第5話 ダンテは神曲が気に入らない
主な登場人物
ダンテ・アリギエーリ
48歳 1265年生、イタリア・フィレンチェ出身
栃辺 有江
24歳 梶沢出版編集者
任廷戸 愛永
27歳 梶沢出版編集者、有江の先輩
今日はどうするつもりかとダンテに尋ねると、買い物をしたいと言う。ネット検索で欲しい物を見つけたそうだ。
有江は、封筒から一万円札を出して、ダンテに渡す。
ダンテは、同じ電車に乗り、同じ駅で降りるが、梶沢出版とは逆の方向に歩いていった。
朝一の編集会議で行ったプレゼンは、案の定、練り直しの指示が出る。 昨夜は、ダンテの件で頭が一杯だったし、疲れ果て早々に寝てしまった。一昨日に考えたシナリオは、すっかり忘れていて、グダグダの内容だった。
会議の結果を受け、担当作家と見直し点の絞り込みをメールでやり取りして、午前中が終わる。
有江は、昨日のお礼にと愛永を昼食に誘う。
「アリエールも、まだまだ、私に及びもしないわね」
今日の愛永は、ジョーゼットブラウスに黒のジャケットを合わせ、テーパードパンツという装いだ。ローファーを履いているが、身長が一六八センチメートルあるので、シュッと細い。
そんな愛永にからかわれて、有江は嬉しかった。
エレベータの下行きのボタンを押したとき、ベンチに仰向けに寝そべり、本を読んでいるダンテの姿が目に入る。
ガタンという音で、ダンテも有江たちに気がついた。
「有江さん、お待ちしていました。これは、こんにちは、仁廷戸さん」
その苗字を呼ぶなと、ダンテに向かって念じる。
「仁廷……」
「ダンテさんは、そこで何しているのですか」
有江は、言葉をさえぎり話題を変えた。
「ダンテの『神曲』を読んでいます」
これ以上、話をややこしくしないでと心の中で叫ぶ。
「ダンテ先生もお昼ごはん、一緒にいかがですか」
「仁廷戸さんに誘ってもらえるとは嬉しいですね。近くに美味しいパスタ屋さんを知っていますよ」
意外にもダンテの案内で、レストランに向かう。
駅方面に五分ほど歩き、メイン通りの乾物屋と雑居ビルの間、人ふたりが並んで歩けるほどの路地に入る。五メートルほど先に進んで左に曲がると、突き当りすぐに「リストランテ・フィオーレ」と看板を掲げる店があった。
有江は、梶沢出版に入社して一年九か月が経ち、周辺の飲食店は制覇したと思っていたが、この店は知らなかった。
地図アプリにも載っていない。隠れ家的レストランなのだろうか。
「こんなところに、イタリアンのお店があるとは知らなかったわ。新しくオープンしたのかな」
愛永も知らなかったようだ。
店内は、左手にカウンター席が五席、右手にテーブル席が二席とシンプルな造りだ。昼食時だが客はなく、コック服を着た中国料理が似合う小柄なマスターがひとり、皿を拭いていた。
三人は、奥のテーブル席に案内される。
「この店は『トリュフバターが香るマッシュルームのパスタソース』が絶品です。赤ワインが合います」
メニューも見ずに、ダンテは料理を勧めてきた。
ダンテが自由に行動できたのは、今日の午前中だけだ。マスターは表情ひとつ変えていないが、ダンテが来店するのは今日で二度目なのだろう。「神曲」と「パスタ」と「ワイン」で、今朝の一万円は使い切ったと有江は暗算する。
有江と愛永は、ダンテのお勧めパスタを、ダンテは「野菜ときのこのニョッキ」を注文する。ワインは……と選び始めたので、有江は、ダンテをにらむ。
「ダンテ先生は『神曲』を読まれて、いかがでしたか」
料理ができるまでの時間を、愛永が埋める。
「美しくありません」
ダンテは、眉をひそめて答えた。
有江は意外に思った。自分はダンテ自身だと主張するこのダンテが、ダンテの代表作を「美しくない」と評価している。
「なぜ、美しくないのですか」
尋ねには、いられない。
「トスカーナ方言で書いた『喜劇』は、十一音節で一行をなし、三行を一句とした三韻句法を用いています。ある句の二行目の脚韻は、次句の一行目と三行目の脚韻となるように書いています。例えば、地獄篇の冒頭三句は、
Nel mezzo del cammin di nostra vita
mi ritrovai per una selva oscura,
che la diritta via era smarrita.
Ahi quanto a dir qual era è cosa dura
esta selva selvaggia e aspra e forte
che nel pensier rinova la paura!
Tantʼ è amara che poco è più morte;
ma per trattar del ben chʼiʼ vi trovai,
dirò de lʼaltre cose chʼiʼ vʼho scorte.
このように各句の脚韻は、aaa、aea、eieと連鎖しています。それがどうでしょう、この『神曲』で辛うじて表現されているのは、三行を一句とする部分のみなのです」
翻訳の限界ですねと、愛永は同意する。
「美しくありません」
ダンテは、厳しい口調でまた言った。
「それでも『神曲』は、文学史上最高傑作と認められています」
有江がフォローするが、ダンテは納得いかない様子だ。
「その評価が正当なものだとしたら、それは原文に対してのものであって、翻訳文がそうであるわけではありません。これが最高傑作と言われて、納得できる日本の人は何人いるでしょう」
有江は、大学の講義での違和感が、腑に落ちた気がした。
沈黙が支配しかけたとき、タイミングよく料理が運ばれてくる。
辺り一面にホワイト・トリュフが香り立ち、食欲を誘う。
有江たちは、話を切り上げ、フォークを手にした。生パスタに濃厚な卵の風味とバターがマッチし、ダンテの言うとおり、味は「絶品」だった。
「ダンテ先生は、どのような作品を書かれているのですか」
愛永のひと言に、有江はパスタをのどに詰まらせる。
「これから『神曲』を書き直すつもりです。日本での美しい『神曲』の復権を目指すのです」
――その気になっている。
「しかし、そもそも日本で『神曲』を認めたのは、明治時代の知識人と文学部の教授連だけじゃないですかね」
愛永が、容赦なく突っ込んだ。
「それは残念です。なおさら、美しい『神曲』が、日本で読まれるようにしなければなりませんね」
「でも先生、三韻句法などの様式美にこだわり過ぎると、作品の主題がぼやけますよ。そもそも日本語で書こうとするのであれば、日本の様式にすべきです。例えば、長連歌として五七五七七を百韻繰り返すとかしないと。しかし、そんな作品は読まれません。まず、売れない。作家の自己満足としか思えない。『神曲』だってエンタメ方向に振り切った翻訳なら、もっと大衆が手にするのに、最高傑作と持ち上げられて、読みにくい三行詩のままだから、文学マニアしか目にしないのです。私が担当する作家連中のラノベの方が大勢に読まれてますよ」
愛永の言葉はきついが、的を射ている。
ダンテは、ニョッキを食べながら頷いていた。
「美しい『神曲』ではなく、面白い『神曲』にしなければならないということですか」
「そうです、ダンテ先生。この栃辺さんが担当編集者として全力サポートしますので、ぜひ面白い作品を私にも読ませてください!」
これが、有江が学ぶべき、愛永が作家から慕われる理由だ。
昼食から戻り、有江は、担当作家から送られてきた草稿を校閲する。
愛永は、電話で担当作家と打ち合わせをしている。いじめているようにも聞こえる。
ダンテは、ベンチに寝そべり『神曲・地獄篇』を読んでいた。




