一話 一人の老人
まだ、春が遠く凍てつく寒さで手先が痛む二月半ば。
ピンク色の花びらではなくぱらぱらと舞い落ちる雪を枝に乗せた桜並木の下を一人の老人が歩く。少し後ろには若くスーツを着ている男がいるが声もかけなければ手を差し出す事もない。
並木道の先には墓地があった。
後、一か月半でも待てば綺麗な桜が咲き誇りお墓参りに来た人の心を掴み、魅せられてしまう。しかし、今では桜だけではなく草木もまだ蕾の段階で春の足音は聞こえているかもしれないが、寂しい景色となっている。
老人の手には青い花びらの花――スミレの花束が握られていた。彼は随分体を重そうにしている。油が途切れてしまった機械の様なぎこちない動きに加えて手足や顔に刻まれた深い皺はこれまでの人生の壮絶さを雄弁に語ってくれていた。
何基あるか分からない墓石の一つに彼は歩みを続ける。時々、ふらつく事もあって付いてきている男はつい手を出そうとしてしまうが、ぐっと我慢する。彼も分かっているのでしっかりと踏みしめて体勢を立て直す。
たどり着いた墓石、ここ数年掃除に来られていなかったが、彼の代わりに男が定期的に掃除をしてくれたお陰なのか作られてから五十年が経過しているのに損傷は激しくない。
まずは手を合わせるが、寒さとガタが来ている体のため満足に両手を合わせる事も出来ない。
老人が細くなっていた目を少し開ける。頑固ジジイとは似ても似つかない優しい風貌をしている。
曇天模様の空を見上げた。どんよりとしている雲は雪か雨を十分に貯めこんでいて、いつ落としてくるのか分からない。次に目線を落とすと墓石に刻まれている文字を優しくなぞった。
「君はまるで、春風に揺れる桜の様な人だった……」
ポツンと呟く。
深みがあって、上辺では出せない貫禄の入った低音の声。たったそれだけの言葉を出しただけで込み上げてくる五十年前の思い出の奔流に襲われて双眸に涙が溜っていく。若い頃なら必死に隠していたのだろうけど、この歳になれば、ここまでたどり着ければ、隠す様な真似はしない。
抱えていた花束を献花する。スミレが灰色の墓石を彩った。小さな変化だったが、彼にはずっと嬉しく感じられる。まるで、彼女が笑ったみたいだったからだ。
再び手を合わせた老人は不謹慎ながらも墓石の横に腰を下ろした。優しく墓石に寄り添う。若いカップルが互いに肩を寄せ合うみたいに不思議な安心感に包まれた。
「ゴホ、ゴホ、ゴホ」
少し気を落ち着かせると急に体が音を上げて来る。口を覆っていた手を離してみるとべっとりと血が付いていて軽く咳をするだけで喉奥から血が混じって出て来てしまう。
普通の人なら驚くかもしれないが、彼には慣れた光景である。悲観する事もなければ、焦る事もない。それを、当然だと受け入れてとっくの昔に飲み込んでしまっている。
咳をするたびに体が重くなっていく。
騙し、騙し生きてきたが五十を超えたあたりから併発した病によって老人の体はボロボロになっていた。齢まだ七十に達していないと言うのに内臓を始め、彼の体はずっと悲鳴を上げている。
本来は病院で集中治療が必要なのだが、彼はここに来た。
吹けば消えてしまう蝋燭の様な心火を僅かに灯して、ここを彼は自分の死に場所に選んだ。
一回、大きく深呼吸をして呼吸を整える。
既に彼を現世に引き留めておく要因は無くなった。体の悲鳴に耳を傾けて今日が最期の日だと決めてここにいる。
体からゆっくり力が抜けていく。心音も脈も手に取るように弱くなっていくが、まだ消える事はない。
「もう少し、君の所に行くまでに時間がありそうだ。だったら少し昔話をしよう。いつの頃の話がいいかな。そうだ、私がなんでもできると思い込んでいた生意気な小僧だった頃の話をしよう」
舞い落ちる粉雪が周りを白く染めていく。
「……初夏の空の下、君と出会った頃の話をしよう」