兄弟子
「多分お説教をされるのでしょうから、遅くなると思います。
リゲル君、ベッドは使っていいので先に寝ていてください」
そう言って、レグルスの部屋にひとり、と猫一匹で残されてから二時間くらいが経っている。
彼が『女神』と呼ぶので、今度はいったいどんなのが出てくるのかと思えば、年の近そうな少女だった。現人神の神権国家なのかと思ったが、王女三姉妹との空気を見るに、少しっ違った印象を受けた。
『お説教』とはまた、人間味に溢れすぎている⋯⋯。
なんの所以で彼女が女神と呼ばれているのか、俺にはまだわからない。『私が呼んだの』と彼女は言っていた。⋯⋯彼女が、俺を殺したのか?
膝の上の猫はすっかり落ち着いて喉を鳴らしている。こいつを見ると少し苦い気持ちになるが、猫は別に悪くない。
あの三姉妹の三女、アルテミス、と呼ばれていたあの人、見覚えがある。死ぬ前によく見ていた夢に出てきた人だ。真っ黒な長い髪、真っ白な肌、青い瞳、いつも泣いていたが、実際に会ってみればめちゃくちゃ人をバカにするじゃないか。正直なところ苦手な部類の女子だ。明日、学習院の案内をしてくれるらしいが、会わなくちゃいけないのか⋯⋯、もう既に憂鬱だ。
でもさっきあんなに脅されたのに、『怖いので会いたくないです』なんて言ったら、どんな目に遭わされるかわからない。⋯⋯明日よ、俺のところには来ないでください⋯⋯。
「ナァー」
撫でる手が止まったことへの抗議の声で引き戻された。
そういえばこいつに早くトイレを作ってやらなきゃ、この本や紙の山、ヤバいことになるんじゃないだろうか。
部屋をよく見ると、物が多いだけでなかなか広い。実際はもう少し大きいかもしれないが、十畳、十畳、十二畳の2LDKバストイレ付、といった具合のそれなりに家賃のとられそうな部屋だ。一部屋は実験室、もう一部屋は書庫、LDK部分にベッドとソファとテーブルが置いてあり、実際の生活スペースはその範囲内。そこすらも書物に浸食されている。まともに使った様子のないキッチン、食べかけのパンと仕事道具が同居している机の上⋯⋯。昨日ちょっと片付けたのに、もうこの有様だ。彼は相当ズボラなのかもしれない。
さっきはとてもそれどころではなかったが、どうして部屋のことを言い出せなかったんだろう⋯⋯。
『まあ、良いんじゃないですか? フェッカだってルームメイトいますし。部屋数に限りのある宮殿内でひとり部屋という方が珍しいですよ。
エルゲみたいに市内にお店でも開くか、借りるツテができれば一人暮らしすればいいと思いますけど、君、命狙われてるようですからね。すべては鈴の君の思し召しということで⋯⋯』
と、上機嫌で夕食を食べながらレグルスは言っていた。ひとり行動ができるほど確かな生活力はないから一人暮らしなんてまだできないと思っている。そこに文句はつけようがない。が、男ふたりが生活するのにこれは、あまりにも⋯⋯、なんだかレグルスの真意がわかった気がした。俺はさしづめ家政婦といったところだ、世話してくれる人が欲しかったのだ。
絶対にそうだ。
そのときノックの音が響いた。
『命狙われてるようですからね』というレグルスの言葉が心臓を掴む。思わず息を潜めると
「珠春ですが⋯⋯、どちらかいませんか」
という聞き覚えのある声がした。ホッとしてドアを開けると、同じくホッとした表情の珠春が立っていた。
「珠春、⋯⋯さん、レグルスさんは鈴の君のお呼びでいまはいないよ」
「呼び捨てで構いません、あなたは兄弟子なのですから。伺ったのは、今更ながら、礼を言いに」
彼女、彼というべきか。彼は育ちがもともと良いひとなのか、教えてくれる人がいたのか、敬語が使える。俺は気付かなかったが、レグルスが気にしていて、なるほどと思った。売買の末、奴隷のように扱われてきた人というのは大概教育を受けていない。貴人の家に買われても、このような人は召使いの下人、というような位置で、働いてくれさえすればいいので、言葉遣いまで面倒を見てもらうことは滅多にないのだ。相当口が悪くても、挙動が粗野でもおかしくないのに、彼にはそういったある種の卑しさが見受けられなかった。
「こっちこそ、そんなに改まらなくていいよ。お礼なんて⋯⋯あれは、うん⋯⋯気にしないで」
「それでも、あなたのおかげで、おれはまた人間の生活を得られた。助けて頂いて、有難うございます」
それについてはなんとも反応しづらいので、とりあえずソファに座るように促して、お茶を出すことにした。レグルスもお茶やコーヒーは飲むようで、茶葉瓶やポットはその辺に置いてあった。カップも、給仕の人が見かねて一緒に下げるのか、案外きれいなものが置いてある。使い慣れない台所は正直嫌だが、制御装置にまだ慣れていないので魔法は使いたくない。お湯が沸くまでは彼の話に付き合うしかない。
「でも、人として当然のことをしたまで、としかほんとに思ってないんだ」
「ここにそのような当然を掲げる人間などいない。⋯⋯現にお師匠さまだって、あなたがいなければおれを見て見ぬふりをした」
珠春は皮肉るような、悲しいような声を出した。俺も否定はできない。俺が飛び出したりしなかったら、レグルスはそのままエルゲの工房に直行していたはずだ。
「あなたはあちら側の人だからな、知らなくて当然だ。ここではあんなの日常茶飯事なんだ」
それは珠春にとっても、そうだったのだろう。
「⋯⋯もうどこも痛くない?」
あんなに石をぶつけられていたのに、そういえば痣がどこにもない。
「ああ、それこそがおれの能力で、少し失礼する」
そう言って、机の上に放置されていたナイフをスッと掴むと、躊躇うことなく左腕を切り裂いた。
舞う血飛沫。
後ずさる俺。
痛がる素振りも見せず、絶句する俺に、傷口をよく見ろと言わんばかりの鬼気迫る視線を投げかけた。正直恐ろしくて目を背けたかったが、珠春の腕は生き物のように傷口を閉じていく。十五秒もしないうちに、跡形もなく傷は塞がっていた。
「ほら、おれは怪我などしない」
いまなにを見せられたんだ、俺は、
「おれが弱竹のかぐやなどという名を与えられたのは、この不死の能力があるからで、大抵の傷はちょっと集中すれば治る。集中しなくても五分後には治っている」
ナイフにべっとりついた血を何事もなかったかのような顔をしてナプキンで拭っている。俺はなにも言えなかった。食後になんというグロシーンを⋯⋯。
湯が沸いて、湯沸かしポットが間抜けな音を出した。
「結局それって痛くないの? 大丈夫?」
「⋯⋯治している間は痒いが、治れば痛くない、と思う。
痛みに鈍いのか慣れたのか、痛いと思ったことはあまりない」
「⋯⋯俺もそうなんだ、最近。死んだからかな」
珠春はなんともいえないような顔で笑って、おれも死んでいるかもしれない、と小さな声で言った。
「そんなことを聞いてきたのはあなたが初めてだ。⋯⋯切りつけても死なないとわかれば散々痛めつけてくれた奴らとは違うな、やっぱり」
「君に暴行してもメリットないしね⋯⋯俺へなちょこだし」
言い終わるか終わらないかくらいで珠春が盛大にお茶を吹き出した。そんなに変なことを言ったつもりはないが、彼のツボに入ってしまったらしく、苦しそうに笑っている。ここの人たちの笑いのツボがわからない。
「⋯⋯ああ、苦しい。あなたに助けられてよかったな、と思って。⋯⋯突然こんなことを言ったら、困るだけかもしれないが、」
彼はぎゅっと拳を固めて、思い詰めたような顔をして俺の顔をじっと見た。
「おれの兄になってほしい」
「は?」
今度は俺が呆れた声を出した。まったく話が見えない。
「四つくらいの頃から五年ほど育ててくれた薬師のおじいさまに言われたことがあるんだ。『家族はなにも血だけではない。お前の側にいてくれる人を探し、大切にしろ』と。
おれはずっとひとりで、兄弟が欲しかった。それで、心に決めていたんだ。御印ってことと、この能力を見せても受け入れてくれて、優しいひとに兄弟になってもらおうって。
昨日と今日、あなたを見ていてわかったんだ、そんなのはあなたしかいない」
「⋯⋯俺やさしい?」
「腕切ったくらいで血相変えたり、自分をへなちょこって言ったり、見ず知らずの小汚い御印を助けてしまう人が優しくないなら、この世界に優しいなんて言葉はいらない」
そう言われても、やさしい、という言葉に、偽善とか、ええかっこしいみたいな匂いを感じてしまうくらい、生きていた頃のすべてに毒されている俺には、珠春はとっても良い子なんだなということくらいしか思えない。ちょっと微妙な顔をしていたんだろうか、珠春がまた口を開いた。
「おれはいろんな奴に買われたから、あなたよりあなたのことがよく見えているんだと思う。人を見る目はあるんだ、本当に。
それに、おれたちは女神さまに買われたモノ同士だ。他はどうでも、あなたは信じられる」
⋯⋯女神に買われた⋯⋯俺も⋯⋯、そうか。
「ああ、そうだね、わかった。⋯⋯じつは俺もひとりぼっちで心細かったんだ、天涯孤独同士、仲良くしよう」
珠春は見たこともないような満面の笑みを浮かべて、ついでにちょっと涙目になって、ただ深々と頭を下げた。
「兄上、もうひとつ頼みがあります」
少し表情が律に似ている。⋯⋯律、元気かな。
「おれの右腕を奪った奴を、一緒に探して殺すのを手伝ってほしい」
―――――――――――
レグルスは女神の部屋で彼女の髪を結っていた。お説教は存分にくらったが、まだ下がることを許されていない。
この部屋は城の時計塔のいちばん上にある。特定の人しかその存在を知らないし、知っていたとしても、部屋の前に辿り着くには特殊な手を使わなくてはいけない。
「ねえ、レオ。あの御印の女の子、白宮の生まれね」
「やはりそうですか、珍しいことですね」
白宮というのは通称で、このフェリアの東にある国のことである。また別名として花の国と呼ばれることも多い。なかなか遠いので行き来はそこまで激しくないが、行ったことのある人によれば、麗らかな気候のなか、季節を問わずさまざまな花が咲き乱れ、いつも香木の芳しい匂いに満ちた、水の豊かな、雅やかな国だという。レグルスは野暮用で何度も足を踏み入れている。フェリアの次に魔力の高い国だと、彼は認識している。
「珍しいもなにも、確認できる限りははじめてのことよ⋯⋯」
「⋯⋯歪みの干渉、と仰りたいのですか、お嬢様?」
女神は二人きりのとき、レグルスに『お嬢様』と呼ばせる。そう呼ばせるのは彼ひとりにだけで、その理由は頑なに言おうとしないので誰も知らない。初めは抵抗があったような気がするのだが、なにぶん、もう手が届かないほど底の方にある古い記憶なので、よく覚えていない。そんな感情まで忘れてしまうほど、ここでは長く生きすぎている。
女神はひとりでは髪が結えないので、時折彼にこうして髪を触らせる。
歪み、という言葉に肩を震わせて過剰に反応し、不安げにレグルスの手を握り寄せて、自分の頬にあてた。
「⋯⋯レオ」
「はい」
「⋯⋯いずれ起こる大乱の際、多くの人が命を落とすでしょう。
それは⋯⋯勿論あなたにも可能性がある」
「はい」
「災いを避けられなかった不甲斐ないわたしを、許してください。あの少年がやってきて、すべては確定事項になってしまいました⋯⋯」
「鈴の君、側近ふぜいに『許せ』など、畏れ多いことです」
「ですが、これはどこまでもわたしの内面世界⋯⋯揃いすぎてしまいました⋯⋯」
「お嬢様、もうなにも仰いませぬよう⋯⋯」
ただ、泣き震える女神を抱き締めながら、レグルスの瞳には、女神に似た窶れた少女が映っていた。




