第2話 ダンテは古銭を売りにいく
主な登場人物
ダンテ・アリギエーリ
48歳 1265年生、イタリア・フィレンチェ出身
栃辺 有江
24歳 都内出版社編集者
商店が連なる通りの角に、喫茶店のスタンド看板が見えた。
クラシカルなドアには「営業中」のサインプレートが掛けられている。有江は、霊魂に逃げられないよう、朱色の布を掴みながら店に入った。
チリンと鈴の音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
黒のワンピースに白いエプロンをつけた女性店員が、条件反射のように応えた。
有江と霊魂は、窓際の席に向かい合わせに座る。
店内には五人の先客がいて、店員はモーニングの配膳や片付けにと忙しそうだ。カウンター席のカップをマスターに手渡した店員は、有江の席に注文を取りにくる。
店員は、有江と霊魂の前にコップをひとつずつ置いた。
「ご注文は、お決まりですか」
ふたりの顔を交互に見ている。
「レギュラーコーヒーをふたつ、ホットでお願いします」
店員は、マスターにオーダーを伝えている。顔を上げたマスターと目が合った。
見えている。
喫茶店の店員も、マスターも、男が見えている。
他の客も、出勤を急ぐサラリーマンも、この男が見えていた。
「コーヒー代も、後で出してもらいます」
有江が勝手に注文したのだが、奢るのも釈然としない。
それに、霊魂でも幻影でもなければ、持っているお金は使えるのだろう。
「一か月は暮らせる額ですので、足りると思います」
自称ダンテは、布袋を差し出した。
「日本円でいくらになるか調べてみます。三リブ……」
有江は、スマホで検索する。
「三リブラ九ソリデゥス六デナリです」
自称ダンテが覗き込むスマホの画面に「中世貨幣」と表示される。
「これ、古銭じゃない」
「日本が二〇二四年であれば、そうなります」
「他にお金は持っていないのですか」
「これだけです」
弁償できるのであれば、換金しても構わないと自称ダンテは言った。
コインショップを検索する。
「その文字や絵が出てくる板はなんですか」
コーヒーを飲む自称ダンテは、身を乗り出し尋ねてきた。
「これは、スマートフォンです」
「何ができるのですか」
「電話を掛けたり、インターネットに接続して情報の検索やサービスが受けられる携帯端末です」
有江は、自称ダンテの自然な演技につられて、まじめに答えている自分に驚く。
「電話ってなんですか」
「インターネットってなんですか」
「サービスへの対価はいくらなのですか」
喫茶店を後に駅に向かう途中も、自称ダンテは質問を続けた。
演技としては過剰だが、そうでないとすれば質問は的確であり、理解も速い。
有江は、混乱していた。
コインショップはこの街にはなく、職場を過ぎ、都心に出なければならなかった。
大通りに出て、道を行き交う自動車を見た自称ダンテは、地獄でも見たかのように驚き、あれは何かと尋ねてくる。
ふたりは、駅の改札を抜け、上り方面のホームに降りる。
ホームに電車が入ると、固まったまま動かない自称ダンテに「これは電車です」と手短に答え、車内に押し込んだ。
二十分ほど電車に乗り、都心で降りる。
「寿コイン」は、駅から徒歩十五分の距離と案内されている。
有江は、右足のヒールがない上に、自称ダンテが上から覗き込むので、非常に歩きにくい。
路地の角を曲がる。
人通りが少なくなった。
「あの店が、そのようです」
自称ダンテに、先に見つけられてしまった。
辺りは雑居ビルに囲まれ、ビルとビルの間は漏れなく路地になっている。「寿コイン」は、ビルの一階に店を構えていた。
店の入り口は、すりガラス一枚のドアに「寿コイン」の文字だけが透けている。有江が「寿」から中を覗こうとすると、ドアが開いた。
八畳ほどの店内の正面には、ガラスのショーケースが置かれ、中には見慣れぬコインが輝いている。右手の三段の棚にもコインが並べられているが、ショーケース組ほどの大きさや輝きはない。左手の書棚には、古銭のカタログや、貨幣に関する本が揃えられていた。
ショーケースの奥に、茶のジャケットを着た白髪交じりの店主が立っている。部屋の右隅には、紺のパーカーを着た青年が、丸椅子に座ってニコニコしていた。
コインショップに初めて入る有江は、勝手がわからぬまま、店内を見回し、ただ立っていた。
「今日は、どのようなご用件でしょう」
店主に声を掛けられ、緊張丸わかりで答える。
「か、買い取りを、おね、お願いしたくて……」
「どうぞ、こちらに。お品を見せていただけますでしょうか」
ニコニコ青年が、椅子を用意してくれた。
有江は、自称ダンテから預かった金貨と銀貨をポケットから取り出し、ショーケース上の盆に置く。
「こ、これは、おいくらになりますか」
一番高そうな金貨を、店主の前に差し出した。
店主は、白手袋をはめて金貨を手にすると、拡大鏡を通して表面、裏面と入念に見始める。
店主は、五分ほど金貨を眺め、書籍のページをめくり、口を開く。
「鑑定書は、ありますか」
有江は、隣で座っているだけの自称ダンテを見た。
「普段使っている貨幣ですから、そんなものはありません」
自称ダンテが答える。
「これは、面白いですな。今の寸劇も含めて値を付けたいところですが、こちらも商売、そういうわけにもいきません」
店主は、慣れた様子で驚きもしなかった。普段から、身の上話込みで高価買取を狙う客が多いのだろう。
「まあ、鑑定書があったとしても、これほど保存状態がよいコインが、一三〇〇年当時のフィオリーノ金貨であるとは、誰も信じないでしょうな」
店主は、金貨を手にし見入っている。
「しかし、レプリカとしては非常に精巧に造られています。どうでしょう、このフィオリーノ金貨と、そちらの、見るところグロッソ銀貨、デナロ銀貨のレプリカ一枚ずつ、セットで買い取るというのは」
店主は銀貨も手に取り拡大鏡を通すと、頷きながら買取申込書にペンを走らせた。
「こちらの額で、いかがでしょうか」
金額欄には「百二十万円」と書かれていた。
有江は、店主の気持ちが変わらぬうちにと、急いで買取申込書を記入し、運転免許証を添えて差し出す。
店主は、書類を確認すると、盆を持って立ち上がった。
「本物だったら、いくらになるのでしょうか」
たまらず店主に尋ねる。
「鑑定書付きの本物だったら、そうですな、フィオリーノ金貨一枚で三百万円は下らないでしょうな。お待ちください」
店主は、奥の間に消えた。
店番の青年は、正面を向いてニコニコしている。
「足りないようであれば、全部、売りましょうか」
「いや、これで十分です」
待つ時間が「永遠」のように長く感じられた。いつ店主が奥から現れて「やはり、価値はありませんな」と言われるか、いや「盗品ですな」と言われ「逮捕ですな」と警察が現れないかと、気が気でなかった。
「有江さんは、二十四歳なのですね」
運転免許証を覗き見たであろう自称ダンテを、有江は睨みつける。氏名と生年月日を知られたようだ。自分の迂闊さを悔いる。
「私は、ここに来る前に、四十八歳になりました」
自称ダンテは、笑いながら言った。
三十分待たされたが、警察が現れることもなく、店を出るときには、白封筒に入った百二十万円の現金を手にしていた。




