7月15日――朝
「はあっ……はあ……っ」
律は汗びっしょりで目を覚ました。喉はカラカラで頭がガンガンする。
夢の中に初めて兄が出てきてくれたことに涙を流していた。変な夢だった。ベッド脇のデジタル時計を見ると、7月15日の6時10分を指していた。……あれからまだ一週間しか経っていない。夢の中にいるかのようなふわふわとした一週間だった。抱き締めてくれた兄の体温を思い返して律はまだ隣の部屋に啓がいるような気がしてならなかった。なにせ突然のことだった。気持ちに整理はつかず、いなくなった兄への寂しさを、怒りに変換してやり過ごしていた。
夢を反芻したところで夢の中に戻れるわけではない。だが、いやに現実感のある夢だっただけに、記憶が混濁している。とりあえず期末のテストはこの間返されたから終わっている。いまは終業式の準備で職員室が忙しそうなのだ。……そうだ、啓はもういない。
喉がひりつくように乾いているので、水を飲むために居間に下りた。母が朝食の準備をしている。
「あら、りっちゃん、今日は早いのね」
「お母さん。おはよう」
水をコップに入れて啓の位牌の前に置いた。父がそういう信心がないために仏壇はない。棚の上に位牌と香炉、啓の写真がただ置かれているのみである。真聡啓明童子。それが啓の戒名だ。父は戒名もいらんだろうと言っていたが、さすがに親戚に「それはあまりに可哀想だ」と怒られていた。そういう父が大嫌いだ。
啓の戒名が“居士”ではなく“童子”なのが、律には悲しかった。大人になれないで死んでしまったことが位牌に刻まれてしまった。かわいそうなお兄ちゃん。真新しい白木の位牌をそっと撫でて、お線香に火をつけた。
「……お母さん、お兄ちゃんがね、夢にでてきてくれたんだ」
母は瞬時に目に涙をためて、鼻をグスッと鳴らした。
「……お母さんのところへは一度もでてきてくれないの、啓ちゃん……なにか言ってた?」
「ごめんって、泣きながら謝られたよ……温かい涙だった」
「そう……夢じゃなければよかったのにね……」
律はなにも言えずにただ頷いた。母が無理に微笑んだのがとても辛かった。
ゆっくりご飯を食べて、ニュースを真剣に見ていた。あの通り魔は捕まったが、心神喪失状態だったとされて処分が難航している。律は犯人が死刑になることを願ってあれから目を皿のようにしてニュースにかじりついている。七時半になって、天気予報が挟まったタイミングで、制服に着替える。
自分の白いブラウスが、兄の血に染まったシャツを思い出させた。律は毎日こういうフラッシュバックと闘っているのを誰にも見せていない。目をぎゅっと瞑って頭を軽く振ってその映像を脳内から追い出すようにする。これは単なるおまじないだが、その場しのぎにはなる。
教科書を最終確認しながらリュックの中を探っていると、インターホンが鳴った。美怜先輩だ。
「おはようございます、今日、待ち合わせてましたっけ……?」
「ううん、待ち合わせてないけど、弥生先輩と勇矢先輩から、律を迎えに行ってほしいって連絡がきたの」
「弥生ちゃんと勇矢くんが?」
「うん、変な夢をふたり揃って見て、律ももしかしたら……って言われて。てか大丈夫? 顔めっちゃ青いよ?」
美怜の顔を見て、急速に現実に引き戻された感触がした。なんとなくまだ啓があの部屋にいるような気がしたが、もうどこにもいないのだと、足元に深い穴でも開いたような気分がして、玄関でうずくまってしまった。聞き返しはしたが、美怜の話の内容はまったく頭に入ってこなかった。あの血に汚れた美怜お手製の時計ブレスレットが脳裏にちらつく。広がる血の色、――喪失感。
「律? とりまあのふたりと合流しよ? いつものとこで待ち合わせてるから」
駅の近くの商店街にあるコンビニ横の路地に弥生と勇矢が待っていた。律と美怜はほとんど無言でここまで歩いてきた。美怜は、いまの律になにを言っても軽薄に聞こえることをわきまえていた。
「りっちゃん、大丈夫?」
勇矢が律の顔を覗きこんできた。なんとなくふたりの顔色も良くない。
「ゆうべの夢に、啓ちゃんが出てきたんだ」
「俺も弥生もまったく同じ夢だった」
「夢の中で、啓ちゃんはりっちゃんに会いたいって言ってたから、もしかしたらと思って美怜ちゃんに迎えに行ってもらったんだけど」
「夢……お兄ちゃん出てきました……泣きながら、謝ってた」
律の目には涙が溢れて、それ以上話せなかった。美怜はおろおろして三人の顔をうかがっていた。とにかく律が泣いたのには一同驚いていた。感情を表に出さないことで有名な律が、誰かの前で泣くなんて。
「美怜、いつもありがと。遠回りなのに、真宮家に寄ってもらって」
「いえいえ、律が心配なのはアタシも一緒なので……」
律はすぐ泣き止んだ。
「アレは、ほんとに啓ちゃんだったんだよね?」
「啓の匂いがして、体温があった……な」
勇矢は苦しそうに夢を思い出していた。いつも一緒にいた親友が、突然いなくなるのは辛かった。まして、自分たちがついていたら回避できたのかもしれない友人の死なら、なおさらだった。弥生も平気そうな顔をしているが、いつも飲んでいる睡眠薬を三倍にして飲まないと寝付けないほど、精神がやられている。
一同は、斎場で最期に触れた啓の身体の冷たさを思った。夏の暑い時期に亡くなって、葬式まで数日置かなければならない遺体は、ドライアイスで保存されることがある。そのぞっとする冷たさと、昨夜感じた啓の体温とを同時に思い、脳が混乱する。いま夢を見ているんじゃないかと思ったのは、当然と言えた。
「真宮先輩、他になにか言ってました?」
美怜がおずおずと切り出した。
「そういえば……」
律が顔を上げた。
「お兄ちゃん、いま私たちが考えるようなあの世にはいないって、言ってたな……」
「あの世? 啓の口から?」
「啓ちゃん超リアリストだったもんね」
律は説明しづらそうに説明した。
「簡単に言うと、異世界、みたいなところらしいんだけど……」
「きさらぎ駅みたいな?」
「口裂け女に連れていかれるとこみたいな?」
弥生と勇矢が同時に反応した。律はまた首を横に振って言った。
「そういうオカルティックなんじゃなくて、……もっとラノベ感あった」
「あの啓ちゃんが? なんの因果で……」
美怜は難しい顔で考えていたがぽつりとつぶやいた。
「真宮先輩は、そんな嘘つく人じゃないですもんね」
三人は首を大きく縦に振って、賛同の意を示した。
「だから、変な夢だったって、誰も笑えねえんだよな……」
「その……その世界で、また死ぬのかもしれないって、言ってたんだ」
律はまた顔を歪めた。
「とにかく幸せではないみたい……それが、哀しくて」
弥生はふっと微笑んで、律に尋ねた。
「りっちゃん、もう怒ってないの?」
「怒れないよ、あんなに泣かれたら……」
お兄ちゃん、生きて。生きてね。その死後の世界で――
――――――――――――――――――――――――――――――――
「はっ……はあ……」
リゲルは目を覚ました。さやさやと樹々の葉擦れの音がする。ここは……森の中?
「俺……ここどこだっけ……?」
隣にはミストが寝転んでいた。こいつ、誰だっけ……? と一瞬思って、ああそうだと思い出した。リゲルは現世では死んで、ここフェリアという異世界で、魔導士になる試験を受けるために試験会場へ移動中だった。――おとなしの森、だったな。どういう意味のネーミングだか知らないが、不気味な印象は拭えない。正常な状態で帰ってくる人間はほぼいないなどと聞かされれば、そりゃそうなるだろう。
おとなしの森へ入っていくまでの森の中で、いまは野宿をしている。アルラがリゲルの様子に気が付いて、顔を覗いてきた。
「リゲル? 顔色悪いよ」
「ああ、アルラ……夢を見たんだ」
「へえ、どんな夢だい?」
「生前の、あちら側の夢、だよ。妹や親友に会った。変な夢だった」
アルラは少し遠くを見るような顔をして、言った。
「死を目前にして、里心がついたかい?」
「いや……そういうのではないな。アルラ、火の番は変わるから、寝ていていいよ」
「え? リゲルが寝付いてからまだ二時間しか経っていないよ? もう少し寝ないと」
「いいんだ。俺のことは大丈夫だから、アルラは寝てくれ」
リゲルは立ち上がって焚火の側に座り込んだ。アルラはまだなにか言いたげだったが、なにかを察して、ひとつ頷いて眠りについた。
少し考えたかった。あの夢の意味を。
腹を決めたんだ。律の顔を見て……。
腹を決めたんだ。俺は、生きる。俺の魔力が俺の想像しているくらいなら、きっと生き残れる。
律、またお前の顔を見るために。




