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1.アルマデル=セイズ   <天界の贄>

 長時間の説教に耐え、陰鬱な気持ちで廊下にでると、悪友二人が待っていてくれた。

「お務めご苦労、兄弟よ」

 スキンヘッドの大柄な友人が投げたカバンを受け取り、天寺誠二はコキコキと首を回した。

「というか、なにやったんだ。たぶん創立以来この生徒指導室せっきょうべやに呼び出されたの貴様が初めてだぞ」

 眼鏡をかけた神経質な風貌の、もう一人の友人が訊ねてくる。

「万引きや恐喝くらいじゃ呼び出されないって有名だからな。強盗タタキ殺人コロシでもやらかしたのか、貴様」

 不機嫌さを隠さずに誠二は答えた。

「姉貴の詰め腹切らされたんだよ」

 私立・彩雲学園、高等部。放課後の校内は昼間とはうってかわって活気に満ちている。

 部活の喧騒をBGMに、大柄な友人が誠二に訊ねた。

「お前の姉さん、二人とも有名だからな、兄弟よ。どっちの姉だ?」

「オレが姉貴って呼ぶほうの姉貴だよ」

 苦虫を噛み潰したら思っていたより汁が多かったような顔で誠二が答える。

 まぁそうだろうな、という口調で眼鏡の友人が言った。

「貴様のもう一人の姉さんはそんなタイプじゃないしな。あの方が問題なんか起こすはずがない」

「それで、その姉貴とやらはなにやったんだ、兄弟よ」

「あの野郎、近くの大学の学生で、研究室で研究してるだろ」

 さらに不機嫌さを増した声で誠二がつぶやく。

「実験で使う5億円くらいの機械、全力で蹴り入れて煙噴かせやがった」

「うあ……」

 友人二人が驚いたようなうめき声を漏らす。

「それはまた……剛毅だな」

「そもそも、なんでそんなことしたんだよ」

「オレが知るかよ!」

 眼鏡の友人の一言に、誠二が地団駄を踏んだ。

「あいつの頭の中なんて分かるか! どうせ虫が止まってたとか、そんなのだろうよ!だがもっと分からないのは、どうしてオレが姉貴の暴挙の責任とって怒られなきゃならないんだ!? ンなもん本人に言えよ! 百歩譲って親に話が行くならともかく、なんで普通の高校生が、まったく関係ない大学の性格ねじ曲がった教授どもにネチネチ説教されにゃならないんだ!?」

 誠二の叫びに、二人の友人が顔を見合わせる。

「そりゃ、なあ?」

「まぁ、そうだな」

 誠二がギロリと二人を睨む。

「なんの話だ」

「なんだ貴様、知らなかったのか」

 眼鏡の友人が肩をすくめた。

「地域ネットで有名だぞ? お前の姉貴にはいくらトラブルの責任追及しても効果はないが、弟を責めると改善されるって」

「誰だそんなデマ垂れ流すヤツ!?」

 耳から血でも吹き出しそうな勢いで誠二が叫ぶ。

「駄法螺吹くのもいい加減にしろよ!? マジで殺すぞ!? 首と両足切り落として内臓捨てて、中をよく洗ってから高麗人参その他薬味とモチ米詰めて、アク取りながら水で長時間煮こむぞマジで!?」

「そのサムゲタン、ニワトリで作ったら食ってやるから呼びにこい」

「くっそ、あの姉貴、思い出したら腹立ってきた。こないだなんか実験で使う材料切れたからって、ヤクザの事務所に乗りこんで金とプラチナ強奪してきたんだぞ!?」

「それオレも聞いたぞ兄弟。一人で何人もヤクザぶちのめしたって」

「マジだったのか」

「ああマジさ! しかも、あの時もオレが責任取らされたのさ! 今回は性格歪みまくってるとはいえ一般人だけだったが、あの時はスーツの中にマジチャカ吊るしたグラサンどもに路地裏で囲まれたんだぞ!? 本気で少しチビったわ!」

「それでどうなった?」

「決まってるだろ、謝ったさ! 命かけて土下座したさ! 姉貴も代金は置いてきたみたいだったから、少し蹴られたくらいで済んださ!」

「よかったな、飛んだり沈んだり埋まったりしなくて。運がいいぞ貴様」

「というか、金払うなら普通に買えって」

「オレもそう言ってやったさ! そしたらあの野郎『取引が速いのがいい。余計な税金もかからないし』とか答えてくれやがったさ! おまけに強奪した金塊は加工する技術ないから機械にセットできなくて結局漬け物石になってやがるし!」

「えらく豪華な漬け物石だな。金塊で漬けたらうまいのか?」

「知らねぇよ! あの野郎漬け物なんか作らないからな。そもそも家事なんか一切しやがらねぇ。学生の分際で結婚してるってのもアレだが、研究が楽しいからって学校入り浸りの実験三昧で主婦らしいこと何一つしてないらしい」

「まぁ、最近は共働きも多いしな」

「それにしたってあそこまで家庭省みないのはありえんわ! 義兄さんは人間できた人っていうか天然の一種だから『ぼくは自然なままの彼女に惚れたんだ。彼女は伸び伸び生きてくれれば、それでいい』とか言ってるが、家庭作っといてあれだけ好き勝手やってれば実家のほうが気を遣うっての!」

「貴様、案外苦労性だな……」

 眼鏡の友人が呆れたように肩をすくめる。

 下駄箱で靴を履き替え、校舎の外にでる。

「ん……なんだ?」

 普段より少し騒がしい。

 校門のあたりに人だかりができている。

「なぁ同胞、なにかあったのか?」

 大柄な友人が近くの生徒を捕まえて訊ねる。

 どうやら校門のところに、見慣れない制服を来た中学生が居座っているらしい。

「それが結構可愛い娘で、さっきから何人も声かけてるんだが、誰か待ってるみたいで相手してくれないって話だぜ」

 別に興味も沸かなかったのでふーんと聞き流して、誠二は校門に目をやった。まばらな人影の先に、確かに見慣れない小さいブレザー姿がいる。

 中学生にしてもずいぶん小柄だ。

 もう少しよく見てみようと近づいて──

 誠二の頬がひきつった。

「あいつ、まさか……なんでこんなところに」

 今日は風が強い。校門にはまだ距離があるし、つぶやいた声も小さい。聞こえるはずがないのだが、誠二の声が耳に届いたように少女はこちらを振りむいて、駆け寄ってくる。

 なにかの間違いでありますように。そう願う誠二の前でぴたりと足を止め、少女は言った。

「お久しぶり。二週間前はありがとうね、アルマデルくん」


「おい兄弟、どういうことか説明してもらおうか」

 逃げる間もなく、両サイドから肩を掴まれた。

 頭の中が真っ白になる。

 一般人への魔法の露呈。対応をミスったら消されるレベルの異常事態だ。

 ヤバいにも程というものがある。

 とっさに誠二は思いついたことを口にしていた。

「ハンドルネームなんだよ! こいつはこないだオフで知りあった……」

「そうなんですよ」

 たった一言で誠二を窮地に追いやった張本人は、悪びれもせず満面の笑みで嘘に合わせた。

「五年前に『悶絶ロリっ娘研究会』ってサイトのオフにお金もらって参加したんですけど、そこで優しくしてくれたアルマデルお兄ちゃんのことが忘れられなくて会いに来ちゃいましたっ」

「っだああああああ、お前もうちょっと考えて口開け! 最低でも場所だけは考えろ!」

 反省した様子もなく、えへへ、と小さく舌を出す少女。

 周囲の冷たい視線に気づいて誠二が叫ぶ。

「まてまてまて、おい、オレをそんな目で見るな!」

 しかし誠二を見る目は冷たくなる一方だ。

「おい、違うからな!? ホントに違うんだからな!?」

 必死に弁解する誠二の肩を、大柄なスキンヘッドの悪友がぽんぽんと叩く。

「兄弟よ、照れることはない。それ(ロリ)は自然なことなんだ。己の心に素直になるんだ。確かにこの子は過去はすごい美人だったろう。今は見るも無残な年増に成り果てているが、兄弟が5年前のこの子に燃え上がる愛を感じたとしても、それは少しも恥じることでは……」

「……年増?」

 良子の笑顔に亀裂が走り、次の瞬間右足がうなりを上げて男を襲う。

 しなやかなムチのような不意打ちの一撃を、まるで天地の法則を読み切っているように大柄な男はバックステップでかわしきる。勢いあまったローキックは誠二の足を直撃し、誠二は声にならない悲鳴をあげてうずくまる。

「……やはり年増は動きが鈍い」

 そう言いかけた大柄な男の頬に、

「この痴れ者がぁぁぁああああああっ!」

 眼鏡の男の渾身の右ストレートが突き刺さる。

「ふぐべらっ!?」

 奇声をあげて吹っ飛んだ大柄な男を見下ろして、眼鏡の男がびしっと指をつきつける。

「恥を知れ貴様! そんな変態志向が自然なことだと!? しかも貴様言うに事欠いて、こんな女の子に『女として年増』だと!?」

「そうだーそうだー」

 外野から歓声を上げる良子を一顧だにせず眼鏡の男が言葉を続ける。

「こんな30年後は有望そうな子とはいえ、今はまだオムツも取れてないような子供が恋愛の対象となりえたなどとふざけたことを! こんなガキ見てなにが楽しい!」

「キミもかっ!?」

 踵落しに似た縦方向の胴回し蹴りが男を襲う──しかし眼鏡の男は剣豪が頬の米粒を切らせるような見切りで半身を引くと、振り下ろされた革靴は地面にうずくまる誠二の脳天に直撃する。

 悲鳴を上げる間もなく、誠二は轟沈した。

 誠二が倒れたことでなにかのリミッタが外れたように周囲が騒然となる。

 ロリか、熟女か。幼なじみか、女教師か。メイドかナースか、姉か妹か。

 殴り合いを伴う論戦はまたたくうちに広がっていった。騒ぎを聞きつけ校舎や校庭から部活中の生徒が次々と現れ、乱戦に雪崩れこんでいく。

「少しはオレのこと心配しろよ……」

 地面に倒れたまま動けない誠二の声はあまりに小さく、誰の耳にも届かない。

 やがて混沌の中で派閥が生まれ、論戦は次第に集団戦へと変化していった。各派閥ごとに拠点を作り、「名無八幡大菩薩」「吶喊」の掛け声のかわりに自らが帰依する属性のキャラの名を唱えながら他の派閥に突撃していく。

 意外と少数派だった『ツンデレ』陣営と『メガネ』陣営は早々に潰しあって共に壊滅。逆に最弱勢力だった『熟女』陣営は、騒ぎを聞いて止めにきた男性教師の大半を吸収して戦力を激増させ、互角の戦いを繰り広げていた『ポニ-テール』と『無口』の両陣営の戦闘に奇襲をかけて両者を掃討することに成功。

 その一方で、

「お前……裏切ったのか!? 他の誰が裏切ろうとも、お前だけは最期まで『貧乳』陣営の同志だと信じていたのにッ!?」

「悪いな親友。時代は変わったんだ。これからは『つるぺた』が勝ち残る。いつまでも沈みゆく船に付き合えないのさ」

「馬鹿な……ッ!? よりにもよって『つるぺた』だと!? ありえん! 誰だお前をたぶらかしたヤツはッ!」

 No.2の造反により、中堅ながら侮れない実力を誇っていた『貧乳』陣営が壊滅。造反に裏で糸を引いていた『ツインテール』陣営が残存勢力の吸収にかかったが、トップ二人を失ってなお脅威の結束力を発揮した『貧乳』陣営による逆侵攻を受けて逆に白旗を上げる事態に至る。

 最大勢力を誇っていた『幼なじみ』陣営と『メイド』陣営の対決には以外な結末が待っていた。3度目の会戦の途中で誰かが叫んだ『幼なじみがメイドさんなら最高じゃないか』の一言で、全員が戦意を喪失。交渉の末に和解して戦場の全戦力の過半数を有する『幼なじみのメイドさん』連合が結成された。

 戦場に激震が走り、他の陣営の間に絶望感が流れたが、『幼なじみのメイドさん』連合の結成に不満を持っていた旧『幼なじみ』陣営の不穏分子の活動や、『ツリ目』派、『タレ目』派、『朝起こしてもらう』派、『朝起こしに行く』派、『敏腕』派、『ドジっ娘』派などの多岐にして無視できない派閥が誕生したことで生じた一瞬の空隙を、目立たずに着々と他の弱小陣営を吸収して力を付けてきた『ロリ』陣営に衝かれて空中分解し、派閥同士の争いの果てに自滅の道をたどった。

 一方、戦乱の流れは『男子ってバカだよねー』と高みの見物を決めこんでいた女子生徒にも波及した。

 軽い気持ちで誰かが始めた、様子をうかがうようなジャブの応酬から次第に『ショタ』系、『オジサマ』系、『近所のお兄ちゃん』系、『金持ちのお兄様』系、『スポーツマン』系、『スレンダー』系、『BL』系などの立場が鮮明になっていく。しかしこちらは男子のように派閥化したり暴力に及ぶようなことはなく、執拗な個人攻撃を含む陰湿な悪口での争いに終始していた。

 戦いは長期化し、周辺の住宅街から次第に野次馬が集まってきた。マスコミ関係者らしい専門的なカメラを持った人影も散見され始めてきた。遠からず警察が乗りこむ事態になるだろう。もう時間がない。

 戦場では激しい戦いを生き延びた『ロリ』陣営と『熟女』陣営が、最後の決戦を繰り広げていた。

「兄弟! お前には魂というものがないのか!? 赤いランドセルと黄色い帽子のレディに心ときめくものはないのか!? あの美しくも儚く、可憐な背中に、脳が溶けだした汁が耳から流れだすような感覚を味わったことはないのか!?」

 打ち下ろされる金属バットを弾き返しながら、眼鏡の男が大柄な男に叫び返す。

「黙れ変態! 貴様はもっと理性というものを持て! いいか、聖書の最初の三文字は“In the beginning”だ! これをアナグラムしてみろ! 『人類よ、おねーさんに萌えろ』と読み替えられるのが容易に分かるだろう! つまりこれは自然の摂理であり、神の意思でもあるんだよ!」

「原理主義者に爆弾送りつけられたいのか兄弟! おい誠二、お前もこいつになにか言ってやれ!」

「そうだ誠二、貴様もこの変態に人の道とはなんなのか説明してやれ! ん、誠二?」

 ふと気がつくと、騒動の発端となった二人の姿はどこにもなかった。



「へぇ~~。さすが高校生、いいお店知ってるんだね」

 警察の介入という新たな火種が投入されて暴動がさらに激く燃え上がるころ。

 学校での騒ぎを利用して衆目から逃れた誠二は、良子を連れて二駅離れた喫茶店に逃げこんでいた。

 のんきに感心する良子の前で、店内に流れる彩雲学園の暴動に関するラジオのニュースを聞きながら、誠二は頭痛をこらえるように目頭を揉んだ。

「あーくそ、どうすんだこれ……。精神操作系の魔法であんな騒動引き起こしたのバレたら、師匠に説教食らうレベルじゃ済まんぞ……。粛清部隊とかマジで勘弁してくれよ……。あーっ頭痛ぇ……」

 そんな誠二の心中を知ってか知らずか、のほほんと良子が訊ねる。

「アルマデルくん、大丈夫? さっき蹴られたところ痛いの?」

「この格好でいるときに、その名前で呼ぶな!」

 誠二が声を荒らげると、良子はそれまでの無害な中学生という仮面を捨て、年不相応な大人びた笑顔で声を紡いだ。

「わかった。誠二くんって呼べばいいね」

 その一言に、誠二の目が鋭く光る。

「なぜ知っている?」

「天寺誠二。私立・彩雲学園普通科2年生の17歳。性別は男。実家は貿易会社のオーナーで経営は順調。近くにお手伝いさん何人も雇うくらいの立派な実家があるのに、わざわざ学校のそばのアパートで一人暮らししてるのは、家族と仲が悪いのかな?」

 うかがうような視線を黙殺すると、気にした風もなく良子は続けた。

「成績は中の上程度、部活動には所属していない。素行は特に問題なし──夜の散歩が多すぎることを除いては」

 そう言って胸のポケットから一枚の写真を取り出す。荒いプリントに写っているのは、黒いマントをまとったあの夜のアルマデル=セイズ。明らかに誠二と同一人物である。

「いつ撮った?」

「あたしが気を失う寸前。この超小型改造デジカメで」

 良子が見せたのは現行の最小機種の半分程度、板ガム2枚程度の大きさの、しかし明らかにカメラとわかるレンズのついた電子機器。明らかに既製品ではない。市販品を改造したのか、一からパーツを組み上げたのか。少なくとも、普通の人間の持ち物ではない。

「……お前、何者だ」

「ただの中学生だよ? ただ叔父さんが探偵事務所の所長をしてて、よく手伝いに駆り出されるから、一通りの調査は自分でできるし、こんな特製の機械も貸してもらえるけどね」

「……ほう?」

 疑うように誠二の目が鋭さを増す。

 しかし良子は強気な笑みを崩さない。

 やがて根負けしたように誠二が視線をそらして鼻を鳴らした。

「それで?」

「それでって?」

 オウム返しに聞く良子に誠二は言った。

「お前の名前はなんていうんだよ」

「あたし?」

 驚いたように良子が自分の鼻を指さす。少し迷ったような仕種をみせてから、それまでの表情とうってかわったイタズラっぽい顔で聞き返した。

「──本名でもいい?」

 とりあえず、頭を一発殴ることにした。


「それで?」

「それでって?」

 また同じ言葉を繰り返す誠二に、良子は湯気がでている気がするコブを両手で押さえながら、涙目で聞き返した。

 どうもこの男、内に籠もりがちな所があるのか、よほど理解力のある友人に恵まれたのか、発言の一つ一つが短くて意を汲み取りにくい。

「その浅木良子とかいう探偵かぶれの中学生が、何の目的があってオレを呼びだしたんだ。

どうやら、単に礼を言いにきた訳じゃなさそうだが」

「あの夜のことは、本当に感謝してるの」

 この男に会いに行くと決めた時から覚悟してきた瞬間が訪れて、我知らず顔が真剣になる。その気配を察したのだろう、誠二の瞳から雑念が消えるのが視えた。

「でもそのお礼を言う前に、どうしても聞かなくちゃいけないことがある」

「断っておくが、魔法に関することは一切口外できないぞ。魔法でなにか助けてくれって話も聞けない」

「──分かってる。魔法が存在するってことはあの夜によく理解したし、魔法は公にしちゃいけないってことも分かった。……ニュースではみんなが倒れたのは麻酔ガスが漏れたせいってことになってたし、あれだけ派手に暴れてたのに現場にはアスファルトのひび割れ一つ残ってなかった。

 そんなことはどうでもいいの」

 良子は小さく息を吸って続けた。

「あの時、あたしが気絶したあと……キスした?」

 誠二の眉が不審気に寄せられる。

「していない。これでいいか?」

「勘違いしないでね? キミを責めにきたんじゃないの。命を助けてもらったんだし、あの後キミが意識のないあたしに、その、いかがわしいことしたって、なにこのヘンタイ、とか思うだけだし、一発ぶん殴るくらいで許してあげる」

「…………」

「だから、ちゃんと答えて。大事なことなの。あの時キスした?」

「していないと言っている」

「じゃあ、あの時あたしの上着をはだけて、なにしようとしたのよ」

「ただの応急処置さ」

「嘘」

 良子は言い切った。

「嘘じゃなくても、なにか隠してる」

 その言葉に、誠二は黙りこんだ──そのことが、良子の言葉が的を得ているという証明でもある。

「……っ!」

 良子は無言でテーブルに身を乗り出して、誠二の制服の胸ぐらを掴みあげた。

「……ふん」

 肉薄する良子の顔の前で、誠二が自信に満ちた笑みを浮かべる。あの夜と同じ、魔法使いの笑みを。

「いろいろ嗅ぎ回ってくれた礼に、お前もことも当ててやろうか」

「なに言ってるのよ」

 すごむ良子を鼻で笑って誠二は続けた。

「そうだな……小さいころから体が弱くて、病気がちだった。生後一年くらいは、それは大変だっただろうさ。命に関わるような大きな病気も、一度や二度じゃなかったはずだ」

「…………」

 良子は奥歯を噛みしめた。その通りだった。

「その代わり、運動神経はいいんだろうな。病弱だが運動ができて外見も悪くない。お姉様とか言われて、同性の下級生にモテるタイプじゃないのか?」

 これも当たっている。怒りの中にじわじわ染みだしてくる恐怖に耐えながら良子は言った。

「それがどうしたのよ」

 精一杯の抵抗。しかし魔法使いは意に介さない。

「それに……それだけあれば、余計なものが見えるんじゃないか? いろいろとな」

 今度こそ──今度こそ、沸き上がる寒気を押さえきれなかった。母親以外には誰にも話したことのない秘密。それを、この魔法使いは一目で見抜いた。

「だが、あの夜からは少しずつ、体の具合が良くなっているはずだ。発作の回数が減っているだろう。……どうだ、違っているか?」

 絶望感が全身で弾け飛ぶ。

 ──やっぱり、そういうことなんだ。

「あ……ああ……まさかほんとに?」

 青ざめた顔で後方によろめきながら、良子は右手を口をかばった。

 魔法使いの顔に『やりすぎたか?』という色がちらりと浮かぶが、それに気づく余裕は良子にはない。

「母さんの魔法が解けた……?」

 誠二の表情が、不意にいたわるようなものに変わった。

「少なくとも、お前が心配するようなことはしていない。それだけは信じろ」

 励ますような声が、逆に良子の怒りに火をつけた。

「ホントのこと言わせてやるから!」

 締め上げるように、すがりつくように、誠二の胸元を両手で掴む。

「いつか……いつか絶対に、ホントのこと全部言わせてやるから!」



「それで、どうしてオレが探偵のバイトに付き合わされるんだ?」

 喫茶店で別れてから3日後の土曜日。朝の散歩を決めこんでいた誠二は突然現れた良子に拉致され、彼女の探偵行為に同行させられていた。

「もう、さっきから何回も説明してるじゃない。なんで覚えないの」

「まったく興味なかったから聞き流してた」

 むー、と頬を膨らませる良子は、なんとも妙な格好をしていた。本人は探偵らしく変装しているつもりなのだろう。しかしインバネス・コートに鹿撃ち帽という、ホームズのコスプレのような服装がすでに変装の役に立っていないうえ、中学生にしても低すぎる身長やらコートの下の衣服やらが、いろいろなものを台無しにしている。

 探偵の仕事をする時は、毎回この変装をしているのだろうか。

 ふと、恐ろしいことを思いつく。

 ──オレの素行を調べてた時もこんな格好してたのか?

 こんな不審人物が自分の周囲をうろうろしてたのに気づかなかったのかと思うと、情けなさで涙ぐみそうになる。

「いい、今度はちゃんと覚えてよ? あたしの友達のユリちゃんがね……」

 実のところ、説明くらい聞いていた。

 要するに良子の友人のユリという人物が、評判の悪い男に引っかかってしまったので、デートを影から尾行して相手が本性を現した時にすぐ助けられるように、という作戦だ。

「あの男──川原宗田っていうんだけど、昔から仲間とツルんで何人もの女の子を身も心もズタボロにしてきてるのよ」

 中学生から高校生くらいの女の子を狙い、甘い言葉で近づいて親しくなったあと、デートの名目で誘い出して、仲間と共に乱暴した後そのことをネタに脅迫を続けるのが得意な手口らしい。すでに数回の犯罪歴と、その何倍もの被害者がいるという良子の調査結果がでている。

「それなのにユリちゃんってば、あいつの言葉を鵜呑みにして『彼はちゃんと更生したの。あとは自分が支えて、良子みたいな世間の色眼鏡に一緒に立ち向かって、社会の信用を取り戻すの!』とか言って、裏付けもバッチリなのに、あたしの言うこと聞いてくれないし! あんな札付きのゴロツキスト、警察に捕まったくらいで更生するわけないのに、ユリちゃんのバカ」

「……そのゴロツキストってのは、トロツキー主義者トロツキストとなにか関係があるのか?」

 ぐったりした気分で訊ねると、良子は「はあ?」という顔をした後すぐに哀れむような目つきになって答えた。「うん、そうだね。きっと関係あるよ。あたしは知らないけど」

「てめぇ……駄法螺吹くのも大概にしろよ」

 けっこうムカついたのでわりと本気で睨んでから誠二は続けた。

「というかオレが聞きたいのは、なんでオレが付き合わされてるのかってことなんだが」

「だって、男二人の友達連れの方が警戒されにくいじゃない。クラスの男子だとすぐユリちゃんにバレちゃうし」

「…………」

 良子の格好を上から下まで眺め回して、誠二は嘆息した。

「絶対に無意味だと思うんだが」

「大丈夫、キミはなにもしなくていいから。あたしに任せて」

 こちらの言葉が耳に入っているのかどうか、良子が断言する。

「……好きにしろ」

 呆れる誠二に、良子はちらりと鋭い視線を向ける。

「それに、油断してキミがあの夜のことをぽろっと話すかもしれないし」

 誠二は天井を見上げて「とんだ休日になったな」と重いため息をついた。


 やがて乗っていたバスが止まり、対象のカップルを追って誠二たちも下車する。

 楽しそうにしゃべりながら歩きだす男女の背中をじっくり眺める。青いサマーセーターに紺のスカート姿の、髪を腰までのばした女性が身を寄せるように男と腕を組んでいる。後ろ姿だけではなんともいえないが大人びた雰囲気がある。もし年齢を訊ねても、高校生と言われれば信じるだろう。

 そのユリの隣を歩く20歳くらいの男に目の焦点を合わせ、誠二は「ふむ……」と声をもらした。良子の調査も、そう馬鹿にしたものではないらしい。染め直したばかりの黒髪、無理に背筋を伸ばして『過去を反省し、更生しようとしている不良』を演じる姿の裏側に、確かにどこか危険な臭いが嗅ぎ取れる。

「それで、あいつらはどこに行くんだ?」

「えーと、ちょっと待ってね」と良子がぺらぺら手帳をめくる。「昨日ユリちゃんのメモ内緒で書き写したんだ」

「意外と探偵が板についてるな……それで、どこだ?」

「市民図書館だって」

 その言葉を聞いて、誠二は迷わず回れ右をした。

「なんでいきなり帰るのよ」

 逃げ出そうとする襟首を良子がつかむ。

「図書館は嫌なんだよ」なおも誠二は苦い顔で抵抗したが、

「往生際が悪いよ。もう覚悟決めちゃいなさい」

 と、結局は押し切られる形になった。

 すぐに小高い樹木に彩られた三階建て総ガラス張りの大きな建物が目に入ってくる。3年前に立て替えられた近代的な図書館は敷地面積5000平方メートル、延床面積4500平方メートルと、市民図書館としては全国有数の大きさを誇る。

「だいたい誠二くん、なんで図書館が嫌なの」

 入口で立ち止まり、良子が不思議そうに聞いてきた。

「ここの図書館、司書がすごい美人だって男の人に大人気じゃない。気取ったところがない家庭的で優しそうなお姉さんで、『普段はいっぱい甘えさせてくれて、たまに帰りが遅くなったらすごく心配してくれそう!』とか『悪いことしたら本気で叱って、でも最後に「大好きだからね」ってぎゅーっと抱きしめてくれそう!』とかクラスの男子もよく言ってるし。夢見すぎだと思うけど」

「……いや、おおむねそんな性格だ」

 誠二が答えると、「ふーん」と良子は疑わしげな目をむけてきた。

「詳しいんだね。だったらもっと嬉しそうにしなさいよ、そのお姉さんに会えるんだから。それとも小っちゃい女の子じゃないとダメ?」

「入れば分かるさ」

 そっけなく言う誠二。良子は別に気にした風もなく、入口のドアを開けた。

 天然光をふんだんに取り入れたエントランスでは、清掃業者のツナギを着た男がテーブルでコーヒーを飲みながら朝刊を広げてくつろいでいるのを尻目に、司書の制服を着たロングの髪が似合う20代中盤くらいの女性が熱心に床のモップがけをしていた。

 司書の女性は入ってきた良子を「いらっしゃいませ」と大人の雰囲気がただよう静かな微笑みで迎える。

 すごい美人だ。長身でスレンダー、しかし出ているべきところはしっかりと主張している。それでいてモデルのような、ある種独特の冷たさを感じないのは、穏やかで自然な物腰のせいだろうか。

 良子の背中がびくりと震える。おそらくは非の打ち所の無い美女の包容力ある笑顔に見とれてしまい、次の瞬間「どこか一カ所でも勝っているところはないか」と敵対心を燃え上がらせて、すぐに諦めたのだろう。

「姉さん、こんにちわ」

 そんな良子の背後から誠二が顔を出す。

「え? せいくん?」

 司書の女性が目をぱちくりとさせる。ここに誠二がいるのが信じられないというように頬をつねると。

 それまでの大人の態度を一転させて、「やーん」と声を上げながら誠二に抱きついてきた。

「誠くん、来てくれたんだ! あんまりこっち来てくれないのに、今日はどうしたの?調べ物なら何でもお姉ちゃんに言ってね。どんな本でもすぐ見つけてあげるから。でもエッチな本は駄目だよ?」

 顔を胸に埋められてもがく誠二に構わず女性は続ける。

「最近ぜんぜん実家に帰って来ないから、みんな寂しがってるんだからね? ちゃんとご飯食べてる? 外食だけじゃダメだからね? このあいだ作っておいたカレー、もう食べ終わった? 今度お部屋のお掃除がてら、またなにか作りに……」

「まってよ姉さん! 人前でやめてくれって!」

 姉の抱擁から抜けだして、誠二が叫ぶ。

「あら、いけない」

 と大人の顔を取り戻して自分から離れる姉を見て、誠二は心でため息をついた。エントランスのあちらこちらから、かなり洒落にならないレベルの嫉妬と殺意の視線が降り注いでくる。これだからこの図書館には来たくないのだ。

 つんつんと、良子が肘で脇腹をつついてくる。

「ねえ、キミ今『姉さん』って言った?」

「ああ。オレが姉さんって呼ぶほうの姉だ」

 答える誠二の視線の先の女性の胸のプレートに書かれた名前は『天寺恵都けいと』。

 ひそひそと言葉を交わす二人を見て、恵都が目を丸くして口元に手を当てる。

「びっくりした。誠くんが女の子連れてくるなんて、いつ以来かしら」

 そう言って良子の瞳を覗きこむ恵都は、年齢よりも大人びた微笑みを浮かべて言った。

「人見知りする性格だけど、うちの弟をよろしくね」

「ったく姉さんは……。もう行くよ。姉さんも早く仕事に戻ったほうがいい」

「誠くん、またねー」

 良子の手を引っ張って逃げる誠二の後ろで、恵都が手を振って見送っている。あまりに恥ずかしかったので、気づかないフリをすることにした。


「あー驚いた」

 恵都の目が届かなくなったあたりで、緊張が解けたように伸びをしながら良子が言った。

「キミのお姉さん、すごい美人なんだね。おまけにブラコンだし」

「……まあな」

 さすがに否定しきれず、誠二はぼやくよう答えた。

「キミ、あのお姉さんに怒られたことってある?」

「……!」

 なにげない一言に、禁断の扉が開いた。姉さんの説教。思い出すだけで寿命が縮まるような記憶が堰を切って脳内にあふれだしてくる。

「『本気で怒ってくれそう』とか言ってたけど、実際はデコピン一発で済ましてくれるみたいな……キミ、なんで頭抱えてうずくまってるの?」

「ちょっとトラウマがフラッシュバックしただけだ。気にするな」

「だってキミ、すごく顔色悪いよ? 指先とかぶるぶる震えてるし……」

「気にするな。大丈夫だから、これ以上あの記憶を思い出させるな」

「……うん、わかった」

 なにかを感じたのか、素直に良子はうなずいた。

「それにしても」

 誠二が後についてくるのを確認しながら、独り言のように言う。

「あんなお姉さんいるんだったら、キミの家族のこともっと調べとけばよかったなぁ。過保護そうだけと芯はしっかりしてる人だし、あの人味方につけとけば隠し事なんてさせなかったのに」

 良子の意見は、実際は的外れもいいところだった。あの夜、誠二が良子になにをしたのか恵都はすでに知っているし、たとえ心情的に良子の味方になったとしても、その内容について誠二の意思を無視して暴露するようなこともないだろう。

 しかし、あの夜のこと──正確にはキスしたかどうかにこだわる良子の真剣な目が、どうしても誠二の心に細波を立てる。

「いや、今からだって遅くは……待って」

 そんな胸中に気づくはずもなく良子は続ける。

「どうした?」

「姉さんってことは、あの人も魔法使いなの!?」

「ああ」

 あっさりと誠二は認めた。

「日本の魔法使いの中でも、かなり上のほうにいる。特に衝撃吸収とかの状態緩衝や、対抗魔法なんか使わせるとすごいぞ」

 間の抜けた顔で、良子は「ほわぁ」と感心した声を上げた。

「遺伝子って怖いんだねぇ……」

 それを聞いた誠二が、耳を澄ますような表情をした後、ニヤリと笑って言った。

「じゃあ、もっと怖い遺伝子のイタズラってのを見せてやろうか」

 そして、階段のほうに目を向けた──


 誠二につられて階段に目を向けると、山のように本を抱えた男がちょうど降りてきたところだった。

 探偵のバイトで鍛えた観察眼が、男の特徴をピックアップする。

 まず、かなりの筋肉質。筋肉の付きかたと引き締まりかたからして、恐らく格闘技系のスポーツか武道をしている。かなり手慣れた様子で本の山を運搬しているが、服装はノースリーブのシャツ一枚と至ってラフだ。忙しい時だけ手伝いに入る非常勤の職員とか、そんなあたりだろう。

 だが、なによりも印象的なのは表情だ。

 20代も半ばを過ぎている容貌なのに、小学生の悪ガキ、イタズラ坊主のような目の輝きをしている。良くも悪くも子供っぽいタイプ。良子はそう判断した。

「ん? 誠二か!? 珍しいなオイ、なに遊びにきたんだよ!」

 男はてきぱきと抱えていた本を近くにあった台車に乗せると、誠二の首に太い腕を回してぐりぐりと締め始めた。

 ──やっぱり子供っぽい人だ。

「ちょ、やめてくださいよ兄さん加減ってのを知らないんだから!」

「なんだよお前、こんなところ来る暇あったら少しは体鍛えろよ!」

 誠二が声を上げて拒絶するが、男は気にせず首を絞めながら歓迎の言葉をかける。

 図書館でこんな大声を出して大丈夫なのか不安になってあたりを見まわすと、不思議にことに、周囲はみんなこの騒ぎが聞こえていないかのように黙々とそれぞれの作業を続けている。

 良子は男に目を戻した。

 よく見ると、愛嬌があって可愛いタイプだ。

 見つめる良子に気づいて、男がさらに力をこめて誠二の首を締め上げる。

「おーまーえー、どこでこんな可愛い娘引っかけてきた? 怒らないから正直に白状しろよ、アぁん?」

 男の腕を必死にタップしながら、苦しそうに誠二が言い返す。

「そんなのじゃないですって! こいつが例の女の子ですよ! 邪魔だからあっち行っててくださいってば!」

「連れないこと言うなよオイ。昔は一緒に恵都のシャワーのぞいた仲じゃねぇか」

「だああああああっ」

 誠二は全力で腕を振りほどきながら叫んだ。

「人前でなんてこと言うんですか兄さん! ええ、のぞきましたよ! 即行で姉さんにバレましたよ! そんで兄さんはオレに全責任かぶせて逃げましたよね!?」

「あのキレ方はひどかったよなー。絶対に安全な場所から遠見の魔法であいつが説教するの見守ってたんだが、オレもあの時は思わず両手叩いて腹抱えながら半泣きになるくらい心配したんだぞ?」

「そんなに面白かったんですか!? オレが一生トラウマ残るほど半殺しにされるシーンは、涙流して爆笑するほどウケたんですか!?」

「気にするなよ、昔のことだ。それよりお前、前の女はどうしたんだよ」

「……前の女って誰のことですか。生まれてこのかたオレに女っ気ないのは兄さんだってよく知ってるでしょう」

 男はチッチッと気障な仕種を人差し指を振った。

「そうでもないぞ。お前が小学3年生くらいのころから、だいたい年に一人くらいはオレのところにお前の趣味や好物なんかを聞きに来る女の子がいる」

「は? いきなり態度よそよそしくなった同級生ならともかく、オレに近寄ってくる女の子なんていませんでしたよ?」

「ふむ、不可解だな」と男があごに人差し指と親指のVの字を当てる。

「だがもしかすると、オレの説明を聞いた女の子がみんな『誠二くんってそんな人だったんだ。最っ低。というか変態。深入りする前にお話聞けてよかったです。ありがとうございました』と言っていたのと、なにか関係があるかもしれん」

「関係ねぇわけねぇだろう! てめぇか!? オレの不幸はみんなてめぇのせいなのか!?まさか3組の朋花ちゃんと急に連絡とれなくなったのは……」

「ああ、一カ月前にオレのところにきた娘が、たしかそんな名前だったな」

「おいマジかよ!? 朋花ちゃんかなり本気で狙ってたんだぞ!? 生まれて初めてラブレターなんての書いたし、デートコースも徹夜で腐るほど考えたんだぞ!? なんで告白イベント直前になってツン期に戻るんだって思ってたら、ガチで嫌われてたのかよ!」

 エキサイトする誠二に「まぁ気にするな」と笑いかけながら、男は良子に向き直った。

「可愛いお嬢さん、こんにちわ。この馬鹿の兄で天寺光一といいます。この馬鹿はこういう分かりやすいヤツなんですが、どうぞよろしく」

 人懐っこい笑顔を向けられ、良子は「はぁ……」としか答えられなかった。


「ちょっと待てよ兄さん、まだ話は……」

「はいはい、図書館ではお静かに」

 怒鳴りかけた誠二を遮って光一が手をぱんぱんと叩く。

 あれだけ騒いで今さら『お静かに』もないと思うが、誠二はしぶしぶといった感じで押し黙り、ものすごい密度の恨みをこめた視線で睨む以上のことはしなかった。

 そんな視線を軽々と受け流し、光一は書籍を載せた台車を転がしていく。

 やがてその背中が見えなくなったころ、良子は誠二に声をかけた。

「今の面白い人、どんな人?」

「オレにとりついた疫病神以外の何に見えたんだ」

 返ってきたのそっけない返事。良子は頬を膨らませた。

「だってキミ、遺伝子の怖いイタズラ見せてくれるって言ったじゃない。恵都さんとキミと今の男の人がみんな兄弟ってのは確かに驚いたけど」

 誠二は苦い声で答えた。

「……双子なんだよ」

「双子って、キミと今の人が?」

「今の男と姉さんがだよ」

 良子がその言葉を理解するまで、一瞬の間が必要だった。

「えええええええええええええ!?」

 悲鳴のような良子の声が、図書館中に響きわたる。

 一斉に集中する、周囲からの非難の視線。

「馬鹿、静かにしろ!」

 あわてて誠二が口を塞ぐが、良子の驚愕は止まらない。

「ええええ、双子!? 今の人とあの司書さんが!?」

「だから声押さえろって!」

「あれで誕生日同じなの!? もう絶対に星占いとか信じない!」

「だから落ち着け!」

 息苦しくなって、やや理性が戻ってくる。口と鼻を押さえる誠二の腕を力ずくで引き剥がし、じとっとした目で見つめる。

「キミたちだって騒ぎまくってたじゃない。なんであたしだけ睨まれるのよ」

「さっきは兄さんがオレたちの周りに結界張ってたんだ」

「……あの人も魔法使い?」

「ああ。本人は精神操作系のスペシャリストって言い張ってるが、実際はマインドコントロール大好きの物理的破壊魔だ」

「他人の記憶とか変えられるんだ」

「そうだな。それと今みたいに、周辺の人間の意識をずらしたり集めたりなんてこともできる」

「……魔法使いってなんかズルい」

 責めるような視線に、居心地悪そうにしながら誠二は話題を変えた。

「ほら、尾行続けるぞ」


 目的のカップルは、3階の学生用自習室にいた。

 もしも後ろで起きた騒ぎに気がついていないとしたら、かなりの大物カップルだと言わざるを得ない。しかし二人は誠二たちを気にする様子もなく、並んで座ってノートを広げて小声でイチャつきながら問題を解いている。

 誠二は良子を連れて、遠くから彼女たちを観察できる窓際の席に陣取った。

 胸中どんな想いでいるのか、良子は真剣な視線で二人を見つめている。

 声をかけられる雰囲気ではなく、誠二は窓の外に視線を移した。

 雲ひとつない空はどこまでも青くて高い。

 その下には果てしなく続く街並み。

 図書館に隣に広がっているのは芝生の庭。公園も兼ねているため、ちょっとしたグラウンドほどの大きさがあり、さまざまな年齢の子供たちが遊んでいる。

 よく見ると、子供たちは全員で入り乱れて、なにかの球技をしているらしい。種目はサッカーなのかラグビーなのかバスケットボールなのかクリケットなのか、はっきりしない。そもそもフィールドにボールが5つある時点でどうかしている。ルールが機能しているのか甚だ疑問な光景だが、ある瞬間にプレイヤーの半分が喜んだり残り半分が悔しがったりしているので、いちおう競技にはなっているらしい。

「ん?」

 思い思いの方法で相手からボールをひったくろうとする子供たちの中に、ひとり異質な人物がした。

 金髪の女の子。

 日光にきらめく輝きをからして、染めているのではなく天然のブロンドだろう。芝生の上を元気よく転がりながら、誰よりも楽しそうにボールの取り合いに興じている。

「少しはキミも監視手伝ってよ」

 しばしその子供に注意を向けていると、良子が口を尖らせて抗議してきた。

「こんなところで暴行に及ぶほどあの川原ってのも馬鹿じゃないさ。それより見ろよ、面白い子がいる」

「ん……ああ、ミナだ」

「知り合いか?」

「うん、あたしの住んでるあたりじゃ有名な子。外国人っぽいけど誰も親と一緒にいるところ見たことなくて、学校にも行ってないみたい。でも日本語はちゃんとしゃべれるし、生活に不自由しる様子はないって話だね。普段は無表情系なんだけど、子供で集まって遊んでる時はすごく楽しそうなんだね。あたしも学校に遊びにきたミナの相手したことあるけど、いい子だよ」

「ふぅん」と相槌を打って誠二が窓に視線を戻した時、彼女たちはやってきた。

「誠くん、お仕事はかどってる?」

「おい姉貴、それはやばいって」

 引きつった顔で振り向くと、司書の服装のままの恵都がお盆に二人分の麦茶を乗せて近づいてくる。光一が小声で空気読めと窘めているが、一向に聞かない。当然、周囲の注目を集めまくりだ。『家じゃないんだからさぁ姉さん』というつぶやきが心の中でリフレインする。

「いいじゃない、家から持ちこんだ麦茶なんだし」

「じゃくて職務中だろうがよ。仕事しろアンタ」

「いーのいーの少しくらい」

 笑顔で姉がそう言い切る。光一も姉がこんな暴挙にでるとは思わなかったのだろう、精神操作や結界を使うタイミングを図りかねている。

「わーい、ありがとうございますっ」

 冷たい視線の雨を浴びて汗を流す男二人を尻目に、良子が声を上げる。今からでも恵都を味方に引き入れようという肚なのだろう。

 仕方なく誠二も麦茶を受け取って、窓の外に視線を戻す。

「それで良子ちゃん、誠くんとはどんなふうに知り合ったの?」

「それがですねぇ、誠二くんったらいきなりあたしのブラウスのボタン外して、街中でブラを……」

 背後で繰り広げられる微妙に脚色の入った会話を務めて聞き流す。現実逃避とも言う。

 窓の外では、総合球技がいつのまにか総合格闘技に進化していた。

 敵も味方もルールも仁義もない。ヴァーリ・トゥードにも限度というものがあるだろうといいたくなるサバイバルマッチ。

 蹴る、殴るは当然。関節技も首から足までどこでもOK。肘膝上等、噛み付き目つぶし股間攻撃なんだってアリ。無論子供たちの辞書に『手加減』などというヌルい単語は存在しない。これでよく死人でないなと感心するより他にない泥仕合だ。

 あのミナという少女も健闘している。

 とびかかってくる男子をひらりとかわし、膝を狙ったタックルを踏み越えて、明らかに格闘技の経験のある動きをしている男子のこめかみにスカートを気にしない後ろ回し蹴りをぶち当てる。

「それでですね、誠二くんってば……」

「ええ!? 誠くんがそんないやらしいことを!?」

 耳に入ってくる危険な会話を意図的に遮断して窓に意識を戻す。

 窓に光一の呆れた顔が映りこんでいる。本当はさっさと仕事に戻りたいのだろうが、いつ記憶操作の魔法が必要になるか分からないためにこの場を離れられないのだろう。いい気味だ……と思っていたらジロリと睨まれた。

 外の乱闘は、収束に向かう気配など微塵もなかった。

 倒された者が起き上がり、誰かを倒して再び倒される。その繰り返しだ。

 男子に混じって活躍していたミナも、ついに押し倒されて寝技の攻防を余儀なくされている。色黒の男子ともつれあいながら、どちらが先に4の字固めを決めるか──お互いに他の技を知らないのだろう──熾烈な争いを繰り広げている。

「……あいつ、なに考えてる?」

 誠二の言葉に残る三人が一斉に芝生のグラウンドを見る。

 先ほどミナにこめかみを蹴りとばされた少年が、見るからに重そうな石製のオブジェを持ってよろよろと乱戦に近づいていく。もしも上から落されたなら、骨折は確実。そんな大人の腰ほどもあるオブジェは普通なら子供が動かせるものではないが、なまじ鍛えてあるぶん持ち上げられたのだろう。

 少年の向かう先には、ついに4の字固めを極めたミナ。乱戦に夢中で、誰も少年の挙動に気づいていない。

 少年はオブジェを肩の高さまで持ち上げて、ふらふらとミナに近寄り、掲げた凶器を無防備な少女の頭へ────

「おい!? バカやめろ!」

 窓を全開にして誠二が叫ぶ。

 真っ先に行動したのは良子だった。

「コラ! キミなにやってんの!」

 窓枠に足をかけ、少年の凶行を止めるべく。

 まったくなんの躊躇もせずに、3階の窓から外に飛びだした。

「!」

 残された魔法使いたちが同時に息を飲む。

「く……!」

 歯を噛みしめて誠二が動いた。

「第三天より植物を見守る天使たち! “形成の世界”イェツラーにて天命を果たすものエルリムよ! 我が身に宿りて力を示せ!」

 虚空に身の丈ほどの魔法陣が開き、それぞれ7万の口と舌を持つ7万の頭を持った緑色の人影がぼやけながら現れ、誠二に重なるように消えていく。

 同時に飛び降りる良子の足元に広がる芝生が風もないのにざわざわとそよめき、常人の目には見えない淡い光に包まれる。

 普通ならどれほどの運に恵まれても骨折は避けられない高さから飛んだ良子は、しかし輝く芝生の上に平然と着地した。そのままありえない速さで少年のもとに駆け寄って、抱きしめるように凶器を奪い取る。

 それを見届けて、誠二は倒れるように床に膝をついた。口元からは一筋の血がしたたっている。

「誠くん、よく頑張ったね」

 うずくまる誠二に、恵都が寄り添って肩を抱く。

「やめてくれ、姉さん」

 しかし誠二は力なくその手を拒絶した。

「オレは芝生をクッションにしただけだ。落下スピードの調整、姿勢の制御、反動の吸収。みんな姉さんの魔法じゃないか」

「そんなことじゃないの」

 恵都は家族にしか見せない優しい笑顔で、拒絶された手を再び誠二の肩に回した。

「じゃあなんだよ」

「大事なものをあの子にあげちゃった、今のそんな状態の体で、とっさに誰かのためにあんな大きな魔法を使ったこと」

「…………」うつむいて唇を噛みしめる誠二。恵都は続ける。

「わたしね、本当は誠くんを叱らなきゃいけないの。一生忘れられないくらい叱らなきゃいけないの。今のそんな体であんな魔法使って、わたしの大事な誠くんにもしものことがあったらどうするんだって」

「よしてくれ」

 誠二は口元の血を拭った手のひらを見て舌打ちすると、乱暴に上着の胸にこすりつける。

「くそ、あんな程度の魔法で」

 恵都が無言で血の染みた上着の胸元に手を当てる。すると、一瞬で汚れが消えた。そのまま置いておいた手からゆっくりと魔力が誠二の体に浸透していき、魔法の影響でズタズタになった毛細血管や末梢神経が修復されていく。

 その心地よさが、たまらなく恨めしかった。

「でも、そんなに頑張った誠くんを叱れるわけないじゃない。……だけど、もうやっちゃダメよ?」

「…………」

 視線を床に落したままの誠二に、恵都が語りかける。

「光一のこと恨まないでね。魔法使いと同じ道を歩むのは、どうしても魔法を受け入れてくれる人じゃないと無理だから。絶対に言えない秘密を抱えて一生添い遂げるなんて、簡単に聞こえるけど、必ず途中で苦しくなるから。特に誠くんは抱えているものがあるんだから、ちゃんと理解して支えてくれる人じゃないと」

「……くそ」

 悔しそうに誠二の口から言葉が漏れる。

「姉さんのそういうところ、なにげに一番きついな」

「……まあな」

 それまで黙っていた光一が同情するように声を出す。

「え?」どうして男二人が通じ合っているか理解できない恵都がとまどいを口に出すが、誠二も光一も説明はしない。

「とにかく、今日はもう魔法使っちゃダメよ? 本当は一週間って言いたいけど、きっと誠くん聞いてくれないから……でも今日これ以上魔法使ったら、お姉ちゃん本気で怒るからね」

「わかったよ……それで、兄さんのほうはぬかりなく?」

「誰に言ってる」

 光一は厚い胸板を張った。

「この階の連中の意識操作と記憶改竄、あとガキどもに悪い手本みせて真似するといかんから、そっちの意識も逸らしておいた」

「え、でも兄さん、逸らしておいたって、良子飛び降りるのガキどもにばっちり見られてたじゃないですか。あそこまで焦点あってる認識を記憶飛ばさずにどうやって逸らしたんです」

「……その、緊急避難的な方法でだ」

 しゃべりすぎた……と光一が口を手で隠す。

 いぶかる誠二たちの耳に、外か子供たちの声が聞こえてきた。

「しましまだったね」「うん、しましま。白と緑だった」「しましま、しましま」

「なによキミたち、しましまって……え!?」

 良子の叫び声が一帯に響いた。

「ええええええ!? あれで見えたの!?」

「しましまぱんつ、しましまぱんつ、やーい」

「やーい」

「待ちなさいガキども! それ以上言ったら殺すよ!? 黙らないと強制的に忘れさせる……というか、黙らなくても忘れさせる! 待ちなさいって言ってるの! なんで逃げるの!?」

 微妙な沈黙が流れる。

「……つまり兄さんは、良子の白とグリーンのしましまぱんつにガキどもの意識を集めて、飛び降り自体の記憶が残らないようにした、と」

「そういうまとめ方するな! あの場は仕方なかったんだ、そうするしかなかったんだよ!」

「……こういちくん?」

 そう言って微笑む美女の全身から、どう考えてもヤバいオーラが立ちのぼるのが、魔法使いが本能のように展開している魔法的な視覚ではなく肉眼で見えた。

 あわてて周囲を見まわすと、偶然今のオーラを目撃してしまったらしい利用者が陽炎でも見たように目をこすっている。一般人への魔法の露呈。本来ならば特A級というか最上級のレベルの非常事態だ。まあ、今回はきっとなんとかなるだろう。他人のことを言えた義理でもないのだし。

「こういちくん、久しぶりにお姉さんとお話でもしましょうか。この図書館の地下に、戦時中に使われてた絶対に外に声が漏れない手術室があるみたいだから、そこに行きましょう」

「ちょ、待て、事故だ事故! オレは悪くない! そうだよな誠二、黙って傍観してないで助けろ!」

「兄さん、大丈夫だ」

 力強く誠二は言った。

「たふん命だけは大丈夫。それ以外は保証できないけど」

「それが一番ヤなんだよ! いっそ安らかに殺してくれ!」

 じたばたと暴れる光一を、恵都がずりずりと力ずくで引きずっていく。後に二人は職務放棄や図書館で大騒ぎした罪で偉い人間にさんざん絞られることになるのだが、そんな未来を二人は知らない。

 誠二は手を振って二人を見送り、窓の外に耳を傾けた。悲痛な悲鳴が伝わってくる。どうやら子供たちを捕まえた良子が、なにやら物理的な手段で一部の記憶を破壊する方法を試しているらしい。

「平和だな……」周りに誰もいなくなった机で、氷の溶けた麦茶を口に運ぶ。

 いい天気だ。最近は夜の仕事が増えたせいで少し寝不足だ。昼寝をしたら気持ちいいだろう。それとも、ガラではないが、少し勉強というものをやってみようか。

 そんなことを考えていると、見覚えのあるカップルが大きなテーブルを離れて出口に歩いていくのが目に入る。

 しばし不思議な気分に包まれたあと、ようやく誠二は自分がどうしてこの図書館にきたか、その理由を思い出した。



(まったく……なんなのよコイツ)

 良子は冷たいコーヒーをすすりながら、苛立ちの目で正面に座る誠二を盗み見た。

 どうもさっきから様子がおかしい。

 具体的には、アル中のサルが禁断症状に耐えかねて火星人用のドラッグに手を出したみたい、とでも表現すれば正確だろうか。

 息は荒い。顔色は悪い。変な汗を滝のようにかいている。右手の震えは高圧電流でも流しているのかと感じるほどだ。

 ──図書館を出たあたりからかな。

 すれ違う人はみな誠二を振りかえり、見なかったことにしてそそくさと逃げていく。尾行中だというのに目立つ事この上ない。

 さっきまでいたボーリング場では、隣のレーンや真後ろにボールを飛ばすくらいの事故は覚悟していたが、よもや手が震えるせいで穴に指が入らないとは思わなかった。気合で穴にねじ込んでみても、今度は穴から指が抜けずにリリースできない。そのまま監視そっちのけで店のスタッフやドリラーを呼んでマイボールの話を始めてしまい、仕方ないので良子一人で4ゲーム投げた。おかげでかなり手が痛い。

 ──あたしに付き合うのが嫌になったなら、はっきりとそう言えばいいのに!

 図書館まではまったく普通だったのだ。それがいきなりこんな状態になるなんて、魔法とやらで自分の体を操作して仮病しているに違いない。現に、誠二の中の魔力──というのか、なんというのか、とにかく感じ取れる力がひどく弱々しく、バランスもかなりおかしくなっている。自然に起きることではない。

 続けてはいった喫茶店では、ボーリング場ほど悪目立ちはしていないものの、さっきから震える手で何度もコーヒーやミルクを机にぶちまけては、店員や周りの客から心配されているのか迷惑がられているのか分からない生ぬるい視線を送られている。

 もう不器用とか、そう言ったレベルではない。

 今もまた、ストローがあるだけマシと良子が勝手に注文したオレンジジュースに手を伸ばし──

(あ、まずい)

 と思う間もなく、グラスを横倒しにして黄色い液体を机にの上にぶちまけた。

「ちょっと、いい加減にしてよ!」

 小声で叫び、誠二の肩をつかもうとした時。

「良子こそいい加減にしてよ!」

 今までこちらに気づく素振りもなかったユリが立ち上がり、つかつかと肩をいからせて良子のほうに詰め寄ってきた。

「や、やあ可愛いお嬢さん、このボクになにか用かな? 見てのとおり寂しい男二人連れで……」

 深々と帽子をかぶり直してとぼけてみせる。しかし親友は騙されない。というか普通の人は騙されない。強引に古風な鹿打ち帽をむしり取られる。

「それで変装してるつもり!? そんな変な格好で街中歩くの、日本じゃ良子くらいよ!」

「うっ」

 さすがに少し傷ついた。しかし、普段は間違っても人を傷つけることは言わない友人はさらに激しい勢いで言葉を続ける。

「男もののコートの丈詰めて、なんでわざわざ下にスカート履いてるのよ! そもそも良子、自分の身長わかってるの!? クラスの男子に『あんなチビすけ萌えねぇ』とか陰口叩かれてるの知らないの!?」

「ぐっ……あいつら、あたしにどれだけ秘密握られてるか分かってないの……?」

「クラスの男子なんてどうでもいいでしょ! 宗田くんにお願いして気づかないフリしてもらってたけど、朝からわたしたちのデート付け回して何がしたいの!? 止めるなら止める、邪魔するなら邪魔するで、どっちかにしてよ!」

「そ、それは誠二くんが……」

「それにあの彼、良子がカモフラージュに連れ出したんだろうけど、すごく具合悪そうじゃない! なんで病院連れてかないのよ! まさか気づいてないの!?」

「……う」

「いい!? 良子は親友だから今まで我慢してあげたけど、これ以上嫌がらせ続けるなら、いくら良子でも友達やめるからね!?」

「……そんな、ユリちゃん」

「そんな、じゃないわよ! 宗田くんはいま大事な時期なの! 過去のことばっかり見て責めたてる良子みたいな人がいるから、いつまで経っても更生できなかったの! 人間は成長できるの! 今すぐ信じてとは言わないから、少し黙って見守っててよ!」

「いや、ユリの友達の言うとおりなのかもしれない」

 そう言ったのは誠二ではなく、自責の念に潰されそうな顔をした男──川原宗田だった。

「オレのやったことは話しただろ? オレなんかと一緒にいたら、ユリまでオレと同じ目で見られる。そんなのは耐えられない」

「そんなことないわよ!」

 泣きそうな顔でユリが叫んだ。

「確かに悪い仲間に唆されて道を間違えたことはあったかもしれないけど、宗田くん反省して罪を償ったんだから、いつまでも責められなきゃいけないなんてことはないわよ!宗田くん、ちゃんとあたしが見ている前で被害を受けた女の子に土下座までして謝ったんだから! ひどいこと言われて暴力振るわれても、じっと耐えて謝り続けたんだから!」

 川原は力なく頭を振る。

「いや、オレなんかが一瞬でも人並みに愛されようなんて思ったのが間違いだったんだ。犯した罪は一生消えないし、オレも一生……」

「そんなこと言っちゃダメ!」

 ユリがすがりつくように川原の胸をつかむ。

「宗田くん、いい人なんだから! 幸せになる権利あるんだから! ね、今日最後に行こうって約束してたところ、今から行こう?」

「え? でもユリ、嫌がってたじゃないか。もともと冗談で言ったんだし、オレもあそこはパスするつもりで……」

「いいの。どれだけ宗田くんが愛されてるか、教えてあげるから。ね、行こう?」

 そう行って、ユリは宗田の腕に強引に腕を絡めた。良子を見て「わかってるわよね?」と冷たい声でつぶやいて、そのまま外に歩いていった。


 ユリ達が見えなくなると、良子は糸が切れたように、ぺたんと床に座りこんだ。

「……大丈夫か?」

 誠二が近寄って声をかけると、良子は生気のない瞳で誠二を見上げ、

「……ごめん。キミこそ大丈夫? 誠二くんのこと、ぜんぜん考えてなくてごめんね。病院まで送ってく?」

 と、力のない声でつぶやいた。

「追いかけなくていいのか?」

「うん、もういい」

 諦めたようにかぶりを振る良子に、誠二は言葉を続ける。

「本当にいいのか? 心配なんだろ」

「────いいわけないじゃない!」

 突然、火のついたように良子は叫んだ。

「でも何人も女の子が同じ手口であいつに騙されて酷い目に合わされてるって教えてあげたのに、あの子あいつの嘘信じこんで聞こうとしないし! おまけにあんなことまで言われて、あたしどうしていいか分からないよ……!」

「じゃあ見捨てるか?」

「誰が! 誠二くんでも怒るよ!?」

 不意に誠二が厳しい顔で問いかける。

「だが、今回こそ本当にあの男が心を入れ換えて真面目に交際しようとしているのかもしれないだろ? それでもお前は二人が別れるまで監視し続けるつもりなのか?」

 怒りから一転、良子が戸惑いに揺れる。

「それは……」

「いくら親友だっていっても、お前にはお前、彼女には彼女の人生があるんだ。一生守ってやれるわけじゃない。仮に今回だけ助けられたって、そんなのはただのお前の自己満足だ。それは分かってるのか」

「…………」

 黙りこむ良子に誠二が畳みかける。

「悪い男に騙されたのは仕方ないとして、その後で良子の忠告を聞かずに痛い目を見たとしたって、それは本人の責任だ。いつも良子が助けてやったせいで、その責任を感じなくなって、いつまでも人に頼るしかできない人間になったらどうするんだ?」

 良子は泣きそうな顔で、しかししっかりと誠二の目を見つめて答える。

「でも……それでも心配なんだもん」

「それならいい」

 誠二はニヤリと、魔法使いの笑みを浮かべた。

「今回だけは手伝ってやる。今日だけ、あの子を見守ってやろう」


「節制の使徒にして土星の支配者、孤独と涙の天使──“神の火”カシエル。汝の孤独を我らに分かち与えんことを」

 誠二の一言が終わると、ピリっという違和感がして、周囲の空気が変容したのがはっきりと分かった。

「なにをしたの?」

「非認知の魔法。誰もオレたちに気づかないようにしたのさ」

 周りを見まわしてみると、確かにだれも良子たちを意識していない──さっきまで、あれほど大声で他の客と喧嘩をしていたというのに。絡まれないように目を逸らしているとか、そういうのではない……まるで良子たちの存在を一瞬で忘れてしまったかのように、すっぽりと認識が抜け落ちている。

「これで、お前の下手な尾行でも気づかれないさ。さぁ行くぞ」

 誠二は律儀にテーブルに代金を置き、良子の手を取って歩きだす。

 触れあった手から温もりが伝わってくる。

「──あ」

 気恥ずかしさで、思わず声がでた。

「どうした?」

「ううん、なんでもない」

 赤くなった顔を隠すように、左右にぶんぶんと振る。……どうせ誰にも見られてないのだ。

 良子は手を引かれるまま、ユリたちの後を追いかけた。

 その途中、不思議なことに気がついた。

 少しずつだが、誠二の容体がよくなっている気がするのだ。

(まさか、手を握っているせい?)

 我ながら突拍子もないことを、と思った。自惚れにしても程というものがある。それでも良子はつないだ手に少しだけ力をいれた。

 やがてユリたちは繁華街のはずれ、背の高い建物が立ち並ぶ、昼間でも人通りの少ない地域に足を踏みいれた。

 肩を寄せあって周辺の建物を物色し、やがてユリが気に入ったらしい建物に入っていく。外国の城門に似せた入口を持つその建物は、どうみても──

「ねぇ、ここって……」

「……ラブホテルだな」

 誠二の一言に、繋いでいた手を離してしまう。

 しばし二人で気まずさをごまかすように建物を見上げる。

「……どうする?」

 困ったように誠二が声をかけてくる──困っているのは、こっちも同じだ。

 真っ赤になりながら良子は答えた。

「えっと……その、はいろっか」

 探偵のバイトで、カメラを構えてラブホテルの前に張りこんだ経験はある。しかし自分が中に──それも男と入るとなると話は違う。ぜんぜん違う。

 中は良子が想像していたようなケバケバしい内装ではなかった。

 いろいろな部屋の写真と料金が書かれた大きなモニタを横目に、足音を立てないようにしてフロントの前を通りすぎていく。

 廊下も意外と普通のホテルと同じようなものだった──と思う。正直なところ、頭の中がパンクしそうで、なにがなんだか分からなかった。

 ユリたちと同じエレベータに乗り、3階で降りる。ユリは隣の川原に寄りかかるように肩を預けながら、フロントで預かった鍵を使って奥まった一室に入っていった。

 目の前でばたんと扉が閉じられる。

 ドアの前で立ち尽くしたまま一分が過ぎ、良子は口を開いた。

「……入らないの?」

「入るってお前……」

「できない?」

「できることはできるが……見るつもりなのか?」

 珍しく戸惑ったような誠二の声。

 煮えた頭のまま、おうむ返しに聞き返す。

「見るって、なにをよ」

「なにをって、そりゃ……」

 ごちゃごちゃになったままの頭で想像してみる。これから、この部屋の中でユリちゃんが……

 今度こそボンッという音をたてて顔がトマトみたいに真っ赤になったのが自覚できた。

「ななななな、なんでもないっ!」

 反射的に誠二から顔を背ける。

 胸に手を当てて跳ね回る心臓を必死になだめる。落ち着かなくては。これから親友が酷い目に合わされるかもしれないのだ。雰囲気に流されている場合ではない。

 それにしても──

 ちらりと横目で気づかれないように誠二を見る。これだけ良子が動揺しているというのに、誠二は相変わらずの顔で扉を見つめ続けている。これが高校生の貫祿というものだろうか。

(なんかズルい)

 そう思っていると、やがて誠二が「のど渇いたな」とつぶやいて近くの自販機に近づいていった。遠目で見ると、販売物はなにやらうねうねとした正体不明の物体で、少なくとも飲み物ではない。少し見ればすぐわかるのだが、しかし誠二は自販機の前に立って初めて「うおうっ!?」と驚きの声を上げてのけぞった。

 誠二も内心は自分のように動揺しているのだと思うと、良子は少し嬉しくなった。


 ──次第に頭が冷えてくる。

 ユリたちが扉の中に消えてから10数分。いまだに変わった様子はない。

 今までの被害者たちの証言から、川原はあまり気の長い犯行をするタイプではないことが判明している。見境なく女性を路地裏に連れこんで問答無用で──というほど拙速ではないが、被害者を『落した』あとはゲームオーバーとばかりに即座に毒牙を剥きだしにする場合が多い。

 だから、今この瞬間、ユリはもっとも危険なのだ。

 逆に考えれば、もう少し待てば、間違いなく川原は尻尾を出す。その確信はある。

 しかし──

 良子は小さく後ろを振りかえる。

 一時は回復したように見えた誠二だが、本当に一時だけのものだったらしい。

 もう普通に立っていることもできず、背中で壁にもたれかかって、長距離走の直後のような荒い呼吸を繰りかえしている。表面上は平静を装っているつもりらしいが目の焦点はあっておらず顔も土気色。腕の震えが止まっているのは、もはや痙攣する体力も残っていないからだろう。そして足元には、さっきまでは見当たらなかった赤い染み。

 いつ倒れても不思議ではない。

 覚悟を決めて良子は言った。

「もう、あたし一人で大丈夫。誠二くんは帰っていいよ」

 正直にいって誠二の魔法がなくなるのは痛い。こんな身を隠すものもない場所で、探偵かぶれの中学生に一人でなにができるというのか。

 だが今は自分の身の安全などよりも誠二の体が心配だった。このまま無理をさせたら、なにか取り返しのつかないことになるんじゃないか……そんな気がした。

「なんだと……?」

 そんな想いから口にした言葉に、しかし、誠二の瞳が怒りに染まる。

「貴様、オレはこんな程度の魔法に耐えられない魔法使いの出来損ないだと、そう言いたいのか?」

 誠二がアルマデルの顔になって良子を見据える。

 怯みながらも良子は答えた。

「でも、誠二くん絶対に無理してる。少し休まないと──」

「……黙れ」

 怒りと共に、なにかが体に吹きつけられる。風でも物理的な力でもない、しかし現実になにかのエネルギーをもった力が。

 あの晩、蜘蛛のような怪物に抱いたものに似た恐怖が体を芯から凍りつかせる。

 そうだ。こいつだって、まともな人間じゃない。

 魔法使いなどという得体の知れない存在。

 意識を失ったあたしの体に、なにかしたかもしれない男。

 母さんが分かれの間際にかけてくれた魔法をぶち壊したのかもしれない男。

 扉のむこうのゴロツキストなどより、はるかに危険な存在なのだ。

 ごくりと唾を飲む。

 ──不意に、違和感が誠二を中心に広がっていく。

 発生する違和感の中心は、誠二の指に嵌められた質素な指輪。そこから、他の人間には見えないだろう金色のオーラのような光が吹き出し、誠二の体に吸収されていく。

 少しだけ、誠二の顔色が良くなっていく。

 ──でも、あれは絶対によくないものだ。

 本能がそう告げる。誠二にも言ってあげたい──しかし恐怖心のほうがはるかに強い。

 瀕死のヘビと怯えたカエルが睨み合う、奇妙な沈黙。

 かつん。

 そこに、二人分の足音が割りこんできた。

 共に20歳くらいの二人の男が、スペアキーのような飾りのない鍵を持ってこちらに近づいてくる。

 とっさに良子は助けを求めようとして、思い止まった。

 こいつらの顔には見覚えがある。

 ポケットから写真を取り出して確認──間違いない。

 あのゴロツキストの仲間だ。

 二人の男は合鍵でユリたちの入った部屋の扉を開けて、当然のように中に入っていく。

 開いたドアの隙間から、ユリの声が聞こえてくる。

「なに、あなたたち……確か宗田くんを殴ってた、昔の友達? なんでここに……宗田くん逃げて! え? なんで宗田くん笑ってるの……? え? きゃあああああああっ!?」

 ユリの悲鳴をかき消すように扉が締まり、オートロックがガチャリとドアを施錠する。

「“扉を開く者”盗賊の天使メファシエルよ! 行け、良子!」

「うん!」

 なんの躊躇もなくドアを蹴り開けて室内に飛びこむ。

 衣服を破られ半裸になったユリの周りで、突然の闖入者に立ちすくむ男三人。

「ユリちゃんを返せぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」

 一番近くにいた川原の背中に、充分に助走を乗せた飛び蹴りを叩きこむ。声もなく崩れ落ちる川原。急所に入った。しばらくは呼吸も満足にできないだろう。

「……ちっ、このガキ!」

 しかし男たちも慣れたもの。残った二人はすぐに事態を理解して、手近なものを武器にして良子に襲いかかる。

 良子は短いスカートを翻すと、内腿にくくりつけてあるホルダーから電磁警棒スタンバトンを抜きはなつ。手首のスナップでスライド式の本体を展開すると、グリップエンドのダイヤルを『切』から『強』に。バトンの周囲を取り巻くように青白い光が走る。

 稼働限界1分、スタンガン並みの威力を持つ、しかし自分も当たればただではすまない、良子の最後の奥の手だ。

 男の一人が振り上げた金属製のコートハンガーが、鋭い軌跡で良子の頭に振り下ろされる。だが運動神経なら良子も負けない。かいくぐるように頭を沈めてハンガーをかわすと、懐に入りこんでみぞおちに警棒を叩きつける。

 びくんびくんと痙攣して崩れ落ちる男の陰から、もう一人の男が椅子を振り上げて襲いかかってくる。

 倒された相棒を見て学習したのだろう。大振りな攻撃はせず、牽制を繰り返しながら徐々に良子を部屋の隅に追いやっていく。

「くっ」

 素早い攻撃に、反撃のチャンスが掴めない。

 焦りに拍車をかけるように、右手のバトンからわずかなバイブレーション。稼働限界まであと15秒。

 良子はバトンを男に投げつけた。

 ゴロツキとはいえ相手も場数を踏んでいる。そんな程度の攻撃ではひるまない。落ち着いて手にした椅子で飛んでくる警棒を真上に弾き飛ばす。

 そこに突っこんでいく良子。迎撃の椅子を回避してジャンプした場所は──男の真横。

 ちょうどそこに回転しながら落ちてきたスタンバトンを空中でつかみとる。

 男の顔が驚愕に歪む。とっさに防御しようとする腕をかいくぐり、首筋に稼働限界直前のスタンバトンを叩きつける。

 声を上げる間もなく、白目を剥いて倒れる男。それを見届けてから、良子は高熱を発するバトンを床に落した。

「ユリちゃん、大丈夫だった?」

「良子、危ない! 後ろ!」

 ユリの言葉に振りかえる。

「ナめやがって死ねやガキがあっ!?」

 起き上がれるようになった川原宗田が本性を露にして、ふらつく足を引きずりながら抜き放ったナイフを構えて突っこんでくる。

 良子を睨む濁った瞳は完全に理性を見失っている。

 ──こいつ、殺す気だ。

 背筋が冷えた。

 後ろに飛びのこうとした足が、がくんと下に引き戻される。

「──ッ!?」

 頭の中が真っ白になる。見下ろすと、バトンで倒したはずの男が床に転がったまま良子の左足をしっかりと握りしめている。電圧低下で倒しきれなかったのだ。

 前からは川原のナイフが迫ってくる。しかし迎撃する手段も逃げ場もない。

 立ち尽くす良子の胸にむかって、ナイフの安っぽい銀色の刃が意外なほど速く、正確に吸いこまれ──

「………………アルダエルよ……」

 どこか遠くで声が聞こえたような気がした。

 次の瞬間。

「ぉあぢい!?」

 奇声を上げて、川原が手にしたナイフを投げ捨てる。空気が揺らめくほど赤熱したナイフが床に転がり、ぶすぶすと絨毯を焦がす。

「────このおっ!」

 今の好機を逃す手はない。良子は右足で倒れた男の頭にとどめをさすと、焼けただれた手を抱えて右往左往する川原のこめかみに大きな回し蹴りを決めた。

「良子、良子ぉ!」

 意識を失った川原を飛び越えて、ユリが抱きついてくる。良子は親友を抱きとめて、やさしく背中をさすってやった。

「良子、ごめん、ごめんね! ひどいこと言って本当にごめん……」

 泣きじゃくるユリをなだめながら、良子は廊下を振りかえった。助けてもらったこと、今日一日無理をしてまで付き合ってくれたことに礼を言いたかったのだが、もうそこには誰もいないのがなんとなく分かった。


「女二人でラブホテルから出てくるところ知り合いに見られたら人生終わりだよね」

 ようやく泣きやみ、ぼろぼろにされた洋服の上から良子の変装用のコートを羽織ったユリと良子が笑いあいながらホテルを出て行く。

 その背中が見えなくなるまで見送ってから不可視の魔法を解き、誠二は懐から携帯電話を取り出した。手首のスナップだけで折り畳み式の電話を開き、アドレス帳から名前を選択。数コール後に相手とつながった。

「もしもし、関東志波組──失礼。株式会社、志波山興業の山沢さんですか? その折は姉がお世話になりました……ええ、オレですよ。そんなかしこまらないで下さい。仮にもヤクザ──失礼、立派な社会人の方が。相手はただの高校生ですよ?」

 ははは、と笑いながら誠二は続けた。

「ええ、それで用件ですがね、ちょっと世間話でもしようと思いまして。山沢さんは川原宗田って男はご存じですよね。まだ若いのに度胸もあれば金儲けの才能もある。山沢さんも目をつけているんでしょう? 知らない? ええ、またそんな……」

 電話口で何度も否定する相手に向かって、誠二はわずかにトーンを変えた。

「だから、オレが知ってるはずだと言っているんです。知らないはずがないでしょう? ──ええ、同意していただいてなによりです。お互い気分よく話を進めましょうよ。……それで、その川原なんですが、残念なことに礼儀だけは誰も教えてくれる人がいなかったようで……ええ。誰かそのあたりのことをしっかりと仕込んでくれる人がいればいいなと思うわけですよ。え? 単なる世間話ですよ。それでは、お元気で」

 通話を切る間際、スピーカーからかすかに聞こえたに小さな罵倒を、しかし誠二は聞き逃さなかった。

「ああ、山沢さん? なにか喋る時は少し考えてからしたほうがいい。山沢さんだって、事務所を大学生に襲撃されたあげく、仕返しに弟を闇討ちしたら16人が返り討ちになって逃げ帰ったなんて噂、街に流れたら困るでしょう? ……ええ、では」

 今度こそ通話を切る。

 そのボタンが、自分を維持するなにかのスイッチだったかのように、誠二は意識を失って路地裏に倒れこんだ。

 日も差さなければ風も吹かない、猫の子一匹いない路地裏。

 その空間が不意に歪んだ。

「……ふん」

 歪みの中から現れた黒いマントの長身の男は、倒れた誠二を見下ろして鼻を鳴らすと、乱暴に肩にかついで、再び空間の歪みの中に消えていった。



 ユリを家に送り届けて、両親への事情説明が終わるころには、空はすっかり暗くなっていた。

 一人娘の行状や処遇について、本人は置きざりのまま両親や祖父母の間で激しい意見の応酬があり、傷心の親友を一人で放置できる状態ではなかったため、家族の感情が収まるまでユリに付き添っていたせいである。──本当はすぐにでも引き返して、誠二の無事を確認したかったのだが。

 あのホテルに引き返すような時間ではなくなってしまったため、電源を使い切った電磁警棒を叔父に預けて帰宅することにした。

 大変な一日だったが、何カ月も気を揉んでいた事件が片づいたおかげで気は軽い──誠二の安否を除いては。

 ふと、大通りで足を止めて時計を見る。

 アルマデル──誠二に助けられた夜も、叔父のオフィスで張りこみの報告をした帰りにここで時間を確認していた。

 あの夜のことを思い出す。目覚めた時に体に異変はなかったから、本格的に乱暴されたわけではないことははっきりしている。せいぜい胸を見られた程度……それはそれで充分恥ずかしいのだが。

 問題は、寝ている間にキスされたかどうか。

 母さんの魔法が壊されてしまったのかどうか。

 気になっているのはそれだけだ。

 もし誠二が本当に母さんの魔法を台無しにしていたら、自分は彼を許せるのだろうか。

 ──ふと、妙な感覚を覚えた。

 まるであの夜のような違和感。

「誠二くんがこの近くにいる?」

 居ても立ってもいられなくなり、良子は違和感を感じるほうへ駆けだした。あの夜とは違い、通行人が次々と倒れているといったことはない。

 ただ、不自然に人の往来が少ない。

 気配を追って、見覚えのあるオフィス街を横切って裏通りへと入っていく。まだ宵の口といった時間帯だが、なぜか誰ともすれ違うことはない。

 気配を追って走っていくと、やがて行き止まりにたどり着いた。

 いや──

 建物だと思った正面の壁の正体に気づいて、良子は息を呑みこんだ。

 あの夜の虫を思わせる巨大な獣。夜闇より暗い漆黒の毛並みが美しい、狼に似た四足獣。それが2階の窓くらいの高さの赤く輝く目で、じっと良子を見つめている。

「我が夜会にようこそ、美しいお嬢さん」

 声は、巨大な獣の足元から聞こえた。

 そこにいたのは目の覚めるような美形の男。

 20歳そこそこだろうか。モデルのような長身で、背中に届くほど長い黒髪。だがなによりも男を印象づけているのは、背後に控える獣のような、ぎらぎらとした野性味である。

「キミ……誰?」

 良子が問いかけると、男はアルマデルとよく似た黒いマントをたなびかせた。

「分かっているだろう? ただの魔法使いさ」

 男は整った顔に冷たい笑みを浮かべて言った。

「今日は弟弟子が世話になったな。お礼に、魔法の世界に触れて戸惑っているだろうお嬢さんの質問に答えてあげようと思って、こうして招待したわけさ」

「質問……? なんでも答えてくれるの?」

「もちろん。なんでも聞いてくれ──ただし」

 男は言葉を切って、唇の端をつり上げた。

「ただ聞かれたことに答えるのも緊張感がなくていけない。だから質問は3つまで。なにを聞くか、よく考えるがいい」

 わずかに悩む。聞きたいことならいくらでもある。

 しかし本当に知りたいことは一つだけ。

「あの夜、誠二くんは──」

「おっと、そこまででいい。お嬢さんの聞きたいことは把握した」

 突然男が言葉を遮る。

「把握はしたが……ふむ。つまらんな」

「つまらない?」

 なにより大切なことを言下に切り捨てられて、苛立ちが胸に浮かぶ。

 そんな良子を鼻で笑って男は続けた。

「ああ、つまらない。せっかくの機会をつまらない質問で無駄にするのも、随分ともったいない話だな……そうだ、質問は私が決めてやろう」

 あまりの言葉に目を丸くする。まるで構わず男は続ける。

「まず一つ目の質問、なぜアルマデルは魔法使いとして出来損ないなのか、ということだが──」

 滔々と語り始める男を見て、ようやく良子は理解した。

 この男は質問など聞くつもりはない。ただ最初から自分の言いたいことを言うためだけに良子の前に姿を現したのだということに──

「あの男が魔法使いとして出来損ないなのは、奴が内包できる魔力が生まれつき壊滅的に少ないからだ。量に例えるのもナンセンスだが、一般人と比較しても何万分の一、魔法使いの家系であることを考えれば、皆無といっていい。

 極端な魔力の欠乏は、生命の維持に悪影響を及ぼす。

 奴の場合は日常でも生活に支障をきたしかねないレベルだ。そしてただでさえ少ない魔力を消費して魔法を使うから、すぐに内臓や自律神経やらに影響がでる。お嬢さんも見ただろう? あいつが突然、死にそうなほど体の具合を崩すのを」

 血の気が引いていく。図書館を出てからの誠二。ホテルでの誠二。心当たりは嫌になるくらいある。

 ──誠二くん、本気で命懸けであたしにつきあってくれたの!?

「もちろん、対策はしてある。アルマデルには師匠から二つの魔法的な生命維持装置を授かった。

 一つは奴が嵌めている指輪だ。あの指輪は古い契約によって異世界の存在とつながっていて、その存在から魔力を分けてもらうことができる。もっとも人間のものと質の異なる魔力は肉体に少なからぬ損傷を与えるし、自分の魔力を使い果たした状態で魔力を引き出せば、奴自身がその異世界の存在に支配されてしまうがね。

 そして二つ目が魔力制御呪スタビライザと呼ばれる呪式だ。これは本来、大がかりな魔法構造物の制御に使われていたもので、内在する魔力を適正範囲に保つよう体に出たり入ったりする魔力を調整するものだ。

 この二つを入門前に授からなかったら、あいつは今日まで生きていなかっただろうさ……ふん、クズが」

「──そんな言い方ないじゃない」

「次に二つ目、お嬢さんについてだ」

「──あたし?」

 思いがけない話題に、肩が震えた。

「そう。アルマデルとは逆に、お嬢さんの体の中には魔法使い何万人分の魔力が凝縮されている。魔力というのは基本的に多い分には問題ないのだが、お嬢さんくらいまでいくと例外でね。過ぎたるは及ばざるが如しとはよく言ったものだ。

 その魔力のせいでお嬢さんは昔から体が弱い。何度も大きな病気をしているはずだし、入院も両手の指では足りないだろうさ。おまけに魔法使いが習得するまで何年もかかる魔法的な視覚まで手に入れている。加えて結界の魔法が一切効かない。

 はっきり言って異常だ。普通の人間に耐えられるものではない。よく今日まで生きてこれたものだ」

 言葉が詰まる。なんといっていいか分からない。

「三つ目の質問、アルマデルはどのくらい馬鹿なのかということだが──これは実例を通して説明するしかないだろう」

「だから、そういう言い方するのやめなさいよ!」

 声を荒らげる良子を一瞥して男は続ける。

「奴は馬鹿だ……というよりむしろ、正気じゃない。なにしろ、自分の命綱の魔力制御呪を、初めて出会ったどこの誰とも分からない小娘にくれてしまったのだからな」

「────え?」

「好奇心から魔法戦に巻きこまれて、放出される魔力の余波に当てられたせいで、生まれつき持っていた膨大な魔力が暴走して命を失いそうになった小娘が目の前にいた。確かにそれしか救う方法はなかったとはいえ、自分のペースメーカーを迷わず他人に渡すような奴だ。とても正気とは言いがたい」

 思わず胸に手を当てる。ここなのだろう。ここに誠二が、自分の命綱を埋めこんだのだろう。

「なんで……なんでそんなことしたのよ」

「まったく同感だな」

 泣きそうになる良子に、冷たい声で男が応じる。

「そして最後に四つ目の質問──一つあふれてしまったが、どうせ答えるのも私だ、気にするな。

 どうして私がこんな話をお嬢さんにするのか、ということだが。

 いいか──」

 不意に、男の表情から冷たい笑みが消え失せる。

「あの男の苦しみは、私だけのものだ。あいつが苦しむ顔も、あいつが悩む姿も、みんな私だけのものだ。奴の苦痛こそが私の生きる楽しみなのだ──私の言いたいことは分かるな?」

「ちょっと待ってよ!」

 たまらず良子は口を挟んだ。

「その言い方だと、あたしが誠二くんをすごく苦しめてるみたいじゃない!」

「違うとでも?」

 男の答えはあくまで冷静で冷たかった。

「今日起きたことを思い出してみるといい。お嬢さんの無謀な行動のフォローに魔法を使わされたせいで、あいつは何度も生命維持に必要な魔力まで絞り出した」

「…………」

 唇を噛みしめる。言い返す言葉もない。

「お嬢さんたちと別れた直後、ホテルの近くの路地裏で倒れたあいつは、私が病院の前に転がしておいた。今ごろはベッドの上でうなされているだろうさ……そんなことはどうだっていい。

 それよりも、なんで私がこんなことをお嬢さんに伝えたと思う?」

「……誠二くんが隠したがっていたから、あえて教えた? 嫌がらせのために」

 男の唇に再度冷たい笑みが浮く。

「鋭いお嬢さんだ。確かにそれもある。──だが、本質的な答えではない」

「じゃあ何が正解なのよ」

 冷たい笑みを浮かべたまま、男の瞳がぎらりと輝く。

「覚えておけ──あの男を苦しめていいのは私だけだ。あの男が少ない魔力を使い果たして動かなくなった自分の体を呪う声を聞いていいのは私だけだ。いきなり現れた小娘に私の権利を譲る気はない」

 一度言葉を区切って男は続けた。

「これ以上、アルマデルに関わるな。それだけだ」

 そう言い残し、男は漆黒のマントをひるがえして獣を従えて去っていこうとする。

「待ちなさいよ」

 その背中に良子は声をかけた。

「なんだ?」

 振り返って答える男に問いかける。

「聞きたいことがあるの」

「質問にはすべて答えたはずだが?」

「一つくらいあたしの質問に答えてくれてもいいでしょ」

「ふむ……言ってみろ」

 良子は緊張を気づかれないように小さく息を吸いこんだ。

「キミの名前。なんていうのよ」

 虚を衝かれたような顔が返ってくる。

 そして男は、あの夜のアルマデルそっくりの自信に満ちた笑みを浮かべた。

「グレンデル。──グレンデル=ガンド」


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