第40話 吸熱反応を考える(現世)
主な登場人物
ダンテ・アリギエーリ
48歳 1265年生、イタリア・フィレンチェ出身
栃辺 有江
24歳 梶沢出版編集者
任廷戸 愛永
27歳 梶沢出版編集者、有江の先輩
常磐道 勝清
42歳 梶沢出版編集部長、調世会調世部長
下根田 陽人
26歳 駅前交番に勤務する巡査
船越川 瑠理香
40歳代 調世会調査員
神楽 伝次郎
40歳代 調世会企画部長
「幽霊退治もしているのですか!」
公益財団法人日本宗教調世会は、各国の機関とも連携し、冥界からの干渉を監視、調査している。探知装置などの機器開発に莫大な予算が、どこからか付いているそうだ。ひとたび事件事故が起これば事態の収束にあたり、その対処には「幽霊退治」も含まれるという。
「本来の仕事じゃないけど、行きがかり上、仕方ないよね。退治は常磐道部長の仕事で、僕は弱点を見つける役割だけど、手間がかかるし、何より危険だよね」
神楽は、常磐道に手を振りながら答えた。
「ダンテさんも初めは悪霊だと思いましたからね。危うく排除するところでした」
常磐道は、笑っている。
「どうやって、退治するのですか。弱点が、あるのですか」
映画のワンシーンを想像しているのだろう。部屋の左奥に置いてあるソファーでコーヒーを飲みながらくつろいでいた陽人は、目を輝かせて尋ねた。
「そうだね、意識体の一部である幽霊とか悪霊とかは簡単だね。この世界では、奴らはエネルギー体でしかないから、同程度のエネルギーをぶつければ拡散してしまう。どの程度のエネルギー体かを測定するのが、僕の仕事なのさ」
神楽は、楽しそうだ。
「しかし、もともと冥界の住人である悪魔とか鬼とかは厄介なんだ。奴らは、無理にこの世界に留まっていて、身体は常に冥界とつながったままなんだよ。そうだね、僕たちが二次元の世界に行ったとしても、まっ平にはなれないだろ。二次元の世界にいながら、立体の部分はこの世界に突き出している、そんなイメージかな」
わからなくないでもない。
「相手は、時空を超越する世界で生きている奴らだからね、勝ち目はないよ。できることと言えば、この世界に留まれないように、次元の壁に穴を開けて、冥界に送り返してしまうくらいだね」
送り返すわけだから、また来るよねと、神楽は笑った。
説明の間にも、ヘルフォンは「81」「82」と順調に受信している。
「ぼくたちも交代で休むから、愛永さん、陽人くんも休んだ方がいいよ」
神楽は、椅子に座ったまま伸びをした。
愛永も、緊張の連続で疲れがたまっていた。
「では、少し横になります」
愛永と陽人は、それぞれに割り当てられた部屋で休むことにした。
部屋は、入るとすぐ右手にクローゼットがあり、左手側がユニットバスになっている。奥は六畳程度の洋室にベッドが置かれ、その奥に白い小さな冷蔵庫が、机の下でブーブー音を立てていた。ホテルの一室となんら遜色ない設備だが、高級ホテルのそれではない。
愛永は、シャワーを浴びた。
寝る前にビールを飲もうと、冷蔵庫があるベッドの向こう側に、横になって転がって行く途中で、愛永は眠りについた。
ドアをノックする音で目が覚めた。
時計の針は、九時十八分を指している。五時間は眠れたようだ。
「今、ダンテさんからメッセージを受信しました。事務室で待ってますね」
インターホンから、船越川の声が聞こえてきた。
愛永は、クローゼットにあったTシャツとジーンズに着替える。サイズは測ったようにぴったりだ。恐るべし調世会。
事務室に戻る。
「メッセージは『9COOLKA?』です。その前は『810』と受信していますので、第九圏からの送信なのでしょう」
常磐道もひと休みしたのだろう。トレッキングウェアから、ポロシャツに着替えている。
神楽と陽人の姿は、見えない。
「第九圏を冷却する方法ですか。これは、たいへんなクエストですね」
愛永の出番もなく、メールは常磐道に解読されていた。
「大規模に冷却するには、どうするのかな。塩を入れて冷やすとかですか」
愛永には、まるで馴染みのない分野だ。
「この手の問題は、神楽くんが得意ですね」
常磐道は、神楽を起こしに行った。
欠伸をしながら、神楽が赤い花柄のアロハシャツ姿で部屋から出てくる。
「さっき寝たばかりなのに、ひどいな」
愚痴る神楽に、常磐道は状況を説明した。
「氷に塩を入れると冷えるのは、凝固点が下がって氷が融解して周囲から融解熱を奪うからだね。同時に塩は溶解するので溶解熱を奪ってダブルで温度を下げるというわけさ。でも、氷融けちゃって、食塩水のままだと氷になりにくくなるけど、いいのかな。ダンテさんは、冷やしたいのか、凍らせたいのか、どっちだろう」
冷やす目的が重要だねと、神楽は言う。
「第九圏は氷の湖コーキュートスですよね」
確かめると、常磐道が答える。
「そうです。ダンテさんの『神曲』では、巨人族のギガンテスのエリアを抜けた先、ルチーフェロが幽閉されている時獄篇の最後の場所となります」
「ルチーフェロを閉じ込める氷が、融けているのですね」
「きっと、そうですね」
「それなら、吸熱反応を利用して冷やす方法がいいね。クエン酸と重曹を混ぜると温度が下がるというのは、有名だよ」
「重曹って、あの膨らませる粉ですか」
「そう、炭酸水素ナトリウムのことだね。中学理科で勉強するよ」
神楽は当たり前のことのように話すが、愛永の知識は心許ない。
「問題は、この情報をどうコンパクトにするかですね」
コンピュータを操作しながら話を聞いていた船越川は、こちらを向いて言った。
「化学式を送信しますか。反応前の『C6H8O7+3NaHCO3』をそのまま送るのはどうでしょう」
船越川も化学が得意なようだ。愛永には、厳重なパスワードにしか見えない。
「いや、西藤くんは化学が苦手だから、わからないと思います」
長年コンビを組んできた常磐道は、自信があるようだ。
「日本語で『クエン酸、重曹』を『KUEN3JYUSO』として送信してください。有江なら読めるはずです」
愛永が提案する。
「なるほど、『酸』を『3』にすることで素直に『クエン酸』と読めるね。続く『JYUSO』も『呪詛』ではなく『重曹』だと察しがつくよ」
神楽は、あごひげを触りながら感心している。
「その『吸熱反応』する組み合わせは、他にもあるのですか」
有江たちに、多くのパターンを伝えておきたい。今の愛永にできることは、その程度のことしかない。
「そうだね、硝酸アンモニウムと水だったり、尿素と水かな。でも、硝酸アンモニウムは爆発するし、尿素は、尿に二%程度含まれるだけで抽出も難しいから、現実的ではないかな。やはり、クエン酸と重曹だね」
神楽は、天井を仰いで言った。
冥界にクエン酸と重曹はあるのだろうか。
愛永は、心配になる。




