第3話 ダンテは喜劇を書いている
主な登場人物
ダンテ・アリギエーリ
48歳 1265年生、イタリア・フィレンチェ出身
栃辺 有江
24歳 都内出版社編集者
任廷戸 愛永
27歳 梶沢出版編集者、有江の先輩
常磐道 勝清
42歳 梶沢出版編集部長
午前十一時を過ぎていた。
有江は、駅前のデパートで当たり障りのないグレーのパンプスを購入する。一万四千九百円と消費税を封筒から支払い、釣銭からコーヒー代と電車賃として七百円を返してもらった。
壊れたパンプスは、もっと高かったし、コーヒー代と電車賃を合わせるとまったく足りないのだが、有江はこれでヨシとする。
化粧室で、新しいパンプスに履き替えた。
今は、いくら時間管理に大らかな会社だとしても、当日の朝に予定を変更してもらったのだから、急ぎ出勤し、状況を報告することが先決だろう。
「お互い災難でしたが、これで、わたしの《《貸し》》は《《なし》》で結構です。残りは、あなたのお金なのでお返しします」
デパートを出た先で、自称ダンテに封筒を渡した。
「では、これで失礼します」
お辞儀をして、有江は踵を返す。
そのとき、自称ダンテは、有江の腕を掴んだ。
「私には、行く場所も、帰る場所もありません。この世界で生きていくのには、知らないことが多すぎます。もうしばらく、私が元の世界に戻る日まで、助けてもらえないでしょうか」
自称ダンテは、大勢の人が行き交う歩道上で、今にも泣きそうな顔を……いや、泣き出した。
グレーのスーツ姿の女性と朱色の布をまとった男が、駅ナカで立ち食い蕎麦をすすっている。
「パスタとは、また違った食感と香りで美味しいです」
自称ダンテは、昼食は自分が奢るからと譲らず、有江はご馳走になっている。
有江は、自称ダンテに「助ける」と約束していた。
泣いている朱色の布をまとう男を放って、会社に行ってしまうこともできた。追いすがる男を警察に突き出すこともできた。
なぜ助けようと思ったのか、有江自身も不思議でならなかった。
天ぷら蕎麦が美味しい。
ひと駅戻り、出勤する。
駅から歩いて十七分、オフィスビルと呼ぶには余りにも古ぼけたコンクリート五階建てのビルが現れる。鉄筋が入っているのかも疑わしい。
このビルの三階に、梶沢出版は入居している。
他の階には別の企業も入居しているのだが、ビルに看板を掲げているのは梶沢出版だけなので、自社ビルに見えなくもない。
エレベータは備えられているが、乗降の際に激しく揺れるため、初めての来客は必ずと言っていいほど腰を抜かす。
自称ダンテも飛び退いて驚いていたが、エレベータに乗る前から驚いていたので、振動が原因かどうかはわからない。
梶沢出版株式会社は、創業二十四年、有江と同い年だ。
従業員は、社長以下、総務部と編集部合わせて十三名であり、決して大きな会社ではない。
過去には、手掛けた翻訳本がヒットして社員全員に臨時ボーナスが出たこともあったそうだが、最近はパッとしたヒット作もなく、ネットからスカウトした作家のライトノベル出版が主力となっている。
ガタンと揺れて、エレベータのドアが開いた。
有江は、自称ダンテにホールのベンチで待つよう言う。
一番手前にある編集部のドアを開ける。
「遅くなって申し訳ありませんでした」
正面奥の席に編集部長はいなかった。
「どうしたの? アリエッティのプレゼン楽しみにしていたのに」
話し掛けてきたのは、三歳年上の仁廷戸だ。
いや、仁廷戸は自分の苗字が大嫌いなので、会社では「愛永さん」と呼ばせている。「仁廷戸さん」と呼んで許されるのは、編集部長だけだ。
「愛永さん、ご迷惑お掛けしました」
有江は、午前中の経緯を説明して謝った。
編集会議の議題は、愛永が代わってくれると聞いていた。
「いいの、いいの。私が担当する作家連中は、異世界ものと転生ものしか書けないから、コンセプトも何もいつも一緒なのよ、だから、いつでも代われるから、困った時には言ってね」
愛永は、口は悪いが担当する作家や作品を、誰よりも愛していることを有江は知っている。愛永の言葉を聞くたびに、愛永の真意に翻訳したくなる。
「これから同行取材に行ってくるね。明日のプレゼン楽しみにしているよ」
愛永は、手を振りながら編集部を出ていった。
有江は、机の上に投げ出されたままのボールペンや付箋紙を片付けながら、部長を探すが見付からなかった。
ホールで、愛永と自称ダンテが話している様子が目に入った。
自称ダンテに、あることないこと話されては困る。あることでも、ないことでも、有江にうまく説明できる自信はない。
急いでホールに戻るが、ひと足違いで愛永はエレベータに乗り込んでいた。
「先輩と何を話したのですか」
「仁廷戸さんのことですか。あいさつして自己紹介しただけです」
自称ダンテが、どう自己紹介したのか気になる。
「もうしばらく、ここで待っていてください」
編集部に戻ろうとした。
「栃辺さん、怪我はなかったの?」
コーヒーカップを持ったスーツ姿の編集部長が、後ろに立っていた。
部長は、いつものように、トイレに行って、奥の総務部で油を売って、給湯室でコーヒーを淹れて、戻ってきたのだろう。
「だいじょうぶです。怪我はなかったのですが、ヒールが折れて靴を買っていたので遅れてしまいました。予定を変更していただいて、ありがとうございます」
「それは、気にしなくていいけど……ベンチに座っている人が、ぶつかった人?」
部長は、長身の身体をかがめ、小声で話し掛けてきた。
「あ、あの方は、作家さんです」
正直に話しても信じてもらえないだろうし、ぶつかった相手と連れ立っているのも変に思われる。有江は、とっさに嘘をついた。
「ああ、そうですよね。ネットの方?」
「いえ、わたしに直接連絡いただいて、先ほど駅前でお会いしました。あのお召しなので、驚きました」
そうですかと答えるや否や、部長はコーヒーカップを有江に預けると、自称ダンテのもとに向かっていた。
「はじめまして、梶沢出版、編集部長の常磐道と申します。うちの栃辺が担当しますので、よろしくお願いします」
自称ダンテは、立ち上がって常磐道から名刺を受け取っている。もう有江が間に入っても手遅れだろう。
「そのいでたちは、ドゥランテ・アリギエーリですね。目立つことは苦手な先生が多い中、アピール度が高い先生は、出版社としても助かります。ところで、先生のお名前をお伺いしても、よろしいでしょうか」
「ダンテ……です」
さすがにフルネームで答えるのはまずかろうと、自称ダンテも判断したようだ。
「そうですか、それは結構なことです。で、ダンテ先生は、何をテーマに執筆されているのですか。やはり『神曲』ですか」
「しんきょく?」
ダンテは、自身の代表作を耳にしてキョトンとしている。
今までの演技が完璧なだけに「そこは押さえていないのかい!」と有江は心の中で突っ込んだ。
「私は今『喜劇』を書いています」
「ああ、これは失礼しました。『神聖喜劇』ですね。そうですよね、本人なのだから『喜劇』ですよね」
常磐道は、これは一本取られましたなと言いながら、勝手に納得している。
「部長、出社して早々ですが、ダンテさんとの打ち合わせに、外に出てもよろしいでしょうか」
これ以上耐えられそうもないと思い、有江は脱出を試みる。
「いいですよ。プレゼンは、明日の朝一に入れておきました」
そう言いながら、常磐道は有江の方に向き直る。
「この方、ユニークだけど大物の匂いがします。進捗はこまめに報告してください。頼みましたよ」
そう話す常磐道の顔は、いつにもなく真剣だった。




