素敵な羽だと思った
「ちょっと面貸しなよ」
彼女にそう言われるのにはもう慣れっこになってしまっていた十月。私はいつものように気だるげな視線を彼女に一度送り、諦めたように机の上を片付け始めた。美術の課題、今進めたかったのになあ、なんてひとりごちて。
倉橋佳穂。真田のことが好きないわゆる勝ち組女子。
夏休みが終わり二学期になってから、何故か絡まれるようになった。体育祭の学年演技の練習の時に、たまにだけれど真田と話していたのを見られたのだろうか。
彼女が私に突っかかってくるのは、以前までは私がスラックスだからというだけだった。最近のは、主に真田との関係についてが多い気がする。
「……なに倉橋さん」
「あんた真田のなんなの?」
それは私が聞きたい。あなたこそ真田のなんなの。彼にとって私と倉橋さんのポジションは一緒でしょう。
「友達よ――たぶん」
「たぶん、てなによ」
小声で付け加えた言葉を拾われたら仕方がない。でも、倉橋さんが考えている可能性はない。
そして、この会話ももう何度目だろう。これがループしているのならわかるけれど、呼び出しが始まった一ヶ月前からずっと同じ。
「恋愛方面の発展なんてないから。ねえ、いつも呼び出される身にもなってよ。私たち、この会話から進んでないの気づいてる?」
苛立ちを隠したつもりだったけれど、声がいつもより低くなってしまった。
倉橋さんはハッとしたように一瞬目を細めた。それから深く息を吐く。
「それもそうね。じゃあ、聞き方を変えるわ。天羽さんは真田のことがす――」
「おーい、なにしてるんだ?」
二人そろってビクッと肩が震える。今は放課後で、この時間は人通りが少ないはずなのに。
声のほうを振り返ると洲崎が立っていた。なんだ、真田じゃなくてよかった。
「お前ら、真田じゃなくてよかったと思っただろう」
呆れた顔で洲崎が言う。うん、本当によかったと思ってる。倉橋さんのほうを見ると彼女も苦笑いを浮かべていた。
――こうして近くで見ると、倉橋さんは本当に可愛いな。
可愛くて、性格も基本的には明るい。
「倉橋さん」
私が彼女の袖を掴んで呼びかけると、少し驚いたような表情でこちらを向いた。視界の端で、洲崎も目を見開いているのがうっすらと見えた。
「私よりもあなたのほうがお似合いよ」
「それで、洲崎はなんでこんなところにいるの」
倉橋さんが立ち去った後も残り続ける洲崎に問う。私と彼はそんなに親しい関係ではない――はずだ。私としては、数少ない話せる人だが。
「美術の課題出てたろ。文化祭に展示するようのやつ」
「うん。あるね」
「モチーフ課題が虫になったの、うちのクラスじゃ俺と天羽だけじゃん。どんな感じにするのかアドバイス貰おうかなって」
美術の課題はくじで引いたテーマのものを、自分や親しい人をイメージして画用紙に描くというもの。
たとえば果物がテーマで真田を表すとしたら、私ならミカンとキウイフルーツの中間のようなものを想像して描くだろうか。
そんな感じで四つ描くというのが課題だ。一つのテーマで四つとなると考えるのも一苦労。クラスの約三分の一が美術を選択しているので、一つのテーマに二、三人が割り当てられている。
「私は蝶の羽にするかな」
実はもう誰を描くか決めている。
「えー、じゃあ俺はそれじゃないほうがいいよな」
確かに虫は難しい。虫の見た目が苦手な人も多いため、ストレートにガッツリしたものは避けたほうがいいだろう。
「さなぎとか蚕の繭は?」
「あ、それいいかも。サンキュ」
そう言うと洲崎は立ち去ろうとして――やっぱりやめてまたこちらを向いた。
「いつもあんな風に呼び出しされてんの?」
「まあね」
「真田は知ってんの?」
「知ってたら倉橋さんはやってないよ」
「本気であいつのほうが真田と似合ってるって思ってんの?」
そう問うた洲崎の顔は真剣で、少し悲しげだった。その表情の意味がわからず、私はただ視線を落とした。
「どうだろうね」
早く冬になればいいのに。ふとそう思った。
教室に戻りもう一度紙と色鉛筆広げる。蝶の羽のラフが紙に描かれている。その横に書かれた人物の名前を見て、私はくしゃっと顔を歪ませた。自分で書くと決めていながら、形にしてしまうとどうもひどく嫌になる。せめてもの救いは、誰をイメージしたかを申告しなくていいことだ。
教会のステンドグラスのように、ピンクをベースにしながらも様々な色を組み合わせた、美しくもどこか可愛い羽は倉橋さん。
薄いブルーやエメラルドグリーンを使い、少し冷たくも優しい感じをにじみ出す羽は洲崎。
まるで太陽のように、キラキラとした暖色の羽は真田。この羽だけラメ入りの絵の具を使おうか、なんて考えている。
そして黒い羽は私。うっすらと青や緑、赤を差し色に使っているが視界を占めるのは黒。
あの夏に見た黒い蝶が、私に近いと思えたのだ。
『カラスアゲハは夢を見る』
――そういえば昔、カノジョが言っていたっけ。黒い蝶を見て、瞬く間に紡いだ詩。続きは思い出せそうにないのが残念だ。
画材は既定のサイズの画用紙と各自が用意した絵の具と決まっていて、美術の授業内で完成させることになっている。
ああ。はやく完成させたい。完成させることでカノジョのことも、彼と彼女とのことも、私の中の何かを昇華できると信じたい。
文化祭の日が訪れた。日程は二日。
私のクラスはからあげの模擬店をすることになっている。帰宅部なのでクラスを手伝う以外に仕事はないはずだが、美術の授業作品の展示の受け付けを頼まれてしまった。どうやら美術部の生徒の代役らしい。人数が少ないと聞いていたため、引き受けるしかなかった。ちなみに美術部の作品自体は正面玄関に展示されているらしい。
初日の午前に展示を、午後と二日目の正午ごろにクラスの仕事が入っている。別に誰かと回る約束をしているわけではないので、仕事を入れてくれたのは正直助かった。模擬店作業中は体操服と決めたので、私の姿が目立つわけでもない。
美術室の近くの廊下からは中庭が一望できる。模擬店は中庭に出店しているため、賑わっているのがすぐわかる。美術室に訪れる人はまだ少ないだろう。
ぼうっと眺めていると一際目立つ女子生徒が視界に入った。後ろ姿でもわかる。ああ、彼女か。最近少しおとなしくしたストレートの髪が風に吹かれてきらきらと光っている。
あの日以来、倉橋さんからの呼び出しはなくなった。代わりに真田のもとへよく行っているような気がする。現に今も探しているようだ。
まだ誰も来ていない美術室でふうっと息を漏らす。私も彼のもとへ行けたらいいのに。行こうとしたらいいのに。頭ではわかっているけれど、あの雨の日のような勇気は出ない。
「あ、天羽さん」
お客さん第一号か。窓から目を離し声のしたほうを向くと――真田が立っていた。
「ごめん匿って」
いったい何から逃げているのだろう。聞いてみても苦笑いをして首を横に振るだけだった。倉橋さん関係ではなさそうだ。だって倉橋さんから逃げる理由がお人よしの真田にはないんだから。
「匿ってあげるけど、その代わり作品見て行ってあげてよね。真田は美術選択してないから新鮮でしょう」
「確かに新鮮。俺は書道だけど、授業での展示はなかったな。書道部の作品で書道室ぱんぱんらしいから」
「へえ。――あ、これ洲崎のだよ」
ちょうど洲崎の作品が目についた。カラフルな色の繭が描かれている。
「これって誰でもいいから身近な人をモデルにデザインするんだっけ。これ誰だろ」
指差したのは青がかった灰色の繭。その奥に赤や黄色が見える。
「誰だろうね。洲崎が描きそうな人って、やっぱ部活の人かな」
洲崎はテニス部に入っていて、部員同士の仲は良いそうだ。真田はテニス部ではないけれど仲いいし、一番の親友っぽいから描かれていてもおかしくはなさそうだけども。
「うーん、他のは暖かい色なのにこれだけ違うんだよなあ。あとで聞こっと」
「聞いたら――やっぱなんでもない」
教えてね、なんて言えなかった。言えなかった私に、真田は「何だよ」と言って笑った。追求しないその優しさにまた心が苦しくなる。
「天羽さんのは? この蝶々のだよね」
洲崎の作品から斜め上のほうに私の作品が展示されていた。あんまり見られたくないのに、なんて思っても意味ないか。
「誰を描いたの?」
「……ないしょ」
今、私はどんな顔をしているんだろうか。きっとうまく笑えていないのだろう。
彼から顔を背け、私の作品に向き合う。
教会のステンドグラスのように、ピンクをベースにしながらも様々な色を組み合わせた、美しくもどこか可愛い羽は倉橋さん。
薄いブルーやエメラルドグリーンを使い、少し冷たくも優しい感じをにじみ出す羽は洲崎。
まるで太陽のように、キラキラとした暖色の羽は真田。この羽だけラメ入りの絵の具を使っており、私のえこひいきがにじみ出ている。
そして黒い羽は私。うっすらと青や緑、赤を差し色に使っているが視界を占めるのは黒。
「ねえ真田。どの羽が好き?」
軽い口調で聞いてみる。
うーんと口に手を当てて真田は考えている。よく見ると唇の端が少し切れている。また荒れ始めたのか。彼も大変だな、なんて思って答えを待つ。
「そうだな……これかな」
彼が指差すと同時に、カノジョの詩の続きを思い出した。
カラスアゲハは夢を見る
もしも私のハネが明るい色になったなら
あなたは好いてくれるだろうか
私は死や霊の象徴ではない
私の背には仏様など乗せられない
私はただあなたに好かれたいだけ
私はただの黒いハネの蝶なのだ
ただあなたに恋をしているだけなのだ