7月15日──夢
「真宮、次読んで」
リゲルは——啓は一瞬誰を指して言っているのかがわからず、周りを見回した。啓はいつの間にか学校の制服を着て教室の自分の席に着いていた。生物の担当教師が教壇に立っている。黒板の日付は……6月25日。六限目の生物の時間だった。
「真宮……?」
真宮くん、と後ろから人差し指で背中をつつかれる。ノートの表紙の記名を見て、ようやく“真宮啓”が自分の名前だと思い出した。
「あ、はい」
慌てて教科書を広げる。
「74ページ、6行目」
「はい……えーと、『遺伝子の発現の最終段階では――』」
これは夢、なのか? いままで一度も見なかった生前の夢……。
「真宮、ここは期末に出すよ。しっかり授業に集中しなさい」
「はい」
釘を刺されずとも知っている。ヌクレオチドの塩基配列の発展問題の得点率が悪く、隣のクラスが学年の平均を著しく下げたことも知っている。覚えている。なんでもかんでも遠心分離機にかけないでほしい、と言っている奴もいたっけ。啓もその意見には概ね同意する。
俺は知っていると思う、この景色やこの日のこと。確かに6月25日は六限目が生物で、期末前の詰め込み授業だった。
――遺伝子の発現、つまりはDNAをRNAが転写し、RNAがリボソームで翻訳され、タンパク質を合成する。タンパク質の構成は一次から四次までの複雑さを示し、それが基質特異性の要因となる。……というのは授業ではなく自主的に教科書を読んで身につけた知識なわけで、ろくろく授業なんか聞いてもいないのが思い出される。
思えば今だってそうだ。単位を取るために授業には出ているが、魔導の時間は暇なので、ラテン語の勉強にあてている。自分で理解できるところは自分で勉強したい。
チャイムが鳴った。この後は授業がないので、当然帰り支度を始める。
「啓ちゃん!!」
弥生と勇矢に声をかけられた。これが自分の記憶の追体験ならば、このあとファミレスに行って一緒に勉強しないかと誘われるはずだ。……だが、表情がなにか切羽詰まっている。
「啓、これは、……これは夢?」
「え?」
勇矢が泣きそうな顔でそっと啓の髪に触れた。
「僕たちは、この間啓ちゃんの告別式に出たばかりなんだ……啓ちゃんがここにいるわけない、いるわけないのに……」
弥生も涙声で応じる。勇矢が啓を引き寄せて力強く抱き締めた。
「会いたかった……啓」
「なにも言わずにお別れなんて、僕、信じたくないんだよ……」
啓も思わず涙ぐむ。勇矢の背中を軽く叩いて身体を離した。……だけど、おかしくはないだろうか。
「俺も、夢なんじゃないかと思ってるんだ……でもおかしいよな、夢の登場人物が夢を自覚してるの、気味がわりぃ」
「おれたちにとっちゃお前がここで理屈こねてる方が気味がわりーんだけど……でも今は嬉しい」
「僕もだよ」
夢のはずなのに、現実みたいに再会を喜んで、現実みたいに気味悪がって、おかしい。おかしいんだ。だけど、あの日世界のすべてが奪われて、寂しくて悔しくてたまらなかったのを、いまこうして『自分がたしかに生きていた証』を目の当たりにして、なにかが救われるのを感じている。
「なんで死んじゃったの、啓ちゃん……」
「俺だって、……俺だって死にたくなかったけどさ。いきなりこんなことになって、受け入れられないのは俺も一緒だ。ていうか、俺、ちゃんと葬式出してもらってんだ……」
「当たり前だろ。いまにも起き上がりそうな顔してたんだよ、お前」
「そっか……」
神妙な雰囲気になって会話が途切れた。
「これ、夢だと思うか?」
「いや、僕らは夢の形をした夢ではないものの中にいると思う。さっき勇ちゃんとも話してたんだけど、夢にしては鮮明すぎるんだ。なにもかも。少なくとも勇ちゃんと啓ちゃんと僕にとっては夢じゃない」
啓は黙って頷いた。と同時に、ある予感が芽生える。
「……律に会えるかな」
律の名前を聞いて、二人は微妙な顔をした。まるで彼女には会わない方がいいとでも言いたげだった。
「なんでそんな顔すんだよ?」
「……りっちゃん、怒ってるんだ」
「怒る? なにに」
弥生はしばし躊躇って話し始めた。
「啓ちゃんが勝手に死んだってことをね、りっちゃんえらく怒ってるんだ。怒ってるって言うよりも、たぶん、喪失感や悲しみや寂しさを感じたくなくて、そういうポーズをしているんだと思う。見ていて痛々しいよ。啓ちゃんは、見ない方がいい。あんなりっちゃん、放っておけないと思う」
啓はそれを聞いて、長いため息をついた。実に律らしい反応といえた。思えば律はいつでも強情を張って、強い自分を演出してきた。兄を喪って悲しみにくれる律を見せられる人間が周りにいないのだ。それはきっと母にさえ、そうなのだろう。かわいそうな律……。
「だったら、なおのこと会わないと。あの性格じゃ、俺に会えたチャンスがあったことを知ったら、地獄の果てまでついてきて俺の横っ面をぶん殴りそうだ」
「それは……そうかもね」
弥生と勇矢は微笑んだ。
彼らと別れて、家路を急いだ。なんとしても律には早く会わないといけないと思う。通い慣れた道。見慣れた風景。違和感を感じるのは一年近く、この路を歩いていないからだ。
「……ただいま」
玄関のドアを開けると、廊下の奥からひょこっと律が顔を覗かせた。
「おかえ……お兄ちゃん?」
律は目を真ん丸くして二度見した。啓と目が合うと、手に持っていた教科書を床に落とした。
「……ほんとに、ほんとにお兄ちゃんだ……お兄ちゃん」
おずおずと近寄ってきて玄関先に立ったままの啓の腕に触れた。長袖のシャツを肘までまくった二の腕を掴んで、
「……んの、ふざけやがって!!!!! ばか兄貴!!!!」
とデカい声で啓を怒鳴りつけた。律は涙目だった。その顔を見て啓は耐えきれず、次の言葉が律の口から出てくるのを遮るように、強く抱き締めた。
「ごめん、ごめん、律……置いていくつもりはなかったのに……俺っ」
啓は律に謝りながら嗚咽をもらして泣いた。自分が死んでから啓は初めて泣いた。律も息を荒くして震えていた。こんなに長く律を抱き締めたことがあるだろうか、というくらいの時間、二人は泣きながら抱き合っていた。律と目が合った瞬間に察したが、律にとってもこれは夢ではないらしかった。啓に近しい者たちだけが過去に閉じ込められているのか――?
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「あつい」
「あ、ごめん」
忘れていた。この6月下旬の気候では、長いこと玄関で抱き締められていたら暑いに決まっている。そう言われると啓も汗ばんでいる。
「初めて夢にでてきてくれたね」
居間の椅子に落ち着いて、律は笑みをこぼした。
「……いや、俺としては毎日でも出てやりたいんだけど、ちょっと状況が複雑なんだ」
啓が頬をさすりながら慎重に言葉を選びはじめると、
「は? どういうこと?」
「んーと……律が想像するようなあの世にいるわけじゃないんだ、としか説明できねえんだよな……なんて言ったらいいんだろ」
「あの世? お兄ちゃんのくせに夢みたいなこというんだね」
律は一気に訝しげな顔つきになって啓の顔を見つめた。そんな顔をされるのもよくわかる。自分だって死後の世界のことなど考えたこともなかった。
「俺の中では、俺はまだ生きてるんだ。よくある死後の世界の話みたいに好きなときに思うように誰かの夢枕に立てるわけじゃなくて。律のことは心配だった。誰よりも律のことばかり考えていたんだ。マジだぞ? でも律のところへは行けなかった」
「お兄ちゃんがそんな嘘つくような子供じゃないのはわかってるよ……。じゃあ、お兄ちゃんはいまどんなところにいるの?」
啓は言葉に詰まった。正直にフェリアでのことを話しても、この夢が覚めれば律は『変な夢見たな……』で終わらせるとは思う。思うが……自分の口から異世界にいるんだよなんてことは恥ずかしくて言えなかった。だってそうだろう、そういうフィクションを避けて通って、なんならバカにすらしていた自分が“異世界”なんて……。
「なんか、パソコンで言うと、バグに引っかかってブラウザバックできなくなったときみたいなとこにいる」
「なにそれ、もっとちゃんと話して」
だよなあ……。自分でも意味のわからないこと言った自覚はある。でも、異世界……異世界とは言えない……。
「……もしかしてだけど、なんか別の世界、とか? デスカ?」
啓は下を向いたまま頷いた。律は深くため息をもらす。
「あるんだ、そんなとこ」
「あるんだよ……、そんなとこ」
啓は促されるまま律にかいつまんでフェリアのことを話した。レグルスのこと、珠春のこと、魔法を使えること、これからある卒業試験で死ぬかもしれないこと……。
「……マジでラノベなんだけど、お兄ちゃんがそんな嘘つくわけないし……しかもお兄ちゃんそういう知識ないし……え〜??」
律は混乱している。そりゃそうだよな、と思う。
「……そこで死んだら、どうなるの?」
「俺にもわからない。フェリアには復活という概念はないらしいことをこの一年近くでだんだん理解した。ということはやり直しは効かない。それしかわからない。……でも俺は怖いんだ」
律は押し黙っている。死んだはずの兄から、また死ぬかもしれないことを聞かされて、その恐怖を語られている。生前の兄を知っているだけに、これがどういうことなのかわかってしまう。
「律が2歳くらいのとき、律が心臓の手術をしたことがあったのは、俺は何度もお前に話してるけど、あのときも律がいなくなっちゃうかもしれないって、すげえ怖かった……。なんかその時のことを思い出すんだ」
「……私は覚えてないけど、お兄ちゃんが異常に怖がってたのは、お母さんから散々聞かされたよ。でも、お兄ちゃんの気持ちはわかる。お兄ちゃんが実際いなくなって、こんなに……こんなに寂しいんだって……」
律は涙ぐんだ。
「この夢が覚めたらもう二度と会えないのかもってことでしょう? そんなの絶対に嫌。お兄ちゃん、その世界でなんとしても生き残って。お願い。またこうやって、夢の中でいいから、律に会いに来て」
椅子から立ち上がって啓の顔を覗き込むように近づけたその顔は、青白かった。そんな律の顔を、ぎゅっと両手で包んで、啓は腹を決めた。
「うん、絶対に死なねえ。また律の顔見たいから」
そのとき、夢から覚める感覚がした。周りの景色が色褪せ始める。
「律!! 元気で!!」
「お兄ちゃん!!!!」
最後に律の呼ぶ声が聞こえて、啓は――リゲルは夢から覚めた。




