駅にて
私は、電車に揺られながら今日の夕飯のことを考えていた。
今日一日のやるべきことを終えて、一人自分のやりたいことに思いを巡らせるこの時間は、ただの移動時間と称するには惜しい、私の癒しの時間。
この時間、電車を利用する人は少なく、今この車両にいるのも私の隣にいる老紳士と、向かい側のカップルと、ほか数人ほど。
聞こえる音と言ったら電車のゴトゴト揺れる音と、前のカップルの小さな話し声程度。
電車の中は、静かだった。
電車はあと数駅で路線のハブステーション、という所を走っていた。
電車に乗っている僅かな乗客が、目を覚ましたりスマホを確かめたり、網棚から荷物を下ろしたりと降りる準備を始める。
大方、その駅でまた乗り換えて家へと帰るのだろう。
目の前のカップルの話し声が少し大きくなってきた。これから仲睦まじく夜を過ごすのだろうか。
否、少し様子がおかしい。彼女の方の顔が少し暗い。
私は夕飯のことを考えるのを中断し、カップルの会話に耳をそばだててみることにした。
「だから言ってるじゃん。そう言う問題じゃないんだって。」
「じゃあどうすればいいんだよ…」
成程、大方男性が女性を怒らせてしまったと言うところだろう。
性別と性格の関係は血液型占い程度の認識であるが、人が誰かと一緒にいる以上、認識の差は生じる。すれ違うのは当たり前のことだろう。
「いっつもそうやってさぁ。簡単に片付けようとするじゃん。こっちは真剣に悩んでるのに。」
「違うんだって…」
「何が違うの?」
とうとう、女性の方は泣き出してしまった。
よく、女性の相談は別に解決策を求めている訳では無い、という話は耳にする。
一概に女性だから、と括ってしまうの些か宜しくない気もするが、目の前の女性はどうやらそのタイプだったのだろう。
男性はこの状況をどうにかする策が思いつかないのか、「悪かった、ね、落ち着いて」ととりあえず目の前の女性を宥めることに徹している。
なんとなくその姿が自分と重なる気がして、心が痛かった。
男性が窘めるのも効果なく、女性はさらに泣き出してしまった。
「あなた何も分かってない。いっつも気楽に生きてるくせに。私と同じ目にあったことないくせに。」
「それは…」
男性は、とうとう黙りこくってしまった。
私は心の中で男性に同情する。恋人と言えど所詮は自分とは別の個体だ、
一つの事象に対して完全に同じ感想を持ち、同じ感情を抱くなんて無理な話だ。
「もういいよ、放っておいて」
そう言うと、女性は目的地に着く前に電車を降りて行ってしまった。
目の前のシートには、後に残された男性一人。
さっきまで女性に向けられていた、何とか安心させようと言う微笑みはみるみるうちに崩れ、ついには彼も泣き出してしまった。
泣き声こそ聞こえないものの一定間隔でしゃくり上げる肩と、段々と濡れていくズボンが、彼の心境を物語っていた。
さっきまで女性がいた席が詰められずに空席なのが、余計痛々しかった。
見ていて非常に心が痛むが、私には到底知らない人、しかも傷心中の人に話しかけていく決心はつかない。
私は彼の方を見て、心中お察しします、と同情の言葉を心に抱くことしか出来なかった。
先程から車内での騒ぎを見ていた人々も同じようで、泣いている彼の方を心配してか、あるいは野次馬精神なのか、チラチラ見ている。
どうしようか、何か声を掛けてあげるべきなのか。余計なお世話だとは言われないだろうか。
暫く心の中でウダウダしていると、おもむろに隣の老紳士が立ち上がった。
彼は男性が座っているシートの方へ歩みより、彼の隣に腰を降ろす。
彼の話を聞いてあげるつもりなのだろう。こういう時にすぐ動ける人はすごい。
心の中で彼の勇気に賞賛を送りつつ、私は少し落ち込んでいた。
誰かが困っていたら、助けなくてはいけない。
小学校の道徳や、親との日常会話で何度もこの文言は聞かされる。
しかしながら、いざ、目の前に泣いている人がいてもそう簡単には動けない。
お節介だと非難されることに対する恐怖か、自分に解決出来る自信がないから躊躇しているのか、はたまたそんなまるで自己保身的な事を考えている自分に対する嫌悪の感情なのか。
泣いているのは見ず知らずの人間だと言うのに、私の心は晴れやかではなかった。
ふと顔をあげると、男性の元へと行った老紳士と目が合う。
何だ。意気地無しとでも言いたいのか。気分がまた少し重くなった。
しかし、老紳士はこちらと目が合ったことを認識すると、私に向かって手招きするような動作を始めたのだ。
こっちに来い、と言っているのか。
私の体は自然に動いた。流れるように席を立ち、反対側のシートに向かう。
老紳士に座るように促されたのは、先ほどまで泣いていた女性が座っていた場所だった。
そっと失礼して、空席に腰を下ろす。座席からはもう人の温もりが消えていた。
「私のような老人の意見だけだと偏る気がしてね。別の視点からの意見も必要だろう。」
老紳士は私を呼んだ理由をこう説明した。若者の気持ちは若者の方が分かる。
そう言って老紳士は男性の背中をさすりだした。
「失礼な質問かもしれないが、君に恋人はいるかい。」
「え?」
老紳士が質問を投げかけた相手は、私だった。
突然の質問に間抜けな声で返事をしてしまう。
「います…けど。」
「そうか、良かった。」
「どういうことでしょう。」
私の恋人の有無が、この泣いている男性にどう効果があるのか。見当がつかない訳では無いが確信は持てなかった。
「君が…君のような若者が、恋人が落ち込んでいる時にどう対処してるか聞きたくてね。」
「はぁ…」
「ことのあらましはさっきもう聞いてしまったし、君も見ていただろう。」
「はい。」
私の意見の使い道は分かった。
しかし、どうだろう。私も、彼と同じなのだ。恋人が落ち込んでいても、助けてあげたいと思っても、役に立ちたいと思っても、肝心な時に動けない。
前に同じような状況で恋人と喧嘩をしたことはあったが、結局自分では何も出来ずに恋人の友人に仲直りの手伝いをしてもらった。
さっきだって、目の前で事の顛末を見ておきながら、その後老紳士に促されるまで何も出来なかったような意気地無しだ。
すこし落ち着いてきた彼を慰める言葉や経験などは、持ち合わせていないのだ。
せっかく、役に立つチャンスがあったのに。
「…どうしたんだい?」
「…いえ」
「なんか君まで浮かない顔をしている。」
暗い考えが顔に出てしまっていたのか、見かねた老紳士が心配そうに声をかけてきた。せっかく見過ごしたことへの贖罪が出来るのに、これじゃあ私はお荷物だ。
「…考えていることの見当はつく。間違いだったら申し訳ないが、正直に言ってみてくれないかな。」
「え?」
「いいから。」
そう言う老紳士の目は真っ直ぐだった。これは黙っている方が悪いな。
私は観念して、自分の思っていたことを吐き出し始めた。
「いや…私じゃ助けになれない気がしたんです。私も、彼と同じだから。」
男性が、一瞬顔を上げる。私はそれに気が付かないまま、話を進めた。
「私は、恋人と喧嘩した時も結局友人に仲を取り持ってもらったし、恋人が落ち込んでた時も結局何も出来ませんでした。だから、自分で解決できたことなんて何一つないんです。」
「続けて。」
老紳士は、私の答えに納得しているようだった。
「さっきだって、ずっと真正面で見てたのに何も出来なかった。本当は何かするべきだと思ってたんです。でも、余計なお世話だって思われたり、期待に背くのが怖かった。ごめんなさい。」
私は、そこで話を終えた。本当に、自分の気持ちを言っただけだった。
これでいいのだろうか。老紳士の方向を見遣ると、彼はそれでいいんだ、という顔をして口を開いた。
「謝る必要は、ない。何故なら君はたった今、彼の役に立ったから。」
「へ?」
いつの間にか隣にいた男性は、泣き止んでいた。
さっきまでしゃくり上げるばかりで何も言わなかった男性は、涙で腫れた顔をあげてようやく話し出した。
「俺、さっき出ていった子が初めての彼女なんです。俺が好きになって、俺が告白して、大事にしようと思ってたんです。」
そう言って男性は頬をびしょびしょにしていた液体を拭う。
「彼女、友達と喧嘩したみたいで。落ち込んでたんですけど俺が何とかしようとしているうちにああなっちゃって。」
役に立ちたいと思ってるのに肝心な時に行動に移せなかったり、相手に少なからず期待させてるんじゃないか?なのに何もできなくて良いのか?って思っちゃって。
そう言って男性は苦笑いをした。
「すみません、男なのに泣いてみっともないですよね。」
「いや、そんなこと、思ってませんよ。」
いいんです、笑ってください。男性は笑う。
「前々からずっと、彼女が落ち込む度になんで俺ってこんなにも何も出来ないんだろうって、俺はダメなやつなんだって。思っちゃってたんです。でも良かった。みんなそうなんですね。」
「その通り。」
老紳士が頷く。
「人は皆平等に失敗する。現にこの人だって同じ経験をしているんだ。自分だけだ、なんて思い詰める必要は無い。」
車内アナウンスが、次の駅が近いことを伝える。男性はもう一度顔を拭くと立ち上がった。
「元気が出ました。これから、彼女に謝ってきます。2人とも、ありがとうございました。」
そう言って男性は頭を下げる。電車がゆっくりと速度を落とし始めた。
「こちらこそ。」
正直まだ役に立てた気はしないが、彼が元気になったなら何よりだ。
電車が完全に止まる。彼はまだ少し腫れている目を細めると、もう一度お礼をして電車から降りていった。
発車アナウンスが鳴り響き、ドアが閉まる。
座席には私と老紳士2人が取り残されていた。
「きみ」
老紳士が一つ席を詰め、こちらにやってきた。
「ありがとう」
彼の口から出たのは、感謝の言葉。
自分には勿体ない、と思った。老紳士が手招きしてこちらへ呼んでくれなければ、私はずっとあの席で下を向いたまま陰鬱な気分になっていただろう。私の返事は謙遜でも何でもなかった。
「私は何の役にも立ててません。」
「ほう。そう思うかい。」
そう言うと、老紳士は少し考え込むような顔をした。
暫くして、彼は再び口を開いた。
「これから私の話すことは、話すことの性質上矛盾を感じるかもしれない。それが許せないのであれば聞き流して構わない。」
「はい…」
初めて聞く話の切り出し方をされて、少し混乱する。一体老紳士が自分に何を言ってくれるのか予想は出来なかった。
「いいかい、もしかしたら君のためになるかもしれないと思って言う。人は、等しく他人に対して無力だ。」
「…一体どういうことでしょう。」
「ふむ。じゃあ質問しよう。君が落ち込んで立ち直った、と思うのはどんな時だい?」
どんな時と言われても。そんなの答えは分かりきってるじゃないか、と思う。
私は自分の気持ちをそのまま老紳士に伝えた。
「自分でもう大丈夫だな、と思った時です。」
「その通り。」
老紳士は納得したように頷いた。
「どんなに周りが落ち込んだ君に励ましの言葉をかけようが、助言をしようが、立ち直った、と決める権利は周りにはない。君自身にある。」
「そう…ですね。」
「どんなに周りが励ましても、最後立ち直るキメを打つのはその人自身だ。どんなに完璧に励ましても、その人に立ち直る意思がまだ無ければどうしようもない。その最後のひと押しには、他人は関われないんだ。」
老紳士はそう言って微笑む。
「だから、仮に君が上手く誰かを励ませなかったとして、自分は役に立たないやつだとは思わない方がいい。人の心の決断に、他人は立ち入れない。それは、人が感情を持った時からの摂理だ。それを踏まえて、やるべきことを尽くせばいい。」
だから、気に病む必要はないんだよ。
そう言って老紳士は話を結んだ。
私はゆっくりと彼の言葉を咀嚼する。完全にでは無いが、咀嚼していく度に自分が今まで感じていたモヤモヤしたものが晴れていくような気がした。
「きみ、恋人とは今上手くやっているかね。」
「はい。」
老紳士の問に頷くと、そうか、良かったと彼は返答をした。
再び、車内に次の駅の到着を知らせるアナウンスが鳴り響く。
さて、と老紳士は腰を上げた。
「私は、ここでお暇するよ。私のような爺いの話を聞いてくれてありがとう。そうだな、少しでも君の助けになれたら光栄だ。」
「いえ、こちらこそありがとうございました。」
私の口から出たのは、よくあるつまらない話を聞いたあとの形式的な礼ではなく、心の底からの感謝の言葉であった。
「頑張ると良い。」
最後にそう言い残すと、老紳士は振り返ることなく電車を降りていった。
とうとう車両に残されたのは、私一人となった。
私の体を、眠気が優しく包み込み始めた。
微睡みながら、私は幸せな考え事を再開する。
明日は休日だ。朝一番に何をしよう。何を食べよう。そうだ、恋人か、友達にでも今日の話をしてみよう。もしかしたら何か助言をくれるかもしれない。
あぁ、家に帰ったら夕飯もある。
とりあえず、自分の降りる駅などとっくに通り過ぎていたことに気がつくまでは。この幸せな眠りを続けよう。