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京大医学部に惹かれた理由|憧れの、でも親しみやすい京大生

作者: さとるん
掲載日:2026/02/15

 模試の判定は、いつもAだった。

 全国順位の欄には、三桁の前半が並ぶ。担任は満足そうに頷き、進路指導の教師は資料をめくりながら「十分に狙える位置だ」と言う。クラスメイトは冗談めかして「将来の理Ⅲ生」と呼ぶ。

 けれど、彼自身には、まだ行きたい大学がなかった。

 成績はある。選択肢もある。だが、決め手がない。

 合理的に考えればいいのだ、と彼は思う。

 偏差値が最も高いところへ行く。将来の選択肢が広いところへ行く。安定しているところへ行く。

 それが正解だ。

 そう思っているはずなのに、なぜか胸の奥が静まり返ったままだった。

 

 春の終わり、彼は京都大学のオープンキャンパスに足を運んだ。

 特別な思いがあったわけではない。ただ、模試の志望校欄を埋めるための材料集めの一つだった。京都までの新幹線の中でも、彼は医学部の赤本を開いていた。ページの端には自分の計算式が整然と並んでいる。

 キャンパスに着くと、想像よりも開放的だった。

 木々の間を抜ける風は穏やかで、建物はどこか無骨で、飾り気がない。それでも、不思議と落ち着く空気が流れていた。

 医学部棟の前で、彼は足を止めた。

 白衣を腕にかけた学生が一人、スマートフォンを見ながら立っている。派手さはない。背も特別高くはない。だが、姿勢がまっすぐで、視線がぶれない。

 迷った末、彼は声をかけた。

「京大生ですか?」

 その学生は顔を上げた。

「はい。一応」

 短い返答だった。

 無駄がない。余計な含みもない。誇示も、卑下もない。

 ただ事実を、静かに置くような声だった。

 息継ぎの位置まで自然で、言葉がまっすぐ届く。滑舌が妙に良い。柔らかいのに、芯がある。

 彼は一瞬で感じ取った。この人は、必要以上に自分を大きく見せようとしない。だが、自分の立場を曖昧にもしていない。物事をそのままの形で受け止め、そのまま返す人なのだと。

 声だけで、思考の輪郭が伝わってくるようだった。

 彼は続けた。

「皆さん、頭の回転が速そうだなと思って」

 学生は少しだけ首を傾ける。

「それなりに」

 また、短い。

 だがそこには、自慢も謙遜もなかった。「速い」と言われたことに過剰反応せず、事実として受け流す自然さがある。

 速さそのものよりも、思考の質を重んじていそうな空気だった。

 彼は、思わず次の言葉を口にしていた。

「京大の入試問題って、考えさせられて解いてて楽しいですね」

「そうですね」

 即答だった。

「ですよね?」

 自分でも驚くほど、少し前のめりになっていた。

 すると、その学生は一瞬だけ表情を明るくした。

「うん!!!」

 声が、弾んだ。

 それまで抑えられていた熱が、ほんの一瞬だけ顔を出す。大げさではない。だが、確かな肯定。

 その「うん」は、論理の裏打ちがある共感だった。ただ雰囲気で合わせたのではない。心から、同じ点を面白いと思っているとわかる響きだった。

 独特だ、と彼は思った。

 必要なことしか言わない。だが、伝えるべきときには迷わない。筋が通っている。そして、妙に共感性が高い。

 自分の感覚を、否定されなかった。

 それどころか、「楽しい」という感覚をそのまま肯定された。

 彼の中で、何かがほどけた。

 京大生は、もっと無口で、もっと癖が強くて、近寄りがたい存在だと思っていた。勉強ばかりしている人たち。変人。研究オタク。そんな漠然としたイメージ。

 だが目の前の学生は違った。

 自然体だった。

 無理に賢く見せようとしていない。背伸びをしていない。

 それでいて、確かに深い。

 もしかしたら、無理に背伸びしなくていいのかもしれない。

 そんな考えが、彼の中に静かに浮かんだ。

 帰り際、学生は軽く手を振った。

「受験、頑張ってください」

 その言い方も、押しつけがましくなかった。

 彼は小さく頭を下げ、キャンパスを後にした。

 

 だが、その日の夜から、彼の検索履歴は変わった。

 京都大学医学部。

 京大 自由な校風。

 京大 ノーベル賞。

 京大 入試問題 思想。

 気づけば日付が変わっていた。

 合理的な説明はつかなかった。

 ただ、あの「うん!!!」が、何度も思い出された。

 解いていて楽しい、という感覚を、あの人も知っている。

 それだけで、十分だった。

 

 数日後、進路指導室に呼ばれた。

 分厚い資料を机に置きながら、教師は言った。

「君の成績なら、東大の理Ⅲを狙える位置にいる」

 彼は黙って聞く。

「理Ⅲに行って、医者になれば、将来の選択肢は一番広い。医師免許を取れば高収入で職に困ることはないだろ? 家からも近いし、環境としては申し分ない」

 言葉は、正しい。

 反論の余地がない。

 合理的だ。

 安全だ。

 

 帰り道、駅まで歩きながら考えた。

 東大理Ⅲ。

 日本一。

 合理的。

 安全。

 どれも、否定できない。

 だが。

 あの「うん!!!」は、そこに含まれているだろうか。

 東大理Ⅲ。

 日本一。

 合理的。

 安全。

 その四つの言葉は、夜の部屋でも彼の頭の中を整然と並んでいた。

 机に向かい、問題集を開く。手は動く。解答は合う。判定はAのまま。

 それでも、どこかで引っかかる。

 合理的、という言葉は強い。安全、という言葉も強い。だが、それだけでは足りないのではないか。そんな疑問が、じわりと広がっていった。

 彼はまた、パソコンを開いた。

 京都大学医学部のカリキュラム。研究内容。教授陣の論文。学生インタビュー。卒業生の進路。

 読み進めるほど、印象は変わっていった。

 「自由の学風」という言葉は、単なる標語ではなかった。授業の選択肢の幅。研究室の雰囲気。学生の自主性。どれも、管理されるというより、自分で考えることを前提にしている。

 動画の中で語る学生は、落ち着いていた。だが、自分の興味について話すときだけ、ほんの少し熱がこもる。

 あの「うん!!!」と同じ熱だった。

 彼は気づく。

 京大に惹かれているのは、ブランドではない。順位でもない。

 「考えることを楽しんでいい」という空気だ。

 正解を早く出すことより、問いそのものを面白がる姿勢。

 それを、あの学生は短い言葉で体現していた。

 

 数週間後、両親に切り出した。

「京大医学部を第一志望にしたいと思ってる」

 食卓が一瞬、静まる。

 父が箸を置いた。

「東大じゃないのか?」

「理Ⅲなら、今の成績なら十分狙えるって先生も言ってたぞ」

 母の声は心配そうだった。

「わざわざ遠くへ行かなくてもいいんじゃない? 東京なら家から通えるし、生活費だって……」

 どれも正しい。

 家計のことも、将来の安定も、現実だ。

 彼はゆっくりと言葉を選んだ。

「東大がすごいことはわかってる。理Ⅲが日本一って言われるのも理解してる」

 父は黙って聞いている。

「でも、最終的にはこういうことは自分で決めないといけないと思う」

 自分の声が、意外なほど落ち着いていることに気づく。

「自分で決めた道なら、最後までやり遂げられると思う。もし途中で壁にぶつかっても、『自分で選んだ』って思えれば踏ん張れる」

 母が小さく息をつく。

「妥協して、後で後悔するのが一番いけないんだと思う」

 父が尋ねる。

「なぜ京大なんだ?」

 彼は、少しだけ考えた。

 あの声を、そのまま説明することはできない。だが、感覚ははっきりしている。

「考えることを楽しんでいい場所だと思った。速さとか、肩書きとかじゃなくて、自分の頭で考えることを大事にしている感じがした」

 言葉にすると、ようやく輪郭が定まった。

「無理に背伸びしなくていい気がしたんだ」

 父は腕を組み、しばらく黙っていた。

「楽な道ではないぞ」

「わかってる」

「後悔しないか?」

「しない」

 即答だった。

 合理性だけで選ばないと決めた瞬間、不思議と迷いは消えていた。

 

 それからの彼は、迷いなく京大対策に集中した。

 過去問を解く。記述を磨く。思考の過程を丁寧に書く。

 速く解くことより、深く考えることを意識する。

 解答用紙に、自分の論理を積み上げる。

 楽しい、と思った。

 あのとき口にした言葉は、嘘ではなかった。

 

 出願書類を書く日が来た。

 志望校欄に、静かにペンを走らせる。

 京都大学 医学部 医学科。

 インクが紙に染み込む。

 手は、迷わなかった。

 

 窓の外は、冬の澄んだ空だった。

 未来がどうなるかはわからない。合格する保証もない。困難もあるだろう。

 それでも。

 未来は明るい、と彼は思った。

 合理や安全だけでは測れない何かを、自分は選んだ。

 自分の人生は、自分で切り開いていこう。

 そう決めた瞬間、胸の奥の静まり返っていた場所に、ようやく音が戻った。

 あのときの、短くて熱い声のように。

 「うん!!!」

 彼は小さく笑い、机に向かった。

 答えはもう、決まっている。


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