京大医学部に惹かれた理由|憧れの、でも親しみやすい京大生
模試の判定は、いつもAだった。
全国順位の欄には、三桁の前半が並ぶ。担任は満足そうに頷き、進路指導の教師は資料をめくりながら「十分に狙える位置だ」と言う。クラスメイトは冗談めかして「将来の理Ⅲ生」と呼ぶ。
けれど、彼自身には、まだ行きたい大学がなかった。
成績はある。選択肢もある。だが、決め手がない。
合理的に考えればいいのだ、と彼は思う。
偏差値が最も高いところへ行く。将来の選択肢が広いところへ行く。安定しているところへ行く。
それが正解だ。
そう思っているはずなのに、なぜか胸の奥が静まり返ったままだった。
春の終わり、彼は京都大学のオープンキャンパスに足を運んだ。
特別な思いがあったわけではない。ただ、模試の志望校欄を埋めるための材料集めの一つだった。京都までの新幹線の中でも、彼は医学部の赤本を開いていた。ページの端には自分の計算式が整然と並んでいる。
キャンパスに着くと、想像よりも開放的だった。
木々の間を抜ける風は穏やかで、建物はどこか無骨で、飾り気がない。それでも、不思議と落ち着く空気が流れていた。
医学部棟の前で、彼は足を止めた。
白衣を腕にかけた学生が一人、スマートフォンを見ながら立っている。派手さはない。背も特別高くはない。だが、姿勢がまっすぐで、視線がぶれない。
迷った末、彼は声をかけた。
「京大生ですか?」
その学生は顔を上げた。
「はい。一応」
短い返答だった。
無駄がない。余計な含みもない。誇示も、卑下もない。
ただ事実を、静かに置くような声だった。
息継ぎの位置まで自然で、言葉がまっすぐ届く。滑舌が妙に良い。柔らかいのに、芯がある。
彼は一瞬で感じ取った。この人は、必要以上に自分を大きく見せようとしない。だが、自分の立場を曖昧にもしていない。物事をそのままの形で受け止め、そのまま返す人なのだと。
声だけで、思考の輪郭が伝わってくるようだった。
彼は続けた。
「皆さん、頭の回転が速そうだなと思って」
学生は少しだけ首を傾ける。
「それなりに」
また、短い。
だがそこには、自慢も謙遜もなかった。「速い」と言われたことに過剰反応せず、事実として受け流す自然さがある。
速さそのものよりも、思考の質を重んじていそうな空気だった。
彼は、思わず次の言葉を口にしていた。
「京大の入試問題って、考えさせられて解いてて楽しいですね」
「そうですね」
即答だった。
「ですよね?」
自分でも驚くほど、少し前のめりになっていた。
すると、その学生は一瞬だけ表情を明るくした。
「うん!!!」
声が、弾んだ。
それまで抑えられていた熱が、ほんの一瞬だけ顔を出す。大げさではない。だが、確かな肯定。
その「うん」は、論理の裏打ちがある共感だった。ただ雰囲気で合わせたのではない。心から、同じ点を面白いと思っているとわかる響きだった。
独特だ、と彼は思った。
必要なことしか言わない。だが、伝えるべきときには迷わない。筋が通っている。そして、妙に共感性が高い。
自分の感覚を、否定されなかった。
それどころか、「楽しい」という感覚をそのまま肯定された。
彼の中で、何かがほどけた。
京大生は、もっと無口で、もっと癖が強くて、近寄りがたい存在だと思っていた。勉強ばかりしている人たち。変人。研究オタク。そんな漠然としたイメージ。
だが目の前の学生は違った。
自然体だった。
無理に賢く見せようとしていない。背伸びをしていない。
それでいて、確かに深い。
もしかしたら、無理に背伸びしなくていいのかもしれない。
そんな考えが、彼の中に静かに浮かんだ。
帰り際、学生は軽く手を振った。
「受験、頑張ってください」
その言い方も、押しつけがましくなかった。
彼は小さく頭を下げ、キャンパスを後にした。
だが、その日の夜から、彼の検索履歴は変わった。
京都大学医学部。
京大 自由な校風。
京大 ノーベル賞。
京大 入試問題 思想。
気づけば日付が変わっていた。
合理的な説明はつかなかった。
ただ、あの「うん!!!」が、何度も思い出された。
解いていて楽しい、という感覚を、あの人も知っている。
それだけで、十分だった。
数日後、進路指導室に呼ばれた。
分厚い資料を机に置きながら、教師は言った。
「君の成績なら、東大の理Ⅲを狙える位置にいる」
彼は黙って聞く。
「理Ⅲに行って、医者になれば、将来の選択肢は一番広い。医師免許を取れば高収入で職に困ることはないだろ? 家からも近いし、環境としては申し分ない」
言葉は、正しい。
反論の余地がない。
合理的だ。
安全だ。
帰り道、駅まで歩きながら考えた。
東大理Ⅲ。
日本一。
合理的。
安全。
どれも、否定できない。
だが。
あの「うん!!!」は、そこに含まれているだろうか。
東大理Ⅲ。
日本一。
合理的。
安全。
その四つの言葉は、夜の部屋でも彼の頭の中を整然と並んでいた。
机に向かい、問題集を開く。手は動く。解答は合う。判定はAのまま。
それでも、どこかで引っかかる。
合理的、という言葉は強い。安全、という言葉も強い。だが、それだけでは足りないのではないか。そんな疑問が、じわりと広がっていった。
彼はまた、パソコンを開いた。
京都大学医学部のカリキュラム。研究内容。教授陣の論文。学生インタビュー。卒業生の進路。
読み進めるほど、印象は変わっていった。
「自由の学風」という言葉は、単なる標語ではなかった。授業の選択肢の幅。研究室の雰囲気。学生の自主性。どれも、管理されるというより、自分で考えることを前提にしている。
動画の中で語る学生は、落ち着いていた。だが、自分の興味について話すときだけ、ほんの少し熱がこもる。
あの「うん!!!」と同じ熱だった。
彼は気づく。
京大に惹かれているのは、ブランドではない。順位でもない。
「考えることを楽しんでいい」という空気だ。
正解を早く出すことより、問いそのものを面白がる姿勢。
それを、あの学生は短い言葉で体現していた。
数週間後、両親に切り出した。
「京大医学部を第一志望にしたいと思ってる」
食卓が一瞬、静まる。
父が箸を置いた。
「東大じゃないのか?」
「理Ⅲなら、今の成績なら十分狙えるって先生も言ってたぞ」
母の声は心配そうだった。
「わざわざ遠くへ行かなくてもいいんじゃない? 東京なら家から通えるし、生活費だって……」
どれも正しい。
家計のことも、将来の安定も、現実だ。
彼はゆっくりと言葉を選んだ。
「東大がすごいことはわかってる。理Ⅲが日本一って言われるのも理解してる」
父は黙って聞いている。
「でも、最終的にはこういうことは自分で決めないといけないと思う」
自分の声が、意外なほど落ち着いていることに気づく。
「自分で決めた道なら、最後までやり遂げられると思う。もし途中で壁にぶつかっても、『自分で選んだ』って思えれば踏ん張れる」
母が小さく息をつく。
「妥協して、後で後悔するのが一番いけないんだと思う」
父が尋ねる。
「なぜ京大なんだ?」
彼は、少しだけ考えた。
あの声を、そのまま説明することはできない。だが、感覚ははっきりしている。
「考えることを楽しんでいい場所だと思った。速さとか、肩書きとかじゃなくて、自分の頭で考えることを大事にしている感じがした」
言葉にすると、ようやく輪郭が定まった。
「無理に背伸びしなくていい気がしたんだ」
父は腕を組み、しばらく黙っていた。
「楽な道ではないぞ」
「わかってる」
「後悔しないか?」
「しない」
即答だった。
合理性だけで選ばないと決めた瞬間、不思議と迷いは消えていた。
それからの彼は、迷いなく京大対策に集中した。
過去問を解く。記述を磨く。思考の過程を丁寧に書く。
速く解くことより、深く考えることを意識する。
解答用紙に、自分の論理を積み上げる。
楽しい、と思った。
あのとき口にした言葉は、嘘ではなかった。
出願書類を書く日が来た。
志望校欄に、静かにペンを走らせる。
京都大学 医学部 医学科。
インクが紙に染み込む。
手は、迷わなかった。
窓の外は、冬の澄んだ空だった。
未来がどうなるかはわからない。合格する保証もない。困難もあるだろう。
それでも。
未来は明るい、と彼は思った。
合理や安全だけでは測れない何かを、自分は選んだ。
自分の人生は、自分で切り開いていこう。
そう決めた瞬間、胸の奥の静まり返っていた場所に、ようやく音が戻った。
あのときの、短くて熱い声のように。
「うん!!!」
彼は小さく笑い、机に向かった。
答えはもう、決まっている。




