第13話 満月の謎
主な登場人物
ダンテ・アリギエーリ
48歳 1265年生、イタリア・フィレンチェ出身
栃辺 有江
24歳 梶沢出版編集者
任廷戸 愛永
27歳 梶沢出版編集者、有江の先輩
常磐道 勝清
42歳 梶沢出版編集部長
下根田 陽人
26歳 駅前交番に勤務する巡査
西藤 隆史
36歳 職業不詳、ダンテが住む部屋の先の住民、亡くなっている
金曜日。
有江は、いつもの出勤時間より一時間三十分早く家を出る。
外は、まだ薄暗い。
決まって毎朝吠えられる北隣の飼い犬に、今朝は吠えられなかった。寝ているのか、寒さで小屋から出てこられないのか。どちらにせよ、身構えていただけに拍子抜けした。
有江は、白い息を吐きながら、冷え切った街並みを駅へと歩く。あまりの空気の冷たさに、いつもの街路樹も信号も尖って見えた。
駅に近づくにつれ、遠方に通勤しているであろうサラリーマンが増え始める。
駅前ロータリーにバスはなく、白のミニバンが一台停まっている。
車から陽人が降りてきて、手を振った。
「有江さん、おはようございます。寒いですから、さあ、早く乗ってください」
陽人は、助手席側に回り、ドアを開ける。
「アリポン、おはよう」
「有江さん、おはようございます」
後部座席には、愛永とダンテが座っていた。
「おはようございます。ダンテさん、後ろの席でいいのですか。ていうか、愛永さんは、ダンテさんが隣でいいのですか」
「私は平気です。ダンテ先生は、助手席の方がいいみたいですが」
愛永は、いたずら気に笑った。
「ぼくが後ろに座るように言ったのです。ダンテさん、一度は助手席に座ったのですが、勝手にナビとかサイドブレーキを操作するものだから、危なっかしくて」
運転席に乗り込みながら、陽人が言った。
「そういうことです」
ダンテは、肩をすくめた。
午前五時五十五分、出発する。
いつも渋滞している道路も、朝の六時ならスムーズだ。
環状八号線を北に進む。
「陽人さん、朝早くから付き合わせてしまってすみません」
「いや、平気です。毎朝、意思に反して元気ですから」
――判断に困る。
「西藤さんの身元の判明はもちろんですが、ダンテさんが元の世界に戻る手掛かりが見つかるかもしれませんし、なにより、みんなで出掛けられて楽しいですからね」
ダンテは陽人にどこまで話して、陽人はどこまでダンテの話を信じているのか、有江は気になる。
「西藤さんの身元は、警察でも調べているのですか」
「本署に頼んで照会してもらっただけです。行方不明者届は出ていなかったのですが、たしかに立科町には『西藤』姓が多いので、佐久警察署でも管内の交番に聞いてくれるそうです」
「ボタンひとつで、調べられないのですか」
有江は、意外に思った。
「町役場に調べてもらうには、捜査事項照会という正式な手続きが必要ですからね。今回のケースは事件でもないので、聞いてまわるしかないのです」
「警察も地味な仕事ですよね」
愛永は、後部座席で頷いている。
目白通りから関越自動車道に入る。
新座料金所、所沢ICを過ぎたが、単調な景色は変わらない。
陽人と愛永は、最近見た映画の話で盛り上がっている。有江もホラー映画のターンには、ここぞとばかりに話に入った。
ダンテは、話に加わらず陽人の運転を見ている。
三芳PAを過ぎた。
朝の内は霞んでいた空も澄んできた。靄が晴れたのか、都内の汚れた空気が薄くなったのか。そのどちらも、なのだろう。
「西藤さんは、東京で何をしていたのでしょうね」
映画の話も出尽くしたところで、有江はつぶやいた。
「嘘の勤務先を書いていたということは、名前も偽名なのですかね」
今から立科町に行こうとしている理由を、根本から揺るがすようなことを陽人は口にする。
「偽名なら、一般的な『斎藤』にしますよ。いや、もっとありふれた『鈴木』とか『佐藤』とかの苗字にしますよね。勤務先を偽ったのは、アパートを借りやすくするためでしょ」
愛永が否定してくれた。
「お隣の山田さんは、西藤さんがアパートから出掛ける姿も見掛けています。ただ、決まった時間というわけではなかったそうです。顔を合わせれば、挨拶は普通にしていて、隠れようとしていた形跡はありませんね」
今まで黙っていたダンテが、口を開いた。
「西藤さんの部屋は、有江さんにメールしたとおり『水洗』トイレのタンクには何もなく、キッチンの棚や引き出し、押し入れの中にも何も残っていませんでした。ただ、壁には、ピンの刺し跡が多く残っています。引き抜いた跡はまだ新しく、西藤さんは何かを壁に貼っていたのでしょう。それらしい飾り物やポスターがないということは、警察で預かっているのですかね」
「いや、押し入れには寝具と洋服類があるだけでした。どこにも壁に貼るような物はありませんでしたね。警察官になって、ぼくにとっては初めての『事件』ですから、よく憶えています。暗がりの中、人が倒れているのを見たときには『殺人事件』ではないかと、不謹慎にもちょっと期待しちゃいました」
陽人は、運転しながら答えた。
「下根田くん! 今、なんて言いましたか!」
ダンテは、大きな声を出した。
怒られたと思った陽人は「ちょっと思っただけですよ」とあわてて言い訳する。
ダンテは、パソコンを取り出すと、なにやら調べ始めた。
景色がひらけ、緑が多く見えるようになった。
「暗がりの中、西藤さんを見たのですね。陽人巡査が、アパートに入ったのは、夜十時過ぎですよね」
愛永は、ダンテの代わりに話を続けた。
「山田さんからの通報は、午後十時二十三分ですから、不動産屋さんに来てもらって、部屋に入ったのは午後十一時ころですかね」
「西藤さんは、明かりを点けていなかったのですね」
「そうです。部屋に入ってから、照明を点けました」
「でも、暗がりの中、人が倒れているのが、わかったのですよね」
「そうですね、わかったのですね。月明かりがさしていたのだと思います」
ぼくが尋問されているみたいですねと、陽人は笑った。
「ダンテさんの部屋は一階ですから、カーテンを閉めていないのも変です」
有江は、疑問を口にした。
「西藤さんは、月を見ていたのだと思います」
ダンテが言った。
車は、大きく左にカーブし、上信越自動車道に入る。
「かぐや姫の『月』ですか」
有江は、西藤さんのメモを思い出した。
「二〇二三年六月二日は、満月です。月明かりは、十分部屋の中を照らします。電気も点かず、カーテンもない部屋を寝袋で過ごしましたので、間違いありません」
「しかし、かぐや姫の『月』にしては時季が違いますね。かぐや姫が月に帰ったのは旧暦の八月十五日、今の九月、十月の中秋の名月です」
「そうですね」
愛永の指摘に、ダンテは口を閉ざした。
車は、山間に入る。
雪は積もっていないが、葉を落とした寒そうな山々が車窓に続く。
横川SAに入る。
朝食の時間には遅く、昼食の時間には早いが、パーキングには多くの車が止まっていた。
ダンテたちは、車を降りると一様に伸びをし深呼吸する。
ダンテと愛永は「峠の釜めし」、陽人と有江は「だるま弁当」を売店で買い、飲食スペースに広げて遅めの朝食をとる。
食事を終え、愛永が運転手となり出発する。
「満月に秘密があるといっても、満月は毎月ありますからね。秘密にしては頻回です」
愛永は、運転しながら話した。
愛永の運転は、陽人と違って加速、速度とも申し分ない。できれば、運転しながら話はして欲しくない。
「単なる満月ではないということですよね」
ダンテの口数が少ない。




