彼に対する不純な想い
――真田のタイプって、明るくて可愛いやつなんだって。
そう、風の噂で聞いた。
明るくて可愛い。なんて曖昧なのだろう。見た目のことなのか、性格のことなのか。それすらもわからない。
ただ、どちらも私には当てはまらないことだけはわかる。
誰もいない教室の窓際で、私は中庭の花を見ている。黒い蝶がヒラヒラと花壇の上を舞っていた。
「真田……」
漏れた声は静かに消えた。
私と真田響也の関係は良く言って仲のいい友達、悪く言ってただの友達、ということになる。まあ、彼にとっては、悪く言う必要はないのだけれど。
初めて出会ったのは高校一年生の一月だった。ほんのつい半年前だとは思えないほど、ずっと前な気がする。
「持久走、走んねえの?」
突然、当時二組の彼に話しかけられた。合同授業はなく、体育は一、二、三と四、五、六で分かれるため、当時四組だった私と彼との間に接点はなかった。
彼は体操服を上下に着込んだ私を見てそう言った。
走ると暑くなるため、ほとんどの生徒は最低下だけはハーフパンツで授業に向かう。
準備体操も外だが、少しハードだからどのみち暑くなるのだ。脱ぎに行っている間にいいスタートポジションを奪われるから、上はともかく下は最初から脱いでいく人がほとんどだった。
下駄箱へ向かう途中の廊下ですれ違った彼は、先ほどまで芸術選択だったらしい。手にしていた美術の教科書が教えてくれた。
不思議そうに私に聞いてきたその目には、どこにも他意はないように見えた。
「身体、弱いの?」
「……ううん、これで走る」
「え、マジで」
「大マジ。じゃ、遅れるから」
振り返らずにそのまま下駄箱へ走る。時間はギリギリだったし、知らない人と話をすることもないからだ。
会話はこれで終了、彼と関わるのも終了――だと、思っていた。
「――塩飴?」
彼は廊下の窓から身を乗り出して、私に飴を渡してきた。
体育が終わってひとり教室に戻っている時に横の窓が開くのだから驚いた。その上、飴まで。
近い距離で汗臭くないだろうか。教室で着替えをするから、まだ汗が沁みた体操服のままだった。
「汗かいただろーなって。好き?」
「そんな好きじゃない」
「レモン風味のはいける?」
「うん、まだ食べれる」
ここで私は彼の顔を初めてしっかり見た。
少し細めの目と、清潔さを感じる眉より上でカットされた前髪。そして――左端が少し切れた唇。
「それ、痛そう」
指で切れた部分を指すと彼は笑った。
「リップクリーム塗ったらすぐ治るから大丈夫。頻繁になるから慣れてるし。てか、時間平気?」
言われるまま時計を見ると次の授業まで五分といったところだった。着替え終わっていないのにゆっくりしていてはいけない。
平気じゃない、と言う風に首を横に振ると彼は手をひらひらと振った。そこで会話は終わった。
教室に戻ってすぐに、名前を聞きそびれたことに気づくも時すでに遅し。
名前を聞いとけばよかったと思う自分がいたことに驚いた。
交換してもらったレモン風味の塩飴を口にする。身体の中が不思議と熱くなった。
名前を知ったのはその三日後だった。
「……また唇切れてる」
「正確にはまだ、だよ。失くしたから、あれから塗ってないんだよね」
「……自慢げに言うことじゃないと思うんだけど」
それはトイレの前でだった。昼休みに入ってすぐなので、人と会うことは少ない時間。混んでおらず、またやかましい溜まり場にもなっていない時間なので、彼も同じ理由でトイレに来たのだろうと自己完結した。
「よかったら使って。新品だから」
ブレザーのポケットに入っていた昨日買ったばかりのリップクリームを取り出す。色もにおいもないスッと鼻を通るものだから、きっと大丈夫だろう。
受け取った彼は顔を綻ばせて、ありがとう、と言った。元から細めだった目はもっと細くなり、目が開いてるのかすらわからないくらいになった。
その笑顔が、ひどく印象に残った。
そうだ、名前を聞かないと。
口を開こうとしたら、彼のほうから聞いてきてくれた。
「そういや名前は?」
「――天羽舞花。あなたは?」
「俺は真田響也。本当にありがとう、天羽さん」
「こっちこそ、飴ありがとね」
私は久しぶりに学校で頬を緩ませた。
表情の変化が少ないこと、口調が少々悪いこと、同じ中学の人がいないこと、そして――極寒時のタイツ着用が可能でない時は、スラックスを履いていること。
クラスで浮いている私に友だちなんてものもなく、何度も話をして楽しいと思ったのは彼が初めてだった。
この時の私には恋愛感情なんてものはなく、ただ彼と友人になれたらいいなと漠然と期待した。
春になり二年生になって、私は一組、彼はまた二組になった。
体育の着替えは一組で一、二組の男子が、二組ではその逆で女子が着替えることになっていたため、着替える前後の教室が開くのを廊下で待つ間、よく同じになった。同じクラスではなかったが話すことができて嬉しかった。
「天羽さんって、スラックス派なんだ」
冬限定のタイツ着用許可令も取り下げられ、私はスカートからスラックス生活に戻っていた。
何で、とも聞かれなかったから私はただ肯定した。
「真田は体育何を選択したの?」
「俺はサッカー。天羽さんは?」
「卓球。チームプレーじゃなくていいから」
「あはは、殺人並みのサーブ打ってそう」
友達みたいにどうでもいい話で笑えることが、嬉しかった。それがたった数分でも。
まだ何も芽生えていなかった二年の五月を、私は恋しく思うようになる。
変わったのは六月のプールが始まる頃だった。ほんのひと月前だ。
私はプールの授業をすべて見学することになる。先生方に事情を説明し、補講として夏休みに入るまでの午前授業の時期に一人泳ぐようにしてもらった。
見学の理由は知らなくとも、私が見学していることを知っているのは女子だけ。水泳の授業も男女別だし、真田に気づかれることはないと思っていた。
それは、水泳の授業全三回のうちの、二回目の授業の時だった。
水泳の時の着替えはプール横の更衣室だが、見学の人は教室になっている――はずなのだが、男子というものは面倒くさがりなもので、いつものように他のクラスに行かず自分の教室で着替える。
女子と男子の身体の作りは違う。
自分たちは見学することなんて滅多にないから、そんな気遣いができないのだろう。
だから女子はトイレで着替えるようにしてた。
着替えのためいつもより授業は早く終わる。着替えは教室に置いているから、トイレで着替えるとしても取りに行くしかない。その日の見学者に私と同じクラスの子はおらず、一人一組に戻った。
「――めんどくさいな」
正直トイレで着替えたくない。洋式ならまだしも、洋式があるトイレまでは遠い。教室の近くは和式しかないのだ。そんなの汚いし、着替えづらい。
それに、今日の見学者は以前私にとやかく言ってきた人ばかりだった。より行きたくない。
ここで着替えようと決めた。男子が終わって帰ってくるまで五分。体操服を脱いで制服に着替えるだけだからすぐ終わる。私は着替えにかかった。
体操服の半袖の上を脱ぎ、ブラウスを着る。次に体操服の長ズボンを脱ごうとした。
「――え」
突然、人が教室に入ってきた。大丈夫、まだ痴女じゃないなず。体操服のクォーターパンツ履いてるし。そう思いながらも心臓がばくばく鳴る。
「――天羽さん?」
背中を向けていたからわからなかったが、その声は確かに私の知っている人だった。振り返ると少し顔を赤らめた彼が立っていた。
「さな、だ」
「ご、ごめん。急いでたから間違って入って、その」
まだチャイムは鳴っていない。彼の膝を見るとネットでガーゼを保護しているように見えた。おそらく怪我をして保健室に行った帰り、時間も微妙だし教室に戻るよう言われたのだろう。以前私も似たような経験をした。
「気にしないで。本来ここ男子が着替える教室だし。その、スラックス履くから出ててくんないかな」
「わ、わかった」
彼が教室から出て行く直前、目線が私の足に向いた。やっぱりか、とため息をつく。私はすぐにスラックスに履き替え、教室から出た。
昼休みに真田から呼び出された。一緒に弁当を食べようとか言われて。
クラスで一人食べてる私に断る理由もなく、彼と中庭で食べることにした。
夏の日差しとも梅雨のどんよりした感じとも言えない曇り空。少し湿気た空気を感じながら冷凍食品のハンバーグを口に運んだ。手作りとは違う肉の味。噛みしめるほど、違和感が意識されていく。
二人ベンチに座って黙々と食べる。半分ほど食べたところで、彼が私のほうを見た。それに気づき、口の中に留まっていた卵焼きを飲み込む。
「その、さっきはごめん」
「――謝らなくていいから。見られたくないものなんて、なかったし」
そう返した声はひどく冷たくて、自分でも驚いた。真田はよけいに申し訳なさそうな顔をする。
「――ごめん、嘘ついた。足、見られたくなかった」
私の足――正確には左足の太ももには、大きな傷が入っている。付け根から膝近くまで大きな切り込み。
それについて、何度かからかわれたことがある。何度か同情の言葉をかけられたことがある。何度か不快なものを見るような目で見られたことがある。
それが面倒で、私は隠す道を選んだ。
「足について、別に何も気遣わなくていいから。他の人には言わないでくれればいい。この話は終わりね」
また冷たい声になった。
いやだ。真田にこんなこと言いたいわけじゃない。言ってる内容は全部本当だけど、こんな冷たい声で言いたいんじゃない。
塩で味付けした卵焼きが、もう口の中に残ってないはずなのに、口内で主張を始める。今日は失敗してしまったから、酷くしょっぱい。
「――天羽さん、足綺麗なのにな」
「……は?」
何、言ってんの。
「いや、変な目とかじゃなくてさ、冬の時のスカート姿好きだからちょっと勿体無いなって」
「――変態」
そう言いながら隣の彼の弁当から卵焼きを盗む。ネギが入っただし巻き味で美味しかった。
そんな私を見て彼は笑った。
その日から、彼に対する感情が変わってしまった。
今は七月で、もう期末考査も水泳検定も終わった。水泳の補講期間は来週からだが、私だけ先にやってもらってる。
体育の女の先生はいい人ばかりだ。若い先生こそいないが、どの先生もお子さん持ちで包容力がある。若い男の先生がダメとかじゃない。ただ、必要以上に足のことを言わないでくれるのが嬉しい。
ポタポタと髪先から水滴が垂れる。スラックスで長髪なのもなんか変だと思い、遠目で見たら男子かな、って思われるように短く切っている。バレー部の子みたいに短すぎず、男子でいう不潔な長さまではいかず。そんなショートヘア。
「明るくて可愛い、か」
表情の変化が少ないこと、口調が少々悪いこと、同じ中学の人がいないこと、極寒時のタイツ着用が可能でない時は、スラックスを履いていること。髪も短い。
お世辞にも私が彼好みの要素を持っていると言えない。
私たちは友達。良く言って仲のいい友達、悪く言ってただの友達。
私に今の関係を壊す勇気はあるのだろうか。
もう一度中庭に目をやった時には、もう黒い蝶はいなかった。