第6話 ダンテは訳あり物件を借りる
主な登場人物
ダンテ・アリギエーリ
48歳 1265年生、イタリア・フィレンチェ出身
栃辺 有江
24歳 梶沢出版編集者
今朝も、ダンテは荷物を持ってネットカフェの前で待っていた。
今日はどうするのか尋ねる。
「ネットカフェは忙しいので、会社に行って、ゆっくりしたいですね」
眼をますます充血させたダンテは答えた。
有江は、呆れながらもダンテを連れて出勤する。
朝のうち、ダンテは、ベンチで寝ていたり、本を読んだりしていた。今日は『神曲・煉獄編』を読んでいる。
午前十時ごろ、有江がお茶を淹れに席を立ったとき、ベンチからダンテの姿は消えていた。
お昼もベンチは空いたままだった。
午後五時過ぎ、仕事を終えたところにダンテが現れる。
「有江さん、お願いがあります」
エレベーターがガタンと揺れて、一階に着いた。
「ダンテさん、お願いってなんですか」
有江は、ダンテと並んで歩く。
「今日の午後、電車に乗って家電量販店に行きました」
「ひとりで電車に乗れるようになって、よかったですね」
「パソコンを見てきました」
「はい」
「ネットカフェのパソコンで文章を書いたのですが、夜に戻ると消えていました。お店のパソコンは、小池さんが毎日リセットするので、データは消えてしまうそうです。自分のパソコンを探しにいったのですが、問題があります」
「なんでしょう?」
「パソコンを買っても、外でネットに接続するためには、スマホを契約しなければならないそうです。しかし、契約には身分証明書が必要だと言われました」
「そうですか……お金は十分足りますから、わたしがお手伝いしますよ」
ああ、一体どうしたというのでしょう。あれほど怪しんでいたダンテに対して、今や、担当編集者気取りで面倒をみています。
有江は、古めかしいト書きのような気持ちを反芻した。
「パソコンは、物書きに最適な機種を選んでネットで注文します。スマホは、わたしの二回線目として注文しますね」
「ありがとうございます……うぅ」
ダンテは、また泣いている。
「それにしても、ダンテさんがこの世界で自立するには、身分証明書という大きな障壁がありますね。いつまでもネットカフェ生活というわけにも、いかないでしょうし……」
「早く元の世界に戻れれば、いいのでしょうが……」
ダンテの表情がくもった。
明日は土曜日、ゆっくりと午前十時の待ち合わせとした。
「今朝、小池さんに『ダンテさんは、いつイタリアにお帰りなのですか』と聞かれました」
「なんて答えたのですか」
「ぼんやりしていて『戻る方法が見つかれば帰ります』と正直に答えました。小池さんは笑っていましたよ」
会うなり、仰天発言だ。
ネットカフェに寝泊まりしている外国人が、そんなことを言えば、間違いなく不法滞在だと思われる。通報案件だ。
「ちょっと待っていてください」
有江は、ダンテをその場に残し、店内に入り受付の小池さんに「ダンテはイタリアに帰ります、今日までお世話になりました」と早口で告げる。
小池さんは、突然のことにあっけにとられていた。
「さて……」
今日は、ダンテの衣類を洗濯している間に生活用品を買う予定でいたのだが、そうはいかなくなった。
「住まいを見つけましょう」
ダンテは、お金が足りるかを心配しているが、それどころではない。
「ダンテさんが、本格的に執筆するのであれば、梶沢出版に近い場所に住んだ方が便利ですか」
ダンテは、首を横に振る。
「いや、有江さんの住む街で探しましょう。私が現れた街です。元の世界に戻るヒントが、あるかもしれません」
そうかもしれないと、有江も思った。
それに、都心から離れている分家賃は安く、大学のキャンパスがあるため、学生向けの物件も多く好都合だ。
有江の住む街に戻る。
駅前のコインランドリーに洗濯物をセットし、駅近くのマンション一階に「みなとがわ不動産」と大きく看板を掲げる不動産屋を訪ねる。
サッシドアを開け「すみません」と声を掛けると「はいよ」と野太い声がし、仕切りの奥から髪が薄くなった小太りの男性が現れた。社長の湊川ですと名刺を差し出した。
「どんな物件をお探しですか」
「アパートを借りたいのですが」
有江が答えると、社長は面倒くさそうに後ろの棚から何冊ものクリアファイルを抜き出し、どさりとカウンターに置いた。
「おふたりで、お住まいですか」
「そうです」
「ご関係は?」
「婚約者です」
社長は、ふーんという顔をした。
訳アリであることは、察してくれたようだ。
「ご希望の間取りは、ありますか」
「お恥ずかしい話なのですが、家賃を優先してお願いします」
そうですかと社長はファイルをめくり始める。
そのファイルの一番上の物件が、有江の目にとまった。
賃料二万八千円に管理費三千円のワンルーム、「波風荘」というアパートだ。
ページをめくろうとする社長の手を止める。
「この物件はね……」社長は何か言いたげだ。
月三万一千円は、このエリアにあっては格安だ。有江のアパートもワンルームだが、家賃は六万七千円になる。
駅まで歩いて八分。住所は、何かあった時でも、有江のアパートから五、六分で駆けつけられるほどの近所だ。敷金、礼金はない。築三十三年だが、ダンテは七百年前からやってきたと言っているのだから、十分に新しい。
相場より、格段に安い。
有江が訝しく思いながら物件資料を読み進めると、備考欄に「心理的瑕疵物件」と赤字で書いてあった。
いわゆる「事故物件」だ。
「決まりなので、説明しておきますが……」
事故物件の説明にもダンテの表情は変わらない。地獄を見てきたダンテなら平気なのだろうと、勝手に決め込んだ。
「ここにします」
社長は不審死がどうのこうのと話していたが、有江は即決した。
「それでは、お部屋をご案内しますので、店先でお待ちください。車をまわします」
社長は、仕切りの奥に消えた。
「ダンテさん、平気ですか」
「何がですか」
ダンテは、聞いていなかったのか、気にしていないのか、わからないのか、それ以上尋ねないことにする。
社長の運転する「みなとがわ不動産」とドアに書かれた車に乗って、アパートに向かう。
その物件は、階ごとに五部屋ある二階建てのアパートだった。一階の一番西側一〇五号室が、その部屋だ。
その部屋は、いたって普通のワンルームの間取りで、洋室六畳にバス・トイレ、キッチンが備わっている。
その洋室が、現場だそうだ。
「ダンテさん、どうですか」
「ネットカフェより広いですね。ここにしましょう」
聞かれていたはずだが、社長は何も反応しなかった。
有江は、手続きに必要な印鑑を取りに、波風荘から自宅アパートに戻る。
有江が契約者となり、今は使っていないネット銀行の口座から家賃を引き落とす手続きを取った。
「それでは、こちらに押印をお願いします。電気・水道・ガスは、このQRコード先で手続きできます。こちらが鍵です。何かありましたら、いつでもご連絡ください」
鍵を受け取り、店を出た。




