3.テオクラフト <魔道王の夢>
煉瓦状に積み上げられた石壁の隙間の土が、黴臭い空気を漂わせている。
まだ昼間だというのに、その室内は暗い。20畳ほどの空間には一つの窓もなく、光源はランプに似せた魔法の光だけ。淡いオレンジ色の光が照らしだすのは、雑多にならぶ大小さまざまな工具と部品、そして静かに目を閉じて座る男の姿。
あの夜から数日後の、ある祝日。
グレンデルは地下に構えた自分の工房で瞑想に耽っていた。
繰り返す悪夢とは、ショッキングな体験を脳内で反復し、徐々に慣れていく行為だという──しかし魔法使いは、なにかトラウマが残りそうな出来事を体験したあと、無自覚な苦手意識で魔法の技が鈍らないよう、何度も何度も頭の中にその出来事を投射する。苦しさに真正面から立ち向かい、克服するまでそれを見続ける。
一定以上のレベルに達した魔法使いなら当然行う修行の一つである。
思い出すのはあの夜のこと。
見たこともない必死な顔で自分を殴るアルマデル。
──思えば、あいつに顔を殴られたのは初めてだった。
(そんなにあの小娘がいいというのか)
魔力の塊という観点で見れば、あれほどの逸材はあと100年はでてこないだろう。だが、それ以外の面から見れば……あくまでただの小娘だ。
なにかよくわからない感情──断じて嫉妬などではない──に逸れる意識を叩き戻し、脳に焼きついた記憶をまた再生する。
翼から無数の羽根を待ちきらすアルマデル。
自分の足元に倒れ、睨み上げてくるアルマデル。
歯を食いしばり、唇から血を滴らせながら天使を操るアルマデル。
つい戦術論や新しい魔法の構想に逃げたがる心を律して、何度も記憶を瞼に映す。
──ふと、違和感を感じた。
同時刻。
誠二は良子に連れられて、電車を乗り継いで海沿いの遊園地に足を伸ばしていた。
なんでも、近い内に彼氏を誘ってこの遊園地にくる予定だから、デートプランの確認のために誠二を誘った……という話である。
まず間違いなく嘘だろう。
そんなのがいれば、先日のデート尾行で誠二に声などかけなかったはずだ。偏見かもしれないが良子は変に老成しているところがあって、あまり恋愛に積極的なタイプには思えない。そもそもデートプラン確認のはずなのに、この遊園地のマスコットキャラさえ知らないというのはどういうことなのか。
「ねー誠二くん、次はどこいこっか」
ジェットコースターなどの絶叫マシーン、お化け屋敷、コーヒーカップといった定番をまわり、のしかかるように右腕に両手を絡ませる良子が聞いてくる。
今日は妙に腕を組みたがったり、体に触れてこようとする。別に嫌ではないのだが、なんとなく気にかかる。
それでも心底嬉しそうな良子の顔をみていると、まあいいかと思ってしまうのが我ながら情けないところだ。
結局、もういい時間なので、昼食をとることにした。
「ねぇ、前から気になってたんだけど」
誠二とおそろいのハンバーガーをかじりながら、良子が訊ねてくる。
「やっぱり、あれって実在するの……?」
「あれ?」
いぶかしむ誠二に、良子は少し小声で答えた。
「うん、その……魔法使いの学校」
とんでもない言葉に、思わず吹き出しそうになる。
「だって、映画みたいで面白そうじゃない。埼京線の3と1/3番ホームから特別便が……」
吹き出す前に口の中のものをジュースで流しこみ、誠二は言った。
「お前、そんなに殺し合いが見たいのか」
「なんで殺し合いなの?」
誠二は話が外に漏れないよう声を小さくした。
「人間は誰しも絶凍界というフィールドを持っている。魔法使いは、自分のフィールドの中でだけ魔法を使える。逆に言えば、相手を絶凍界の中に入れるということは、いつでもお前を攻撃できるという意思表示──ケンカ売るのと同義だ。絶凍界の制御の未熟なガキどもを狭い教室なんかに押しこんでみろ、一日待たずに殺し合いで全滅するぞ」
「ふーん、大変なんだね、魔法使いって」
良子の気のない返事を聞き返しながら、午後はどんなアトラクションを回ろうか考えてみる。時間的に少し早いが、観覧車でも行ってみようか。
「でもね」
不意に良子が意味ありげな視線を向けてくる。
「あたしも、魔法使えるんだよ?」
いったいどこに違和感を覚えたのか。
グレンデルは脳内で映像を再生するスピードを徐々に落していく。
まず半分。分からないのでさらに半分。もう一度半分。
──見つけた。
映像のところどころに、謎のノイズが走っている。
これはなんだ?
……別に大したことではない。
その考えが真っ先に頭に浮かんだ時、背筋に猛烈な寒気が走った。
森羅万象あらゆることには意味がある。ただ人間の能力が追いつかなくて把握しきれないだけだ。大したことではないという発想があり得ない。
間違いない。自分の体は、誰かの魔法によって無自覚のうちに干渉されている。
反射的に五感をカット。体の中をスキャンする。──あった。心臓の裏に一つ、脳の中に二つ、小石ほどの異質な魔力の反応がある。即座に隔離して逆解析……と魔力の焦点を合わせたとたん、三つの反応は跡形もなくグレンデルの中から消え去った。
心の底から体が冷えた。果たしていつから自分の体は影響を受けていた? 今日まで、まるで気づかなかった──並の魔法使いの仕業ではない。むしろ人間業ではない。
なぜ自分に──はっと思いつき、工房をチェックする。真っ先に調べるのは魔獣の『核』。使用簿と在庫量をチェック……数は合っている。しかし弱い魔力を照射してみると、すぐに偽物の擬態が剥げて崩れさる。その数6つ。
──使いこまれた。
おそらく睡眠中など意識のない時に、この体を操って勝手に魔獣を作られた。
迷わず工房を飛びだして、携帯で師匠の電話をコールする。
「師匠殿か? 緊急事態だ。本家の会議の途中? そんなもの放っておけ!」
早口で一気に今まで起きたことを伝える。
ほぅ、と電話の向こうで頷いて、師匠はあっさりと容疑者の名前を挙げた。
その名前に、さすがのグレンデルも顔を青くする。
「……なんだってそんな大物が」
つぶやくグレンデルに、師匠はあっさりと、日本に向かいつつある容疑者を足止めするように命じた。
「はぁ!? 今なんて言った! 正気かあんた!? どう考えても、私にどうこうできる相手じゃ……おいちょっと待て!」
必死で抗議するグレンデル。
しかし師匠は取り合おうとしない。
「……おい、やれって私一人でか!? あとからでも応援はくるんだろうな……おい!?」
電話の向こうで「お前なら大丈夫だ、頑張れ」という声は、芯の通った自信に満ちあふれていた。
「って信じられるか馬鹿師匠! なに無責任なことを……おい!?」
グレンデルは端正な顔を歪ませ、信じられないものを見る目で通話を切られた携帯電話を見つめていたが、やおら電話を地面に叩きつけると、歯を食いしばって自棄になったように唇をつり上げた。
「ふん……やってやろうじゃないか」
都心の一等地に敷地を構える料亭『七星』。
土地の不動産的価値と広い庭園のほかに売り物はなく、料理は下手だしサービスも悪い。
そんな料亭の大部屋で、昼間から酒盛りを開いている集団がいた。
26人。みな60代以上の老人で、和気藹々と酒を酌み交わしている。
一見すると町の老人会のようなこの酒宴だが、注意深く観察すると、誰一人として笑っている者はいない。みな鋭い眼で腹の内を探り合い、慎重に言葉を選んで口にしていく。万が一間違えて足を踏み入れたものが楽しそうな宴会だと勘違いするよう、強力な精神操作の結界が張られているだけである。
この建物こそが日本の魔法使いたちを支配する名だたる名家の連盟『二十七宿』の会議が行われる『本家』。
集うのは『昴』から『胃』に至る27宿の座を与えられた達人。
基本思想が排他主義であり、滅多なことでは顔を合わせない重鎮たちが、今日、数年ぶりに一堂に会していた。
議題は、太平洋の南端から急速に北上しつつある、雲のような謎の物体。
恐らくは魔獣の最上位『現身』と、それを運ぶ船。裏で糸を引いているのは、かの地に封印されている古の魔道王テオクラフト。
分からないのは、彼の目的がなんであるのか。
互いの足を引き合いながら進められる議論は、その一点が絞れないためにずっと空転を繰りかえしている。
「皆様、失礼した」
そう言って隣の部屋から襖を開けて入ってきたのは、他と比べるとまだ若い40代の男性。しかし彼も27宿の一つを任せられる練達の魔法使いであり、名門の長である。
「『翼』殿、いかがであった?」
『翼』と呼ばれた若い男が席に戻ると、横の老人が話しかけてきた。
「この会議を抜けてまで弟子の電話を受けたのだ、まさか手ぶらということはあるまい?」
「ええ、もちろん。オレの弟子に接触があったらしい」
『翼』がグレンデルから聞かされた話を告げると、空気の流れがにわかに速くなる。
「その弟子に魔道王の現身を足止めするよう命じた。お前なら大丈夫だと暗示をかけておいたから、10分くらいはもつでしょう」
「ふむ……これで奴の狙いは読めましたな」
誰かのつぶやきに、遠くから細波のように誰かが答える。
「『翼』殿の弟子に魔道王が興味を持ったとならば、目的はあの指輪でしょうな。まったくいい年をして生き汚いことだ」
「では、改めて会議を始めましょうか。とはいえ、もう結論は決まっておりますな。後は具体的な方法を決めるのみ──ですかな」
「あたしも、魔法使えるんだよ?」
突然の良子のセリフに、誠二は言葉を失った。
「……嘘だろ?」
「本当いうと、魔法を使えたのはあたしじゃなくて、母さんだったんだけどね」
いたずらっぽく舌を出す。誠二は無言で先を促した。
「あたしの母さん──肺の病気で6年前に死んじゃったんだけど、別れる前に病弱であんまり学校も行けなかったあたしに、魔法をかけてくれたんだ。『良子が将来、素敵な男性と巡り会って初めてのキスができれば、きっと病気がちの体も元気になって、幸せに一生を過ごせるよ』って。
それでね、そういうことが分かるような年齢までは生きてみたいなって思ったの。そしたら不思議と病気も少なくなって、学校にも行けるようになったんだ。
母さんの、あの魔法のおかげで、あたしは今日まで生きてこれた──本当の魔法使いにだって、ただのおまじないなんて言わせないから」
少し、拍子抜けした。しかし、そんな感情を表に出すほど子供ではない。
「ごめんね、誠二くん。無理やりキスしたのかなんて疑っちゃって。その……助けてくれて、ありがと」
弛んだ神経が一気に張った。
「──聞いたのか?」
「うん」
「誰に──いや、あの馬鹿に決まってるか」
グレンデルの顔が脳裏に浮かび、苦々しい気分になる……あのおしゃべりめ。
しかし、思っていたより嫌な気分にならない自分に気づき、少なからず驚く。どうも自分は、思っているよりこの小娘のことが気に入っているのではないか。そんな考えが脳裏に浮かぶ。
「それと──初めて誠二くんに会いに行った日。わざとなんだ、あんな風に騒ぎになるように待ち構えてたの──あんな乱闘になるとは思わなかったけど。怖かったんだよ? 誠二くんがいい人なのは分かってたけど、それでも普通の人と違うでしょ? 魔法のことを知った人間は皆殺しだ──とか普通にあるかもしれないし。だから、わざと誠二くんのペース乱すみたいな方法とったんだ……ごめんね」
いい人と言われ、不意に頬が赤くなるのを誠二は感じた。だからあえてぶっきらぼうに答えた。
「気にするな」
「ねえ、誠二くん」
「なんだ?」
不意に真剣な顔になった良子が、思わぬことを訊ねてきた。
「あたしも、本当の魔法使いになれるかな?」
魔道王テオクラフトは、数千年ぶりに自由に動く体を手に入れて、非常に満足していた。
無論、本体はまだあの海底に封印されている。数百年分の魔力を練りこんだこの『現身』に、一時的に五感をリンクしているだけだ。
しかし、自由に動ける体というものはいい。素晴らしいことだ。
数千もの隔壁を量子力学でいうトンネル効果のような作用で少しずつ少しずつ透過させていった魔力の粒をカーリングの原理で弾き飛ばしながら作り上げた現身は、長年というにも長すぎる作成の歳月の労苦を忘れさせてくれる出来映えだった。
唯一の難点といえば、あまりに少ない魔力内蔵量だろうか。しかし、それも無論本体と比較しての話であり、この時代の魔法使いに遅れをとるような間抜けはしない。それにもしこの現身が若かりし日のテオクラフトの偽装を解いて本性を現せば、島国一つ塵芥に戻すことなど造作もない──テオクラフトの目的はそんなことではないが。
素晴らしいといえば、『現身』の魔力で作り上げたこの船も、即興にしてはいい出来映えだ。大空の風の力と自前の魔力で、魔法で飛ぶよりはるかに速く移動することができる。おまけに楽だ。
外見は雲と変わらないから、余計な干渉を受けることもない──当然、世界の魔法使いの首脳部たちはこちらの動きを察しているのだろうが、どうせお互い牽制に忙しくて何の手も打てないでいる。
平和というものは、つくづく人を腐らせる。テオクラフトは低く笑った。しかしもう、そんなことはどうでもよくなる。
もう少し──あの未熟な魔法使いの持つ世界の終わりの指輪さえあれば、ついに望んでいたものが手に入る。
もう何千年も望んで止まなかったものが、手に入る。
あともう少しだ。
──ん?
まだ公海上だというのに、一つ小さな魔力反応が近づいてくる。
「……お出迎えというわけか」
「……来たな」
小笠原諸島から南に200㎞。
グレンデルは黒い鷲の翼を羽ばたかせ、海上で静止した。
見上げる空には大きな入道雲。
直径数㎞にも及ぶ、白い塊。
そこから不穏な魔力がひしひしと伝わってくる。
肌を刺すような──得体の知れない深さを秘めた魔力が。
あれが船。あそこに魔道王がいる。
ただ対峙しているだけ、いや、遠目にみているだけだというのに、大渦に引き込まれるような錯覚を覚える。
なるほど、確かにあれは化物だ。
むこうでも、グレンデルの存在に気づいただろう……しかし速度を落すどころか、警戒している様子もない。
「……ふん。眼中にもないか。舐めてくれる──工房の使用料は払ってもらおうか」
確かにヤツは化物である。しかし所詮は本体ではなくただの現身……魔獣にすぎない。魔力反応は規格外だが、どうあがいても太刀打ちできないレベルではない。
グレンデルはそっと眼を閉じて、絶凍界を広域に展開した。可能な限り広く、均一に。最終的な効果範囲は半径50㎞超。これから行う魔法の設計図を頭に描く。普通の術者なら十人がかりでとりかかる大魔法だ。
あくまで魔道王のグレンデルの存在を無視。予想通りだ。
魔法使いたちの世界で、グレンデル=ガンドの名前が総合的な実力以上に知れているのは、このような大規模魔術に天才的な才能を持っているからと言っても過言ではない。
使う魔力はほんの一握り。それをどこまでも薄く広く伸ばしていき、現実と平行する虚数次元に巨大な曼陀羅のような繊細で精密な魔法陣を描き、重ねていく。大きさはキロメートル、精密さはナノメートル単位。もはや一つの芸術品だ。
魔法を使ううえで大切なのは、魔力の量ではない。いかに効率よく使うかということ。
──そういえば、魔力の量ばかりにこだわる出来損ないも、どこかにいたな。
無数の魔法陣を構成しながら、ふとグレンデルは苦笑をもらした。
アルマデル──あの男が出来損ないであるのは、先天的な魔力欠乏のためなどではない。本当の理由は、自分の才能の方向性を理解していないから。何度も手本を見せてやっているというのに、いつまでも瞬間的な魔力の出力量にこだわり、一向に学ぼうとしない。それならそれで、あいつの望む方向で鍛えてやれば、あれほど成長しない魔法使いも珍しい。
広域積層魔法陣が完成する。
グレンデルは雑念を消し去り、両手で複雑な印を切る。
「ゾファス──『昼に照らされし夜』の書に記される、十一時の鬼神! 五芒星形を支配する者よ!」
グレンデルの体から無数の黒い光の粒子が流れるように溢れだす。粒子は特になにかの形をとることもなくグレンデルの周囲に漂う。
「タクタリン──召喚魔術を支配する五時のゲニウスよ!」
黒い光の粒子がグレンデルの魔法に応えてざわざわと蠢きだす。
グレンデルの魔法の系統は、基本的にはアルマデルと同じ召喚魔法。しかしグレンデルは異界の存在を自分の体に宿すのではなく、切り離した魂を同化させて使役する──つまり、この黒い粒子がグレンデルの魂の欠片。
二つの魔法の補助によって高まった魔力で召喚するのは、『ソロモンの小さな鍵』に記される72柱の魔神の一角。前回呼び出した『炎の魔神』アイニと並ぶ魔界の重鎮──しかし今回は、この前のような表面だけを整えた虚仮威し(こけおどし)ではない。持てる技量のすべてを使った全力召喚。
「30の軍団を従える地獄の大公爵、鉱物の知識を授ける者! 我が魂を苗床に現世にいでよ、デカラビア!」
黒い粒子がグレンデルの前に集まり、姿を変える。金属質の銀色の光沢を放つ、円の中の五芒星。その中心と先端に一つずつの目がついた大悪魔。
デカラビアはゆらゆらと漂いながら、ときおり思い出したように反時計回りに回転し、姿を消した。
召喚に失敗──したわけではない。
グレンデルは体に宿った膨大な魔力を海に叩きつけた。
「二時の鬼神、海を支配せし者、ヒザルビン! 六時のゲニウス、宝石を支配せし者、ニティカよ!」
海が光った。
次の瞬間、魔道王の雲の形をした船の直下の海面に魔力が集中し、海水を膨大な海の魔力を蓄えた緑柱石に変換。
大きなビルのような緑柱石の杭が、目にもとまらぬ速度で雲船に襲いかかる。
しかし、魔道王も無防備に船を蹂躙させたりはしない。その先端が船を貫こうとした瞬間、雲船が球状の力場を発して杭の侵攻を止めた。
がぎぃぃぃぃん!
轟音と共に無数の青白いプラズマが周囲に走る。杭は内圧を高めながら、徐々に力場にめりこんでいく──しかし力場も稲光をまきちらしながら杭を押し返す。やがてピシリと力場に無数の亀裂が入り──杭は内圧に耐えきれずに中程で折れて爆散した。
渾身の魔法が破られて、しかしグレンデルは、整った顔の唇の端に笑みを浮かべた。
刹那、数十本もの杭が海面を突き破り、魔道王の雲船に襲いかかる!
ひびの入った力場は3本目までは食い止めたものの、続く攻撃で木っ端みじんに砕け散り、魔道王の御座船は瞬く間に膨大な魔力を孕んだ無数の杭に貫かれ、形を留めきれなくなって霧散した。
グレンデルは叫んだ。
「さあ、出てくるがいい魔道王──古の亡霊よ!」
「あたしも魔法使えるようにならないかな」
良子は誠二の瞳をじっと見つめた。
「そうすれば、余計な魔力を消費できるんでしょ」
「無駄だ」
誠二が首を振る。
「魔力の回復力は、総容量の三乗。もっとも係数が低いから普通なら誰でも大して差はないが、良子みたいな魔力なら話は別だ。たとえ魔力を使い切っても一晩もすれば全回復しているさ。もしも魔法使いになれれば最強だろうが、なれたところで魔力過剰は変わらない。そもそも魔力が強すぎて絶凍界が制御できないだろうな」
「じゃあ、ずっとキミと一緒にいれば、余計な魔力を吸い取ってくれる?」
「……お前、一生オレにつきまとう気かよ」
「なによ、そんな人ごとみたいに」
呆れたような顔の誠二に、良子は唇を尖らせた。
そして、言ってしまった。
「じゃあ、どうやってあたしはこの魔力制御呪ってのを返せばいいのよ」
時が止まった。
景色がモノクロームに染まり、二人の間を冷たい風が吹き抜ける。
誠二はひどく無機質な目で良子を見つめ、笑い始めた。
「くっ……はははは、そういうことか」
誠二の雰囲気が変わってしまったのを肌で感じた──お人好しで、人付き合いは苦手だけれども優しい天寺誠二から、苦悩する魔法使いアルマデル=セイズへと。
以前、デートの尾行中に吹きつけられた得体の知れない空気が再び良子を襲う。しかし今度は、以前の何倍もの密度を感じる。
「ははははは、はははははっはははははははははははは!」
誠二の哄笑に注意の視線が集まる──しかし誠二は気にしない。
「いい機会だから、はっきりとさせておこうか。オレがお前に魔力制御呪を渡したのは、あくまでもオレ個人の利益のためだ。昔から魔法一つ使うにもいちいち出力を制限する呪いが鬱陶しくて仕方なかった。そして捨てるのにちょうどよいい相手が、たまたまお前だった──それだけだ」
「ちょ……なに言ってるのよ!」
体を支配せんとする恐怖をなんとかねじ曲げて良子が叫ぶ。
「キミ、魔力ぜんぶ使い果たしたら体乗っ取られちゃうんでしょ!?」
「だからどうした! そんなものを恐れて魔法使いなどやっていられるか! こんな出来損ないの体など、天使だろうと臓器ブローカーだろうと好きに持っていくがいいさ」
ぱちん、と乾いた音がした。
自分でも気づかないうちに、誠二の頬をひっぱたいていた。
「なんでそんなこと言うの?」
なぜか溢れそうになる涙をこらえる。
「あんなに他人のために一生懸命になれる人が、なんで自分のことそんなふうに悲しく言うの?」
「オレはただ、魔法使いとして力を行使しただけだ。勘違いに巻きこむな」
アルマデルは冷たく良子の泣き顔を見返す。
「一つ言っておく。確かにお前から漏れてくる魔力はこの体には助かるが、それ以上に屈辱だ。そんなにオレの魔力が少ないことを愚弄したいなら、それなりの覚悟はしてもらうぞ」
もう限界だった。
「……バカ! 知らないから!!」
それだけ言い残して走り去っていく。
次第に遠くなっていく良子の背中を、アルマデルは暗い目でじっと見つめていた。
雲散霧消していく雲船の中に、薄い一枚布をまとった金髪の男の姿を確認し、グレンデルが端正な顔を歪ませて吼えた。
「墜ちろ亡霊の現身よ! 今の世に強大な魔法など必要ないのだよ!」
1㎞四方の雲の船を打ち抜いた緑柱石の無数の杭が霧と消え、再び海面を貫いて新しい数十本もの杭が魔道王を襲う。
魔道王の体から力場が放出される。
杭は一斉に力場に接触し、力場を歪め──
「そんなものは通用しないと────なっ!?」
驚愕の声を上げるグレンデルの目の前で、次々と弾けて消えた。
言葉もでない。
半径数十㎞にも及ぶ海の魔力を一点に集めた一撃を、力業で弾き返した。もう地球上で起こり得る現象の範疇ではない。文字通りの──
「化物め……」
グレンデルの声が聞こえたように、魔道王がゆっくりと目を開き、グレンデルを見た。
その瞬間、空気がテオクラフトの魔力に置き換わるのを肌で感じた。
いや、違う。
魔道王の現身が発散しているのだと思った魔力など、ただ制御が行き届かずに漏れだしていた力の残滓にすぎない。テオクラフトの本当の魔力は、見渡す限りの空域にどこまでも広がる、自然物の域にまで達するほど練り上げられて空気と区別が付かない力。
それらがすべて、明確な悪意を持ってグレンデルに襲いかかる。
「っ、が、ぐあぁぁぁぁぁぁあああああああぁぁぁぁぁぁあああああああ!?」
恐怖が、脳のもっとも深い部分をわしつがみにした。
精神操作。
普通、魔法使いには精神操作は通じない。簡単な魔力の操作で、外部から進入してくる魔力を体に通さないようにするのは基本の基本だ。しかし魔道王の現身は、超高圧電流が薄いゴムを焼き焦がすように、膨大な出力でグレンデルの抵抗をあっさりと突き破った。
意思の力ではどうしようもない事柄など、世の中には山のように存在する。それを認めない者は、ただ本当の挫折と絶望を知らないだけだ。
原始的な恐怖に飲まれ、グレンデルは狂犬が水から逃れるように、魔道王に背をむけて逃げ出していた。
追撃の一つもしてこないのは、こんな小物などどうだっていいと考えたからに違いない。しかしそのことを屈辱と感じるような心の余裕はどこにもなかった。
暗闇の中で小さな明かりを見つけたように。本能に突き動かされて逃げ出すグレンデルは、暴走している絶凍界の端に、覚えのある魔力反応があることに気づいた。藁にもすがる想いでそこに降り立つ──そこにいた男の姿を見て、矜持が少しだけグレンデルに理性というものを取り戻させる。
グレンデルはその男の両肩をつかんだ。
「アルマデル、すぐ逃げろ──奴が、魔道王がそこまで来ている! さっき精神支配された時に少しだけ奴の頭の中が見えた! 奴の狙いはお前の指輪だ! 私はこれから師匠殿に連絡を取って善後策を検討する。お前はすぐにどこかに身を隠せ!」
「…………いいじゃないか」
ぼそりとつぶやいたアルマデルの言葉が、煮え立った脳味噌を冷やす。
そこで初めてアルマデルの様子がおかしいことに気づいた。周囲には倒れ伏した人の山。しかしこれは、暴走したグレンデルの絶凍界の効果ではない。
「……世界最強の魔道王様が、わざわざオレを殺しに来てくれるんだな?」
「馬鹿、お前なにを考えて──!」
「ずっと、そういうのを待っていたんだ」
ずん、という重い衝撃が腹から脳に駆けのぼる。ぶれる視界で下を見ると、アルマデルの右の拳が無防備な脇腹につきささっていた。
「この……馬……鹿……が……」
がくりと膝を折るグレンデルを一瞥し、アルマデルは純白の羽を広げて飛び立った。
グレンデルを黙らせて飛び立ってから10数分。
アルマデルは太平洋沖の上空に、不審な魔力反応を見つけた。
数は複数──20から30程度。
魔道王ではない。しかし、確実になにかがいる。
はやる翼を閃かせてその場に駆けつける。
別に魔道王でなくてもいいのだ。自分の魂を、この出来損ないの体から開放してくる相手ならば。アルマデルという魂があったことを戦いを通して歴史に刻んでくれる相手であるなら。自分と関わったことのある人間たちに、自分の死を以て自分の苦しみを気づかせてくれる相手であれば。
はたして、そこにたどりついた時。
アルマデルが目にした物は、黒い人形の群だった。
おそらく魔道王が、潰れた船の欠片をもとに、斥候のために作ったのだろう。
それは魔獣の出来損ないだった。
まるで等身大のゴム人形。見るに耐えない、質より量の粗悪品。
急造と思われる『核』は、あと30分も稼働しないにちがいない。
創造主に見放された欠陥の塊。
アルマデルの魔力に気づいたのだろう。目鼻もない仮面のような黒いのっぺりとした顔が、いっせいに視線をむける。
アルマデルは笑いだした。
心の底から、泣き声のような哄笑を放った。
人形たちがアルマデルを敵と見なして襲いかかってくる──いや、そもそも敵や味方という概念があるのかどうか。
飛びかかってきた最初の一体を袈裟懸けに両断する。
その隙に背後から錐のような触手を振り上げて襲いかかる二体。
「アドニエルよ! オレに救いをもたらす者よ!」
アルマデルが新たな天使の名を召ぶと、その二体は一瞬で粉々になり虚空に消えた。
『死』の天使の召喚。忌避される天使召喚の中でも、特に禁忌とされる存在。
「さあ踊ろうじゃないか兄弟たち!」
人形たちの間にどよめきのような衝動が走る。
アルマデルは口から流れた血をぬぐい取った。
『死』の天使が禁忌とされるのは、その能力だけが理由ではない。──膨大な魔力消費も重要なファクターである。
しかし今のアルマデルに恐れはない。『死』にも『禁忌』にも。
「同じ出来損ない同士、最後の一人がいなくなるまで楽しく殺し合おう(おどろう)じゃないか!」
「送るのは虚門の“散椿”組がよろしいでしょう」
「まぁ、妥当でしょうな」
緑に包まれた、奥まった座敷で超越者たちの会話が続いている。
「『虚』殿、いかがかな?」
「すでに手配は終えている。あと30分もあれば出られよう」
『虚』と呼ばれた独眼の老人の返答に、多くの老人が頷きを返す。
「結構。ではしかるのちに、全粛清部隊を動員して後処理を行いましょう」
「それがよいでしょう。では決を……」
「まてまてまて」
議長役の老人を遮ったのは、グレンデル──そしてアルマデルの師匠。
「いかがなされた、『翼』殿」
「この期の及んで、まだ議論が足りぬと?」
染みつくように粘りついてくる不快の視線にも動じず、男は言った。
「お前たち、頭は大丈夫か? 確かに“散椿" 組は今迅速に用意できる粛清部隊の中では最強だ。しかし相手を考えろ。どうみても倒せるはずがないだろう」
「これはこれは」
会場中に沸き起こる──嘲笑。
「翼殿のお気持ちも分かりますがな、今は“散椿" 組の戦力があれば充分でしょう。なにせ相手は未熟者ですからな」
「──未熟者と言ったか?」
「──左様」
ついに男は立ち上がって周囲を睨んだ。
「……それに、『しかるのちに、全粛清部隊を動員して』だと? 魔道王の現身を葬ったあとに必要なのは精神操作系の術者たちだろう。
お前ら、いったい誰を始末する話をしてるんだ?」
「おや、お分かり頂けていると思ったのですがな」
議長役の老人……『篳』の言葉に、居並ぶ老人たちが次々頷く。
「我々は元凶を正さなければならないのですよ」
「たとえ今回を乗り切ったとしても、指輪が現存すれば数百年後には再び同じことが起きる。ならば、今の持ち主ごと闇に葬るのがもっとも適当ではないですかな?」
「オレの弟子が体張って食い止めてるんだ! そんな時に、お前らは身内を後ろから斬ろうってのか!?」
「もう、決まっていることなのですよ。あとは我らの承認があれば動きだす」
「本家の会議の原則は二十七宿の全会一致。オレが反対している限り、好き勝手はできないはずだ」
やれやれ……という雰囲気を漂わせながら、老人たちがゆらりゆらりと立ち上がる。
「貴殿は少し酔いが回ってお疲れのようだ。しばし休まれるがよかろう」
「『翼』殿はまだお若い。後のことはわしらに任せるがよろしかろうて」
窒息しそうな、尋常でない濃密な魔力が宴会場に溢れだす。
いくら若いと言っても『翼』は新参。外見だけは60代だが実際は何百年生きているのか知れたものではない化物たちを相手に立ち向かえる実力はない。
『翼』と呼ばれた人物は、しかし引き下がらなかった。
「やれるものならやってみろ、ボケじじいどもが!」
「はっはははははは、はははははははははははははははッ!」
アルマデルが翼を翻して剣を振るうたび、死の天使の力を振るうたび、黒い人形が散っていく。
そのたびにアルマデルの口から鮮血が漏れる。
指輪はずっと魔力を供給し続けている。しかし消費量のほうがはるかに大きい。
自前の魔力を使い果たした時、指輪に支配される。
それが分かっているはずなのにアルマデルは笑いながら魔法を使い続けていく。
口から血を垂れ流し、時折気管に入ったものだけ赤い色をした咳で吐き出す。目と言わず、耳と言わず、流れだした血は黒を基調にした魔法使いの服を真っ赤に染め上げている。毛細血管など、無事なものは一本でも残っているのか。
そんな惨状で笑い続けながら。
ときおり脳裏に浮かぶ家族の顔を切り捨てるように剣を振るう。
良子の顔が浮かんだ時にわずかに剣が止まったが、それも一瞬のこと。
「ふはははははははははははは、はぁっははははははははははははッ!」
狂ったような哄笑が続く。
──あんなことを言う気はなかった。
良子は一人、テーマパークのゲートの外で立ち尽くしていた。
あんなことを言う気はなかった。母親のことも、誠二のことも。
この前のお礼がてら、一緒に遊ぼうと思った。それが誠二の体にプラスになれば、なおいい。最初はそれしか考えていなかった。
ただ、誠二がときおり見せる、辛いのに辛さに慣れて諦めてしまった顔を見ていると、どうしても我慢できなくなってしまった。
「あんな押しつけがましいこと……」
救って「あげる」とか、見下すのにも程がある。
誰かの役に立てる。そのことに酔っていたのだ。小さいころから病弱でよく発作を起こし、他人には迷惑をかけるばかりだった。だから、逆に誰かを助けるという行為に、つい我を忘れてしまったのだ。
思えば、弱い体をおして探偵のバイトを始めたのも、いつまで生きられるか分からない人生で、少しでも誰かの役に立って自分のことを覚えておいてほしかったからだ。そして理解できたことは、世の中そんなに単純ではないということだけだった。
……あたし、気持ち悪いよね。
わかっている。
そんなことはなんの理由にもならないのだと。
ユリの時もそうだった。
人の気持ちを考えもせず、気のむくままにひっかき回して、最後は誰とも共有できない小さな満足にひたろうとする。
そんな自分を、好きになんかなれるわけがない。
自分以外のものになりたい。そう言った誠二の気持ちが、少しだけわかった気がした。
後ろ髪を引かれるように、テーマパークを振りかえる。あんなに楽しく遊んだ遊園地が、鈍い灰色のベールに覆われて見える。
いや、違う。
まぶたに涙が浮いているのだ。
良子は必死に両目をこすった。
眼球が傷ついても不思議ではない勢いでこすった。あれだけ人を傷つけて、拒絶されたからといって自分だけ泣こうなどと、恥の上塗りにも化粧と同じく限度というものがある。
ゲートでは、先ほどチケットを返した係員が、別の係員とひそひそ話しながらこちらを指さしている。彼氏にフラれたばかりのように見えるのだろう。彼らの目には、心配そうにしながらも邪魔だと思っている光がありありとみてとれた。
そう、邪魔なのだ。
こんなところで未練がましく立ち尽くしていないで、さっさと家に帰ればいいのだ。そして二度と魔法などに関わらない。それが一番、誠二を傷つけない方法なのだ。
しかし一歩が踏み出せない。未練が影を踏む。
「…………?」
あの感覚が胸を通りすぎていった。絶凍界の、あの感覚だ。
また誠二が自分自身に傷ついて、苦しんでいるかもしれない。だが良子が行けばまた誠二を傷つける。
帰るべきなのだ。しかしどうしても、あんな顔をした誠二を残していけない。
──これが最後だから。これで最後にするから。
良子はゲートをくぐり、誠二と別れたレストランへと戻った。
道々で累々と倒れる人影の山。どう考えても尋常じゃない。
レストランに駆けつけた時、そこに倒れていた黒いマントの男は誠二ではなかった。
「……グレンデル?」
「奇遇だな、美しいお嬢さん」
苦しそうに、だが不敵な笑みでグレンデルが言う。
わずかな躊躇を振り切って、良子はグレンデルに肩を貸して起き上がらせた。
「なにが起きてるの?」
「細かく話すと長いが──アルマデルが自殺するつもりでいる」
グレンデルは歯を噛みしめて良子に言った。
「今のあいつは、一人にしておいたらなにか取り返しのつかないことをしでかす。
──頼む、あいつのところに行ってやってくれ」
もう確実に30体以上の人形を潰したというのに、一向に数が減る気配がない。
精神的なリンクで異変を感じ取り、周囲から続々と集まっているらしい。
普段なら交戦前に予測できそうな簡単なことに気づく頃には、もう自身の魔力はほとんど残っていなかった。
そのかわり、指輪から流れてくる異界の魔力で、体はいつになくみなぎっている。異質な魔力の反動など感じる神経はとうに焼き切れている。
体が天使の魔力一色に染まれば、永久にアルマデルは天使に意識を乗っ取られてしまう。ある意味、死ぬよりひどい最期かもしれない──そう言ったのは姉か師匠か。
「弱ったな」
三体同時に切り捨てながらアルマデルはつぶやいた。
「こいつら皆殺しにしなきゃならないのに、それまで魔力が保つのかどうか」
爽快だった。
充足感が頭を満たす。
思いのままに魔法を乱打できるのが、たまらなく気持ちよかった。
他の魔法使いたちは、いつもこんな気分に浸っていたのか。
そして、次の的に斬りかかろうとした時──
ぼん、と風船が割れるような音がして、周囲に群がっていた人形が一斉に弾けて消えた。
もはやほとんど機能していない知覚器官が、阿呆みたいに莫大な魔力の塊が近くに来ているのを感じた。
「そういえば、すっかり忘れていたな──」
魔道王、テオクラフト。その最高位の現身。
「待っていたぞ魔道王、オレを殺してくれるんだろう? 早く始めようじゃないか!」
「……騒ぐな、見苦しい」
その一言と共に吹きつけられた魔力波で、煮詰まる直前まで沸き立っていた精神が反対方向に暴走する。すなわち──恐怖。
脳の奥底、意思の力ではどうにもできない部分が悲鳴を上げて、体が勝手に逃げようとする。
しかし魔道王は、今度は見逃さない。
魔力を無理やり流入させて体のコントロールをハック。指一本アルマデルの意思では動かせないようにする。
「──────!」
アルマデルの悲鳴。しかし声にはならない。
「さて。……その指輪、俺に捧げてもらうぞ」
肩にかかる金髪を靡かせて魔道王の現身が告げる。
その時、アルマデルの体内に異変が生じた。
世界の終わりの指輪、魔力制御呪と並ぶ、三つ目にして最後の生命維持装置。アルマデル自身も知らない内に体に埋めこまれていた緊急避難用の強制転移呪。それが宿主の危機を感じて自動的に起動する。
「ち──っ」
魔道王が舌打ちして発動を妨害しようとするが、もともとアルマデルの精神とは独立した呪いであることに気づかず対処が一手遅れる。
その一手のうちに、強制転移呪はアルマデルを別の場所へと転移させ、さらに何度も無作為に周辺へテレポートさせ、自らは消滅した──ほとんど残っていなかったアルマデルの魔力を吸い尽くして。
──やっと見つけた!
現れては消える気配をたどり、ようやく良子は誠二を発見した。
コンクリートの防波堤が続く海岸線。テトラポットに腰掛けて、天寺誠二は無気力な瞳で海岸線を見つめていた。
その姿、その魔力は、もう見るに耐える状態ではなかった。
心配が一気に怒りへと変わる。
さんざん我慢してきたが、もう限界だ。
「こんなところでなにしてるのよ」
誠二は振り向きもしなかった。
「今度こそ死に場所が見つかった。見つかったはずなのに、体が勝手に逃げだしやがった。あれだけ格好つけておいてこのザマさ。好きなだけ笑うがいい」
「キミね、勝手すぎるよ」
心からの憤懣をこめて良子は言った。
「血を吐きながら人助けしておいて、自分のことになると死にたいだとか、周りの人がどんな気持ちになると思ってるの?」
やはり誠二は良子のほうを見ようともしない。
「初めてて会った夜、キミ、あたしに生きろって言ってくれたじゃない。あの時、本当に嬉しかった。ずっと、いつ死んだっておかしくないって思いながら生きてきたから、本当に嬉しかった。それなのに、キミはなにしてるのよ」
「オレが生き延びてなにになるんだよ」
つぶやく誠二を見て気づく──きっと目が見えていない。
「奴にせめて傷でも負わせて、オレだって魔法使いなんだってことを証明したかった。それが、立ち向かえすらできないでこのザマだ。もうじき自分の魔力が尽きて、指輪の魔力が抵抗力の消えた体を支配する。オレらしい結末じゃないか」
良子は誠二の隣に立った。
「ちょっと顔あげて、歯を食いしばりなさい」
誠二はのろのろと顔を上げ、無気力な目を良子に向ける。
良子はその胸ぐらをつかみ、ねじり上げると。
誠二の後頭部に左手を回し、乱暴に唇を押しつけた。
「────!」
驚愕に目を見開いて、誠二はとっさに離れようとする。しかし頭の後ろをつかむ左手に力を入れて逃がさない。
唇と唇、舌と舌を介して、すさまじい勢いでアルマデルに魔力が流れこんでいく。
魔力はアルマデル本来の許容量をあっさりと超え、細胞の一つ一つに染みわたっていく。
無色の魔力はまたたく間にアルマデルの魔力に書き換わる。
数十秒が過ぎてから、良子は唇を放した。
「どう? これで少しは元気でた?」
「お前、なんてことを……」
あっさりと訊ねる良子を、回復した視力で誠二が見つめる。
今のアルマデルの体には限界を超えて常人の数倍もの魔力が宿っている。一時的なもので、少しずつ霧散していくが。
「やりたいことがあるんでしょ?」
良子は笑顔で誠二の手を取った。
「キミはすごい人なんだから。いくらでも応援してあげるから、自分はすごい人間だって自信つくまで頑張ってきなさい!」
「……ありがとうな」
その言葉は、風にかき消されて誰の耳にも届かなかった。
アルマデルは立ち上がり、空の一点をじっと見つめる。
そちらから近づいてくる、台風のような気配。
「なに……これ?」
良子もすぐに気がつき、不安気な声をあげる。
「隠れていろ。目当てはオレだ」
「──でも、誠二くん」
「そんな顔をするな。約束する。もう馬鹿なことはしない」
「……うん」
良子は頷き、何度も心配そうに振りかえりながらこの場を離れる。
その姿が見えなくなるのを待っていたように、魔道王の現身がアルマデルの前に降り立った。
「ほう、少しは正気が戻ったとみえる」
次の瞬間、魔道王から吹き荒れる恐怖の精神操作の魔力。それを良子からもらった分厚い魔力の層が阻んだ。
魔道王が顔をしかめる。
「なんだ、その歪な魔力反応は──生贄の奴隷でも2、3百人殺してきたのか」
アルマデルは不敵な笑みを返した。
「オレなんかのために母親の魔法を使ってくれた、底抜けのお人好しがいてね」
無論、その言葉の意味するところはテオクラフトには理解できなかったろう。魔道王は、どうでもいいという顔でかぶりを振った。
そんな魔道王を前に、油断なく魔力を展開しながらアルマデルが訊ねる。
「なあ、古の魔道王。この指輪を手に入れて、どうするつもりなんだ?」
アルマデルの右手の指に、質素な銀の光がきらめく。
「こいつはすでにオレの魂と深く結びついている。指を切り落としたりオレを殺した程度では手に入らんぞ」
魔道王は短く答えた。
「すべて承知だ」
「伝説の魔道王なら、こんなものがなくたって大抵のことは思い通りになるんだろう?この指輪の力を使って、一体なにが欲しいんだ? 世界か? 自由か?」
「もっといいものさ」
魔道王の口元に歪んだ笑みが浮く。
「もっといいもの?」
「分からないか? 俺は不死が欲しいのさ。俺はアルマデルの祖先より遥かに昔に生まれ、アルマデルの子孫より──そんなものが生まれればの話なのだが──遥かに先の時まで生きるだろう。
しかし、いつか死は訪れるのだ。俺にはそれが耐えられない。
だから不死が欲しいのさ」
枯れた声でアルマデルが問い返す。
「どうやって」
「まずアルマデルの理性と意識を完全に破壊して、アルマデルごと指輪をこの現身に取りこむ。その後、指輪のつながりをガイドに、結界に封じこめられた本体を天界の星幽界に次元断行する。時という概念のない天界にならば永遠の生命が存在するはずだ」
その言葉の裏の意味に気づいたアルマデルが声を漏らす。
「おい……まさか貴様」
「そういうことだ。魔力の割に察しがいいな」
こともなげにテオクラフトが答える。
「俺の本体は海底に封じられて動けない。だからこの惑星全体に俺の絶凍界を広げて、地球ごと天界に次元断行する。ほとんどの生命は、その時の負荷に耐えきれず深海に放りこまれたような圧力で潰されるか、精神が壊れるだろうな。生き延びられる人間は、世界全体で10人に満たないだろうさ」
さらにテオクラフトが言葉を続ける。
「俺自身だって、生き延びられる保証はないんだ」
「……死にたくないんじゃないのかよ」
呻くように言うアルマデルをテオクラフトは笑い飛ばした。
「分かってないな。死それ自体は別に大して恐ろしくない。死してなにもなくなった後で、一帯なにを思い悩むことがあろうか。恐ろしいのは、俺の未来に必ず死が待ち受けているということ、それだけだ」
「不死のためなら死も恐れない……狂ってやがるな」
その言葉に虚を突かれたような顔をしたあと、テオクラフトは哄笑した。地球全体を震わせるような声で笑った。この瞬間、世界各地の様々な観測機器が一斉に謎のノイズを受信した。
「なにがおかしい」
「これが笑わずにいられるか。アルマデルこそ、力のためなら命も要らないと言っていた狂人ではないか。人並みの魔法使いのように見られたいというだけの理由で、ただでさえ人よりも短い寿命をさらに削っているのではないか。そんな男が、俺を指して『狂っている』だと? こんなに滑稽なのはこの千年で初めてだ」
ぐ……とアルマデルは唇を噛みしめる。反論の余地はなかった。
「俺はな、今のこの世界が気に入っている」
テオクラフトは表情を改めた。
「生存競争といいながら無数の奴隷たちが無限に食い合いを続け、勝ち誇る一時の勝者を生存競争など必要としない本当の主人が陰から嘲笑している今の世界が気に入っている。壊すのは忍びないのだが……」
その瞬間、テオクラフトの顔に現れたもの……それは狂気。
「俺の行動も生存競争だ。ならば、なにをしたって許されるのだろう?」
その言葉を開始の合図に、二人は魔力を解き放った。
「“神の無慈悲な火”の名を持つ処罰の七天使、プシエルよ──!」
アルマデルが右手を掲げると、周囲にいくつもの握り拳ほどの白い炎の玉が現れる。
「──行け!」
アルマデルか手にした剣を振る──太陽の表面温度より熱い無数の球体が、包みこむように魔道王に襲いかかっていく。
しかしその魔法がテオクラフトの現身に届くより早く、魔道王の防御結界が完成する。
地表にダビデの星を機軸にした無数の魔法陣が展開される。魔法陣には現代に伝わっていない神代の時代の原初の魔法文字が、生命力に満ちた力強い輝きを放っている。
白い炎の玉は魔法陣の上空に差しかかったものから次々と撃墜されていく。
「古くさい手を──そんな詠唱結界、何百年も昔に攻略されている!」
グレンデルの時と同じく、右手の剣を弓矢に変えて空に打ち放つ。しかし今回は込める魔力がまったく違う。グレンデルの時よりも遥かに高い魔力を内包した矢が、天空にかかって分裂し、矢の雨となって魔道王の頭上に降り注ぐ。
「その結界の弱点は真上からの攻撃──なに!?」
空中に突如現れた力場にアルマデルは驚愕の声をあげた。
降り注ぐ矢は、すべてその力場に弾かれ、消え失せる。
アルマデルはテオクラフトの足元を見た──あれだ。
テオクラフトの周囲に展開された魔法陣の一つ一つがパーツとなって、一つの巨大な魔法陣を形作って直上からの攻撃を防いでいるのだ。
「俺の技の弱点は研究され尽くされている、だと?」
テオクラフトの鋭い視線がアルマデルを射抜く。
「違うな──実際はお前たちの誰一人として、俺の本当の技を継承できなかったというだけなのだよ」
魔道王の反撃が始まる。
「雷霆よ!」
膨大な魔力がアルマデルの周囲を取り囲むように渦巻き、次の瞬間、それらは無数の雷球となって襲いかかる。
「雷を司る天使──ラミエル!」
豪雨のように降り注ぐ雷の玉を、雷の天使の力で消滅させる。
しかしどうしても消し去りきれない。
残った雷球は10数個。襲いかかるそれらをあるいはかわし、あるいは右手の剣で切り裂く。
「意外とやるな──では、これではどうだ」
玩ぶようなテオクラフトの声。同時に頭上に現れたのは、シジュフォスの神話のような途方もなく巨大な大岩。
受け止める方法も逃げる方法もない。
「バルミエルよ──っ!」
剣に魔力を注ぎこむと、刀身が輝く柱のように光となって伸びあがる。
その剣で、アルマデルは落ちてくる巨岩を一刀のもとに両断した。
「ならば、これはどうだっ?」
その言葉と共に、蛇神を思わせる膨大な水流が突如として襲いかかる。
水の天使を心の中に現出させながら、アルマデルは魔道王のやり口に舌打ちした。
テオクラフトに、アルマデルを殺すつもりはない。ぎりぎり逃げきれる程度の攻撃を繰り返し、魔力が尽きるのを待つつもりなのだ。
(それならば、特攻あるのみ)
軍事の天使が囁くが、テオクラフトがあの結界に守られている限りその手は使えない。
──くそ。
胸の中で毒づくアルマデルに、魔道王からの声が届いた。
「なあ、アルマデルは本当に死にたかったのか?」
一瞬だけ硬直した体を岩石の矢が襲う。それをぎりぎりで弾き返しながら、アルマデルは叫んだ。
「黙れ!」
しかしテオクラフトの声は直接頭の中に響いてくる。
「違うだろう? 本当は殺したかったんだろう? 幼い頃から、無邪気にアルマデルの抱える体の弱さを嘲り、時に悪戯半分で危害を加えて楽しんできた連中を、しかし今では大半がどこにいるのかさえ分からない連中を殺したかったんだろう? そいつらを殺せないから、代わりに自分を殺そうとしたのだろう?」
「──黙れ!」
とアルマデルは叫んだ。違う、とは言わなかった。
「苦しむアルマデルの姿を見て、気持ち悪がってどこか遠くに追いやろうと嫌がらせを繰りかえしてきた連中を殺したかったんだろう? 別に大した関心もないくせに、無邪気にお前の魂に悪意の石を積み上げてきた連中に、奴らの罪を思い知らせてやりたいんだろう?」
「黙れと言っている!」
「ならば、その体を俺に寄越せ。アルマデルの代わりにそいつらをみんな惨めに無残に殺してやろう。──どうだ?」
なにかから目を背けるように、必死にアルマデルは叫んだ。
「────黙れ!!」
テオクラフトの猛攻をかいくぐりながら、魔力で増幅させた視覚で太陽の位置と、その向こうにある肉眼では見ることのできない星々の配置を探る。
──黄経46度。
脳裏にホロスコープを描く。太陽の位置は金牛宮。金牛宮の支配星、金星の位置は巨蟹宮。太陽とのアスペクトはセクスタイル──行ける。
「四元と十二宮の天使、地の属性にして金牛宮に宿る者──トゥアル!」
押しつけた手のひらから大地の表面に輝く魔力が広がっていく。
複数の魔法を組み合わせ、広域に影響を及ぼす大規模魔法はグレンデルの得意技だが……アルマデルも決して苦手ではない。
「スイエル──地震の天使よ!」
大地が鳴動する。
揺れ自体は大したことはない──せいぜい震度4といったところだが、アスファルトを縦横無尽に走る大地の魔力を宿した亀裂がテオクラフトの足元の魔法陣に迫る。
あの防御結界さえ崩せれば、攻撃が届く。
「──ふん」
魔道王は顔色の一つも変えず、右の足先でポンと地面を叩いた。
轟音を立てて、テオクラフトごと巨大な魔法陣が大地から切り離されて、宙に浮き上がる。
「────くっ」
アルマデルは歯噛みした。魔力はまだ精神操作に抗えるほど残っている。しかし、これで正真正銘、打てる手がなくなった。
絶望感が反応を鈍らせる。
充分回避できたはずのテオクラフトの魔力球が、気がつけば顔の真正面30センチの位置まできていた。
魔法で叩き落とすべきか。魔力を温存するために、回避すべきか。判断力に一瞬の遅延。その一瞬で充分だった。もう撃ち落とすのも避けるのも間に合わない。
テオクラフトの動揺が伝わってくる。まさかこれを避けられないとは思わなかったのだろう。突き出した右手を握りつぶして魔力球を消そうとする──しかし遅すぎた。
終わった──そう思った瞬間、目の前の魔力球がかき消えた。
「誠くん、よく一人で頑張ったね」
アルマデルの前に降り立つ、二つの黒いローブ姿。
「お前にしては上出来だ、アルマデル。あとでいい店連れてってやる」
「姉さん、兄さん……なんでここに」
そこにいたのは双子の姉兄──天寺恵都と天寺光一。
光一が口を開いた。
「グレンデルから連絡があった。あの馬鹿、油断しやがって」
油断なく構えをとる二人に、テオクラフトが魔法を放つ。
「消え失せろ、有象無象が!」
アルマデルを玩んでいた時とは違い、本当に殺す気で魔力をこめて、テオクラフトが無数の光矢を放つ。文字通り光の速さで進む矢は、内部に蓄えられている圧倒的な魔力で二人を貫く──
その寸前に、恵都の腕の一振りで、霜が朝日に蒸発するように消え去った。
「天使や悪魔を呼び出して力を借りるのも、悪い手段ではないが──」
結界で光の矢を止めた光一が言う。
「いささか、迂遠と言わざるをえんな」
そこにいるのは、異界の力など借りずとも森羅万象を自由にできる、本物の魔法使い。
一人一人でも世界に通用する実力を持つ二人だが、コンビを組むとさらに戦闘力は跳ね上がる。
「この時代にも、多少は使える魔法使いるのだな」
テオクラフトの声に、警戒の色がにじむ。
恵都は振り返ってアルマデルに告げた。
「誠くん、ここは下がって」
「! 姉さ──っ!」
「そうじゃないの」
恵都は首を振った。
「いい、わたしと光一じゃ、あいつは倒せない。わたしたち二人で出来るだけあいつを消耗させるから、誠くんは魔力を温存して、あいつに止めを刺す方法を考えて」
「待て、姉さん。それならオレも一緒に戦ったほうが──」
懇願を無視し、魔力の質を知り尽くしている肉親にして兄弟子ならではの精神操作でアルマデルを拘束。そこに不可知の魔法をかけて、有無を言わさず転移させた。
「姉さ──」
無念の声を残してアルマデルが消える。
それを見届けて。
「さてと、姉さん。やりますか」
空間を切り裂いて自分の工房から愛用の巨大ハンマーを取り出して、光一が姉に目配せする。
「……誠くんまで回さない。意地でも私たちで片を付けるわよ」
姉の気迫に苦笑いして、光一は表情を改めた。
「どう気合いれても無理なものは無理だが……できる限りのことはしておいてやるか」
強制転移の目まいが消えると、冷たい地面に横たわっていた。
恵都のかけた拘束はまだ解ける気配もなく、指先一つ動かせない。
遠くでは、魔道王と恵都たちが戦っている。気配からして百メートル先といったあたりか。
姉の言葉が嘘であることはすぐに分かった。──あの二人では魔道王の現身を倒せないということ以外は。
またしても半人前の出来損ない扱い。苦い想いが胸を焼く──しかし今だけは、いつものように激情に身を任せるわけにはいかない。大切な誓いを破ってアルマデルにこの力を与えてくれた、あの友達想いのお人好しのためにも。
魔力は半分以上が削られてしまった。
しかし、もう一度良子に頼るつもりはない。
良子本人にとっては微々たる量とはいえ、魔法使いでもない人間から強制的に魔力を吸い上げれば、どんな弊害があるか知れたものではない。脅しでも冗談でもなく命に関わる。
だから、考えなければならない。
自分の体でなにができるのか。
どうすれば、あの魔道王を倒せるのか。
十数分後。
考えがまとまるより早く、恵都たちを倒した魔道王が転移の魔力の残滓を追ってやってきた。
アルマデルにかけられた拘束は未だに解けない。力加減を間違えたのか、よほど誠二に乱入して欲しくなかったのか、あるいは本当に二人だけでテオクラフトを倒すつもりだったのか。恐らく全てだ。
「この辺りに飛ばされているはずだが──あの女、どんな迷彩をかけやがった。名のある使い手なのだろうな……もう少し冷静に戦っていれば、勝てないにしても千日手くらいには持ちこめただろうに」
姉さん、まさか──?
心配は後回しだ。幸いにも恵都の不可知の魔法はまだ有効で、魔道王の目さえ欺いている。心の動きを悟られてしまっては元も子もない。おまけにこちらは魔法で拘束されている身だ。
「アルマデル、聞こえているのだろう、未熟者よ──あの二人の魔法使いは、俺が殺した。惨めな最期だったぞ。あらゆる攻撃を防がれて、二人揃って泣いて命乞いするところを精神操作でお互いに殺し合わせた」
びくり──と跳ね上がる心臓をよそに、脳が冷静に判断をくだす。あれは嘘だ。もし本当ならば、生首の一つでも持ってきた方がよほど説得力があるし効果的でもある。
テオクラフトは低い忍び笑いを漏らした。
「今、わずかに反応があったな。やはり近くにいるのか。そうだ、アルマデルが見破ったように、いまの言葉は嘘だ。まんまと逃げられたよ。あの男がいい判断力をしていた」
思わず安堵しそうになる体に活を入れて緊張を持続する。ほっとため息などついてしまってはテオクラフトの思うつぼである。
「ふむ、この手にも引っかからないか。このまま我慢比べをするのも面白そうだが、余計な客がきては面倒だ。てっとり早く終わらせてもらうぞ」
そう言って、ぱちんと一つ指を鳴らす。
次の瞬間、グレンデルの足元に現れた姿は──
──良子!?
どうして大声が出なかったのか、まったく理解できなかった。
驚いたように目をぱちくりとさせる良子を後ろから持ち上げ、前方に放り投げる。
「きゃ──っ!? ちょっと、だれ──」
突然の衝撃に声を上げ、良子は振り向いて自分を突き飛ばした相手を見て、声を失う。
生得している魔法的な視覚で、背後の男がどれほどの化物か見えてしまったのだろう。
「女──先ほどアルマデルの近くに居たな。縁があるのか?」
まだ声を出せないのだろう。良子は青い顔で怯えながら魔道王を見上げる。
「そのあたりにアルマデルが隠れている。痛い目に会わせられる代わりに、アルマデルに出てくるよう呼びかけてもらえないかね?」
アルマデル、の一言に我を取り戻し、良子がキッとテオクラフトを睨み上げる。
「誰が──お断りよ!」
「ならば、アルマデルが耐えきれなくなるまで悲鳴を上げてもらおうか。俺としては、別にどちらでも構わないのだよ」
テオクラフトが、右手に雷を溜める。
思わず飛びだしそうになって、アルマデルは気がついた。
──違う。
あれは良子ではない。
姿形は良子だが、性格が微妙に違う。そしてなにより魔力反応がまったく違う。
それが分かっていても、魔道王の雷が良子の人形を焼いていくのは正視に耐えなかった。良子とまったく変わらない声の悲鳴は脳を強く揺さぶった。
「ふむ──困ったな。これも見破られたか」
「なに──きゃ、これあたし!?」
今度こそ心臓が跳ねた。
近くに建っていた海の家の陰から、自分の悲鳴と自分の焼け焦げた人形に引き寄せられた良子が駆け寄ってくる。
「これはこれは──」
魔道王が爬虫類じみた笑みを浮かべ、良子を見つめて再び右手に雷を溜める。
良子はテオクラフトの姿が見えていないのか、無防備に自分の人形に近寄っていく。
テオクラフトは青白く輝く右手を良子にむけて──
「────くそっ!」
アルマデルは全力で拘束を解除すると、テオクラフトと良子に間に飛びこんだ。
移動したために不可知の魔法が解除される。
テオクラフトがニヤリと笑った。
「やはり、出てきてくれたな」
放たれる雷を全力で防御する。
衝撃に耐えながらちらりと背後に目を向けると、駆け寄ってくる良子の姿がぐにゃりと歪んで消え失せた。これも幻影。
──ハメられた。それが分かった時には、もうどうやっても抜けだせなくなっていた。
「おおおおおおおおおおっ!」
雄叫びを上げて全力で至近距離から襲いかかる雷撃を防ぐ。魔力はみるみる減っていくが、どうしようもない。
そして、アルマデルはすべての魔力を使い果たした。
気がつくと、アルマデルは真っ白な世界にいた。
雲の中のような、どこまでも広がる真っ白な世界。
見下ろすと一糸まとわぬ体は半透明で、下の景色が透けている。
「オレは……」
「アルマデルは、全ての魔力を使い果たして、指輪の契約によって魂を捧げた」
ふりむくと、金髪の少女がアルマデルを見つめている。
「ミナか……ということは、ここは──」
「そう。アルマデルの魂は今、天界の入口にいる」
「そうか──」
アルマデルは天を──なにもない白い空間を仰いだ。
「いつかはくると思っていたが、意外と長持ちしたな。オレはこれからどうなるんだ?」
「それは、指輪の契約を交わした天使の気持ち次第」
静かな声でミナは告げた。
「元の体に戻されて、自分の意思では動かせない体の中で残りの人生を見守るのか、永遠の奴隷として天界の存在に奉仕し続けるのか、あるいは天使の養分として吸収されるか」
アルマデルは苦笑した。
「なるほど、姉さんや師匠殿は正しかったわけだ。普通に死んだほうが何倍もマシだったな」
「今は猶予の時。アルマデルの魂がもう少し天界に馴染むのを待って、契約を交わした天使──ミナの本体がアルマデルを取りこむの」
「──そうか」
現世ではやり残したことだらけだ。悔いは残る。しかし長かれ短かれ、人生とはそういうものだろう。
自分は魔道王に破れてしまった。しかし、世界には多くの魔法使いが残っている。彼らが力を合わせれば、きっと最悪の事態は回避できるだろう。
「今、天界は揺れているの」
不死にミナの無表情に感情がこもる。
「魔道王をどうするのか、人間をどうするのか、意見が分かれてる。そしてもっとも多い意見が、地球を天界に入れようとする魔道王を排除すること」
「なんだ、オレたちが騒がなくても、そっちでやってくれたのか」
「全然ちがう。魔道王を倒した後は、再び同じことが起こらないよう、地球のある次元の生物を皆殺しにすることになる」
「──おい!?」
「神様がアルマデルたちの次元に興味を持っていたのは、もうはるか昔。今ではなんの関心もない。邪魔になれば一気に滅ぼす」
実体を失った体に冷たいものが走る。確かに天使たちは肉体を持たないアルマデルの次元では、あまり大きな力は振るえない──しかし方法などいくらでもある。
ミナは無表情で続けた。
「止められるのは、アルマデルしかいない」
アルマデルは半眼でミナを見つめた。
「──どうやって」
「ミナは、あの世界が好き。神聖で静謐な、でも海の底みたいに静かけさに満ちた天界より、みんなで楽しく騒げるあの世界が好き。だから、あいつを倒して」
「だから、どうやって。オレはもう自分の体もないんだぞ!?」
声を荒らげるアルマデルに、ミナの声はあくまで静かだ。
「天界にいるミナの本体、その指輪で魂がつながっている天使を、アルマデルの力で逆に支配して」
「な──」
絶句するアルマデルに構わずミナが言葉を重ねる。
「そうすれば、アルマデルは自分の体を取り戻せる。支配した天使の力も使えば、あんなやつ簡単に倒せる」
「無茶いうな! オレにできるかよ」
「まだそんなこと言ってるの?」
ミナの声はわずかに苛立ちを感じさせた。
「いま必要なのは魔力ではなく、努力まで含めた純粋な才能。それならば、アルマデルは誰にも負けない」
そこまで言って、ミナの姿が急にかすれた。石を投げ込まれた水面のように不安定に揺れる。
「おい──どうした?」
「大丈夫。ミナはただの影だから──」
ミナの体が揺らぐ。
どうみても大丈夫ではない。ミナは本当の実体を持たないただの影。それが本体に逆らうようなことをすれば────
「……大丈夫、アルマデルならきっと」
それだけの言葉を残して、ミナは消え去った。
「そんな話、誰が信じるか」
アルマデルはつぶやいた。
「オレは誰にも負けないだと? 駄法螺吹くのもたいがいにしろよ」
目をつぶる。思い出すのは辛いこと、苦しいことばかり。
しかしそれでも、心から楽しかったこと、嬉しかったことも、確かにあった。
アルマデルは静かに目を開いた。
「……いいさ。最期に、天使様の口車に乗ってやろうじゃないか」
全ての魔力を失ったアルマデルの魂が天界と直結したのを確認し、テオクラフトの顔が歓喜に歪んだ。
ついに──ついに何千年と待たされた悲願が叶う。
予定と少し変わってしまったが──予想外にアルマデルの魂が天界に抵抗しているようだが、天使に抵抗されないぶん好都合と言える。
あとはほんの少しだけ、テオクラフトがアルマデルに触れて、直接魔力を送りこめばすべてが終わる。
テオクラフトは不死の栄光への最後の一歩を踏み出した。
アルマデルは無防備に立ち尽くしている。
──しかしそれは、他の誰に対しても同じことだった。
『本家』統括粛清部隊、虚門配下の“散椿”から選りすぐられた3名が、その好機を逃すはずもなかった。
遠距離攻撃のスペシャリストから選ばれた狙撃手たちは不可知の偽装を解いて、空中から豪雨のように魔弾を放つ。
翼門の手練二人との戦闘で大きく力を削られた魔道王の現身は、彼らが実際に姿を現すまでその存在に気づかなかったのも、奇襲に大きなアドバンテージとなった。
「まず身内から狙うのか──下種どもが」
虚を突かれ、さらに自分を素通りしてアルマデルへ向かう攻撃に毒づきながら、テオクラフトを印を結ぶ両手を縦横に走らせて、魔弾の雨を撃ち落としていく。
アルマデルにはかすりさえしない。
「失せろ! 未熟者どもが!」
手数に余裕のでたテオクラフトが、頭上の3人を撃ち落とそうとした、一瞬の隙に。
それまで息を潜めていた4人目が偽装を解いた。
「──!」
魔弾の雨に紛れるようにアルマデルに近づいていく。
手には、魔法使いの処刑のために使われる、あらゆる結界や契約を打ち消す魔力を秘めた禁装の刀。
テオクラフトの迎撃──は間に合わない。
鋭い刃がアルマデルの胸に吸いこまれる、その瞬間。
真横から振り下ろされた八角の棍が、白い刃を打ち砕いた。
「これ以上、部外者に引っかき回されるのは気に食わないな」
そこにいたのは黒衣をまとった美形の男、グレンデル=ガンド。
不意を打たれ、しかしなお責務を果たそうとアルマデルに魔法を放とうとした“散椿”組の男を、グレンデルの漆黒の棍が昏倒させる。
同時に空から墜ちてくる三つの影。
残る“散椿”組を撃ち落とした魔道王が、クレンデルに視線を向ける。
「礼は言っておくが──未熟者が、今さらなにをしにここに来たのだ?」
グレンデルは唇の端に冷たい笑みを浮かべて答えた。
「そこの出来損ないを守ってやるついでに、いけ好かない魔道王でも叩きのめしてみようかと思ってね」
「見苦しいほど愚かだな」
テオクラフトは凍てつくような眼でグレンデルを見た。
「お前では、俺の恐怖に抗えない」
「それはどうかな?」
グレンデルが棍を構える。
「さっき、今の連中の仲間を数人ほど叩きのめして魔力を吸い上げてきた。これだけあれば──見せてやれるさ」
「まるで足りぬよ」
テオクラフトが視線で精神操作をかけてくる。魔道王の魔力は付け焼き刃のような魔力防壁をあっさり破ってグレンデルの頭の中へ。植えつけるのは、先ほどの数倍もの恐怖。
発狂死しても不思議ではないレベルの感覚がグレンデルの内側で暴走する。
しかしグレンデルは唇を噛み破りながら耐える。
意思の力ではどうにもならない現象を、意思の力でねじ伏せる。
「なんだと──!?」
テオクラフトの顔に、驚愕の表情がくっきりと浮かび上がった。
「見せてやるさ」
グレンデルは無理やり唇をつり上げて笑みを作った。
「私の根性というやつをな」
ミナの本体という天使からの接触は、すぐにやってきた。
魂がなにか得体の知れないものに絡め捕られたかと思うと、暴風のような意思がアルマデルを飲み尽くそうと襲いかかってくる。
少しでも抵抗すればズタズタに引き裂かれそうな意識の奔流を、まるで魚が川を逆上るように受け流しながら、アルマデルは自分の意思を周囲に放つ。
──今だけでいい。一度だけでいい。力を貸してくれ。
虫のいい話だと、自分でも思った。この天使にとってアルマデルとは、17年間も勝手に魔力を吸い上げてきた寄生虫以外の何者でもないだろう。
それでもアルマデルは意思を伝える。少しずつ、諦めず。
襲いかかる意識に比べて、アルマデルの声はあまりに小さい。
そんな声を届かせるのに必要なのは、声の大きさでも語調の強さでもない。
心からの誠意。ただそれだけだ。
そして天使との触れ合いに人類で最も長けているのは、生まれついた時から彼らと接触を持っているアルマデルの他にはいない。
しかし、相手は使命を帯びた強大な天使。心を通わせるには時間がかかる──
テオクラフトの現身は、すでに半分人間の姿ではなくなっていた。
アルマデルに指の一本でも触れれば勝ち。しかしアルマデルを巻きこむ可能性のある大きな魔法は使うない。
だからテオクラフトは下半身をいくつもの触手に変えて、アルマデルに伸ばしている。その姿はまるでイカの化物だ。
グレンデルは精神操作に抗いながら、漆黒の棍を最小限の動作で的確に操って次々と触手を撃ち返す。
そんな攻防が、もう5分近く続いていた。
「アルマデルを守ってどうする」
テオクラフトが問いかけた。
「そいつは天使の贄として捧げられた。この魂が現世に戻るとこはない。いや、この魂は、未来永劫救われることはない。俺に特攻をかけてくるというなら話は分かる。しかし、なぜお前はアルマデルを守る」
「アルマデルは戻ってくるさ」
だらりと粘着性の汗を流して、グレンデルは笑みを作った。
「アルマデルは帰ってくる──私を楽しませてくれるためにな!」
フェイントをかけてグレンデルの心臓を貫こうとした触手を撃ち落としながら、グレンデルは意識のないアルマデルをちらりとみやった。
「いくらでも守ってやるから、のんびり談笑でもしてくるがいい」
実際は、もう限界だった。
意識を保つための魔力、棍にこめる魔力、体の動きを補助する魔力。
グレンデルの額には、魔力が切れた時のアルマデルのような脂汗がびっしりと浮かんでいた。
──魔力欠乏というのは、こんなにきついものなのか。
魔道王の精神操作の苦しさに耐えながら、それでも思う。
──アルマデルの奴は、いつもこんな酷い苦しみに耐えてきたのか。
どれほどの時が過ぎたのだろうか。
真っ白い世界の中心で。
荒れ狂う意識の颶風に少しずつ魂を削り取られながら、アルマデルは自分の意思を発信し続けていた。鬱陶しいと思われようと、見苦しいと思われようとも構わない。ひたすら自分の意思を伝えて協力を請う。
しかし、いつまで待っても天使は応えてくれない。
──ああ、そうか。
不意にアルマデルは理解した。どうも相手の巨大さと『支配』という言葉につられ、自分の手法を忘れていたらしい。
受け流していた精神の奔流に、あえて身を投げだす。
どこまでも自分を守る精神の殻を薄くしていく。
今までに数多くの天使を召喚したアルマデルだが、彼らを支配したことは一度もない。支配はアルマデルのやり方ではない。
自分の声を届けるということは、相手の声を聞くということ。
自分の意思を伝えるということは、相手の意思を受け取るということ。
自分の心を開くということは、相手の心を受け入れること。
心と心をつなぎあわせること。アルマデルにはそれができる。
やがてその真摯さが認められていくように、少しずつ風がおさまりアルマデルの魂へと同調していく。
そして──
ついにグレンデルが力尽き、意識を失って倒れ伏す。
テオクラフトが歓喜に叫ぶ。
その下半身から、無数の鋭い触手が包みこむようにアルマデルへと殺到し──
指輪が砕けた。
体内から閃光とともにすさまじい魔力が吹き出す。
そして開かれるまぶた……少しずつ現れる黒い瞳には、しっかりとアルマデルの意思が宿っていた。
「ぐああああああああああああああああああああああああああああああああああっ」
事態を悟り、テオクラフトの現身が吼えた。
ここにいるのは、強大な天使の力を引き出した一人の魔法使い。決して天界へのゲートではない。指輪を支配した人間など役には立たない。そしてもう指輪はない。
彼の望みは、終えたのだ。
テオクラフトの体が膨張し、原型を失って新しい姿に変わる。
それは竜。
大きな翼を広げ、炎を吐き散らし、両腕を振り上げて、残った魔力を無制限に開放して、だだっ子のように周囲のすべてを破壊しようとする竜。
怒りで、理性など消えてしまったのだろう。
それほど大きな怒りと、失望なのだろう。
制御を失った現身が本来の姿を現したのだ。
竜を中心に渦巻く魔力が膨れ上がった。指輪を手に入れるための体から、怒りに任せて──数千年も囚われの身にされている怒り、そして手に入りかけた念願の不死が、指の隙間からすり抜けていった怒りに任せて、地球上のすべての生命を滅ぼすための姿へと変わる。
実際に、魔道王の現身の竜はそれだけの力を持っている。
心の痛みに耐えかねるように暴れる竜を、アルマデルは冷たい、しかし哀しみの籠もった目で見つめた。
「来いよ、魔道王。お前の夢を終わらせてやる」
その声が聞こえるはずもない。聞こえたとしても、理解はできなかったろう。
しかし魔道王の現身の成れの果てはアルマデルに視点を定め、襲いかかってきた。
口から放たれる、太陽の中心点の温度に等しい紅蓮の炎。それをアルマデルは左手で受け止め、魔力をこめて無に帰した。
絶凍界を限りなく澄み渡らせる。今までに体験したこともない魔力、それこそ地球という惑星を破壊できそうな魔力が体に溢れる。
人間なら誰でも無意識に恐怖を覚える自分の力に怯えない。そして溺れない。それも天使と心を通わせることのできるアルマデルの才能の一つ。
「座天使の長、“神の番人”よ──」
アルマデルは体に宿る天使の魔力のすべてを剣に注ぎこむ。
どこまでも伸びる、まばゆく輝く光の刃は、あっさりと竜を二つに切り捨てた。
暴走する魔道王の現身の魔力、そして、役目を終えて開放された天使の魔力が、周囲を光の色に染め上げていく。
魔力によってつなぎ合わされた、現世と異世界の狭間。
そこでふわふわと漂うアルマデルに、一人の天使が近づいてくる。
天使に性別はないと言われているが、その天使は間違いなく妙齢の美しい女性の姿で歩み寄ってきた。
「はじめまして、というのも変ですね。わたしたちは、あなたが生まれてすぐ、指輪との契約を交わした時から、あなたが天使の贄となる契約を交わした時から、いつでもずっと一緒でした」
ミナのような無表情で言う天使に、アルマデルは言葉を返す。
「座天使の長、“神の番人”ザフィミナエル……あんたは、オレたちの世界ではザフキエルの名で知られている」
「大抵の天使──それも強大な天使ほど、人間の世界では偽名を使っているんですよ。無用な召喚を避けるために」
にこりともせず天使は言った。
「ミナはどうした?」
「あの子は影。わたしが奇跡の力で自らを照らした光が、あなたの世界に落した影にすぎません」
「だから、都合が悪くなったから消したのか?」
「まさか」
天使は一笑に付した。
「影を投影するそちらの世界が、魔道王の魔力によって一時的に不安定になって姿を維持できなくなっただけのことです。すぐにまた、そちらの世界の子供たちと遊び回ることでしょう。それにしても……」
「どうした?」
「嬉しいです。あの子のことも、心配してくれるんですね」
気まずくなって視線をそらす。しかしすぐ真顔に戻ってアルマデルは訊ねた。
「オレはどうなるんだ? 今からでも、この魂を連れ帰って奴隷にするのか?」
「お好きなように。契約は破棄されました。あなたはもう天使の贄ではありません。指輪の加護を失ったその体で、自分の人生を生きるといいでしょう」
「そうか……」
そのつぶやきは、苦渋に満ちていた。
あの指輪は大嫌いだった。あの指輪のせいで、いつも自分か出来損ないだとという刺を心の中に感じていた。
しかし、逆に言えば、あの指輪があったからこそ、表面的には人並みの生活が送れていたのだ。
何度、こんな指輪はなくなってしまえと思ったから分からない。しかし本当に指輪をなくしてしまったら、待っているのは今までも何倍もひどい苦しみの人生だ。
我知らず、唇を噛みしめていた。
「ですが、一つ提案があります」
思いがけない言葉を天使が言った。
「これは、一瞬とはいえわたしの魂を託した相手への純粋な好意で言いますが──天使になってみませんか?」
「天使に?」
ザフィミナエルは頷いた。
「ええ、そうです。ここで行方不明になって、天界で名もない一人の天使として生まれ変わるのはどうでしょう」
心が──揺れた。
「あなたの心の底に刻みこまれた辛い記憶や苦しい記憶を、すべて洗い流してあげましょう。そして指輪を失ったあなたにこれから訪れる、今までとは比較にならない苦しみを、すべて無効にしてあげましょう」
魅力的。そんな言葉では言い表せない提案だった。
アルマデルが死を通して本当に欲しがっていたもの。この苦しみからの開放。それを、この天使がくれると言っている。しかも、この脳にこびりついた辛い記憶まで消し去ってくれるという、この上もないサービスまでつけて。
肯定の言葉を返そうと口が開いた。
しかし脳裏をよぎったのは異界での新しい幸せな生活ではなく、心配そうな瞳で見上げる良子の顔だった。
「遠慮しておくよ」
アルマデルは言った。
「今日じゃなければ迷わず飛びつく話だが──悲しませたくないやつがいるんだ」
「きっとそう言うと思っていました」
ザフィミナエルは無表情から一転。無垢の花が開くような、男なら誰でも一発で惚れる天使の微笑みをこぼした。
「では、代わりに新しい指輪をあげましょう」
「え──?」
絶句するアルマデルに、天使は告げた。
「あなたのことが気に入りました。契約更新です。でも、もう無理はしないように──その指輪は、無茶さえしなければきっとあなたの助けになります」
天使は優しくアルマデルを見つめた。
「いつでもあなたを見守っていますよ」