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2.グレンデル=ガンド   <黒い天才>

 一週間あまりが過ぎた、ある夜。

『探偵の基本の基本だ』と任された猫探しの仕事のついでに、猫が住み着いていた廃ホテルで行われてたダイヤや銃器の裏取引などの写真を撮って叔父に渡した帰り道。

 また、あの気配がした。

 思わず立ち止まる。後ろから人がぶつかってきて迷惑そうな視線を投げるが、気にする余裕などはない。

 今までなら、一も二もなく気配に向けて駆けだしているところだ。

 しかし今夜は足が動かない。

 ──どうしていいか分からなかった。

 誠二があの夜なにをしたのか、もう分かっている。グレンデルの言葉に嘘は感じなかった。積極的に誠二に関わる理由はなくなった。

 加えてグレンデルの脅しがある──しかし、そんなものに怖じ気づく良子ではない。

 純粋に誠二のことが心配という想いもある。大して面識もない良子に、倒れるまで力を貸してくれたお人好し。そんな人間を放っておくと、なにをするか知れたものではない。

 だからといって、良子になにができるのか。いつかのように、無思慮に乱入して誠二の負担を増やしては本末転倒もいいところである。

 思考がぐるぐると頭の中で回りだす。結論は出ない。

「……行かないの?」

 声は真正面から聞こえた。

 いつの間にか、金髪の子供がじっと良子の顔を見つめている。

「え? ミナちゃん?」

「この前はありがとう。助かった」

「ううん、怪我がなくてよかったよ」

「……でも、次は気をつけてね? アルマデルがいなかったら、良子も怪我してた」

 ミナがなにを言ったのか、しばらく理解できなかった。

「──ミナちゃん、誠二くんのこと知ってるの!?」

 ミナはあっさり首肯した。

「うん、今も戦ってる。……良子は行かないの?」

「あたしは……」

 口を濁す。と、ミナがくるりと背を向けた。

「じゃあミナが行く。危ないから、良子はミナを止めようとして追いかけてくればいい」

 言うが早いか駆けだしていく。

「ちょっと、待ってよミナちゃん!」

 言葉のままに後を追っていくと、ミナは気配の中心のわずかに手前、広い通りにぶつかる細い路地の出口で立ち止まった。そこから、あの夜と同じ虫の怪物と戦う誠二が見える。

 アルマデルの黒いマントをまとい、剣を構えて魔法を放つ誠二の姿は、確かにあの夜よりも辛そうだった。

 やがて誠二──アルマデルが蜘蛛の頭部に剣を突き立てて止めを刺し、蜘蛛の姿が溶けるように消えていく。

 黒いマントをなびかせて、誠二がこちらに目を向けた。

「いるんだろう? ──でてこい」


 蜘蛛の複眼を睨み上げながら、アルマデルは舌打ちをかみ殺した。

 この手の怪物は、魔力の淀みなどが原因で自然に発生する。こういった魔物を秘密裏に退治することは、古代から魔法使いの主要な仕事でもある。

 だが普通ならば、魔物が発生するのは数年から数十年に一匹程度。

 しかしアルマデルは、良子と出会った夜から一月足らずの間にすでに5匹の魔物を退治している。

 明らかに多すぎる。

 原因は分かっている──グレンデルだ。

 一部の魔法使いは、ある種の『核』を用いることで、人工的に魔物を創り出すことができる。そしてその核には、製造者特有の魔力の波動がつきまとう。この蜘蛛から感じる魔力もグレンデルのものだ。

 グレンデルの嫌がらせは今に始まったことではない。もうすっかり慣れた──つもりだったが、今回のこれは少々度が過ぎている。そろそろ嫌がらせというレベルでは済まなくなりつつある。なにしろ周囲に被害がでている。

 ──なんにしろ、こいつは退治するより他に無い。

 周辺に展開していた絶凍界コキュートスを、半径10メートルに収縮させる。

 絶凍界とは人間が自分の周囲に展開している魔法の力場のことで、この力場の内側でのみ魔力を行使することができる。

 ゆえに絶凍界の展開や収縮は魔法使いには必須の技能であり、逆に習得してしまえば、絶凍界自体を結界として内部にいる魔法的な抵抗力の低い一般人を気絶させたり、無意識のうちに絶凍界の外にでていくよう心理誘導するなど、便利に使える。

 収縮させて密度の上がった絶凍界に働きかけて、軍事の天使を体に宿らせ、魔法の剣を作り上げる。

 ──う。

 喉元までせり上がってきた血を飲み下し、胃に押し戻す。魔力欠乏の症状だ。

 右手の指輪が、主人の状態を察知して自動的に魔力を供給する。

 聞くだけなら便利な話に思えるのだろうが、アルマデルはこの指輪を心から憎んでいた。この指輪の力を使う度に、自分が魔法使いとして──あるいは人間として出来損ないだと実感させられるからである。

 この指輪は太古の契約に基づいて、<天界>の星幽界アストラル──異次元世界のある天使と結びついている。その天使は魔力を供給してくれるものの、もしアルマデル自身の魔力が底をついたら、逆にアルマデルの魂を吸い取って肉体を支配してしまう。

 魂を人質にしないと魔法の一つも使えない。そんな自分をいつでも意識させられる。

 苛立ちを紛らわすように純白の翼を広げで宙に舞う。

 もうこの蜘蛛の魔物は何回も退治している。それはどう戦えばいいか、熟知していると言い換えられる。

 前足をかいくぐって頭に剣を突き刺して、剣を構成していた魔力を開放。それだけでケリがつく。

 アルマデルは蜘蛛の消滅を確認すると、先ほどから魔力を感じていた場所に目を向けた。

「いるんだろう? ──でてこい」


 ミナは手振りで良子に路地裏に隠れているよう指示すると、一人でアルマデルの前に姿を現す。

 アルマデルはミナを一目見て、ふむ、と鋭い視線を向けてくる。

「この間のガキか──どうも、まともな人間じゃないようだな」

 ミナは反論もしなければ否定もしない。別に隠しているわけでもない。

「まあいい。それで、オレになんの用だ」

「そんなに自分が嫌なの?」

 ミナは静かに問いかけた。

「星幽界から天使を呼び出して憑依させて、自分自身を書き換える。魔法としては合理的。この宇宙で天使が力を使えないのは、彼らの本体が違う星幽界にいて、この世界で体を持っていないから。わたしみたいに、魔力の光で本体を照らして外の次元に投射した影に力はない。だけどこの世界での体を貸して支配すれば、小さい魔力ですさまじい力を得ることができる」

「なるほどな──<天界>からの眼か」

「でも、術者のことを考えればぜんぜん合理的じゃない。こんな無茶を続けたら、絶対に体がもたない」

 アルマデルが奥歯を噛みしめるのが分かった。普段から目を背けている部分に踏みこまれたためだろう。

「アルマデルじゃ、50キロバイトしかないハードディスクにギガバイト単位のデータを詰めこむようなもの。しかも毎回、人間としてのOSを書き換えて書き戻してる。

 そんな無謀なシステム、いつクラッシュしても不思議じゃない。ただでさえ人間なんて、70年くらいしか生きられないのに」

 静かに──ひたすら静かにミナは問いかける。

「そんなに今の自分が嫌なの? どんなに努力したって、自分以外のものにはなれないのに」

 アルマデルの瞳に、憎悪にも似た炎が宿る。

「人間ですらないやつに、オレの気持ちがわかってたまるか」

 血を吐くように言葉を紡ぐ。

「なんだっていい、オレ自身以外のものになれるなら、なんだっていいんだ」


 ──ここまでとは思わなかった。

 物陰に潜む良子は、今すぐに飛びだしていって誠二の胸ぐらを掴んでがくがく揺さぶりたい衝動を押さえるのに必死だった。

 ミナの正体に関するあたりの話は急に声が聞き取れなくなったが、それ以外のところははっきりと耳に届いた。

 ──あの、バカ。

 自分自身を好きになれなければ、どんな苦しい努力をしたって幸せになんかなれないのに。

 歯噛みするような気持ちの中で、良子は気づいた。

 ミナが良子をこの場所に連れてきたのは、誠二の気持ちを聞かせるためなのだ、ということに──



 太平洋の南端、海底の星の結界の中。

 厳重な封印の下にある、かつて魔道王と呼ばれた存在は、幾重もの中継路を挟んで痕跡を隠しながら世界に放った手足から送られてくる報告に満足していた。

 また彼の近くでは、原子と原子の間のような結界の隙間から何百年もかけて少しずつ染みださせた魔力が、ようやく彼の望む姿に形成されつつある。

 例の指輪の発見と、時を同じくして。

 あらゆる占術に精通している彼だが、かつてこれほど『運命』というものを感じたことはない。

 数千年にわたる人の世を見てきたが、今ほど彼を喜ばせる時代はなかった。

 あらゆる欲望が「生存競争」の名で肯定される世界。

 かつての世界では、それは信仰や国家だった。しかし現代は違う。「生存競争」。それこそ彼が1千年期を費やして行ってきたことだった。

 生き残るためならば、あらゆることが許される。逆に生き残るための努力が足りなかった者は、どのような死が訪れようとも甘受するより他はない。まさに理想郷。これから彼が行うことによって、たとえ文明が宇宙の塵と消え去ろうとも、それは彼の権利であり、彼の古巣であった人類の過失であると、人類自身が認めているのだ。

 富と権力の集中によって生じる歪みに捕らえられ、諦観の中で着々と腐りながらもいつ弾け飛ぶか分からないほど内圧を高めていく今の時代の行く末を見届けられないのは残念だが──

 生き残るためならば、仕方ないことだ。

 結界の外で形成しつつある『船』の中に納められた現身、彼自身の姿を模した新たなアダムは、同時に彼の魂の新たな器でもあり、彼が目指す世界への橋でもある。

 それが完成する日は遠くない。長くても、あとたった数日。

 地震のようなエネルギーを浪費しつつも、彼──魔道王テオクラフトは、こみ上げてくる笑いを抑えることができなかった。



 あの夜から、良子は誠二の深夜の巡回に同行するようになった。

 体が心配、ということもある。

 借りを返したい、ということもある。

 しかしなにより、あの夜のミナとの会話を聞いた後では、誠二を一人で放っておくのは危険すぎる気がしたからだ。

 誠二は最初拒絶していたが、やがて根負けして黙認するようになった。

 今夜も良子は自分を無視する誠二の背中に張りついて、黙々と夜の街を徘徊していた。

 ふっ──と、異様な気配が体を吹き抜ける。

 同時に周囲の人間が次々と倒れていく。

 ──攻撃的な絶凍界

 ばっと誠二が見えないマントを翻す──次の瞬間、そこにいたのはアルマデルだった。

 振り仰ぐ彼の視線の先には、ビルの屋上に立つ黒いマントの美形の男。

「グレンデル……貴様、なんのつもりだ」

 見まわす先には大量の気を失った通行人。これを揉み消すのは骨だろう。

「なに、お前があまりにも美味うまそうな娘を連れているんでな」

「昔から変態だとは思っていたが、ついにロリコンにまで目覚めたか。つくづく救いようがないな」

 心底くだらない、という声のアルマデル。

「まあ、否定はしないが」

 グレンデルはニヤリと口の端を上げた。

「私の言いたいことは分かっているだろう? 美味そうってのは体のことじゃない。その呆れ返るほど膨大な魔力さ」

「貴様……」

「そんな美味そうな娘を連れ回しているというのに、お前ときたら、一向に手を着ける様子がない。だったら私が有効に使ってやろうという兄弟子の愛情を理解してもらいたいものだな」

「な……っ」

 アルマデルが声を詰まらせる。

「グレンデル、お前なにを口走ってるのか理解してるのか? いくら元が膨大だろうと、素人の魔力を強制的に吸い取ってみろ、心不全くらいなら普通に起こすぞ」

「これはこれは」

 グレンデルの顔に、嘲るような笑みが浮く。

「アルマデル、お前こそ何を吐き散らしているか理解しているのか? 魔法使いが魔力を求めずに、いったい何を欲しがるというのだ。ましてお前は──」

「黙れ!」

 アルマデルが叫び、背後に魔法陣を展開する。

「バルミエル! 南に住まい軍事を司る天使よ!」

 右手には剣、背には翼。アルマデルは翼を大きくはためかせ、ビルの屋上のグレンデルに向かって一直線に突き進んでいく。

 迫り来るアルマデルを、グレンデルは冷たく見返す。

「相変わらず話の通じない男だ。まあいい、久々に出来損ないを叩きのめすのも悪くない」

 右手を天に掲げて叫ぶ。

「『昼に照らされし夜』(ヌクテメロン)に記されし十一時の鬼神ゲニウス! 金属を支配せしロサビスよ! 切り離されし我が魂を苗床に、汝の力を現世に示せ!」

 グレンデルの胸から黒い粒子があふれだし、掲げられた右手に集まって身の丈ほどもある漆黒の八角棍に姿を変える。

 アルマデルが肉薄する。

「はああああああああああっ!」

 気合一閃、アルマデルは渾身の力と魔力に、生身の人間では不可能な翼の加速度を乗せて、横薙ぎに剣で斬り上げる。

 白銀の軌跡を残して襲いかかる刃を、グレンデルは軽快に振り回す棍で軽々と打ち返す。

 ミサイルでもぶつかったような音がした。

 交差した武器の間から、反発する魔力の余波で生まれた衝撃が突風となって吹き荒れる。アスファルトに倒れ伏していた数人があおりを受けて吹き飛ばされた。

 必死に風に耐えながら、ビルの屋上で戦う二人を良子が見上げる。

 その視線の先、アルマデルにむかってお前の力はそんなものかと唇を上げるグレンデル。

 渾身の一撃を弾き返されて、しかしアルマデルは動揺しない。

 撃ち返された反動を羽ばたき一つで相殺すると、大きく右に回りこみながら再び白銀の剣を繰りだす。

 グレンデルが棍を握っているのは右手。どうしても左側への対応は遅れる。

 陸上での戦いならばむざむざ死角を取らせるヘマはしないが、相手が空を飛んでいるなら話は変わる。

 端正な顔に苛立ちが走った。

「……ちっ」

 とっさに左半身を引いて肩幅の広さに両手で握り直した棍で受け止める。今度は剣の勢いを止めきれず、数歩後ろにずり下がる。

 噛み合った剣に力を込めながらアルマデルは口を開いた。

「どうした? オレを叩きのめすんじゃなかったのか」

「舐めるな、この出来損ないが!」

 グレンデルの棍が魔法のような動きを見せる。拮抗した力点を維持したまま力を抜いて、蛇のように白銀の剣に棍を絡みつかせながらアルマデルを襲う。恐ろしいことに、グレンデルは魔法を使わず耐術だけでこの一連の動作を成した。

「!」

 迷わず羽ばたいてアルマデルは後方に飛ぶ。

 鼻先を焦がした棍の先端が名残惜しそうに揺れた。

「バルミエル!」

 今度はアルマデルが叫ぶ。同時に輝く魔力が放出されて、グレンデルの周囲に十数本もの刀剣が現出する。

「──行け!」

 一瞬のタイムラグを置いて、次々と剣がグレンデルを襲う。

 グレンデルは冷静な表情を崩さず、至近距離から襲いかかる剣を順番に叩き落としていく。

 ただ直進するだけの剣など何本あってもグレンデルには届かない。それはアルマデルも理解している。だから本命は襲いかかる刃の壁の後ろから魔力を乗せて切りかかるアルマデルの剣。

 当然グレンデルは読み切っている。

「甘いんだよ!」

 防御を捨てた斬撃が彼の体に届く前に、必殺の突きがアルマデルの頭を打ち抜く。

 頭部の吹き飛んだアルマデルの体がぐにゃりと歪曲し、幻影となって消え失せる。これも牽制だ。

「なんだと!?」

 読み切っていたと信じていたグレンデルの顔が驚愕に歪む。

 ──ならば本命は?

 鋭い風切り音と共に、死角からのアルマデルの剣がグレンデルのいた空間を薙ぎ払う。

 その刃が届くよりコンマ数秒だけ速く、グレンデルは迷わず体をビルの屋上から虚空にむかって投げ出した。

 地上十数階のビル。高さは少なく見積もって40メートル。

 そんな場所から飛び降りれば、どう足掻いても命が助かる方法はない──普通の人間ならば。

「ミズギタリ! 鷲を支配せし七時のゲニウスよ!」

 グレンデルの体から黒い魔力があふれだすと、それは翼の形となって背中で物質化する。

 黒い翼が一度羽ばたくと、グレンデルの体は本物の鷲より遥かに優雅に宙を舞う。

 しかし、それを見逃すほどアルマデルは間抜けではない。

「炎を司る天使アルダエルよ!」

 虚空に開いた魔法陣から、炎の冠を戴く肌の黒い天使が現れ、アルマデルに重なるように消えていく。

 ラブホテルではナイフの柄を発熱させるだけに留めた天使の力を最大限に解放し、地上に何十本もの火線を降らせる。火線は無差別に地面に倒れた人間を巻き込みながらグレンデルを襲うと思われたが、すべてが見えない鏡に反射したかのように空中で鋭く屈折し、赤いジャングルジムを形作りながら逃げ場のないグレンデルに収束していく。

 しかし、この追撃を予見できぬほどグレンデルは無能ではない。

「スクラグス! 九時のゲニウスにして火を支配する者よ!」

 振りかえったグレンデルの胸から、牛の頭を持った黒い人影が這い出してくる。その人影が右腕を上げると、火線は急激に角度を変えてその掌に吸いこまれていく。

 それを見届けるまでもなく、アルマデルは身を翻して一直線にグレンデルの胸に剣を突き立てるべく急降下していく。魔法では常にグレンデルが一歩アルマデルの先をいく。そんなことは最初から分かりきっている。なにしろ長いつき合いだ。

 急降下するアルマデルを見て、グレンデルの口元に笑みが浮く。

「信奉者に破滅をもたらす窃盗の王、悪の天使ダイモーンバリサルゴンよ! 私の魔力と血肉と魂を汝の新たな苗床とせん!」

 突き出す腕から何本もの半透明の黒い触手が伸びていく。触手は振り払われる白銀の剣をかいくぐり、アルマデルの背中の翼にからみつく。

 次の瞬間、黒い触手は翼を固定する障壁を突き破り、翼を構成している魔力構造を根こそぎ奪った。

「…………!」

 翼を失い、重力に囚われるアルマデル。

 地面がものすごい勢いで近づいてくる。

 たとえ今から新しい翼を構成しても、勢いを殺しきれずに地面に激突するのは確実。

 軽く見積もってもダンプカー直撃クラス。死にはしないが、死なないだけで確実にグレンデルの追撃でやられる。

 ならば……

 歯を食いしばり、強大な魔法の反動に備える。

「力を司る天使、“神の腕" ゼルエルよ!」

“智天使" クラスの召喚。正気の時には絶対に使わない大魔法。

 極限まで出力を絞っているとはいえ、魔力の消耗はすさまじい。海底に押しこめられたような窒息感と圧力が全身を遅い、毛細血管の各所から血が流れだす。

 太陽のような光が一瞬周囲を照らしだす。

 夜空に半径数十メートルに及ぶほど巨大な、しかしミクロン単位で精密な魔法陣が現れて、そこから現れた一粒の光がアルマデルの中に吸いこまれていく。

 自由落下するアルマデルの反対方向に、スペースシャトル打ち上げのような急激な圧力がかかる。

 相反する二つの力がアルマデルを蹂躙する。内臓が引き裂かれるような強力なGと魔力欠乏が、発狂しそうな苦しみを脳に刻み込む。

 一瞬だけ気を失ったあと、アルマデルはアスファルトに両足をついて立っていた。

 口にたまった血を吐き出して口元をぬぐうと、赤く染まった目で前方に浮かぶグレンデルを睨む。

 驚いたような呆れたような顔を見せると、グレンデルは地面に降り立って漆黒の翼を消した。

 変幻自在のグレンデルの棍は、地に足をついてこその技。宙では逆に攻撃の軌道が限られてしまう。対するアルマデルは、今の魔法でかなりの魔力を使い果たしている。防御に使わされる魔力を考えれば空などとんでいる余裕はない。

 二人は同時に大地を蹴った。

 激しい音を立ててぶつかり合う二つの魔法金属。

 再び魔力が衝突する。しかし今度は互角ではなく、アルマデルが押される。

 魔力欠乏の影響だ。

 突き、払い、打ち込み、棍の両端を駆使した変幻自在の嵐のような攻撃がアルマデルを襲う。一撃の威力を犠牲に、手数を増やす戦法だ。

 頭を狙ったなぎ払いを打ち返すと、構え直す間もなく突きが胸元を狙う。柄尻でぎりぎり叩き落とすが、続いて放たれた一撃を回避できずに右の太股に食らってしまった。

「────くっ」

 肉をごっそり抉られたような衝撃が走る。体勢を崩したところに襲ってくる。雨のような連撃の突き。

 頭、みぞおち、水月。急所だけはなんとか守るが、どうしても隙が生まれる。グレンデルは縫うように正確にその隙を抉りだす。その度に物理的な衝撃と、悪意をたっぷり乗せた魔力がアルマデルの体を貫く。

 このままではやられる。

 アルマデルは一瞬だけ、すべての防御行為を捨てた。

「アンビエル──鳥を司る天使!」

 額に食らった一発に耐えて、新しい天使の名をぶ。

 アルマデルの背から今までよりも大きな翼がふぁさ……っと広がり、純白の羽根を吹雪のように視界一面にまき散らす。

 簡単な幻術。グレンデルは一目で見切った。

「十時のゲニウス、幻影を支配するマスト!」

 グレンデルの体から溢れるオーラが無数のピラニアの形を取って、吹き荒れる羽根に次々と食いついて消し去っていく。

 羽根の吹雪はコンマ五秒と保たずに食い尽くされる……しかし消え去った幻影の向こうにアルマデルの姿はない。

「しまっ────」

 幻覚など打ち破らずとも無視すれば済んだ話だ。魔法ならグレンデルが上を行く。その心理を狙い撃ちにした単純なフェイント。

 次の瞬間、不可視の魔法を解いたアルマデルが背中からグレンデルの胴に横からの一撃を放つ。

 もう避けることも武器で受け止めることもできないタイミングの一撃。

 グレンデルは加工していない生の魔力を体と刃が触れる一点に凝縮。刃はマントを切り裂いて胴にめりこむが、凝縮された魔力に阻まれて体を切り裂くことはできない。

 しかし、武器の運動エネルギーとアルマデルのなけなしの魔力はすべてグレンデルに叩き込まれる。

「──が……は……ッ!」

 体をくの字に折り曲げ、端正な顔を歪ませて透明な唾液を吐き出す。

 棍を支えにかろうじて立つその無防備な背に、アルマデルは追撃──をかけられない。

 まるで自分が殴られたように膝をつき、大量の血をアスファルトに吐き出す。魔力の欠乏を感知して指輪が異界の魔力を送りこんでくる。

 やがてアルマデルが立ち上がったとき、グレンデルは5メートルの距離が棍を構えてアルマデルを見ていた。

「──余裕のつもりか」

 怒りに燃える目で睨むと、グレンデルはふんと鼻を鳴らした。

「あいにく、今のは単に私が休みたかっただけだ。だがこれ以上、出来損ないに大きい顔をさせるのも気にくわない──終わらせてもらうぞ」

 そう言って、グレンデルが手にした棍を投げつけてくる。

 ──そんな攻撃が通じるかっ!

 アルマデルは冷静に飛んでくる棍を見据えて、剣で弾き飛ばす──その直前。

 棍が弾けた。

 無数の鋭い漆黒の金属片がアルマデルに降り注ぐ。とっさに顔をかばったアルマデルの魔道服の防御を破って、魔力の籠もった鋭い破片が次々と肉に突き刺さり、激痛を後に残して空気に溶けて消えていく。

 一体化している天使の霊が力を治癒に回そうとするのを拒絶。

 再び生み出した棍を手に襲いかかってくるグレンデルを迎え撃つ。

 グレンデルは先ほどまでのような手数に頼った攻撃ではなく、一撃一撃に必殺の力を込めた打撃を放ってくる。傷ついた体にはこれが一番辛い。

 たちまち防戦一方になる。

 強い魔力を込められた棍の一撃は、打ち払うにも多くの魔力を消費させられる。

 アルマデルの貧弱な魔力などすぐに枯渇し、丸裸に──

 ──ならなかった。

 周囲の魔力濃度がわずかに、だが明らかに上昇し、回復力が増している。天使を呼べるほどではないが、攻撃を物理的に弾き返すだけの量ならば、足りないながらも補充ができる。

 原因は──良子。

 良子には自分の魔力でアルマデルを回復させようという発想はないのだろう。しかしそれでも、心配で恐怖を押して近くまで様子を見てきているのだ。

「……ふむ」

 グレンデルが、不快な視線を車の陰から顔を出している良子に向けた。

 アルマデルは舌打ちして、グレンデルの視線を遮る位置に飛びこみ、かばうように剣を構える。

 それを見て、グレンデルは不機嫌そうな笑いを浮かべた。

「──いいだろう。今度こそ終わらせてやる」

 そうつぶやくグレンデルの声は、先ほどとは明らかに異なっていた。

 棍を魔力に還元し、突風に変えて周辺に倒れている人影をすべて吹き飛ばす。呪文を唱えながら胸の前で指を組んで複雑な印を形を変えながら連続して切っていくと、グレンデルの周辺のアスファルト上に無数の小型魔法陣が展開されていく。

 クロウリー・ヘキサグラムを機軸にした魔法陣の中には神代より長い時を経て洗練された現代の魔法文字がスタイリッシュな鋭い輝きを放っている。

 古の魔道王テオクラフトが発明した詠唱結界である。

 無数の地雷型魔法陣が上を横切るものをすべて打ち落とし、その間に術者は長い詠唱を必要とする魔法を唱える。

 古代から伝わる典型的で効率的な詠唱防御。

 グレンデルはポケットからビー玉ほどの黒い石を取り出すと、一息に握りつぶした。その瞬間、黒い魔力が滾々と湧き上がる。触媒の破壊による魔力ブースト。本気で殺す気になった、という意味でもある。

「ソロモンに封印されし72の悪魔の一柱。序列23位の地獄の侯爵、26の軍団を指揮し、三つの首を持つ松明掲げし者よ……」

 その詠唱にアルマデルが目を剥く。

「ソロモンの魔神──アイムだと!? グレンデル、貴様この辺一帯廃墟にする気か!?」

 グレンデルは詠唱を休めず、挑発する目線で答えた。「その通りだ」と。

「こっの……馬鹿がっ」

 アルマデル叫ぶ。

 太古から伝えられているこの詠唱結界は、当然ながら弱点も研究され尽くしている。

 アルマデルは剣を一対の弓矢に変えると、天に向かって絃を引き絞り、はるか頭上へと矢を打ち放った。

 矢は鋭い放物線を描いて上昇し、やがて上空で頂点を迎える。落ちてくる矢が分裂にして二本になり、四本になり、八本となり、数えきれないほど増殖して無数の魔法陣とその中心にいるグレンデルの上に降り注ぐ。

 この詠唱結界は上を横切る物には強いが、縦方向の感度は低い。魔法の矢は半数近くが撃墜されたが、残り半分は白い軌跡を描きつつグレンデルを襲う。

 グレンデルは動揺も見せずに振ってくる矢の雨を冷たい瞳で見上げると、袖から先ほど握りつぶした触媒と同じものを落し、右足で踏み砕く。

 異様な赤い光を放って魔法陣が暴走する。無数の魔法陣から激しい火柱が上がり、降り注ぐ矢を焼き尽くしていく。

 そんな猛烈な炎の中、グレンデルは火傷一つ負っていない。それは彼が召喚しようとしているものが火の魔神だからである。燃えさかる紅蓮の中、それは次第に毒蛇に騎乗した姿を現し始める。あらゆるものを焼き尽くす炎の魔神が。

 指輪に意識を集中して魔力を引き出す。

 傷口から血が吹き出して鋭い痛みが全身を駆けめぐるが、そんな程度で鈍るような判断力は持ち合わせていない。

 ……強大な魔法を打ち消せるのは、より強大な魔法だけ。

「“天災" の名を持つ処罰の七天使! 死の門を統括するマカティエル!」

 アルマデルの足元に巨大な魔法陣が現れ、爆発的な白光が周囲に溢れる。

「我が身に宿りて地獄への門を解き放ち、炎の魔神を地の底に送り返せ!」

 足元の魔法陣がフラッシュアウトする。まさに現出を終えようとしている、毒蛇に乗った三つの首を持つ炎の悪魔の直下に黒いゲートが開く。

「!」

 声にならないグレンデルの驚愕。

 黒いゲートから何本もの鎖が伸びてアイニに絡みつき、ゲートに引きずりこもうとする。召喚主からの魔力の支援を受けてアイニがもがく。しかしゲートに引きこむ鎖の力がわずかに強い。

「……………………!」

 人間には知覚できない声を振り絞ってアイニが叫ぶ。

 鎖に抗う魔神の力が急激に上がる。現出が終わりに近づくにつれて身にまとう炎の火力か勢いが増して魔法の鎖を溶かし、ひび割れさせる。

「マカティエルの半身、ラハティエル!」

 アルマデルの体から、直視できないほどの光が迸る。

 同時にゲートから十数本もの新たな鎖が飛び足してアイニをからめ捕り、抵抗をねじ伏せてゲートの奥に引きずりこんだ。

「死の門よ閉じろ!」

「…………………………………………!」

 声にならない絶叫を後に残してゲートが消える。

 しかしそれを見届けることもできずにアルマデルはアスファルトの上に倒れこんだ。

 良子から届く魔力も指輪から供給される魔力も追いつかない。本当の限界。これ以上、ほんの少しでも魔力が減ればたちまち指輪の主の天使に体を奪われる。

「出来損ないにしては頑張ったじゃないか」

「く……貴様……っ」

 肩で息をしながらも笑みを浮かべて近づいてくるグレンデルをかすむ目で見上げながら、アルマデルは自分がグレンデルの策にはめられたことを理解した。

「誠二くん!」

 倒れたアルマデルに良子が駆け寄ってくる。

「ば……馬鹿、くるなっ」

 アルマデルの声を無視して、かばうように両手を広げてグレンデルの前に立ちはだかる。

 グレンデルは唇をつり上げて、アルマデルではなく良子に近づいていく。

 良子の体が恐怖に震える……しかし逃げない。

「いい覚悟だ」

「待て……っ」

 血を吐きながら制止するアルマデルを無視し、グレンデルは良子の胸ぐらを掴んだ。

「サリルス……七時のゲニウス。我が望む場所に扉を開け」

 黒い魔力が二人を包み、もともと誰もいなかったように消え失せる。

「く……そ……」

 アルマデルは倒れ伏したまま、必死に意識をつなぎ止めて二人の消えた虚空を睨んだ。



 刹那の浮遊感が終わると、見覚えのない部屋にいた。

 良子はあわてて周囲を見まわす……おそらく、近くの高層ホテルの一室だろう。見下ろす夜景に、先ほどまで誠二たちが戦っていたオフィス街の灯が混ざっている。

 部屋自体はいつかのラブホテルとは違う、普通のシングルルーム。一般サイズより大きめのベッドの向こうに、バス付きトイレにつながる扉がある。

「性魔術と聞いて、お嬢さんはなにを思い浮かべるかな?」

 振り向くと、薄暗い部屋の中から染みだしてくるような黒い影。

 ──グレンデル=ガンド。

「有名なのは、性行為の快感が悟りや解脱への近道となるという考え方だな。魔法使いの中にもそんな思想を持つ輩がいないでもないが、もっぱら新興宗教の修行などで用いられる。基本的に魔法使いにとっては専門外だ」

 グレンデルはゆっくりと近づいてくる。思わず後退する──が、すぐに壁に背中があたる。

「もう一つは、接触・感染魔術の応用として使われる。接触・感染魔術というのは、要は触れ合うことで相手に魔力を送りこんだり、受け取ったりする魔法のことだ。たとえば気持ち悪い物に触れてしまった時、他の人間に穢れをこすりつけたくなるだろう? あるいは、映画ではよく触れることで呪いや祝福をかけたりするだろう? 他にも抜けた髪の毛を使って呪いをかけるのは有名だが、抜けていない髪の毛を使えば、もっと有効に呪いをかけられると思わないか?」

 肯定も否定もせず、じっと良子はグレンデルの深い瞳の奥を見つめた。

「そして、より直接的な接触方法を追及した結果の一つが性魔術だ。服の上からより、皮膚に直接。同じ皮膚でも、より薄い、魔力的な抵抗の低い、魂に近い場所。そんな場所を介して、より効率よく直接相手に魔法をかける手段の一種だ。神経の集まる生殖器が昔から注目されてきたせいで性魔術と呼ばれているが、純粋に効率の面から言えば生殖器よりいい場所はいくらでもある。直腸や鼻腔なんかも上位にくるが、私の経験上、もっとも効率がいいのは口と口──キスだな」

 その言葉に、良子はとっさに唇をかばった。

 くすり、とグレンデルの顔に微笑みが浮かぶ。

「さて、ここで基本に帰ってみよう。

 性魔術を使う目的とはなんなのか。単に危害を加えるだけなら、わざわざ手間をかける必要はない。こんな手段をとるだけの理由というものがある。たとえば相手を支配したり、呪いをかけたり、深層心理をのぞいたり、といったようなものだな。

 しかしもっともよく使われるのは、房中術と呼ばれる形でね。簡単に言えば、自分の魔力や精気を性的に触れ合う相手に与えたり、逆に吸い取ったりすることだ。

 本来は同意を得られない人間を相手にすると抵抗力とかいろいろと面倒なのだが……魔法も使えない一般人相手なら、どうとでもなる」

 これからなにをされるか悟り、良子の顔が青ざめる。

「ダメだよ、そんなの絶対ダメ……魔力なんていくらでもあげるから、キスだけは許して」

「普通は、一般人でも魔力を吸い取られることのほうに抵抗感を示すがね」

 グレンデルが呆れたような表情を見せる。

「アルマデルの時といい、お嬢さんはキスになにか激しい思い入れや、深い過去があるらしい」

 必死に首を振って肯定する。そんな良子をグレンデルは冷たく見下ろす。

「だが言っただろう? そんなものは──どうにでもなると」

 たまらず良子は逃げ出した。しかし突然目まいが襲い、足から力が抜けていく。

 座り込んでしまった良子をグレンデルが優しく起き上がらせ、腰の後ろに手を回す。

 顔が急接近した。

 背中を逸らして逃げる──しかしグレンデルの顔が追いかけてくる。

 グレンデルは優雅に良子のあごに人差し指をあて、顔を上向かせて鼻と鼻とが触れあう距離から瞳を覗きこんでくる。

 浮き世離れした美貌のせいで、そんな気障きざったらしい仕種が悔しいくらいよく似合う。

「この……っ」

 動かない体に力をいれて、目の前の男を引っぱたこうとする。

 ぱしっ。

 そちらに視界を向けもせずに良子の右手を受け止めると、グレンデルは笑みを浮かべた。冷たい、獲物を支配するような笑み。

 そして良子の耳元に口を寄せると、愛の言葉をささやくように言葉を紡いだ。

「ファルズフ……姦淫の鬼神よ」

 とくん、と胸が高鳴った。

「なに……これ?」

 こみ上げてくる恥ずかしさと嬉しさで顔が熱くなる。きっと、リンゴみたいに真っ赤になっているだろう。

 根拠のない不安と幸福感が脳を駆けめぐる。心臓がどきどきと鼓動を奏でる。

 まるで恋人の新しい服を褒めるように、新しい髪形が似合っていると告げるように。

 グレンデルのさらなる言葉が良子の赤く染まった耳朶をくすぐる。

「タブリビク、魅惑を支配する五時の鬼神。タブリス、自由意思を支配する六時の鬼神。ヤゼル、愛の強要を支配する七時の鬼神」

 一言ごとに、幸せがびくんと体を震わせる。

 良子の意思などお構いなしに目の前の男への愛しさが次から次へとわき上がる。

 彼にすべてを奪って欲しい。心の底まで支配してほしい。

 彼のことしか考えられない。

 恋とはこんなものなのだろうかと、最後に残った脳の冷静な部分が考える。

「色欲を支配するアルミルス。十時の鬼神よ」

 最後の砦を突き破る声が静かに脳に染み渡る。

 もう、どこまでが自分の意思で、どこまでが強制された感覚なのかわからない。

「いやあ……やあああ……ああ……」

 今までに感じたことのない愛欲の衝動が胸の奥から沸き上がる。

 両手が自然にプリーツスカートのホックを外し、ジッパーを下ろす。

 すとん、という音を立てて布切れが床に落ちる。

 しかしグレンデルはそれだけでは許さなかった。

 冷たい言葉が新しい魔法を放つ。

「ハティファス。衣装を支配するゲニウス」

 ぷち……という残酷な音がして、シンプルな白いブラウスのボタンが弾ける。さらに断裂音がして、薄い緑色の上下の下着が支えを失って地面に落ちた。前が開いた丈の長いブラウスの間から細い首筋が、なだらかな胸の谷間が、若い引き締まった腹が、形のよい臍が、その下の淡い陰りがルームライトに照らされる。

 頭の中が真っ白になる。強い衝撃を受けたときのような喪失感を伴う白さではなく、様々な感情や感覚が混ざり合った白だ。

 良子はついに鼻を鳴らして泣きだした。

「安心して私に任せろ。決して悪いようにはしない」

 あの夜のアルマデルと同じ表情で、同じ言葉をささやいてくる。もはやどちらがアルマデルでグレンデルなのか区別がつかない。

「……瞳を閉じろ」

 彼の言葉がごちゃごちゃになった良子の胸に優しく、温かく染みこんでくる。

 心が幸福感一色に塗り替えられていく。

 まるで自分から求めるように唇を上向けてしまう。すっきりと筋の通った男の顔が、覆いかぶさるように近づいてくる。

 そして唇と唇が触れ合う────

 ぱちん。

 その直前、良子の右手がグレンデルの頬を張った。

 大した力ではない。しかし驚き呆然とするグレンデルを、泣きそうな顔で睨みつける。

 やがてグレンデルの顔に、歪んだ笑みが浮かんだ。

「気に入った」

 それまでの作り物じみた冷たい笑みではなく、心からの笑みで良子を見つめる。

「アルマデルほどではないが、お前も気に入った」

 涙をいっぱいに浮かべた目で見上げている良子に告げる。

「だから、傷つけてやる。力ずくで奪ってやる」

 良子を抱きしめる腕に力がこもる。

 もう抵抗できる精神力は残っていない。顔を背けることすらできない。

 ついに良子は涙を流す瞳を閉じた。

「いい子だ」

 グレンデルの気配が顔に近づいてくるのを感じる。

 そして、母さんの魔法が無残に壊される、その瞬間が──


「やめなさい」

 静かな声は、突然響いた。

 目をむけると、金髪の小さな女の子が部屋の隅から歩み寄ってくる。

「ミナ……ちゃん……?」

 人影に視線をむけて、グレンデルは「ふむ」と声をあげた。

「……どうも人間ではないようだが、私になにか用かな? 見てのとおり取りこみ中でね。お嬢さんも抱いてほしいのかな? 私は別に外見が小学生だろうとそれ以下だろうと気にしないが、順番だけは守ってもらいたいな」

「どうしてそんなやり方をするの?」

 グレンデルの言葉にも動じず、ミナが問いかける。

「そんなことをしても、誰もグレンデルの真意になんか気づかない。なんでわざわざそんな方法を選ぶの?」

「ふむ。さしずめどこかのアストラルから投射された弦影体といったところか」

「忠告してあげる。グレンデルの魂は、まだ救われる資格がある。まだ踏みとどまれる」

 なるほどな、とグレンデルは頷いた。

「人間の善悪を審判する天使様というわけか。──実体もない影の分際で、私を止めようと?」

 少女の声は静かだった。

「ミナは止めない。ただ見ているだけ。それがミナの仕事。それ以外のことをしないのも仕事。本当なら忠告だってルール違反」

「ならば、そこで指をくわえて見ているがいい!」

 グレンデルは胸を張って天使と向かい合う。

「これこそが人間に与えられた特権。人間だけが認識し、人間だけが想像し、人間だけが行使できるもの。地獄の眷属がなにより欲しがり、必死になって人間を誘惑して手に入れようとするもの。すなわち……悪だ」

 ミナの声は最後まで淡々としてた。

「そう。だったら早くするといい。もうじき彼が来る」

「彼? ……まさか」

 グレンデルが鼻で笑う。

「アルマデルの出来損ないは、今ごろ冷たいアスファルトの上で自分の無力さと惨めさを噛みしめているところだ。生命機能の維持に手一杯で魔法を使う余裕などないし、よしんば立ち上がれたとして、どうやってこの場所にたどりつく」

「アルマデルとグレンデルは、お互いを過小評価しすぎてる。そんなことを言ってる間に……ほら」

 シティホテルのシングルルームに突如魔力波が吹き荒れ、強烈な時空の歪みが口を開く。

「空間転移!?」

 驚愕の叫びを上げるグレンデル。

 すとん、と軽い音を立てて、時空の歪みの中から黒いマントのアルマデルが床に降り立つ。

「馬鹿か貴様は!? なんで生命維持の魔力を切ってる! そんな状態でそんな出力の魔法など、本気で死にたいのか!?」

 アルマデルはひどく衰弱し、青白い顔をしていた。魔力欠乏の影響で、目もまともに見えているのか怪しいほどだ。

 それでもグレンデルの腕の中で泣く良子を見て

「グゥゥゥゥレェェェェェェェンンンンンンデェェェェルゥゥゥゥゥゥゥ!?」

 呪うような声で、呆然と立ち尽くすグレンデルに近寄って、力ない拳で頬を殴りつけた。

 グレンデルはショックを受けたようにどさりと良子を取り落とし、殴られた頬に手を当ててあとずさる。

「サ……サリルス」

 逃げるように、呆然とした顔のまま空間転移の魔法を行使する。

 いつの間にか、ミナも姿を消している。


 残されたのはアルマデルと良子、そして良子のすすり泣き。

 アルマデルはぺたんと座りこむ良子に手を差し伸べた。

「もう大丈夫だ。ほら……立てるか?」

 跳ね上がるように、良子が誠二の胸にしがみつく。

「おいおいどうした、そんなに怖かったのか」

 おどけて言うアルマデルに、良子が訴えかける。

「……助けて」

「安心しろ、グレンデルの奴は消えた」

「そうじゃないの! ──分かってるでしょ!? あたしの体が今どうなってるか!」

 確かに分かっていた。強制的に発情させられている。

 だがしかしそれは、時間が経てば自然と収まっていく類のものだ。

「おい、しっかりしろよ」

「もう無理なの! 我慢できないの! その……好きにしていいから」

 わずかに口ごもりながら、しかし必死で訴えかける。

「誠二くんならいいから。初めてだけど、辛くても我慢するから。優しくなんてしなくていいから」

 アルマデルにしがみつく腕に力が入る。

「今誠二くんがしてくれなかったら、きっと一人でしちゃうから。そんなのヤだから」

 潤んだ瞳、乱れた吐息。若々しい、しかし中学生とは思えない艶めかしさで、胸の中から良子が見上げる。

「……だから、たすけて。メチャクチャにして」

「──わかった」

 意を決し、アルマデルは答えた。              -

「……あ……」

 良子の口から嬉しそうなつぶやきが漏れる。

「──瞳を閉じろ」

「ん……キスだけは駄目……」

 そう言いながら、良子は従順に瞼をおろした。


 誠二だったらかまわない。

 この動悸を、体の火照りを、速くなんとかしてほしい。

 もう耐えきれない。

 そんな想いが伝わったのか、誠二が背中と膝に腕を回して自分の体を持ち上げるのがわかった。

 ……このまま、ベッドまで運んでく気だ。

 そう思った。

 しかし、すとんと落された場所はベッドなどよりはるかに硬かった。

「え?」

 思わず瞼を上げると、目の前にシャワーのノズルがあった。

 次の瞬間、シャワーヘッドから氷のように冷たい水が勢いよく吹きかけられる。

「え……きゃ……っきゃああああああああっ!?」

 なにがなんだか分からない。燃えるように熱い体と冷たい水が脳をぐちゃぐちゃにして、暴れる頭を誠二が上から押さえつけてさらに冷たい水流を顔に浴びせる。

 良子が理性を取り戻したのは、それから数分後のことだった。

「あ……あ……きゃあああああああああああああああああっ!」

 冷静になった瞬間、今の自分の格好と、アルマデルに見せた痴態を思い出す。

 頭がどうにかなりそうだった。

 叫びながら、とっさに近くにあったバスタオルを体に巻き付けてシャワールームから飛びだす。

 自分の格好も省みず、外に出ようとドアノブに手をかけたところで──

 どさり。

 バスルームで人の倒れる音がした。

 恥ずかしさでおかしくなったはずの頭が一気に冷える。

「誠二くん!?」

 慌てて駆けこむと、誠二がバスタブに頭を突っこむように倒れていた。

 鉛の塊を呑みこんだような重苦しさが良子の胸にのしかかる。

 誠二は自分を守るためにこんなに傷ついてしまったのだ。

 ──また、彼を残して逃げる気なの?

 心の中のもう一人の良子が問いかけてくる。思い出すのは親友を優先させて瀕死の誠二を見捨てて帰ったあの日の記憶。

 意識のない体を抱き留める。体温の異常な熱さに思わず顔が青くなる。しかしいくら良子の顔が青ざめようと、まるで精気の残っていない誠二の顔には及ばないだろう。

 原因ははっきりしている。

 魔力の欠乏。

 そしてここに大きな魔力の塊があり、接触によって他人に魔力を与えることができるのを知っている。

 恥ずかしがってなどいる暇はない。

 良子は誠二を抱きかかえ、半裸を隠そうともせずベッドの上に引き上げた。

 安らかとはほど遠い寝顔。

 黒を基調にした誠二の服を脱がせると、迷わず背中から抱きついた。

 そのまま10分、20分が過ぎていく。

 ひょっとして遅すぎたのでは──

 そんな考えが脳裏に浮かんだころ、ようやく誠二の呼吸が落ち着いてきた。

 良子は意外と筋肉質の背中から離れ、誠二の枕元に正座して、むき出しの膝に頭を乗せた。

 うなされる誠二の額に手をあてて、こまめに汗を拭き取っていく。一時間もそうしていると、だいぶ誠二の顔に赤みが戻ってきた。

「もう帰るからね」

 誠二の顔を見下ろして、良子は言った。

「もう少しだけ落ち着いたら、本当に帰るからね。明日も学校なんだから」

 そんなことを何度となくつぶやきながら、次第に穏やかになっていく呼吸を耳に、良子は朝まで誠二の寝顔を見守り続けた。

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