0. 誰もいない都会の夜に
その瞬間。
良子の胸に浮かんだ顔は、あまり家庭を省みない父親ではなく、ハーレムを作ると言い残して姿を消した弟でもなく、六年前に死別した母親のものだった。
冷たいコンクリートが立ち並ぶ夜のオフィス街、冴え冴えと澄み渡る月光の下、死んだように路上に横たわるまばらな人影に囲まれて、それは居た。
絶対に日本に棲息しているはずがない化物。
セアカケゴケグモに似た、尻の大きな六本足の昆虫のような生物。しかし、どう控えめに見ても二階建てバスなどより遥かに大きい。
それが巨大な複眼を蠢かせて良子を見つめ、とりあえず動くものは潰しておこうというつもりなのか、電信柱を束ねたような太さの爪を明確な殺意をもって振り上げた。
普段なら人気の絶える時間ではないが、毒ガスでも吹き出したのか、周囲には意識を失い倒れたスーツ姿の人影が点在しているのみ。意識を保っている生き物は良子と謎の怪物だけだ。
そして音もなく振り下ろされる真紅の爪。
(お母さん、ごめん。約束、果たせないみたい)
心の中で母に詫びながら、浅木良子はどうして自分がこんな目にあっているのか思い返した。
そもそもの原因は、校則違反のバイトが予定より長引いたせいだった。
「あー、これじゃ宿題間に合わないなぁ。またユリちゃんに見せてもらうか」
思わずぼやいて携帯電話を開くと、時刻は夜の11時35分。
都心の繁華街などに比べれば人影は少ないが、通行人が絶えてしまうような時間ではない。それでも警察に見つかればいろいろと面倒な時刻だ。
重い足どりで帰宅する途中、今までの人生で一度も感じたことのない感覚が、生ぬるい風のようにオフィス街から吹きつけてきた。
(なんだろう?)
そう思って足を止めた瞬間、周囲を歩く人たちが突然ばたばたと倒れ始めた。
「ねぇ、大丈夫!?」
近くの一人をゆさぶってみるが、反応はない。ただ規則正しく膨らむ胸からして、命に別状はないらしい。
携帯を開いて119番をコール。つながった。と思った瞬間、また妙な感覚が体を突き抜けて通話が切れた。すぐリダイヤルするが、今度は呼び出し音すら鳴らない。
良子は立ち上がり、オフィス街のほうに駆けだした。
今から思うとこの時さっさと逃げ出してしまえばよかったのだが、持ち前の猫を殺す類の感情に似た正義感がそんな選択肢を許さなかった。
倒れている人たちが息をしているかどうかだけ確認しながら、妙な気配が強くなる方向に走っていく。
(ここだ!)
そう確信して細い路地を飛びだした刹那、そこにいた怪物と目が合ってしまった。
同年代の女の子よりもはるかに多くのものを目にしてきた良子でも、怪物を見たのは今日が初めてだった。
全身が硬直した。
家くらいの大きさの蜘蛛。そんなものがいるはずがない。必死にそう主張する理性のせいで、脳が現実を受け入れられない。
自分はここで殺されるのだと、いう現実を。
そして、その瞬間が訪れた。
数百キロはあろうかという血のように赤い怪物の爪が、良子の真上に振り下ろされた。
体は凍りついたまま。瞼を閉じることさえできない。
(母さん、これから良子もそっちに行くね)
目に浮かぶのは、死別する前に魔法をかけてくれた母親の顔。
今日まで良子を支え続けてきてくれたその魔法も、ついに完成することなく潰えてしまう。自分が死ぬより、そのことが良子には悲しかった。
死神の鎌というには巨大すぎる爪が、ついに良子の命を無に返す。
そう思った刹那、母親の顔に重なるように、黒い影が良子と爪の間に割りこんだ。
ダンプ同士の正面衝突なみの爆音が鼓膜を貫く。
爪の一撃を弾き返された蜘蛛が、たたらを踏むように後退する。
良子をかばった黒い人影が、爪を弾き返した洋風の剣を構えなおして、無事を確認するようにちらりと良子を振りかえる。
礼を言うのも忘れ、良子はじっと男を見つめた。
良子より少し年上で、短い髪。高校生くらいだろうか。どこにでもいそうな、しかし目に暗い影の宿った男性。詰め襟の制服でも着せれば似合いそうなスレンダーな体は動きやすそうな服に包まれ、その上に漆黒のマントを羽織っている。
視線が合ったのはわずか一瞬。
「…………」
男はなにを言わずに前に向き直ると、蜘蛛にむかって猛然と駆けだした。
蜘蛛も男を脅威と認め、注意を男に切り換えたようだ。
迫り来る男にむけて、時間差をつけた横薙ぎの爪の二連撃が夜に閃く。一撃目は足、二撃目は頭を狙った攻撃を読み切っていたように、男は繰りだされる爪を踏み台に大きく跳躍。蜘蛛の頭部に剣を突き立てようとする。
危険を感じた蜘蛛が後ろの二本の足だけで直立、中足で飛び掛かる男を叩き落とす。
地面に叩きつけられる直前に男は姿勢を整えて着地。再び自分より何倍も大きい怪物に立ち向かっていく。
人間など簡単に叩き潰せそうな蜘蛛の攻撃を避け、あるいは受け流し、一本の剣だけで渡りあう男の姿に、いつしか良子は目を奪われていた。
すごい、と思った。きれい、と思った。かっこいい、とも思った。
この世のものとは思えなかった。
映画の中に紛れこんでしまったように現実感がなかった。
「おい! どこの門下か知らないが、少しは手伝え!」
だから男が振り向いて叫んだ時、それが誰に向けられた言葉であるか理解できなかった。
「え? あたし?」
「お前以外に誰がいるんだよ! 苦戦してるの見れば分かるだろうが!」
蜘蛛の攻撃を器用にかわしながら男が叫ぶ。
しかし手伝えと言われても、こんな修羅場でなにをしろというのだ。
そんな良子の心中が通じたのか、男は驚愕の声をあげた。
「……まさか、一般人か!? 普通の人間が二重に張った絶凍界の中を歩き回ってるのか!?」
驚きで動きの止まった男の体を怪物の爪がかすめる。
好機と見たのか、蜘蛛が六本の足を駆使して飛び上がる。
建築物のような巨体が冗談のように宙に舞い、男めがけて落ちていく。
体重数十トンのボディプレスだ。
「くそ……っ」
絶対に避けられるタイミングではなかった。しかし男はアスファルトに斜めに剣を突き立てると、柄頭を蹴りとばす反動でまるで飛ぶように身を投げる。
蜘蛛が地面に落下したのと、男がボディプレスの範囲を逃れたのは、ほぼ同時だった。
津波のような衝撃が周囲を襲う。良子は悲鳴を上げる間もなく尻餅をついた。飛んできたアスファルトの小さなかけらが頬をかすめて、血が垂れる。
だが、傷を負ったのは良子だけではなかった。
頭と前足を振り上げ、ぎちぎちと蜘蛛が苦悶の鳴き声を漏らす。
その腹部には、男がアスファルトに突き立てた剣が見るからに硬そうな外骨格を突き破り、深々と突き刺さっていた。
蜘蛛が複眼を怒りに染めて、青い体液を振りまきながら、今までにない激しさで男に爪を叩きつける。
男の手には、もう剣はない。
二回、三回と打ち振るわれる爪をかわしたが、無理な回避行動で体勢を崩してしまった。
次は避けられない。
そう思った次の瞬間、男が叫んだ。
「バルミエル! 『秘密書法』に記される者、南に住まいて軍事を司る天使よ!」
先ほど感じたものに似た、よく分からないピリピリする感覚が良子の中を吹き抜けていった。胸の中央、心臓のあるあたりから不穏な鼓動が体に広がる。
「我が魂に宿りてその力を示せ!」
次の瞬間、信じられない光景が良子の眼前に広がった。
男の背後に、直径一メートルほどの強い輝きを放つ、光のラインで構成された幾何学模様と、日本語でもアルファベットでもない文字を内包した円が、空間に見えない筆で描かれたように現出する。
魔法陣。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
空間に開かれた魔法陣から、光の粒子が現世にあふれだす。あふれだした光の粒は、渦に飲まれるように男の体に吸いこまれていく。
黒い外套を押しのけて、男の背中に大きな一対の純白の翼が生えた。
まばゆい光が手に収束し、見覚えのある洋剣に姿を変える。
この間、わずか一瞬。
振り下ろされる力任せの爪を新たな剣で斬り飛ばし、男は翼をはためかせて宙に舞う。
光の粒子を振りまいて羽ばたいた男の姿に、今度こそ良子は心を奪われた。
足の一本を切り落とされた蜘蛛が、さらに怒りの声をあげながら空中の男に爪を振るう。
しかし男は、まるで空を飛んでいるのが普通だと言わんばかりに巧みに爪をかいくぐり、蜘蛛に斬撃をみまう。
何層ものフェイントの裏に隠された本命の一撃が、蜘蛛の頭部に深々と突き刺さる。
「弾けろ!」
男が叫ぶ。
そして閃光が瞬いたと思った次の瞬間、聞き取れないような轟音と共に、剣が光を放出しながら弾け飛んで蜘蛛の頭部をごっそりと抉り取った。
男の剣の刀身を構成していた超自然的な力を解放した──なんとなく、そんな気がした。
頭を失った蜘蛛は力なく倒れ伏すと、ぶくぶくと泡立ちながら、まるで最初から存在しなかったかのように空気中に溶けて消えていった。
「おい、大丈夫か?」
蜘蛛が完全に消滅したのを見届けてから、男が声をかけてくる。
それに応えようとして──嫌な感覚が背筋を走り抜けた。
高く高く見上げると、もう一匹の蜘蛛が、高層ビルの側面に張りついてこちらを見ている。
「……!」
良子の視線を追いかけて、男も二匹目の蜘蛛に気づいた。しかしそれよりわずかに早く、存在に気づかれたことを悟った蜘蛛が張りついていたビルの壁面を蹴って落下してくる。
落下点にいるのは──尻餅をついたまま、腰が抜けて動けない良子。
「ルヒエル! 風を操る見張る天使(ベネ・ハ=エロヒム)!」
悲鳴のような男の声が静寂鳴り渡る夜空に響き、突風が吹き荒れる。
しかし地面に座りこんだまま立てない良子を動かすほどの力はでない。
蜘蛛は重力加速度に身を任せながら、恐ろしい勢いで落ちてくる。
(今度こそダメかなぁ)
視界を埋めつくす真っ黒な蜘蛛を見上げながら、良子はそんなことを考えた。
「馬鹿、なにしてる!」
ずっと続いている突風より強く、男の声が吹きつけてくる。
そちらに目をやると、魔法で作った突風に乗って、男が純白の翼でこちらに飛んでくる。
しかし、わずかに軌道が高い。
風のせいか、これが飛行できる低さの限界なのだろう。だが、これでは座りこんでいる良子には手が届かない。
「立て!」
そんなこと言われても無理だ。
こんな現実離れした光景を何度も何度も見せつけられて、とっくに思考は凍りついている。腰は抜けているし、体に力は入らない。
ただできるのは、このまま運命を受け入れることくらいだ。
「馬鹿野郎! 死ぬな、死なないでくれ!!」
──!
その言葉が、良子の意識に火をつけた。
そうだ、このままでは死ぬ。
まだ死ぬわけにはいかない。母さんの魔法が完成するまでは。
弾かれたように立ち上がり、両手を広げて飛来する男の胸に飛びこんでいく。
意外と筋肉質な男の胸に抱えられて、初めて現実感が蘇える。
そのコンマ数秒後、つい直前まだ二人がいた空間に、恐ろしい落下エネルギーを内在した蜘蛛の巨体が降ってきた。
爆音が物理的な衝撃として脳を揺さぶる。しかし良子は生きている。
男は空中で静止すると、胸にしがみつく良子を引き剥がして乱暴に地面に下ろした。
そして良子が抗議の声を上げるより速く振りかえり、二匹目の蜘蛛に飛び掛かっていく。
「バルミエル!」
再び天使の名を男が唱える。
なにもない空間中が光の粒が集まって、男手に再び白銀の長刀が現れる。
ふと、男の指に目が行った。右手の小指に嵌められた、不思議な文字が彫りこまれた質素な銀色の指輪。
そこからなにかのエネルギーが男の体内に送りこまれていくのが分かった。あれはよくないものだ。直感的に、良子はそう感じていた。
そんな外野を一顧だにせず、
「うぅおおおおおおおおおおおっ!」
男が吼えた。
雄叫びに呼応して、空気中から光の粒子が刀身に集まり、巨大な輝く剣となる。
危険を感じた蜘蛛が動きを止めて、4本の足で防御を固める。
「創り物の分際で……」
輝く剣を男が振り抜く。
「オレを舐めるなァアアアアッ!!」
剣はあっさりと防御の足を両断し、そのまま蜘蛛の巨体を二つに断ち切った。
「……くっ」
男が胸を押さえ、苦しそうに膝をつく。その前で、二匹目の蜘蛛は一匹目と同様に空気に溶けて消え失せた。
「ちょっと、大丈夫!?」
投げ捨てられた文句も忘れて、良子は突然苦しみだした男に駆けよった。
「別に……なんの問題もない」
「問題ないって、そんなわけ……え?」
苦しそうに言う男の前に辿りついた時、心臓が反乱を起こした。馬鹿みたいにどくどく鼓動を刻み、うるさいなと思ったら急に静かになった。目の前が真っ暗になり、意識が遠くなる。冷たいと思ったら、いつのまにかアスファルトの上に倒れて頬が地面についていた。
いつもの発作だ、と気づくまでに、ずいぶんかかった。
そのくらい酷い発作だった。
(あーあ、やっぱりここで死んじゃうのかな)
諦観が再び脳を支配する。そんな気にさせるほど、今回の発作は激しい。
「しっかりしろ、おい!」
自分だって苦しそうなくせに、男が良子を抱き上げて介抱している。しかし「大丈夫だよ」と答える力も残っていない。その前に、たぶん大丈夫じゃない。
「くそ……そういうことか」
男が不意にそう吐き捨てた。
「一般人が絶凍界の中を歩き回ってると思ったら……変な反応おこしてるな。まずい、時間がない」
男はなにを思ったか、突然良子のブラウスに手をかけ、もどかしげに一つ一つボタンを外し始めた。
朦朧とする意識の中で、近づいてくる男の顔にむかって良子はつぶやくように問いかけた。
「ねぇ……」
「馬鹿、しゃべるな! オレが助けてやるから、少しだけ我慢していろ!」
「キミ……名前は?」
ブラウスを開く作業の手が止まり、虚を突かれたように良子を見つめる。
しかしすぐに自信にあふれた、しかしどこか影のある笑みを浮かべて答えた。
「アルマデル=セイズ。──魔法使いだ」
その答えを聞いたのか聞こえなかったのか。
良子は完全に意識を失った。
その直前、ごくごく小さな電子音が静かな夜空に響いたことに、ついにアルマデルと名乗った男は気づかなかった。
そのことが後々さまざまな騒動を引き起こすことになるのだが、そんな未来を男が知るはずがなかった。
南緯47度9分、西経126度43分。深度おおよそ6000メートル。
ニュージーランドと南米大陸、南極大陸の中間付近。ある恐怖神話では『ルルイエ』と呼ばれる海底都市が沈んでいるとされている地点のほど近く。
深すぎるために一寸の光も届かぬ暗黒の海底世界。
生物といえば海の上層から降ってくる魚の死骸と、地底から吹き出す熱泉の有機物に群がる原始的な底生生物しか存在しないはずの世界で、ふと身じろぎする人影があった。
白人の男だ。
外見の年齢は20歳前後。衣服の類はなにひとつ身につけず、地上ならば太陽に比喩されそうな金髪は伸び放題の荒れ放題。まるで仙人のようなありさまで、海底に突き出た岩に座禅のように座りこんでいる。
水圧のために特殊な潜水艦でもなければ人類は生きていけない環境に素肌をさらして、しかし男は確かに生きていた。
もしも特殊な視覚を持つ人間が見れば、男の周辺を囲う魔法じみた幾何学性の図形が見えることだろう。
もしその人間が注意深ければ、男を中心に同心円上に広がる図形が、その地点から観測できる恒星の数と等しいことに気づけるだろう。
そしてその人間に魔法の知識があったなら、それらの図形はすべてなにを封印するための魔法陣であることが分かるだろう。
ブラックホールでも超新星爆発でも隔離できるほど厳重な封印の中、呼吸ひとつするだけでも地球の一日の自転運動に匹敵するエネルギーが必要となるほどの圧力を浴びながら、男は嬉しそうに身じろぎを続けた。
わずかに開いた口から、言葉が漏れる。
「……………………………………ツイニミケタ」