。
鬱陶しそうにセイラを下げる身振りを向けられても、セイラはただ彼の意を汲んで口をつぐみ、頭を下げて辞すことしか許されなかった。
それがセイラと言葉を交わすときの王太子の振る舞いで、セイラの前でこんな風に親しげに笑ったことなど、一度としてありはしない。
公爵である父の教えに従い、母の望むままに「完璧で控えめな淑女」としての振る舞いを身につけたのに、この王宮では──王太子には、それはひどく不快なものであるようだった。
立ち尽くしたままのセイラに、背後に付き従う侍女も護衛の騎士も口を開かない。
普通であれば婚約者である公爵令嬢を差し置いて他の令嬢と親しくする王太子の不徳を諫めるか、あるいはセイラにこの場を離れるよう進言する場面だろう。しかし、侍女も騎士もまるで何も聞こえていないかのように無表情で佇んでいるだけだった。
誰もセイラに助け舟を出そうとはしないし、王太子の非を咎めようともしない。
王族である王太子が自ら率先して公爵令嬢を蔑ろにしているのだから、どちらの味方もできないのかもしれないが。
あるいは彼らを御すのも王太子妃となる者の役目だと、王妃に何か言い含められている可能性も否定できなかった。
(でも私は──)
扉の両脇に立つ衛兵が見下ろす視線に小さく身を縮め、無意識に詰めた息を細く吐き出そうとした時だった。
「まったく。殿下もシャノン嬢には甘くなるようだ」
「ええ。ですがこうして息の合ったお二人の姿を見ていると、我々も安心しますよ」
「気遣いもでき、殿下の補佐としても優れていれば重用したくなる気持ちは理解できますけどね」
扉の向こうから、さらに若い男たちの声が重なった。ユージンの側近たちだ。
王国の未来を支えるはずの側近たちですら、彼らに同調し、シャノンを交えた会話で盛り上がり、無邪気な笑い声をあげる。
廊下にまで洩れ聞こえる楽しげな声と、セイラの周囲を包む凍り付いたような沈黙。
進むことも引き返すこともできずに重厚な扉の前に足を縫い付けたセイラの耳に、聞き慣れてしまったユージンの深い溜息が聞こえてきた。
無意識に体が強張る。
「それに引き換え、公爵令嬢は」
心底うんざりとした、厄介事でも押しつけられたかのような重苦しく冷淡な響きに、セイラは体の前で重ね合わせた手をぎゅっと握り込んだ。
「確かに勉学はできるし、立ち居振る舞いも完璧だ。だが、それだけだ。まるで感情も意志のない人形と向き合ってるようで、息が詰まるよ。あれとの時間は退屈で仕方ない」
「いけませんわ、ユージン様。セイラ様はとても厳格な教育を受けられたとお聞きします。……私のように思ったことをすぐ口にしてしまうような、愚かな女とは違いますもの」
しおらしいシャノンの言葉に、側近の一人があからさまに鼻で笑って同調する。
「謙遜なさらないでください、シャノン嬢。意志もなくただ周囲の言われるがまま動くあの方よりも、ご自身の言葉で殿下を笑顔に出来るシャノン嬢の方が、よほど魅力的で素晴らしい女性です」
「ええ、そうですよ。セイラ様とお過ごしになられたあとの殿下はいつもお辛そうですが、シャノン嬢と過ごされたあとはとても政務も捗られているのですよ」
「今日はシャノン嬢は登城していないのか、なんてよく口にされますしね」
「おい、お前たちの主はいったい誰だ?」
「もちろん王太子殿下でございます」
「調子のいい奴らだ」
無遠慮な言葉の刃が次々と投げつけられる。
彼らはセイラを貶めた口で、シャノンの愛らしさや朗らかさを称賛する。聞こえてくる声はまるでそれが日常の会話であるように、少しの躊躇も後ろめたさも含まれてはいない。
これがセイラがいないときの、彼らの本心なのだ。
(違う……、私は、ただ)
期待に応えていただけだ。
父母の教えを守り、王太子妃として立つために努めてきただけだった。
本当は言い返したかった。だが、セイラの唇は縫われたように開けることはできず、指先ひとつ動かすこともできなかった。
幼い頃から「従順であれ」と植え付けられてきた教えに反することはできない。傷付けられていると理解しながらも、反論も許されずただ胸を張り続けることしか、セイラは知らない。
「……セイラ様」
永遠とも思えるような沈黙の後、溜息を押し殺したような声で侍女が囁いた。
そしてまるで何事もなかったように、「そろそろお時間が」とセイラを急かしてくる。
扉の向こうではすでに話題は変わっているものの、明るい声が続いている。
セイラは何も言わず、ただ頷いて扉の前を離れた。
それだけしか、今のセイラには許されていなかった。
◇
夜の暗闇に静まり返る自室で、セイラはベッドに伏し、ひたすら涙を堪えていた。
瞼を閉じれば、今日という一日に受けた冷酷な視線と不条理な言葉が何度も頭の中を巡り続ける。
王太子の政務室を離れた後、セイラは予定通り王妃との茶会に参加していた。
耳の奥から離れないユージンたちの笑い声、薔薇の棘が刺さったまま抜けない胸の痛みを抱えたまま臨んだ席で、セイラは失態を犯してしまった。
「どうして簡単な受け答えすら滞るのですか。そんなにわたくしとのお茶は退屈かしら?」
王妃の冷ややかな叱責に、セイラはただ深く頭を下げ、「申し訳ございません」と繰り返すことしかできなかった。
釈明することなど許されない。だが、謝罪を口にするセイラの頭を見下ろしたまま王妃は心底落胆したように深く大きな溜息を吐き、今度は「王太子妃となるべき者がそう簡単に頭を下げてどうするのか」と新たな叱責が飛んでくる。
それからはただ、針の筵で過ごすような、息もできないほどの苦痛な時間だった。
ようやく辞すことを許されても、公爵邸に戻ってからも安息はなかった。
夕食の席に座る父の顔は怒りに歪んでいた。
「王妃殿下に失礼があったそうだな。あれほどお前に教育を施してきたというのに、何故できない!?」
食卓に響き渡る怒声に、母はただ静かに目を伏せ、兄は責めるようにセイラを見ていた。
「何故」と問われても、セイラに答えられるはずがなかった。王妃の問いかけにすぐに答えられなかった自分が悪いのだから。ただ「申し訳ありませんでした」と、ここでも謝罪を口にすることしか許されていなかった。
明かりを消した部屋の中で、セイラはシーツを強く握りしめた。
誰も自分の心を見てくれない。
完璧であることを求められ、少しでも躓けば心配することもなく容赦なく責め立てられる。婚約者にも、侍女にも、王妃にも、そして家族にさえも、セイラという人間は必要とされない。
こうして失意のままベッドに縋るセイラを抱きしめてくれる腕もなく、あたたかな言葉をかけてくれる声もいない。
逃げてしまいたい。
家を抜け出し、名前も捨てて、どこか誰も自分を知らない場所へ行ってしまえたら──。
幼い頃にこっそりと読んだ絵本に描かれていた。
自由に旅する少女の話。
少女の旅は明るいものばかりでなく、辛いことも困難もあったけれど、それでも少女は前を向き、自分の足で人生を歩んでいた。
そうして少女は、自由な旅の終着点で彼女の唯一と出会うのだ。
忘れかけていた熱っぽい思いが胸裏をよぎるものの、セイラはすぐに自嘲的な笑みを浮かべた。
着替えの準備も、お金の工面も、一人で街を歩く術すら持たない自分に、彼女のような旅ができるはずもない。逃げる勇気すら持てないのだ。
ふいに、カタリと風が窓を揺らした。
セイラはぼんやりとバルコニーへ続くガラス戸を見つめた。その先の向こう、あの手すりを越えて、夜の闇へと飛び出してしまえば、この苦しみも、責め立てられる日々もすべて終わるのだろうか。
だが翼も持たないセイラでは飛び出した直後に落ちてしまって、地面に叩きつけられてしまうだろう。それはきっとすごく痛いのだろうなという恐ろしさが込み上げてきて、途端に足が竦む。
逃げることすら、死ぬことすらできない。
自分は本当に何もできない、哀れで空っぽな人間なのだと、セイラは暗闇の中でただシーツを濡らした。
その時だった。
『――あー、イライラする! 何この女!』
突然、頭の中に声が響き渡った。
セイラのものではない。
どこか投げやりで、苛立たしげで、けれどハッキリとした意志を持った女性の声。
「え……?」
セイラが驚きに目を見開き、声の主を探すように暗い室内に視線を彷徨わせる。
その間も声は不機嫌そうに言葉を重ねていた。
『ハッ! 盗み聞きなんてしてるくせにバカにされても黙って引き下がるとか正気? 普通あの場で扉ぶち開けて「ふざけんなこの不倫野郎!」って怒鳴り込むところじゃないの? ってか私ならそうしてやるわ絶対。あの厚化粧ババアもさぁ、「テメーの息子が浮気野郎だから集中できなかったんだよ」って暴露してやればよかったのに。あー、でもわかってて放置してる可能性もあるんだっけ? うっわ、性格わるっ。結婚もしてないのにもう嫁いびりとか、絶対苦労するパターンじゃん、これ! なのにメソメソうじうじいじけるばかりで、察してちゃんとかほんと無理。ここから飛んだら落ちて痛いなんてわかりきってるじゃん、バッカみたい!』
あまりに直情的で、これまで聞いたこともない乱暴で自由な発想が怒涛と放たれる。
それらは容赦なくセイラの胸を突き刺し、自分の惨めさを突き付けられる。
けれどその声は確かに、自分以外の「誰か」が自分の中に存在していることを告げていた。
セイラは震える唇を小さく開き、静寂の中に溶かすように静かに問いかけた。
「……あなたは、誰、なの……?」
『だいたいさあ、親に告げ口する王妃も最低だけど、親も親じゃん! 一方的に決めつけて怒鳴りつけて少しも事情を聞こうとしないし! 母親は我関せずだし兄は睨むだけだし、そりゃこんな家庭で育ってたら委縮して当然よ』
頭の中で叫ぶ声は止まるどころか、ますます勢いを増していく。その過激な言動に、セイラはただ圧倒されるしかなかった。
けれど、その声はセイラのことも悪し様に叫んでいたけれど、それは今日聞いてきたどの声とも違ってセイラのことを見てくれているような気がした。
セイラはゆっくりと体を起こすとぎゅっと胸の辺りを握りしめ、二度目の勇気を振り絞って声を発した。
「あの……、お願いします。答えて下さい。……私の中にいるあなた様は、どなたなのですか?」
すると、それまで止まることなく矢継ぎ早に言葉をまくしたてていた声が、ピタリと止まった。
『…………え?』
居た堪れないような沈黙が続き、やがて焦ったような声が響いた。
『え、は、うそっ。会話してる!? えっ、もしかして私声に出してた!? ていうかこれ、夢じゃないの!?』
先ほどまでの威勢の良さはどこへ行ったのか。声の主はパニックに陥っているようだった。
頭の中でバタバタと取り乱すような気配がどこか微笑ましく──、ふっと笑いをこぼしてしまいそうになった唇を引き締めて、セイラは困惑を残したまま頷いた。
「はい。さきほどからずっと……、とてもはっきりと聞こえております。……あの、夢、とおっしゃいましたが……」
『いやいやいや、だって私普通に寝てたはずだし! え、マジで? 夢じゃなくて? それとも私、とうとう死んじゃった!?』
パニックを起こす相手に対し、セイラはぎこちなく問いを重ねながら、ひとつひとつ言葉を交わしていった。
混乱する声の主を落ち着かせ、互いの状況を探り合うように会話を続け、「いかなる時も冷静に対処せよ」という教えがこんなところで役に立つなんて、なんの皮肉だろうか。
この時ばかりはよかったと思えた──それがおかしかった。
声の主は「聖良」と名乗った。
セイラと同じ読みの音を持つ名前。彼女はここではない異国の世界に棲む人間なのだという。
『実はね……最近、寝ているとたまにあなたのことを夢に見るようになっていたの。いつもこの屋敷とか、王宮であなたがボロク……、言いたい放題言われている場面を、ただ映画──劇みたいに見ているだけでさ。こっちの言葉が届いたことなんてないし、今日もまた「悲劇のヒロイン劇場かぁ」なんてイライラしながら見てたんだけど、まさか繋がっちゃうなんて思わないじゃん……』
頭の中に直接聞こえてくる聖良の声は、先程までの激しい怒りに代わり、気まずさと気恥ずかしさが混ざり合っていた。
声は年若く、聖良はセイラと同じか、年下のように思えた。
そんな聖良に悲劇のヒロインと、そう言われた言葉が胸に冷たく突き刺さった。
まさに自分のことだ、とセイラは思ってしまったのだ。
悲劇の渦中に身を置き、理不尽に傷付けられながらも、ただ波に流されるように漂うことしかできない。聖良の言葉の端々には、そんなセイラに対する明確な蔑みが含まれていた。
可哀想だと同情されるよりもずっと、その冷たさがセイラの心を苦しくさせる。
『はぁ……マジかぁ……。まさか異世界の人間と意識が繋がるとか、どんなラノベ……』
聖良が呆れたような、けれどどこか興奮を孕んだ息を吐き出す。
『私ね、現実では交通事故に遭って入院中なんだよね。えっと、馬車よりも早く走る箱にドーンとぶつかっちゃって、ずっと治療中でベッドから出られないの。ベッドから動けないし超ヒマで、んで、あなたみたいな境遇の女の子が出てくる物語とかそういうのいろいろ読んでて、急に夢に見るようになっても「あー、はいはい。なるほどね?」って感じだったんだけど』
唐突に語られた聖良の境遇は、セイラには想像もつかないほど苛酷なものだった。馬車に轢かれればどうなるか、セイラでも理解ができる。それよりも早くとは想像もできなかったが、軽く言われた言葉にたまらず口元を抑えていた。
けれど聖良の声には、自身の悲劇を嘆くような湿っぽさはかけらもなかった。
やがて、聖良は軽い思いつきを話すように、まるで不要になったドレスを譲り受けるかのようなトーンで話し始めた。
『ねぇ、あなたさっき、窓から飛び降りたいとか思ってたよね? 自由なんてなくて、ずっと周りのいいなりで、死ぬ勇気も逃げる度胸もない。……そんなに自分の人生が嫌でたまらないんだったらさ』
一拍の間の後、聞こえてきたのはあまりにも突飛で身勝手な提案だった。
『その体、私にくれない?』
嫌だ──!
その一言を口にできればどれほどよかったか。
一瞬で胸の奥からわき上がった拒絶。自分を苦しめる人しかいない世界でも、見知らぬ誰かに自分を奪われるのは恐ろしい。
だが、開いた唇ははくりと空気を食むだけで、自分の意志を伝えることがあまりに恐ろしい。死にたいわけじゃない、ただ、自由になってみたかった。
『ふーん。それは嫌なんだ』
けれど意識が繋がっているらしい聖良には、きちんと拒絶の感情が伝わっていた。
ほっとセイラは胸を撫で下ろし、「申し訳ありません」と言い慣れた謝罪を口にしようとした、その時。
『でもさぁ、死ぬのも私に乗っ取られるのもそう大差なくない? 全部捨てて消えたいとか思ってたんでしょ。むしろ死んでおしまいより、代わりに私が生きたほうがお得だと思うけど』
聖良の声に悪意は感じ取れなかった。
ただ当然の理屈を聞かせるような、空恐ろしいほどの無邪気さだけがあった。
まるで自分の中に得体の知れない何かが棲みついてしまったような恐怖にセイラが声を失っている間にも、聖良は説得しようと言葉を重ねていた。
セイラの体で自由に動いてみたいのだと。手術の待つ現実から逃れたいのだと。
切実に語られる訴えに、セイラは聖良を突き放すことはできなくなっていた。
しかし聖良に明け渡している間自分はどうなってしまうのか、恐ろしすぎて考えたくもない。
セイラは震える声を振り絞り、微かな希望に縋るように訊ねた。
「あの……、私にいつか返してくださるのですよね……?」
考えるような沈黙の後、返ってきた答えはあまりにもあっけらかんとしたものだった。
『え、死にたいんでしょ? なんで返す必要あるの? ──まあ大丈夫だって! 私ずっとあなたのこと見てたから人間関係はとりあえず把握してるし、知識だって消えるわけじゃないでしょ? なんとかなるなる。それにさ』
聖良がおかしそうに笑う。
『あなたにこの体を返したところで、私みたいに立ち回れる? そりゃ、いきなり変わったら怪しまれるだろうし、ちょっとずつ変えていくつもりだけどさ。その時になって親の言いなりにならず、浮気男にバカにされても泣かないって、そう言えるの?』
心底不思議そうな問いかけ。
それを即座に否定できないことこそが、彼女の言葉を証明してしまっているのだろう。
変わりたいと、変われるはずだと思っていれば、そもそも逃げようとは思わない──。
(ああ……、そうだったのね……)
聖良は言っていた。ずっとセイラのことを見ていたのだと。セイラの視点で、セイラがどんな待遇を受けているのかも、その何もかもを。
一番身近でセイラのことを見続けてきた聖良が無理だと告げているのだ。
ならばきっと、そうなのだ。
頭の中で何かがパチンッと切れる音がした。
◇ ◇ ◇
いつの間にか、セイラ・アルシーヌは変わっていた。
ユージン・フランクスにとってのセイラとは、感情を持たない綺麗なだけの人形だった。こちらの言葉にただ微笑んで頷き、反論はなく、自分の意志など欠片も見せることはない。
三大公爵家の中で唯一誕生した公女として、彼女が厳しい教育を受けていたことは知っている。だが公爵たちはやりすぎた。たとえ彼女がその犠牲者であろうと、無味乾燥で従順すぎるだけの人形を娶ることに、積極的な感情を抱くことはできなかった。
政略であろうとも、自分の感情を持たない者とどう信頼を築けというのか。
またそこに母である王妃も加担していることが、ユージンの頭を悩ませていた。
それなのに、最近のセイラはどうだ。
政務の折、意見を求めてもただ「殿下のお考え通りに」と控えていたはずの女が、独自の意見を述べ始めたのだ。多少意地の悪いことを突いてみても、理路整然とした反論まで返してくる。
変わったのは自分に対する態度だけではない。
それまで口を挟むという自発的な言動を見せることのなかったセイラの変化に、裏があるのではと側近の一人がきつく苦言を呈したことがあった。だがセイラはそれに腹を立てることもなく、皮肉と蔑みを交えてにこやかに一蹴していた。
人形姫が意志を持ち始めた──。
そう囁かれ始めるのは遅くなく、セイラが自ら積極的に茶会を催しているということもあり、加速度的にその噂は社交界に広まった。
唯一の公女であり、王太子妃となる彼女主催の茶会には、繋がりを求めて誰もがこぞって参加したがった。
しかし、その茶会の招待状がシャノンのもとに送られることはなかった。
シャノン・ヴェイル侯爵令嬢。父親が王城の財務部長を務めている彼女はセイラに次ぐ高貴な身分を持ち、知性と自信にあふれた女性だった。打てば響くように意見を述べる姿も好ましく、ユージンはセイラの代わりとするように政務室への入室も許可した。
そんな彼女がセイラの茶会に呼ばれないということは二人の間に何かがあると告げているようなもので、周囲は次第にシャノンに対して厳しい目を向けるようになった。
その窮状に、一度だけシャノンに泣きつかれたことがあった。
だからユージンは気乗りしないものの、打診の事実を残すためにセイラへ声をかけたのだ。シャノンを何故招かないのか、と。
そうして返されたセイラの返答を、すぐに理解することはできなかった。
「お断りいたします。私の茶会は有意義な情報交換と歓談の場ですの。あの方のように思ったことをすぐ口にしてしまうような、愚かな方をお招きすることはできませんわ」
瞬間、何故そのような物言いができるのか、ユージンは反論するつもりだった。
しかし完璧に浮かべられたその笑みに、その瞳の冷ややかさに、返す言葉を失うしかなかった。そして彼女にいつだったかの会話を聞かれていたことを、認めなければならなかった。
あの時、自分たちはいったい何を口走っていたか。
(……まるで、別人にでもなったかのようだ)
意志を持たず、周囲の言いなりで、人形のように感情を持たなかった婚約者。
けれど今の彼女には、最早当時の面影はない。
(いや──。変わらざるを得なかったのか……。そこまで追い詰めたのは、私だ)
彼女の変化はユージンにとって歓迎すべきことである。しかし、その過程は許されたものではない。
かつての冷めた感情も忘れたように、セイラのことを考える時間が増えていった。彼女の行動を追い、その報告を聞くたびに、見て見ぬふりをし続けていた罪悪感が胸を刺す。
ユージンだけは彼女の味方でいるべきだった現実を、過去の過ちは、悔やんでも悔やみきれない。
悩み続けた末。ユージンは自らセイラを茶会へと招いた。
これまでも婚約者としての義務から定期的に時間を設けてはいたが、心から「彼女と話をしたい」と望んで設けた席はこれが初めてだった。
約束の時間通りに現れたセイラは、やはりどこか別人のように見違えていた。
かつて彼女を覆っていた、誰かの影となるような暗さは一切ない。堂々と背筋を伸ばし、歩みを進める姿には、公女らしい自信と品格があふれ出ていた。今の彼女ならば、王太子の傍らに立つ妃として何ひとつ申し分ない。
茶会が始まると、ユージンは今まで冷遇していた事実などないようにセイラとの会話を楽しんだ。どんな話題を振っても今のセイラは自身の言葉で意見を返してくる。それだけでなく、ユージンが話す意図を理解し、一段掘り下げた質問も投げかけてくる。
互いに笑みを交わしながら弾ませる会話は、かつて感じていた退屈さとは無縁の、実に有意義で胸の躍る時間だった。
だから、ユージンにはどうしてもセイラに伝えなければならない言葉があった。
「──セイラ。これまでのこと、すまなかった。許して欲しいとは言わない。だが、叶うのなら君とやり直したい」
ユージンが頭を下げると、周囲に控えていた者たちのざわつく気配が伝わってきた。
しかしユージンはすぐに頭を上げることもなく、ただセイラからの言葉を待った。
それはどれだけの時間だったのか。
やがて茶器の触れ合う微かな音が響き、セイラが静かに口を開いた。
「私はあの夜、一度死んだのです」
セイラの言葉に、ユージンは思わず息を呑んだ。
あの夜とはすなわち、セイラがユージンたちの会話を聞いてしまった日のことで──。
「これまでの私は、ただ従順であることを求められてきました。父の厳格すぎる教育、王妃様の些細な失敗さえ許さぬ冷ややかなお言葉、そして何より……周囲が私に向ける蔑みの視線」
淡々とした声で紡がれるセイラの言葉に、ユージンは頭を下げたまま拳を強く握りしめた。
そして思い出したようにセイラから頭を上げるよう告げられ、ゆっくりと彼女を見る。
セイラの顔に、怒りも憎しみもなかった。ただモノとして見るその目には、胸が痛むほどの覚えがあった。
それは周囲にいる側近たち、なにより他でもないユージン自身が彼女に向け続けていた目なのだから。
「今更の謝罪など不要です。……もう、どうでもいいのです」
セイラはそっと己の胸に手を当て、どこか遠くを見るような目をする。
その姿に堪らない焦燥感を抱いても、ユージンにはかける言葉さえ見つからなかった。
「完璧でなくとも、自分の意志を持って振る舞う姿が受け入れられる──その現状に私は心底疲れ果ててしまったのです。何もかもを投げ出し、ただ自由になりたい……。婚約者がいようと平然と不義を働き、その相手と共に婚約者を蔑むような方を、どうやって信頼し、やり直せばいいのか……。残念ながら、私の教師たちは誰一人それを教えてはくれませんでした」
ユージンの顔から一気に血の気が引いていく。
離れた場所に控える側近たちにも彼女の声は届いているのか、彼らも顔色を悪くしている。
「それに、ほんの少し振る舞いを変えただけで手のひらを返したように擦り寄ってくる方にも、心底うんざりしましたの。ですからどうぞ、私との婚約を解消してくださいませ」
「なっ……」
「もしそれが無理だとおっしゃるのなら。私は今度こそ死ぬだけです」
次の瞬間、セイラは躊躇いもなく先程まで使用していたフォークを手に取り、その先端を自らの喉元へと突き付けた。
その瞳には迷いも揺らぎもなく、ただ静かな決意とこの世界全てに対する決定的な絶望だけが宿っていた。
どこまでも完璧で理想の淑女となったはずの婚約者が、婚約解消と自らの命を天秤にかけている。
突き付けられた現実と、そこに込められた取り返しのつかない拒絶を前に、ユージンはただ愕然として立ち尽くすことしかできなかった。
◇ ◇ ◇
王宮内、それも王太子の目の前で得物を自らの喉元に突きつけるという前代未聞の自殺騒ぎを起こした結果、セイラとユージンの婚約は白紙撤回となった。
しかしながら当然、家名に泥を塗られたとしてアルシーヌ公爵は激怒し、セイラを幽閉した。身一つで馬車に乗せられ送られた先は、領地の一角にある古ぼけた屋敷だった。
多少の手は入っていたもののセイラが送られたのは急なことで、迎え入れる準備は万全とは言い難いものだった。
それでも王都の窮屈な空気から逃れ、長閑に流れる空気を吸い込んだセイラは、恐縮する使用人たちとは裏腹に少しも気にしてはいなかった。
元より、セイラ──聖良は現代日本の一般家庭で育ち、公爵家や王宮での豪奢な生活のほうが性に合わなかったのだ。
「はぁー……! やり遂げたっ……!」
公爵家にあるセイラの部屋のベッドよりも固く粗末なベッドに横たわり、聖良はぐっと両腕を突き上げた。
あの日、精神の限界を迎えて糸が切れてしまったセイラの意識と入れ替わり、表に出たのは聖良だった。まさか本当に意識を乗っ取れるとは思えず、焦りもしたが、だが出てしまったものは仕方がない。
夢で見せられ続けてきた鬱憤を晴らすように、しかしセイラの評判は貶めないように、聖良は慎重に暴れまわった。そのための教養もマナーも、すべてセイラの身に宿っていた。多少の問題に直面しても、セイラの知識があれば乗り越えられた。
けれど、セイラはそうして誰かを見返したり立ち向かったりと、争いたかったわけではないのだろう。
完璧を求められ、裏切られ、居場所を失い……、そうして頑張りすぎていた彼女の心は、ボロボロに傷ついて疲れ果てていたのだ。彼女には何よりもただ休息が必要だった。
「まあ、五体満足で動ける健康な体があるのに死のうとしたセイラにイライラしたし、ムカついてたのも本当だけど」
だからつい、彼女にひどい八つ当たりをしてしまった。
聖良は交通事故に遭い、病院のベッドの上での生活を送っていた。事故後、意識は回復できたものの下半身は動かなくなっており、それを知った当初は何日もベッドで泣いた。けれどどれだけ嘆いても現実は変わることもなく、看護に付き添う両親のやつれた姿を見ると、このままではだめだとも思った。
だからこそ何でもない振りをして、積極的に手術も受けて、明るく振る舞っていたが、クラスメイトや友人たちが見舞いに来た日の夜だけはダメだった。
暗く静かな病室で、何度も友人たちの姿が蘇った。心配して気遣う声、無理をして笑っているとわかる表情、……自分はこうなりたくないと蔑みが見え隠れする目。
聖良の被害妄想だったかもしれない。けれど病室を出た後の、彼らの自然な笑い声を聞いてしまえば、嫌でもその違いに気付いてしまった。
それからは友人たちの見舞いは断り、家族とだけ過ごした──そんな時だったのだ。姉が入院中退屈だろうからと携帯ゲーム機とタブレットを差し入れしてくれた。
乙女ゲームも少女向けの恋愛小説も興味はなかったが、一作を終えるごとにハマっていった。中には「こんなのはありえない」とツッコミを入れたくものもあったが、それでも持て余した暇を潰すのにはちょうど良かった。
「それがまさか自分が似たような経験するなんてねぇ……」
姉が差し入れてくれなければ、事前の知識がなければとんでもなくパニックに陥っていただろう。
「……お父さん、お母さん。お姉ちゃん……」
ぐ、と込み上げてくる郷愁の念を飲み込んで、聖良は立ち上がると部屋の窓を開けて外を眺めた。王都と違い、目の前に広がる光景はどこまでいっても緑あふれる豊かな自然だった。
王都で育てられた少女にはあまりにも退屈で辺鄙に映るかもしれないが、これこそがセイラに必要だったと思う。
セイラの意識の中。
大切に隠されていた旅する少女の物語。
「セイラは怒るかな……。……怒るくらい、元気になってくれるといいんだけど」
そっと胸に手を当て、胸の奥底でか弱く脈動するものに意識を向ける。
糸が切れてしまったセイラは、聖良に体を乗っ取られたあともしばらくの間は聖良を気にかけ、アドバイスをくれていた。けれど自分の意志で振る舞う聖良を受け入れ始める周囲の姿に、いつの間にか深く閉じこもるようになってしまった。
今はもう、聖良が呼びかけてもずっと眠り続けたまま。
(お疲れ様、セイラ。ずっと頑張り続けてたのに裏切られて、疲れちゃったんだよね。誰にも邪魔されずに、ゆっくり休んでいていいからね)
傷が癒えて、心が健康を取り戻すまで、どれだけ時間がかかってもいい。
(そうしてあなたがちゃんと元気になったら──)
あの日、悪意に満ちた嘘をついてごめん。
たくさん傷ついていたのに、もっと傷つけるようなことをいってごめんなさい。
「──ちゃんとこの体、返すから」
そうしたら彼女は、本当の素顔で笑ってくれるだろうか。




