洗脳を解く魔法を手に入れた
十一月四日、市ヶ谷駅。外濠を越え、釣り堀を横目に進んだ先の喫茶店で十七時に待ち合わせだ。道行く高校生たちは、ベージュやネイビーブルーのコートを着て、耳はイヤホンで塞いでいる。襟元から覗く制服は、どれも微妙に異なるデザインだった。
橋を渡りながら目を遣った水面は、すでに濃緑から黒緑へと変わり、街灯の光を映していた。赤信号で立ち止まると、騒音とともに目の前をトラックが通り過ぎる。全ての車が停車する頃には、信号待ちの人々が道いっぱいに溜まっていた。横断歩道の手前に並ぶ車から、ドライブレコーダーの視線を感じる。俺はフードを被って歩き出した。
店内に入ると、相手は直ぐに判った。初対面の挨拶もそこそこに布張りの椅子に座る。温かいコーヒーを頼み、依頼人とその連れを見た。二人とも同じ制服を着ている。依頼人の祥子は、ノートと予備校のテキストを片付けていた。連れのほうはマリと言うらしいが、こちらは口を固く結び、スマホを両手で持っていた。大方、友人を心配して付いて来たのだろう。
「撮影禁止、録音禁止、施術一回十万円、これだけで構わないよ。君の事情に興味はないからね」
「あの、効果が無ければ、本当にお支払いしなくていいんですか?」
「うん、構わないよ。結果は劇的で、到底誤魔化せるものじゃないからね」
コーヒーが運ばれてきた。向かいの二人は、小声で言い争っている。とりわけマリは、手からスマホを離さないし、手首にはスマートウォッチを着け、カーディガンのボタンを開け、シャツの胸元からペン先を覗かせている。
録画しているなら後から消せば良いが、ライブ配信の場合もあり、最近では半ば諦めている。だが、傍から見ただけでは、どうせ俺と施術結果の因果関係は立証できない。少なくとも施術中に脳波をモニタリングする必要があるだろう。
「……じゃあ、その、祥子だけでなく私にもやっていただけますか?」
「うん? まあ、構わないよ」
今回は一人だけのつもりだったが、思わぬ臨時収入である。またも言い合う二人を余所にコーヒーを口に含む。あとは洗脳を解いて仕事完了だ。これでしばらくはSNSで営業を掛けずとも暮らしていける。
少し経って、話が付いたマリからハンカチを差し出された。受け取って机の下で枚数を数えると、ぴったり二十枚の万券がある。俺には関係ないことだが、責任を取りたいなどと宣い、マリが二人分の料金を出したようだ。しかも施術前に支払ったのだから、彼女にとって頓着するほどの金額ではないのだろう。軽くなったハンカチを返して言う。
「それで、一人ずつやる? 二人一緒にやる?」
「えっと、一緒でお願いします」
「わかった、『リセット!』」
二人の体が強張り、焦点の合わない黒目がキョロキョロと急速に動き始める。ここから十数分は意識が無いため、その間にマリのスマホや不審なペンをチェックする。画面を注視させないと解錠できない場合は一苦労だが、幸いにもスマホにロックは掛かっていなかった。録画停止ボタンを押し、そのまま削除した。スマートウォッチやペンも同様に確認する。喫茶店内の視線や、防犯カメラがあったため、ペンは胸元に戻さず、スマホのそばに返しておいた。……ふと、同時に施術しなかったら、意識を失った時点で怪しまれただろうと思い至る。
仕事を終えたら直ぐに帰りたいところだが、このまま席を立てば、喫茶店の従業員が二人の様子を見に来る可能性が高い。グルグルと動き回る黒目さえ見られなければ問題ないが、そうもいかないだろう。
祥子が十三分、マリが十九分で意識を取り戻した。二人は意味もなくニコニコして、上機嫌である。固かった声色も和らいでいた。
「洗脳を解除した直後は、あらゆる固定観念や偏見、社会通念が浮揚状態になっているから、極端な言動の影響を受けやすいよ。くれぐれも気を付けてね」
コーヒー代は依頼者の負担だ。二人より先に店を出ると、夜風が火照った体を冷やした。『リセット』の魔法は、既存の信仰も愛情も友情もリセットする。様々な感情に雁字搦めになったとき、施術のリピーターとなることも多い。
今回の依頼者は、まだ若かった。これまで箱の中で育ったなら、今後は周囲の不合理な言動に疑問を抱けるようになる。いわゆる洗脳が解けるというものだ。あるいは、生まれ育った環境と、現在の環境のずれに苦しんでいるなら、難なく現状に適応できるようになる。これは、洗脳しやすいとも言う。いずれにせよ、思考の根幹を再構成する機会が生まれる。
――しばらくして、マリの漢字が麻里であると知った。ニュートラルな思考とは、あらゆる思い込みが排除される。「今後の人生の労苦と、ただ一時の苦痛を比較した結果、合理的な結論を得た」と最期の言葉がSNSで流れていた。




