風使い
「⋯⋯なぜ、俺と日本語で話せるのですか」
レグルスは薄く笑った。
「それは、自らの状況を受け入れた、ということでよろしいですか?」
「⋯⋯」
「⋯⋯そうですね、教えて差し上げましょう。君は魔法を信じますか?」
「まほ⋯⋯魔法ですか?」
彼はにこやかに頷いた。
もちろん信じているわけがなかった。ここにいる事実だって、壮大なドッキリかもしれない。自分が死んだことを確かにわかっているのだけれど、そう願っている自分もいる。結局は以前と同じく、全てに疑いの目を向けている。元から存在を否定しているものをどう信じようか。
「突然には信じられないでしょう。⋯⋯ですが、事実として私は日本語は全く話せません。君と私の会話が成り立っているのは魔法があるからです」
「あなたが、魔法によって日本語を話していると?」
「いえ、そうではなく、魔法によって日本語を話しているように思わせているのです。私には君が英語で話しているように感じられています」
英語は話せるけれど⋯⋯でもそれは魔法なんだろうか。実際に俺が英語で話していて、それを母国語のような感覚に捉えているとすれば⋯⋯。
「これは催眠術の類いとは違いますよ。そんな下劣なやり方は好みませんし。
君は『英語なら話せるから魔法の力は不要である』と思っているようですが、ここの共通語はラテン語ですし、前にも言ったように、元の世界から一部の人間がやってくるのです。全員が我々のように英語を話せるわけではありません。自国の言葉に翻訳してくれる魔法があるのですから、存分に頼りなさい」
「読心術も使えるんですね⋯⋯」
「いいえ、君のは簡単です。君は実に表情筋が硬い人間ですが、目と眉がよく喋る⋯⋯。今のは眉間の皺が、こう、グッ⋯⋯と深まったので危うく吹き出すところでした」
彼は箱から新しくタバコを取り出して咥えながら笑っていた。思わず眉間を触ってしまう。
「もっとも、魔法を使うなんていうことは容易いことです。この世界には不思議なモノが漂っているようで、その物質のおかげで、起こしたい現象を想像して集中するだけで、現実にすることができます。原理はよくわかりませんが、想像力はそのまま魔法に変換されるのです。例えば⋯⋯」
レグルスは手のひらを啓の方へ突き出し、なにも持っていないことを示してからそのままグッと拳をかためてゆっくり開いた。
彼の手のひらの上では小さな種火が揺らめいている。
「こうやって、ライターを誤って捨ててしまった喫煙者のピンチを救う聖火も出せます」
タバコに火をつけながら、冗談を飛ばすような声色で話し、フッと火を吹き消した。彼は白い手袋を両手に嵌めているのだが、全く焦げていない。火がついた何かを手に持つなんて絶対にできない。
「ね? 簡単でしょう? ちょっとやってみませんか。なにかしてみたいことは?」
「ええっと⋯⋯」
いろいろとレグルスがやってみせたので啓はそういう世界だと割り切れば受け入れることは難しくないかもしれない、と思い始めていた。
しかし、自分がその事象を発生させる人間になるなど⋯⋯『そんな世界にうつつを抜かす』ことを禁じられてきたのにできるはずがない⋯⋯。
「まあ、最初はみんな半信半疑で『自分には出来ない』なんて思うものですよ。ただ、やってみもしないのに悩んでいるのは愚かなことかと」
俯いて諦めかけている顔を見て、レグルスは諭した。この子には魔法を使ってもらわなければならない。いつか自分の力を凌ぐ者になるのだから。わかっているからリゲルと名付けた。何も知らされずに可哀想ではあるが⋯⋯。
「⋯⋯俺は最初、部屋に入ったときに、とても汚いと思いました。めちゃくちゃ片付けたいと思いました。とりあえず吸い殻だけでもどうにかしてみたいです」
「わかりました。では、動かしたいものに集中して意識を向けて⋯⋯」
啓は灰皿を凝視した。
「そうして、そこが片付くのを具体的に思い描く⋯⋯」
直接持って行って捨てたほうが早そうだと思ったが、風に乗って吸い殻がゴミ箱へ吸い込まれるのをイメージしてみた。
「それから、そのイメージを私の合図で指先から一気に放たれるのを想像して⋯⋯。いきますよ、3⋯⋯2⋯⋯1、はい」
合図にあわせて机の上の灰皿の上に手をかざした。
瞬間、風が巻き起こり、全ての吸い殻や灰を巻き上げてゴミ箱へ流れた。なかなかに強い風で啓は驚いたが、しっかり灰皿が綺麗になったのを確認すると、安堵した。
レグルスは驚いた。初めてなのに風をきちんと使った⋯⋯。それなりの出力で魔法が使えるのは制御装置がないのと、ビギナーズラックに違いはない。学習院であんなことをしたら、乱暴だの粗野だのという評価を受ける。だが、風を使うのは、火よりも水よりも練度の高さを要求される。初心者は大概、見た目の派手さに惹かれ、火を使いたがるものだ。初手で風、大気を選んだというのは、いや、選ばされたというべきか、期待に応える少年であると確信するとともに、不安感が心に根差したのを察した。
「⋯⋯疲れましたか?」
「いえ、⋯⋯簡単にできたので驚いています」
「⋯⋯なんというか、君を見くびっていたかもしれません⋯⋯。僕も今度からそのやり方で吸い殻の始末をしようと思いました。そんな使い方もあるんですね、いやー⋯⋯」
不意に啓が立ち上がった。
「レグルスさん、この書類は勝手に片付けてもいいものですか?」
「え? ああ、ほとんどがゴミですが⋯⋯」
言葉が終るか終わらないかでまた風が巻き起こった。本棚にあったであろう本は本棚へ、紙屑はゴミ箱へ、手紙類はまとめて机の上へ、はんこが押されていない書類も机の上へ、それ以外はまとめて紐で縛り、部屋の隅に寄せた。
啓はすっかりマスターしたようで、楽しそうに片付けている。レグルスは不安も期待も、どこぞへ飛ばされてしまったように、ただ絶句していた。ざっくりとしか片付けられないながらも、作業が細かく、まるで魔法使いの所業とは思えない。呆然と啓の手の動きを見つめていた。こんなの、制御装置に慣れてしまえば、ひとつきも訓練すれば、使い物になってしまう⋯⋯。嬉しいとは言い切れない誤算だ。悟られないように少し、途方に暮れた。
ざっと片付き、風が止んだ。部屋が広くなったと両人が感じるほどに見違えた。
「わあ、綺麗になりましたね、レグルスさん」
「⋯⋯そう⋯⋯ですね⋯⋯。⋯⋯信じられないのは僕の方ですよ⋯⋯」
驚いていたのは啓も同じで、まさかこんなすぐにマスターしてしまうとは夢にも思わなかった。確かに信じるとか考えるとかは関係なかった。直感でイメージして集中すればいいし、こういうことに使える自由なアイテムと考えれば悪くない気がした。
「じゃあ、さっき耳元で指を鳴らしたのは、言語の調整をするため⋯⋯?」
「さすがですね、その通りです。
魔法を使えば、ほとんどのことができます。しかし、等式はなにがあっても両辺が等しいように、なにもないところから何かを生むことはできません。君が起こした風や、僕が起こした火は大気中のモノが手伝ってくれたのでできたことです。想像力が強ければ強いほど、現象の代償は少なく済みますが。
ここは、科学の代わりに魔法が発達した近世ヨーロッパ世界のようなところです。いろんな魔法使いや、いろんな種族がいます。おとぎの世界ですからね。その人たち全員が善き人ではありませんから、魔法が原因でトラブルも起きます。
君は、不本意ながらこの世界に身を置くことになってしまった。君がどうやって生きていくかは君次第ですが、善き道を踏み外さないことです。全ては女神に会わなければ動けないのですが⋯⋯」
「女神⋯⋯。あ、あの、あと、想像力が全てそのまま魔法になっちゃうんですよね⋯⋯? その、しょーもないこと考えちゃったらそれも現実になっちゃうんですか⋯⋯ね?」
さっきから少し疑問に思っていたことを聞いてみると、レグルスは少しわからないような顔をしてから笑い始めた。
「わかりますよ、まだ十六歳ですもんね」
さも愉快そうに笑うのでだんだんイライラしてきたのだが、そこは死活問題だ。現実に起こっては困ることをふとした拍子に想像しかねない⋯⋯。
「⋯⋯はあ。お偉方に会う前に着替えも済ませたいですしね。当分は君と同室でしょうからいろいろ買い出しに行きましょうか。その問題を解決するツールも手に入れてしまいましょう」
よく見ると制服はところどころほつれたり破けたりしていた。脇腹に血もべったりくっついているし、着替えないと確かにマズい。
「⋯⋯ここは、フェリアのお城のプライベートゾーンです。女神様や王女様方と政府最高権力の幹部らが住んでたりします。君の存在はまだ軍部にも明かせないトップシークレットで、君がここにいることを知っているのは、病室で世話を焼いてくれたアテナさんと、僕と、女神だけです。
地下道を通って城下に出てしまいましょう。外でいろいろと、この世界のことを説明しますよ」
レグルスは立ち上がって、部屋の真ん中の床に手を当てた。
「さあ、これが地下道の入口です。この五百年で僕と数人しか使っていない超プライベートロードですよ」
ドアノブのようなものが浮き出て、それを引くと、マンホールのような黒い穴が現れた。
「えっ? 五百年?」
「いいから、いいから」
無理矢理穴に押し込まれ、啓は悲鳴を上げながら落ちていった。