初めての
卒業式の予行が終わった。小中ではたくさん練習を重ねてきたのに、高校にもなると時間が取れないのか、雑になってきたのか短い練習。立つタイミングさえ覚えておけばすむ立場の人が多いし仕方がないのだろう。実際に卒業証書を代表で受け取る人や、生徒会の答辞を読む人、花束や記念品関係の人たちは大変だろうな。
私はホームルームが終わるとすぐに下駄箱へ行った。ほとんどの人が受け取ったばかりの卒業アルバムの最後のページに寄せ書きをし合っていたり、部活のお別れ会に参加する。下駄箱には誰もいなくて静まり返っていた。
真田の下駄箱を開け、手紙を忍ばせる。内容は「明日、卒業式の移動前に中庭で待ってます」とだけ書いた。
名前は書いてないし、そもそも私の筆跡だとわからない可能性が高い。ただ、お人よしの彼でもこんな呼び出しに来てくれるだろうか。もしこの手紙の主が私ではないかと思って来てくれたら。それだけを祈る。
いよいよ明日で最後だ、と頭の中で何度も唱え深呼吸をする。
本当に、明日で最後だ。
卒業式の当日は太陽が出ていて暖かかった。中庭の花壇にはもう花が咲いていて、気が早い蝶はもう舞っている。
でも風は少しきつく、冬はこんなにも寒いんだって初めて知った。
「教室待機の時間まで、あと十分もないのか」
腕時計を見て確認をする。移動とトイレに寄る時間を考えれば、話せる時間は少ない。早く来ないかな。来てくれるかな。
「天羽、さん?」
どこか疑問形の懐かしい声に、安堵する。振り返ると歩いて三歩くらいのところに真田が立っていた。
「……びっくりしたでしょ」
手紙のこともだけど、それ以上に真田を驚かせるもの。
校則通りの恰好。ブレザーの前はしっかりとしめ、ネクタイも緩めず第一ボタンも閉じている。
ただ一つだけ違うのは、スカートで、紺のハイソックスということだ。
「やっぱりギリギリ見えちゃうんだよね」
しっかりと膝が隠れるくらいという校則通りの丈で短くしたつもりはなくとも、動いたり風に吹かれたりで私の左足の傷は主張を始める。
「……やっぱり素足でだなんて醜いもの見せちゃってごめ――」
「みにくく、ないよ。その……きれい、だよ」
食い気味で否定され、思わず肩がびくんと跳ねた。以前の私だったらすぐに「変態」と言っていただろうけど、彼の赤い顔を見たら何も言えなくなった。
だめだ、早く言いたいことを言わなければ。言えなくなってしまう。
「センター前日に倉橋さんから渡された巾着袋、真田からのでしょ?」
「……よくわかったね」
「リップクリームくれる人なんて真田しか考えられないから」
それなのに、あなたは。
「唇、また切れてる」
いつもと同じ左端。
「買うの忘れちゃってさ」
私には買ってくれたのに、自分の事は後回しにして。
「――真田」
背伸びをした私と真田の影が重なる。
唇は避けた。ギリギリ左端の切れたところに、私の唇の右端が触れる位置に。私にとってはファーストキスだけど、真田のファーストキスまで奪うことはない。
彼がリップクリームを塗って、切れたところが治って、新しい皮が出来る前に。
触れたのはほんの一瞬だったけれど、永遠にも思えた。たった数秒のはずなのに、全てがスローモーションで再生されているような感覚。視界の端で、黒い蝶が花壇から離れ宙を飛び舞っているのが見えた。まるで私の行方を見にきたかのように。
そっと離れると、真田はなんとも間抜けな顔をしていた。その顔がなんだかおかしくて、一生忘れないだろうと思った。
「好きだよ――真田」
そう言い捨てて、私は走って逃げた。真田は放心状態のようで、その場から動けなかったみたいで幸いだった。卒業式本番までスカートでいるつもりはない。事前にスラックスを置いてきたトイレまで駆け込んだ。
ファーストキスは、鉄の味がした。
卒業式はゆるやかに進む。いつもなら眠ってしまうような長い話も、耳を通り過ぎては行くけれど頭はしっかりとしていた。
一昨日にも振り返ったけれど、本当に思い出が偏りまくった高校生活だった。
携帯を必要と感じていなかったから、ずっと学校に持ってくることはなかった。だから高校時代の人とアドレスを交換することはなかった。今思うと倉橋さん達と交換できたらよかったな。真田は――いいや。もしメールが出来ていたら何かが変わっていたかもしれないけれど、ただ残ったアドレスに未練が残るだけだろう。
「校歌斉唱。一同、ご起立ください」
これを済ませばあとは退場するだけだ。ふう、と浅く息を吐き立ち上がった。
最後のホームルームは簡潔で、他のクラスと比べると早く終わったと思う。倉橋さんのクラスや真田のクラスは話が長い先生だったはずだから、まだまだかかるのだらう。
「天羽はもう帰るのか?」
荷物を整理していると、洲崎に声をかけられた。
「そのつもり。部活とか入ってなかったし、残る理由がない」
「倉橋と写真撮ったりしないのか?」
「うん……向こうにも都合あるだろうし。それに倉橋さん、確か写真嫌いだったはず」
意外にも倉橋さんは写真に写るのが嫌いなタイプの人だった。そういう話になった時にそう言っていた気がする。
「……そっか。バスで帰るのか?」
「うん。お母さん、仕事の途中で来てくれたから先に帰っちゃったし」
「そっか。気をつけて帰れよ」
「ありがと。――じゃあ、二年間ありがとね。洲崎」
「――ああ。元気でな、天羽」
バス停までの道を歩く。前期試験の結果次第で何度通るかわからないが、もう制服では歩くことのない道。
あと十分ほどでバスが出る。これを逃すと確か三十分後に来るはずだ。そうなると卒業生や在校生でバスを利用する子がちらほら来るから、空いたバスに乗れるのはこの便くらいだろう。
のんびり歩いていても、あっという間にバス停前の信号につく。ちょうど赤になったところで、思わず眉をひそめてしまう。道路の関係で青に変わるまでかなり長い信号だからだ。
「……ほんとに最後なんだな」
高二の一学期の終業式に、ここで真田を引き留めたっけ。あの時の自分は本当に自分なのか、って思ってしまうくらい大胆なことをしたな。
――ああ、少しずつ忘れかかっている。あの時真田、どんな顔してたっけ。
少しずつもやがかかっていくように、細かなことを忘れていく。ほとんどの思い出は真田関係とか思っていたくせに、いざ思い出そうとするともう忘れかけていることがたくさんある。
きっとあと数年でほとんどのことを忘れてしまうのだろう。もしかしたら大学生活が始まるとすぐに消えてしまうかもしれない。
あの細い目が見えなくなるくらいの笑顔を忘れてしまうのは嫌だな。
あの話していて心地の良い声を忘れてしまうのは嫌だな。
あのどうでもいいようなやり取りも、楽しかった会話も忘れてしまうのは嫌だな。
何故だか、あの間抜けな顔だけは最後まで忘れない気がした。
信号が青に変わった。
「天羽さん!」
唐突に名前を呼ばれ、ぎゅっと手をつかまれる。
一度も手が触れたことはなかったはずなのに、どうしてだろう。さっきの声がなくても誰だかわかってしまう。
「さな、だ……」
今日初めて赤い顔を見た気がしたのに、それ以上に顔を真っ赤にした真田が肩で息をしながらそこに立っていた。
「なんで、ここに」
「今日、バスって、聞いたから、ホームルーム、終わって、すぐに……」
……洲崎め。
「なんで、私を追いかけてきたの」
「それ、は……」
信号がまた赤に変わる。たとえまた青に変わったとしても、バスの便を遅らせることになってしまうだろう。
あの時と似たようで少し違う状況は、現実で今起こっていることだとわかっているのに、まるで夢を見ているかのように思えた。
「返事、したくて」
――本当に今のこの時間は、夢じゃないよね?
「俺も、天羽さんのことが――」