男たちが望むもの
20世紀初頭のことだ。
英国の登山家ジョージ・マロリーは、生前「なぜエベレストを目指すのですか」と問われ、「そこに山があるから」と答えた。
彼は知っていたのだ。
エベレストの頂には、自分だけにしか味わえない喜びがあるということを。そしてどれほど時代が移っても、けっして変わらない何かがそこにあるということを。
マロリーは1924年にエベレストで遭難。消息を立った。結局、これがマロリーの最後のアタックとなった。彼の果敢な挑戦とその意志は、今も多くの登山家たちによって語り継がれている。
そのマロリーの活躍より半世紀ほど前、東洋の島国にも新時代の荒波が押し寄せた。
御一新。
明治初頭の大改革の中で、多くの侍たちが野に下った。もちろん時を同じくして、ある男たちもまた、もがき苦しんでいた。彼らは羅卒や軍人に身をやつしながら、急激な時代の変化にどうにか順応しようとした。しかし、自身の中にくずぶる情熱は、どうしても消すことができなかった。
名古屋城を眼前に臨む名城公園の一角に、〈風の会〉の男たち4人の姿があった。今し方、城を下りてきたばかりだ。
「今年の挑戦者は、出雲の鉢屋くんに任せようと思うが」
最年長者らしき伊賀の服部が言うと、甲斐の望月、相模の風間がうなづいた。
「とんでもない。私では若輩に過ぎます」
4人の中では最年少の鉢屋が、慌てた様子で言う。
「いやいや。石垣登り、白壁伝い、屋根越え。いずれも実に見事な所作だ」
「いかにも。まったく文句のつけようがない」
4人はいずれも、全国に三千名を擁する風の会会員から選ばれた精鋭である。その中のたったひとりの男だけに、年に1度、ある目的に挑む権利が与えられる。目的はただひとつ。何人にも気づかれることなく、姫路城の大天守を登り切ること。
この挑戦は、風の会が創設された明治4年から始まった。もちろん、何度か頓挫しかけたこともある。大日本帝国の頃には姫路城に陸軍が駐屯し、大東亜戦争末期には城自体が燃えかけた。だが、幾度の困難にもめげず、男たちは登り続けた。なにせ城登りを達成した男には、無二風という名誉ある称号が贈られるだけでなく、どんな願い事でもひとつだけ叶えてもらえるというおまけがついてくる。鉢屋は今年、ついにその挑戦権を得た。
「では、期日は予定通りに」
服部の号令で、男たちは姿をくらました。犬すら気づかないほどの見事な散である。そう、彼らは全員、忍びの末裔なのである。
「年中無休の店が定休日。冗談みたいだ」
城登りの前日。カノジョに呼び出された鉢屋は、都内の喫茶店でおどけていた。久しぶりのデートだ。カノジョとは交際を始めて3年。ひと月ほど前に、思い切って結婚を申し込んだ。だが、カノジョは今日、まだ1度も笑顔を見せていない。嫌な想像ばかりが働く。
鉢屋は、もちろん、カノジョのことが大好きだ。なのにこの3年間、マメに会うこともできず、本当の自分をさらけ出すこともしなかった。それも致し方がない。休日にはほぼ城登りの訓練があり、なおかつ風の会には厳しい掟がある。
ひとつ、会の存在を他者に漏らしてはならない。
漏らすと、3千人の同士によって口を塞がれる。
ひとつ独身者でなければならない。
城登りには常に命を失うリスクがついてまわる。家族を持って良い訳がない。
結局、カノジョは一切口を利かないまま、地下鉄の改札口で携帯を指差した。「返事はこれで」という意味だろう。鉢屋は「彼女も緊張していたのだ」と思うしかなかった。
夜空は黒雲に覆われていた。
それでも、姫路城の美に翳りは見えなかった。大天守は5重6階。高さ46メートルの威容を誇る。これまで、優秀な武将にも焼夷弾にさえも、決して膝を屈することはなかった。
反り返った石垣に、鉢屋は手をかけた。緻密に入り組んだ石の目を読みつつ、約15メートルの石垣を一気に登る。姫路城の別名は白鷺城。白い壁と黒い屋根が交互に重なる。石垣と第一の白壁の手前でシャツとズボンを裏返し、黒一色だった全身を白で覆った。保護色は忍びの基本だ。
第一の白壁から第一の屋根。ここが最初の難関だ。窓と石落しの出っ張りを頼りに登る。他に足場はない。石落しは本来侵入者除けの物見穴だが、現代では石を落とす者もいない。
第一の屋根から第二の屋根へは、大唐破風の真下にある窓を利用する。壁にはひとつの出っ張りもない。ここが第二の難関。西の小天守側に迂回すれば千鳥破風があり、そこを這い登るほうがよほど楽だ。しかし、それは許されていない。もちろん鉤縄などの道具は使用禁止だ。姫路城は今や世界遺産。決して傷つけるわけにはいかない。
第二の屋根から第四の屋根までは、それぞれ大唐破風と千鳥破風の天辺まで這い登り、次の屋根に手をかけるだけで事足りる。
第三の屋根を越えた所で、頬にポツリときた。城登りに雨は大敵である。雨は、これまで多くの忍びたちに撤退と事故の憂き目を負わせた。さらに、最後の屋根に手をかけるには、第四の屋根に鎮座する千鳥破風からの大跳躍が必要で、足を滑らせでもすれば、確実に死が待っている。
登り始めて一時間余り。鉢屋は第四の屋根を力強く越えた。ゴールを目の前にして気持ちの高ぶりを抑えることができない。
「何事もあと一歩の所が肝心だ。雑念は必ず失敗を生む。大切なのは、いつも城登りを楽しんでいるかどうかだ」
鉢屋は服部の言葉を何度も胸の奥で呟いた。「ふう」と深呼吸しながら1度目を閉じ、改めて最後の屋根を見上げた。「大きな唐破風だ」仲間からの助言を噛み締めながら、鉢屋は勢い良く千鳥破風を蹴った。
天辺からの景色は、言葉にできないほど美しかった。
今までの苦闘の日々がじんわりと脳裡に蘇える。でも、酔っているほどの時間ははなかった。仲間に願い事を伝える時が来たのだ。
カノジョと一緒に暮らす家。
これが鉢屋がずっと懐で温めてきた願い事だ。スケッチブックを開き、ペンを取り出した。「さあ」と手を下ろしかけた瞬間、鉢屋の動きがピタリと中空に停止した。
「やっぱり迷ってるようですね」
姫路城から2km離れたビルの一室。望遠鏡を覗きながら、望月が呟いた。隣りに屈みこんだ風間が、得心ありげに言う。
「姫路の天辺では、誰もが迷うもんだ」
「実は僕、知ってるんですよ。鉢屋くんが『月刊マイホーム』って雑誌を読んでたのを。彼の願い事は大体想像がつきますよ」
「私の時も婚約直後だったから、マイホームと書こうとしたんだが、君たちは?」
「僕らも服部さんと同じですね」
「なぜだろうな。私も登る前までは、心底結婚したかったし、だから家が欲しかったけれど、あそこに立つとね……」
見定め役の3人は、一様に押し黙った。
鉢屋は携帯を開いた。カノジョからだった。
「もしもし、鉢屋です」
応答がない。だからといって、口論などする必要もなかった。しばらくの沈黙の後、電話は切れた。鉢屋はペンを取り、今胸の中に湧き上がる本当の願い事を書いた。
『もう1度、ここまで登りたい』
遠くのマンションで、ライトが3度明滅する。「了解」を告げる合図だった。
3日後――。
風の会のパーティが開かれ、鉢屋に無二風の称号が贈られた。大勢の同士が心から祝福してくれる。ほぼ全員がむさいオッサンだ。彼らはいつまでたっても妻を娶らない。誰もがまた城に登るために。
鉢屋は自分を囲んでいる服部、望月、風間に、どうしても聞きたいことがあった。
「ずっと登り続けるんですか」
いい年をしたオッサン3人組が、不思議そうに鉢屋を見た。そして3人はそれぞれ視線を交し合った後、口を揃えて言った。
「そこに城がある限りはね」
[了]
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