冷酷公爵の花嫁候補になりました ~三日で追い出されるはずが、なぜか溺愛されています~
「おめでとうございます、リリアナお嬢様。ヴァレンシュタイン公爵家の花嫁候補に選ばれました」
父のその言葉を聞いた時、私は自分の耳を疑った。
ヴァレンシュタイン公爵と言えば、この王国で最も恐れられる貴族だ。
『氷の公爵』『人の心を持たぬ男』『見つめられた者は石になる』——噂は数え切れない。
そして何より有名なのは、今まで送り込まれた花嫁候補が、全員三日と持たずに逃げ帰ってきたということ。
「お父様、それは……」
「借金の肩代わりの条件だ。断れば、我が家は没落する」
父は目を逸らした。
ベルモント子爵家——我が家は、先代の浪費が祟って、もはや風前の灯だった。
私、リリアナ・ベルモント、十八歳。
こうして、冷酷公爵の花嫁候補として、人生最大の賭けに出ることになった。
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ヴァレンシュタイン公爵邸は、噂通りの威圧的な城だった。
黒い石壁、尖塔、鉄の門。まるでおとぎ話の魔王の城のようだ。
「ようこそ、リリアナ・ベルモント様。旦那様がお待ちです」
出迎えてくれた執事は、意外にも穏やかな老紳士だった。
名をセバスチャンというらしい。
長い廊下を歩きながら、私は緊張で手が震えていた。
三日で逃げ帰った令嬢たちは、一体何をされたのだろう。
罵倒されたのか。冷たく無視されたのか。それとも——
「旦那様、リリアナ様をお連れしました」
セバスチャンが扉を開けた。
書斎の中央に、一人の男が立っていた。
……息を呑んだ。
『冷酷公爵』ヴィクトル・ヴァレンシュタイン。
噂には聞いていたが、これほどとは思わなかった。
漆黒の髪に、氷のように青い瞳。
彫刻のように整った顔立ち。鼻筋は通っていて、唇は薄いが形がいい。
背は驚くほど高く——私の頭ひとつ分は優に超える——肩幅は広く、がっしりとした体格だ。
黒いコートを纏った姿は、まさに『氷の公爵』の名にふさわしい威厳がある。
そして——その表情は、確かに冷たかった。
眉間にしわを寄せ、口は真一文字に結ばれている。
まるで、私の存在を不快に思っているかのような。
「……っ」
公爵が、こちらを見た。
青い瞳が、真っ直ぐ私を捉える。
あまりの威圧感に、足がすくんだ。
これが、令嬢たちを三日で追い返した眼力か。
数秒の沈黙。
公爵は何も言わない。ただ、じっと私を見つめている。
……あれ?
私は、ふと違和感を覚えた。
公爵の視線は確かに鋭い。表情も硬い。
でも、よく見ると——
彼の手が、かすかに震えている。
大きくて、節くれだった男らしい手。その手が、ぎゅっと握りしめられている。
そして、喉仏が何度も上下している。
まるで、何かを言おうとして、言葉が出てこないかのように。
「……あ、あの」
公爵が、ようやく口を開いた。
低く、かすれた声。よく響く、いい声だ。
「ようこ……そ……」
そこで、言葉が止まった。
公爵の顔が、わずかに赤くなっている。
そして、また口を閉じてしまった。
……まさか。
私は、ある可能性に思い至った。
この人、もしかして——
「公爵様」
私は、思い切って一歩前に出た。
「お会いできて光栄です。私はリリアナ・ベルモントと申します」
にっこりと微笑んでみせた。
公爵は、びくっと肩を震わせた。
そして、視線を逸らした。
耳が、真っ赤になっている。
……やっぱり。
私の予想は、確信に変わった。
この人、人見知りだ。
冷酷なんじゃない。緊張しすぎて固まっているだけだ。
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夕食の席でも、公爵は一言も発しなかった。
ただ黙々と食事をしている。
時々、こちらをチラチラと見るが、目が合うとすぐに逸らす。
以前の花嫁候補たちは、この沈黙を「無視されている」「軽蔑されている」と受け取ったのだろう。
確かに、普通ならそう思っても仕方ない。
でも、私は気づいてしまった。
公爵がグラスを持つたびに、手がかすかに震えていること。
私が話しかけようとするたびに、体がこわばること。
視線が合いそうになると、必死に目を逸らすこと。
……かわいい。
冷酷公爵なんかじゃない。
この人は、ただの人見知りで、不器用で、どう接していいか分からなくて困っているだけだ。
「公爵様」
私は、あえて明るい声で話しかけた。
「このスープ、とても美味しいですわ。お屋敷の料理人は腕がいいのですね」
公爵は、またびくっと肩を震わせた。
そして、小さく頷いた。
「……そ、そう、か……」
声が裏返っている。なんだか、微笑ましい。
「明日は、お庭を見せていただいてもよろしいでしょうか?」
「……好きに、すれば、いい……」
言葉が途切れ途切れだ。緊張しすぎだ。……愛おしい。
「ありがとうございます」
私は最高の笑顔を向けた。
公爵の耳が、また真っ赤に染まった。
---
二日目の朝。
私が部屋を出ると、廊下に公爵が立っていた。
びくっと体を硬くしている。明らかに、私を待っていた様子だ。
「お、おはよう……」
「おはようございます、公爵様」
にっこり微笑むと、公爵は視線を逸らした。
そして、何かを差し出した。
薄い水色のショールだった。
「……朝は、冷える。だから……」
「私にですか?」
「……ああ」
耳が真っ赤だ。目も合わせられない。
でも、私のために朝早くから待っていて、ショールを渡そうとしてくれている。
胸がきゅんとした。
「ありがとうございます。大切にしますね」
私がショールを受け取ると、公爵の表情がほんの少しだけ緩んだ。
その瞬間——氷のような顔が、少しだけ人間らしく見えた。
……ああ、この人、本当は優しいんだ。
---
三日目の朝。
おそらく、以前の花嫁候補たちなら、もう限界を迎えていた頃だろう。
でも私は、むしろ楽しくなってきていた。
いつの間にか、心の中で彼を「公爵様」ではなく「ヴィクトル様」と呼ぶようになっていた。
ヴィクトル様は、やはり人見知りだった。
話しかけると固まる。目が合うと逸らす。一人でいると穏やかなのに、人前に出ると氷のように硬くなる。
でも、少しずつ変化が見えてきた。
私が部屋に入ると、以前は完全に背を向けていたのに、今は横を向く程度になった。
話しかけると、以前は一言も返さなかったのに、今は短い言葉で答えてくれる。
そして——
「リリアナ」
庭を散歩していると、背後から声がかかった。
振り返ると、ヴィクトル様が立っていた。
逆光で、その姿がシルエットになっている。
背が高い。本当に高い。見上げなければならないほど。
広い肩、長い足、まるで絵画から抜け出してきたような美丈夫だ。
珍しい。彼の方から声をかけてくるなんて。
「これを……」
ヴィクトル様は、何かを差し出した。
一輪の白い薔薇だった。
「……庭で、咲いていた。お前が、好きだと、言っていた、から……」
途切れ途切れの言葉。
耳は真っ赤。目は泳いでいる。
でも——必死に、勇気を振り絞って、私に話しかけてくれている。
あの大きな手で、私のために花を摘んでくれた。
胸が、きゅっと締め付けられた。
「ありがとうございます」
私は薔薇を受け取った。
その時、指先がかすかに触れた。
ヴィクトル様の手は大きくて、温かくて——そしてかすかに震えていた。
「ヴィクトル様」
私は、彼の目を見つめた。
「私、気づいてしまいました」
「……何を」
彼の声が、硬くなった。
またあの、氷のような表情に戻ろうとしている。
「あなたは、冷酷なんかじゃありません」
私は、はっきりと言った。
「本当は優しい方なのに、人見知りで、うまく話せなくて、それで誤解されているだけ。違いますか?」
ヴィクトル様の目が、大きく見開かれた。
青い瞳が、動揺で揺れている。
そして——
その表情が、崩れた。
氷が溶けるように、硬さが消えていく。
「……バレて、いたのか」
「バレバレです」
私は笑った。
「だって、話しかけるたびにびくびくするし、目が合うと逸らすし、声をかけてくれる時は耳まで真っ赤になるし」
「……恥ずかしい」
ヴィクトル様は、顔を手で覆った。
大きな手で顔を隠す仕草が、ギャップがありすぎて、思わず笑みがこぼれた。
「今まで送り込まれた令嬢たちは、あなたのことを『冷酷だ』『恐ろしい』と言って逃げていったんですよね」
「……ああ」
「でも私は違います。私は——」
私は、一歩前に出た。
彼の手を、そっと取った。
大きくて、節くれだった、でも温かい手。
この手が、私に花を渡してくれた。ショールを用意してくれた。
「私は、あなたのそばにいたいです。ヴィクトル様」
彼の青い瞳が、私を見つめた。
その目に、今までにない感情が浮かんでいた。
戸惑い。驚き。そして——希望。
「……本当に?」
「本当です」
「逃げ、ないのか?」
「逃げません。むしろ、もっとあなたのことを知りたいです」
ヴィクトル様の目が、潤んでいるように見えた。
長い長い時間を一人で過ごしてきた孤独が、その瞳の奥に透けて見える。
「……俺は、うまく話せない」
「知ってます」
「目を見て会話するのが、苦手だ」
「知ってます」
「人前に出ると、頭が真っ白になる」
「知ってます」
「それでも、いいのか?」
「もちろんです」
私は、彼の手を両手で包み込んだ。
彼の手は私の両手でも包みきれないほど大きい。
「ゆっくりでいいんです。焦らなくていいんです。私は待ちますから」
ヴィクトル様は、長い間黙っていた。
そして——
突然、彼の腕が伸びてきた。
気づいた時には、私は彼に抱きしめられていた。
「っ……!」
広い胸。温かい体温。彼の匂い。
私の頭は、ちょうど彼の胸の辺りにある。身長差がありすぎる。
大きな腕が、私を包み込んでいる。まるで、二度と離さないとでも言うように。
「……ありがとう」
かすれた声が、頭の上から降ってきた。
低くて、深くて、心地いい声。
「お前は、初めてだ」
「え……?」
「俺のことを、分かろうとしてくれたのは。逃げずに、そばにいてくれたのは」
彼の腕に、力がこもった。
もう、震えていなかった。
「……行くな」
それは、命令ではなかった。
懇願だった。
「俺のそばに、いてくれ」
私は、彼の背中に腕を回した。
広い背中。腕が回りきらないほど大きい。
「はい。ずっと、そばにいます」
彼の腕がさらに強く私を抱きしめた。
苦しいほどだったけど、幸せだった。
---
それから半年。
私は正式にヴァレンシュタイン公爵夫人となった。
社交界では『冷酷公爵を手懐けた女』と噂されている。
「あの公爵が、夫人の前では別人のようだと聞きましたわ」
「まるで大型犬のように従順だとか」
「一体どんな魔法を使ったのかしら」
令嬢たちのひそひそ話が聞こえてくる。
でも、実際は違う。
私が手懐けたんじゃない。
ただ、彼の本当の姿に気づいただけだ。
今でも、ヴィクトル様は人見知りだ。
社交の場では相変わらず氷のような表情をしているし、初対面の人とは目を合わせられない。
でも、二人きりの時は違う。
「リリアナ」
寝室で、ヴィクトル様が私を抱きしめた。
大きな腕が、私を包み込む。
彼の胸に顔を埋めると、心臓の音が聞こえる。
「今日も、一日、ありがとう」
「私の方こそ」
彼の大きな手が、私の頭を撫でた。
ぎこちない手つき。でも、とても優しい。
「……今日の舞踏会、あの男が、お前に話しかけていた」
「え? ああ、隣国の伯爵様ですか? 社交辞令でしたよ」
「……気に入らない」
「えっ?」
ヴィクトル様の声が、低くなった。
「他の男が、お前に近づくのは、気に入らない」
彼の腕に力がこもった。
まるで、誰にも渡さないと言うように。
「お前は、俺のものだ」
突然のセリフに、心臓が跳ね上がった。
「……えっと、そういうのは人前では言えないのに、二人きりだと言えるんですね」
「……うるさい」
ヴィクトル様は、私の顔を胸に押し付けた。
恥ずかしくなったらしい。耳が真っ赤だ。
……愛おしい。
やっぱりこの人、どうしようもなく愛おしい。
「ヴィクトル様」
「……何だ」
「私も、あなたのことが大好きですよ」
彼の体が、びくっと震えた。
そして——
大きな手が私の顎を持ち上げた。
青い瞳が、まっすぐ私を見つめている。
もう、目を逸らさない。
「もう一度、言え」
「……大好きです」
「もっと」
「あなたのことが、世界で一番、大好きです」
ヴィクトル様の瞳が、甘く潤んだ。
そして、彼は私の額にそっと唇を落とした。
「……俺も、愛している。お前だけを」
その声は、まだ少し不器用だった。
でも、誰よりも温かくて、誰よりも甘かった。
---
翌朝。
目を覚ますと、私はヴィクトル様の腕の中にいた。
大きな体に包まれて、まるで繭の中にいるみたいだ。
彼の寝顔を見上げる。
起きている時はあんなに厳つい顔なのに、眠っていると幼く見える。
長いまつ毛。整った眉。薄い唇。
……好き。
本当に、好き。
そっと彼の頬に手を伸ばした。
「……起きているのか」
低い声が降ってきた。
目が合った。青い瞳が、まっすぐ私を見ている。
「おはようございます」
「……ああ」
ヴィクトル様は、私の髪を指で梳いた。
大きな手が、優しく私の頭を撫でる。
「今日は、どこにも行くな」
「え? でも、午後から茶会が……」
「断れ」
「えっ」
「今日は、ずっと一緒にいたい」
彼の腕が、私を引き寄せた。
広い胸に、また顔が埋まる。
「……昨日、他の男と話しているお前を見て、我慢できなくなった。お前が俺のものだと、確認したい」
聞いてるこっちが恥ずかしくなるようなセリフだ。
でも、彼は真剣な顔で言っている。
耳は真っ赤だけど。
「……分かりました。今日は、ずっと一緒にいましょう」
私がそう言うと、ヴィクトル様は満足そうに微笑んだ。
その笑顔を見られるのは、世界で私だけだ。
冷酷公爵は、実は世界で一番不器用で、一番優しくて、一番可愛い人だった。
そして今、世界で一番、私を愛してくれている。
三日で追い出されるはずだった私は——
一生をかけて、この人に愛されることを決めた。
【完】
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