第1話 ダンテは目の前に現れる
主な登場人物
ダンテ・アリギエーリ
48歳 1265年生、イタリア・フィレンチェ出身
栃辺 有江
24歳 都内出版社編集者
人生の道半ばを過ぎ、正しき道を踏みはずした私が目を覚ましたとき、煌びやかな街の中にいた。
空間が光った。
「危ない! いきなり出てこないでよ」
駅に向かって商店街の通りを歩いていた有江は、突然、目の前に現れた男を避けようとして、バランスを崩した。右にひねった身体は、前のめりになりながらも、辛うじてバランスを保つ。
そのまま、転ばずに持ちこたえるかと思いきや、最後の一歩が側溝のグレーチングを踏み抜いた。右足のヒールが格子とがっちりかみ合う。
前傾姿勢から一転、重心が後ろに移り、両肩を押さえつけられたように、有江は尻もちをついた。
ヒールは、荷重に耐えられず、へし折れた。
朝七時の路上に男が突然現れ、避けようとした女性が転んでも、誰も関心を向けることはない。人々は、狭い道を駅へと急いでいる。
終日、歩行者専用のこの道は、飲食店や携帯ショップ、コスメ店が軒を連ねているが、朝早いこの時間帯は、朝食メニューを販売する牛丼チェーン店以外は、シャッターを降ろしていた。
有江は、スカートの裾を直し、振り返る。
男は、朱色の布をまとっていた。立ったまま、有江を見下ろしている。手を差し出して助けるわけでもなく、投げ出されたバッグを拾うでもない。
身長は、一六〇センチメートル半ばくらいだろう。有江と同じ一五〇センチメートルの「昇龍飯店」の看板より、拳ひとつ高い。
植物を巻きつけた朱色の頭巾から覗かせる顔は、彫が深く、大きな鼻が目立っていた。
有江は、パンプスを手に取る。
踵だった場所を持って、男の前に突き出す。
「あなた、そこにいなさいよ!」
バッグを引き寄せ、スマホを取り出した。
今年の初詣に、かじかむ手からスマホを落としている有江は、何事もなかった画面を見てほっとする。
「おはようございます、編集部の栃辺です。部長お願いします」
電話の保留中も、有江は男をにらみ続ける。
「部長、栃辺です。すみません、出勤途中に人とぶつかり、転んでしまって……ええ、怪我はありませんが、ヒールが折れて……午前中の会議は、わたしを飛ばして明日に……はい、申し訳ありません」
有江は、都内の小さな出版社に勤めている。
今日は編集会議があり、担当作家の新作出版を検討する予定になっていた。
しかし、これでは会議に間に合いそうにない。編集部長に事情を説明し、明日に延期してもらう。
有江は立ち上がり、男に告げる。
「警察を呼びます」
スマホに手を掛けた。
いかにも怪しげな男を相手に、一刻も早く第三者を入れたかった。
「そ、それは、困ります」
男は狼狽し、有江に近づき懇願し始める。
「どうか、許してください。フィレンチェに連れ戻されると、私は火炙りにされてしまいます」
男の言葉を理解するのに時間がかかった。
フィレンチェ? 火炙り?
男は、目の前に突然現れた。
毎朝、グレーチングに嵌まらないよう、集中して歩いている有江が、男の存在に気がつかないわけがない。
男は、目の前に突然現れた。
その男が、警察に捕まれば、フィレンツェに連れ戻され、火炙りにされると言っている。「フレンテ」の聞き間違いだろうか。
男と一定の距離を保ちながら、いつでも助けを求められるよう、片手でスマホのロックを解除する。
大きく息をつき、大声を出す準備も整えた。
「壊れた靴は弁償します。ですから、警察には突き出さないでください」
身なりからして、朱色の男が疑わしいのは明らかだ。
しかし、警察に「男が突然現れた」と説明して、信じてもらえるだろうか。そう有江が話さないにしても、男が「私は突然現れた」と話したとき、なんて答えたらよいのだろう。
答えを出せず、通報できずにいた。
「お金ならあります」
有江は、このときになって初めて、男が日本語で話していることに気がついた。
「あなた、誰なの?」
許してもらえたと思ったのか、男は安堵した表情で答える。
「私は、ダンテ。ダンテ・アリギエーリと申します」
有江も文学部卒の端くれ、イタリア・ルネッサンス初期のダンテ・アリギエーリくらいは知っている。
自称ダンテは、コスプレのつもりなのか、服装を似せているが、顔つきはそれほど似ていない。鼻は大きめではあるが、ダンテの特徴とも言える「かぎ鼻」ほどではない。眉は八の字に下がり、目は垂れ気味、顔の輪郭は丸みを帯びている。肖像画や大理石像で見る凄みは、まったく感じられなかった。
穏やかな顔立ちは、朱色の布をまとっていなければ、ダンテには見えないだろう。
「で、自称ダンテさん、弁償すると言ったわよね」
「もちろんです」
自称ダンテは、ここに来る前にいくらかのお金を持って部屋を出たと話す。
「ここに、三リブラ九ソリデゥス六デナリあります」
朱色の布から突き出された手には、布袋が握られている。袋の中には、金や銀に輝くボタン大の硬貨が入っていた。
「その三リブレなんとかというのが、お金ですか。ここは日本ですよ。そんな外国のお金は使えません」
「ここは『にほん』という国なのですか」
「そう、お日さまの本と書いて『日本』。あなた、自分のいる場所がどこか、わからないの?」
「私は……つい先ほどまで、ヴェローナにいました」
ヴェローナは『ロミオとジュリエット』の舞台としても有名なイタリア北部の都市だ。
「つい先ほどって、瞬間移動してきたと言いたいわけ?」
「そのようです。昼食を食べ終え、シニョーリ広場に行こうと私が部屋を出たとき、雷鳴のような音が響き渡り、目の前が真っ暗になりました。気がついたときには、ここに立っていたのです」
有江は、腕時計を見せ、今は朝の八時三分前であることを伝える。自称ダンテは、目を丸くして腕時計を見ている。
「そうですか……ということは、今日は五月三十日でもない?」
「今日は、二〇二四年一月二十四日です」
「わ、私が部屋を出た五月三十日は、一三一三年です……」
自称ダンテは、混乱した様子で周囲を見回している。
新手の詐欺なのだろうか。
「なぜ、日本語を話せるの?」
有江は、この茶番を早く終わらせたかった。
「私に言われましても……」
自称ダンテは、言葉に詰まっている。
「私か、あなたか、どちらかが実体のない霊魂や幻影なのかもしれません。意識下の会話なら、言語に囚われることもないでしょう」
自称ダンテは、答えを探すかのように、慎重に言葉を選んでいる。
「わたしの実体がないわけないのだから、あなたが霊魂か幻影ってことじゃない」
有江の言葉に、自称ダンテは眉をひそめた。
そもそも、朱色の布をまとった男が突然現れて、騒ぎにならないのもおかしな話だ。街の人々には、この男が見えていないのかもしれない。そう考えた方が辻褄は合う。
「落ち着いて話す必要がありますね」
有江は、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
ヴェローナ・シニョーリ広場のダンテ像




